依田信蕃、遠江・駿河両国の軍勢が甲府に到着することを、柳沢宮内助に報ずるという文書について、収録した諸本(静岡県史・戦国遺文)では1563(永禄6)年と否定している。ところが、原文を読む限り不可解な点が多数あることに気づいた。

返々南方衆ハ沼田・我妻之間中山之地取詰候、沼田一途無落着者、当表行努々有間敷候、扨亦遠州御人衆近日至于甲府御着候、為始曾下駿州衆大略甲へ御着候、可有五日内候、以上、

自兵庫殿注進候趣、具得其意候、南方衆越山之儀努々不可有之候、次ニ正月之礼儀可為如何之由候、三ヶ日之内者、何方も用心大切候、御遅延候も不苦候、可然時分相計可及御左右候、其分御人可申候、只今之儀者城内用心ニ相極候、内々之儀ハ無沙汰之様ニ候共、少も不苦候、此分異見可申候、将又小諸通用無相違様ニ堅可被申付候、御大堵其分ニ候、必々無御無沙汰様可被申候、恐々謹言、

 「南方衆」が後北条氏を指し、沼田・吾妻・中山が上野国であることは確実だろう。ところが、後北条方が中山城を押さえたのは1583(天正11)年と比定されている(抑今度中山地、其方兼而如演説、早ゝ落居)。また、永禄4年からは上杉輝虎が上野国を制圧しており、沼田も後北条方から失陥している。また、遠江衆と駿河衆が別々に甲府へ到着している。永禄6年頃に、東上野国を巡って武田氏と後北条氏が係争した事実はなく、また、今川氏が武田氏に一方的に加担した記録もない。そもそも、依田信蕃の活躍時期を考えると永禄年間というのはおかしい筈だ。

 となると、1582(天正10)年の天正壬午の乱が妥当だと考えられる。駿河・遠江の軍を甲斐に集結させたのは徳川家康で、依田信蕃は徳川方だ。今川・武田を巡る奇妙な推測を入れなくても、文意は明快となる。

 そこで問題になるのが日付だろう。閏12月が存在するのは宣明暦だと1563(永禄6)年しかないが、東国で用いられた三島暦では1582(天正10)年にも存在する。織田信長が殺された遠因として挙げられるように、この年の閏月は東西で大きく異なっているのだ。京の暦では翌11年に閏1月が入るのだが、三島暦だと閏は前年の12月の後に入る。つまり、正月が東西で違う日になっていたのである。実際、後北条氏の年表を見ても、天正10年12月の後にすんなりと閏12月が入っている。

 このことから、該当文書の年代比定は1582(天正10)年が正しいと修正した。

 なお、『伊達政宗の手紙』(佐藤憲一)によると、1585(天正13)年に閏月を7月の後に持ってくる暦が東北に存在した模様(同書26ページ)。この年の閏は京も三島も8月の後ろなので、これまた別の計算によるものだろう。

加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原ヘ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如申候、被聞届注進待入候、恐々謹言、

三月十日

 信玄(花押)

[宛所欠]

→戦国遺文 今川氏編1656「武田信玄書状」(2012年国際稀覯本フェア日本の古書・世界の古書)

永禄4年に比定。

 加藤丹後守を由井へ移しましたところ、由井より無用だと言われたのでしょうか。これについては先方の意向に任せますように。さて大蔵丞に与えました口上のように跡部二郎衛門尉を小田原ヘ移しました上は、上口へ出馬するだろうとご連絡しました。ではありますが、葛山方の覚悟を聞いていませんので、下口へ陣を進めるでしょう。なお御厨のことは先日『跡次』によってお伝えしましたように、お聞き届けになった情報のご報告をお待ちしています。

去五月十二日、於三州御油口片坂不慮之一戦刻、先勢被押立之処、正俊於旗本、以一身覚悟遂一戦之上、敵令敗軍、然処随分者討捕、手負数多仕出之条、甚以粉骨無比類、因茲知行於三州境目参万疋、但此内於下方代官所畠銭之内万疋、永扶助訖、但夏秋両度可請取之、守此旨、弥可励忠功之状如件、

永禄六[癸亥]年七月廿七日

 上総介(花押)

三浦備後守殿

→戦国遺文 今川氏編1927「今川氏真判物」(静岡市清水区八坂東・富士文書)

