解釈訂正:依田氏発行の文書 ~地域によって異なる暦の問題~
依田信蕃、遠江・駿河両国の軍勢が甲府に到着することを、柳沢宮内助に報ずるという文書について、収録した諸本(静岡県史・戦国遺文)では1563(永禄6)年と否定している。ところが、原文を読む限り不可解な点が多数あることに気づ … 解釈訂正:依田氏発行の文書 ~地域によって異なる暦の問題~
依田信蕃、遠江・駿河両国の軍勢が甲府に到着することを、柳沢宮内助に報ずるという文書について、収録した諸本(静岡県史・戦国遺文)では1563(永禄6)年と否定している。ところが、原文を読む限り不可解な点が多数あることに気づ … 解釈訂正:依田氏発行の文書 ~地域によって異なる暦の問題~
加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原ヘ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如 … 武田晴信、某に、小田原への加勢状況を伝え情報を求める
去五月十二日、於三州御油口片坂不慮之一戦刻、先勢被押立之処、正俊於旗本、以一身覚悟遂一戦之上、敵令敗軍、然処随分者討捕、手負数多仕出之条、甚以粉骨無比類、因茲知行於三州境目参万疋、但此内於下方代官所畠銭之内万疋、永扶助訖 … 今川氏真、三浦正俊が御油・片坂での戦闘で奮戦したことを賞す
北条氏政、酒井伯耆守に、榎本参陣を褒め防戦を指示するの中で 今度当表隙入ニ付而、榎本ニ以三百之人数在陣可走廻由 という表現がある。「隙入」を当初「すきいる」=「隙を狙って入り込む」のように漠然と解釈していたが、以下の語義 … 隙入
去二月十八日夜、市野取出江乗入端城押破時、被官村田小伝次頸一討捕之畢、太以無比類、弥可走廻之段可申付状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1977「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) … 今川氏真、大村高信の被官村田小伝次が市野砦攻撃で首級を挙げたことを賞す
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官森下吉内走廻、於鑓下弓仕之由神妙也、弥可抽戦忠之由申付之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1976「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) … 今川氏真、大村高信の被官森下吉内が引間口孫妻河端で活躍したことを賞す
かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。 写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。 戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出 … 三と六の衝撃
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官神村喜六於鑓下鉄炮相放之段神妙也、弥可抽軍功之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1974「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) 去る24日 … 今川氏真、大村高信の被官神村喜六が引間口孫妻河端で活躍したことを賞す
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官小左近鉄炮相放走廻之段神妙也、弥可抽戦功之由可申付者也、仍如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1973「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) … 今川氏真、大村高信被官の小左近が引間口孫妻河端で活躍したことを賞す
奥三河現地の情報を参考にさせていただいている『長篠落ち武者日記』で、菅沼定勝・定能・貞友の関係性を考究した記事が上げられていた(謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?)。筆者のうらにわさんは、1547(天文16)年の … 検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場合