 去る5月12日、三河国御油口・片坂において不慮の一戦をした際、先鋒が押し負かされたところ、正俊が旗本において一身をかけた覚悟で戦って敵を敗軍させました。そのようなところ、随分な身分の者を討ち取りました。負傷者を多数出したのは、大変粉骨なことで比類がありません。これにより三河国境目に知行3万疋(但しこの内下方代官所の畠銭から1万疋)を末永く扶助します。但し、夏・秋2回に受け取るように。このことを守り、ますます忠功に励んで下さい。

隙入

北条氏政、酒井伯耆守に、榎本参陣を褒め防戦を指示するの中で

今度当表隙入ニ付而、榎本ニ以三百之人数在陣可走廻由

という表現がある。「隙入」を当初「すきいる」=「隙を狙って入り込む」のように漠然と解釈していたが、以下の語義があることが判った。

『古文書古記録語辞典』

ひまいる 手間どる、手数がかかるの意。

『時代別国語大辞典』

ひまいり 心ならずも時間をとられる用事。

ということで、アップした文書の解釈は、

この度、この方面で手間取っている件で、榎本に300の人数で在陣して活躍なさるだろうとのこと

とするのが正しいようだ。

去二月十八日夜、市野取出江乗入端城押破時、被官村田小伝次頸一討捕之畢、太以無比類、弥可走廻之段可申付状如件、

永禄七年 三月二日

 上総介

大村弥兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編1977「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書)

 去る2月18日夜、市野砦を攻撃し端城を押し破ったとき、被官である村田小伝次が首級1つをうちとっている。大いに比類がない。ますます活躍するように申し付けなさい。

去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官森下吉内走廻、於鑓下弓仕之由神妙也、弥可抽戦忠之由申付之状如件、

永禄七年 三月二日

 上総介

大村弥兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編1976「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書)

 去る24日、引間口の孫妻の川岸で一戦のとき、被官である森下吉内が活躍し、槍下において弓を使ったことは神妙である。ますます戦忠にぬきんでるように申し付けなさい。

かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。

写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。

戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出の武田勝頼書状』海老沼真治氏

東大史料編纂所の『木簡画像データベース・木簡字典』『電子くずし字字典データベース』連携検索で調べてみると、確かに似ている。

こういう事案が発生してしまうと、活字化された文書しか見られない私のような手合いは困ってしまう。3日なのか6日なのかのずれは何とかなると思うのだが、3月と6月の取り違えということになると、問題は大きい。これからは注意して解釈していこうと思うが、頭の痛いことだ……。

去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官神村喜六於鑓下鉄炮相放之段神妙也、弥可抽軍功之状如件、

永禄七年 三月二日

 上総介

大村弥兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編1974「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書)

 去る24日、引間口の孫妻の川岸で一戦のとき、被官である神村喜六が、槍下において鉄砲を放ったことは神妙である。ますます軍功にぬきんでるように。

去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官小左近鉄炮相放走廻之段神妙也、弥可抽戦功之由可申付者也、仍如件、

永禄七年 三月二日

 上総介

大村弥兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編1973「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書)

 去る24日、引間口の孫妻の川岸で一戦のとき、被官である小左近が、鉄砲を放って活躍したことは神妙である。ますます戦功にぬきんでるように申し聞かせなさい。

奥三河現地の情報を参考にさせていただいている『長篠落ち武者日記』で、菅沼定勝・定能・貞友の関係性を考究した記事が上げられていた(謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?)。筆者のうらにわさんは、1547(天文16)年の文書が定勝ではなくその息子と弟に宛てられた点に着目され、奥平父子に相克があったのではないかと論を広げておられた。

私も下記のように今川方となった三河給人について考えた経緯がある。

検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合
検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合

牧野氏では約束した本知行を与えずはぐらかし、大給松平氏では当主を訴訟で駿府に呼び出し、その間に軍事指揮権を狙ったり人質奪還を心配したりと、割合素直に腹黒さを出している今川重臣たちだが、奥平定勝に関しては今川義元が前面に出てくる。この辺りの展開を見て、義元自身はどのように国衆に接したのかを検討してみたい。 まず、奥平氏が明確に登場するのは義元の三河進出が決定的になった段階からだ。

1547(天文16)年

閏07月23日 松平家広、牢人中の懇意を感謝して、松平清善に知行を与える

今度牢人仕候て其方へ憑入参候処、種々御懇候得共、殊過分之御取かへなされ、進退をつゝけ本意仕候

08月25日 今川義元、奥平定能・同貞友に、三河国山中の新知行を安堵する

当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也

まず閏07月23日を取り上げたのは、後に説明するが形原の地が奥平氏に関わってくるためだ。この段階で形原松平の家広は牢人から復帰しているものの、どうやら本知行の形原は取り戻せなかったようだ。 ついで、義元は奥平定能・貞友に三河国山中郷を与えると約束する。東西の戦況がどうあっても保障するという言い回しが意味ありげだが、今回は掘り下げない。ここで注目すべきは、後に当主として登場する定勝(監物丞)宛てではなく、「作手 千千代」「藤河 久兵衛尉」に向かって知行の約束手形を切っている点である。 現時点で考えうるのは……

1 定勝が健康上重篤な状態にあった
2 定勝が敵方にいた
3 定勝が隠居、もしくは逐電、隠遁していた
4 定勝は今川家中に拘留されていた

という4つである。1と2は、次に示すように半年足らずの間に定勝が活躍を始めることから考えづらい。むしろ、この文書の宛名2名の方が怪しい動きをする。3についてもすんなり総領して義元に認められていることから考えられない。 そこで、松平親乗の例を思い出してみた。彼は駿府で訴訟というか審議を受けていた。それが終わるまで城に帰れず、その留守は今川の家臣団が管理していた。息子は吉田に人質に出されている状態で、家臣団は「途中で親乗が人質を奪回するのではないか」と疑っていた。定勝が本格的に今川方となるに当たって、駿府へ出仕の挨拶に赴き、そのまま忠誠を調べられ試されていたと考えると自然な流れになる。それでも奥平氏の軍事力を利用したい義元は、定勝の不在を守る息子と弟に「山中新知行のことは間違いはないから」と約束したのだろう。

1548(天文17)年

01月26日 今川義元、奥平定勝の功績を賞す

去年息千々代・同名親類等依忠節、新地山中七郷充行分[但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之、]本知行并遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当形之厚分等之事 右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置、抽忠節上、抛先非如前々所充行之也

定勝に代わって前年に活躍したのが息子、千千代とその親類となっている。親類は「藤河久兵衛尉」だろう。彼らは、当主定勝の不在にも関わらず今川方として忠節を尽くしたようだ。この結果、懸案だった山中7郷は給付されるが、その中の竹尾氏領有の150貫文は除外される。続いて記載されているのが本知行、これは作手領を指すだろう。そして遠江国高部。ここは天竜川より東にあるので遠隔地に与えられた知行だろう。追加して、弟である「日近久兵衛尉」の知行分とある。前回の判物では「藤河」となっていたが正しくは「日近」であったようで修正されている。この知行は日近郷と考えてよいと思う。更に、久兵衛尉には前年に配当された「形之厚分」=形原分が挙げられている。 まとめて考えると、前年の褒賞として、定勝には一部150貫文を除いた山中7郷と遠江高部が、弟の貞友には形原が与えられたことになる。これらに本知行を足した分について、再安堵しているのがこの判物だ。「今後久兵衛尉謀反」が明らかになったことを受けて、定勝が吉田に駆けつけ事情を説明し、子の千千代を人質として差し出したので「先非」を帳消しにしてやろうという義元は書いている。 だが、この「謀反」は少しおかしいように見える。日近久兵衛尉が反乱したと言いながら、彼の処遇については触れていないし、日近と形原はむしろ安堵している。この通りなら、久兵衛尉はそのまま知行を維持することになる。反乱が奥平家限定のものだったとしても、そのままというのは考えづらい。定勝を呼びつけ人質を取るための言いがかりだったと考えた方が整合性が高いように見える。

1550(天文19)年?

12月02日 今川義元、奥平監物の出陣を労い部隊増派を約束する

就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候

年代はかなり推測が入っているものの、岡崎・大給・高橋で雑説が流れた際に、定勝は派遣されている。完全に今川傘下に入りつつあったのだろう。

1553(天文22)年

03月21日 今川義元、奥平定勝の知行分を安堵し、諸権益を認める

神領・寺領之事、定勝於納得之上者、可及判形事

09月04日 今川義元、三河国菅沼伊賀の寝返りを賞し、知行を安堵する

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、因茲同名隅松一跡之儀、所々令改易也

この年3月の判物で、義元は定勝の当主権限を増強させようとしている。中でも寺社の所領でも定勝が納得するなら裁定してよいと書いているのは、かなり大きな既得権益を保障していることになる。 一方で、隣接する菅沼氏では5年前の奥平家と同じ状況が展開している。一族のうち三郎左衛門尉ら3名が菅沼伊賀守によって逆心を訴えられている。その際に、告発の原告となったのが奥平八郎兵衛尉である。定勝・定能の仮名は九八郎だから、後に出てくる分家名倉奥平家ではないかと推測している。自分の分家が菅沼家の内紛に介入していることを、定勝がどう考えていたかは不明である。ただ、今川家の影響が次第に増してきていることを実感したのは確実だろう。

1554(天文23)年

10月15日 今川義元、奥平定勝に、三河国山中七郷の支配につき指示を与える

縦雖為河成、定勝江不相断、以各別之名職之内、恣非可引取儀也

この年再び、義元は定勝の権限を保障している。河川の氾濫でできたりなくなったりするような土地であっても、定勝が管轄・裁定するよう指示している。同様の文書は遠江天野氏にも出されていることから、今川家が国衆の当主権限拡充を志向していたか、国衆の当主が権限不足を訴えていたか、もしくはその両方があったかだと考えられる。

1555(弘治元)年

10月23日 今川義元、荒川氏に、吉良義安造反に対応しての人質提出を求める

荒河殿幡豆・糟塚・形原堅固候

これは久兵衛尉が持っていた形原郷に関連する情報。形原は吉良一族の荒川氏の所有になっている。

1556(弘治2)年

10月21日 今川義元、奥平定勝らの所領を安堵する

今度九八郎就構逆心、可加成敗之処、各親類九八郎於永高野江追上、監物儀谷可引入之由、達而之懇望之条、赦免之上、本地并諸親類本知不可有相違、若給方へ雖出置、無異儀可還附事

この年、その昔千千代と呼ばれていた九八郎(定能)が逆心を構えたとして糾弾されている。殺されるところを高野山へ無期限で追い上げたとし、監物(定勝)は谷に引き入れたと奥平の各親類(名倉家、菅沼家か?)が報告し、赦免を強く懇願した。もし「給方」に出されていたのだとしても、問題なく還付せよとあるので、既に知行を接収する官僚が動いていた可能性がある。

1557(弘治3)年

06月26日 今川義元、奥平定勝の同彦九郎成敗の功を賞し、三河国日近郷を与える

同名彦九郎自去年春逆心事、沙汰之限也、雖然定勝事、無二存忠節、彦九郎遂成敗段神妙也、為其賞日近郷之事、永充行之了、彼者本知行分野山・河原・寺社領并買得地等、一円為不入所々領掌候也、棟別之事、永令免許之、百姓以下他之被官仁罷出事、令停止之、可為定勝計也、久兵衛尉事、内々可加成敗之処、令欠落之条、不及是非、縦至于後年対此方抽忠節、日近郷之事、成競望雖企訴訟、一切不可許容、定勝本知行之事、是又永不可有相違、親類奥平与七郎及両度致逆心上者、彼諸職之事、為作手領割分之内条、可為定勝計者也、仍如件、

09月05日 今川義元、菅沼左衛門次郎の布里撤退の軍功により知行を宛行なう

去年菅沼十郎兵衛尉・同八右衛門尉帰参之刻、林左京進・菅沼三右衛門布里江打入之処、以敵猛勢相勤之旨、夜中令告知人数無相違引取之段、忠節也、因茲菅沼孫大夫給之内

この年は奥平氏と菅沼氏で道が大きく異なっている。 奥平彦九郎は、前年10月に発生した定能逆心騒動に連座したのか、春(1~3月)に逆心している。義元は「沙汰之限」=呆れたことだとして、定勝の彦九郎成敗を評価している。その褒美として日近郷を与えるとしているから、彦九郎は久兵衛尉の後継者だったと思われる。久兵衛尉は隠居していたのだろう。その久兵衛尉のことは、「内々可加成敗之処、令欠落之条」とある。「内々」という係りをどこで受けるかが難しいが、成敗を加えることよりも逃がしたことのほうが「内々」に適していると思われるので、今川方の意向としては久兵衛尉も殺せとあったものを、定勝が内々で逃がしたと考えるのが自然だと思う。この件について義元は逃げてしまったのは仕方のないこととしながらも、もし久兵衛尉が手柄を立てても日近を定勝から奪って返すようなことはない、としている。この表現は他の様々な国衆に対して使っているものだ。 一方の菅沼氏は、一族が分裂して混乱した状態になっていった。今川方になると言ってきた布里城を接収に行った林左京進と菅沼三右衛門は、菅沼左衛門次郎からの情報で敵が控えていることを察知して撤収している。左衛門次郎は菅沼孫大夫の跡地を給されていることから、一族の所領も入り乱れていたのではないだろうか。

1558(永禄元)年

06月02日 今川義元、奥平松千代の舟渡橋合戦での活躍を褒める

去月十七日、三州名倉於舟渡橋、岩村人数出張候処

閏06月08日 今川家奉行、奥平監物が舟渡橋合戦で活躍したことを顕彰する

先度於舟渡橋、岩小屋江後詰之人数多之討捕、御粉骨之至、無比類御感状被遣候、源二郎殿、両度抽御馳走、御感悦異于他被思召候、然間、御腰物正恒、被進候、御面目之至候、将又九八郎殿儀、御親類中人質於牛久保ニ被置、以身血重諸余不可有疎略候段、各御申候条、無御存知分ニ三戸大宮寺辺ニ、為山林可有御堪忍ニ候、是又御心安存候、委細御同名兵庫助殿へ申条

07月04日 今川義元、菅沼大膳亮を撃退した伊東貞守を褒める

去正月、河合源三郎令逆心敵引入処、一類等奥山能登守かたへ相渡、無二令味方段、神妙也、又至于三月菅沼大膳亮お源三郎相催、屋敷構江攻入之刻、尽粉骨、甚以忠節之至也、因茲同名源三跡職知行一円

この年は、検証a22:北方戦線(奥三河)を中心とした時系列で述べたように、遠山・広瀬氏を軸にした反今川・武田の軍が動き始める。ここでは、奥平定勝が名倉家と連携して敵を撃退したこと、菅沼大膳・河合源三郎が反今川方、伊東貞守・奥山能登守が今川方に属したことを確認する。また、以前逆心を疑われた定能は、人質を牛久保に提出したことを今川家臣たちから褒められている。

1559(永禄2)年

10月23日 今川義元、奥平監物が大高城補給に成功したことを賞す

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、自身相返敵追籠

今川義元、菅沼久助が大高城補給に成功したことを賞す

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、

この段階で、奥平家は定勝、菅沼家は久助が軍事指揮権を掌握し、2家共同で尾張大高城支援作戦を展開している。

1560(永禄3)年

06月16日 今川氏真、簗瀬九郎左衛門尉の戦功を賞す

今度当城堅固爾相踏、殊於両度遂一戦、為初奥平久兵衛尉・鱸九平次、随分者数多討取段

義元が尾張で敗死した直後、後継者の氏真は簗瀬九郎左衛門尉の城砦守備を賞している。その中で、奥平久兵衛尉・鱸九平次を討ち取ったことが記されている。但し、こういった記録があっても当人が参戦していなかったり戦死していなかったりということは多い。ただ少なくとも、氏真は貞友が今川方には存在しておらず、反今川方に存在しても不思議ではないと考えていたのは確かだ。 時系列で見てきたが、奥平定勝は身内を何度も今川方から疑われている。それが冤罪なのか事実なのかは今後の調査が必要だが、恐らく冤罪の方だろうと思う。牧野・大給松平・菅沼の各氏状況を見る限り、義元政権は三河国衆を信用しておらず、隙を見て力を削ぐことに注力している。また、定勝がこっそり弟を逃がしたのは、兄弟の関係が良好だったことを窺わせる。 最後に、年未詳の文書を紹介しよう。どこに当てはまるか不明なので、もしかしたらここで挙げた事件以外のゴタゴタかも知れない。この短い文面に、義元の意図が端的に現われているように思えてならない。

7月17日 今川義元、奥平定勝の知行を還付し某の処刑を命ず

於調儀成就之上者、本知行無相違可令還附候、然者彼一人生害之段、堅可申付者也