WordPressの検索機能が拙劣だったため、以下の点を変更した。

  • Googleサーバを使った検索『GoogleCustomSearch』を導入
  • WordPressの検索で結果に該当部分の引用を表示

WordPressオリジナルの検索は、厳密に「この言葉」と決まっている場合に重宝する。Googleだと、「事」と入れても「事」と「こと」を両方調べてしまうためだ。

逆に、どのように読めばいいか不明な場合や、記憶が曖昧な場合にはGoogle検索のほうが優れている。Google検索の場合は以下のルールがあるのでご参考まで。

  1. 単語の前に「-」(半角マイナス)を入れるとその単語が含まれない候補に絞られる。
  2. 単語の前に「+」(半角プラス)を入れるか、「”」(半角引用符)で単語を括るとその単語は分割されない。
  3. 単語と単語の間に「 OR 」(半角空白とOR、半角空白)を入れると、その前後の単語の片方のみが対象となる。

判りにくいので具体的な例を出そう。

氏真  +氏政 OR “氏康” -氏直

「氏真」はなるべく一括りで候補に上がるが、「氏」と「真」が分割されても候補にはなり得る。その後ろの氏政は+が直前にあるので、「氏政」が連続した文字列のみが対象となる。「”」で括られた「氏康」も同様。そして、ORでつながれた「氏政」と「氏康」は、どちらか一方が含まれる場合のみ対象となる(氏政と氏康両方がいる場合、両方いない場合は対象にならない)。最後の氏直は「-」があるため除外対象となる。

詳しくは以下のリンクをご参照あれ。

Google 検索の基本: その他の検索のヘルプ

書出

一此度就御弓矢、当郷ニ有之為男程之者、先年之任吉例、桧原谷為御加勢被仰付候、平山右衛門大夫一左右次第、速為男程之者、彼谷へ相集、可走廻候、他所へ於罷越者者、従類共ニ可被処死罪事、

一於桧原相渡普請之儀、是又無ゝ沙汰可走廻事、

右、大途就御弓箭如此被定置候、此掟於相背者者、可被処死罪旨、被仰出者也、仍如件、

(印文未詳)

戊子 正月九日

西戸蔵

→神奈川県史 資料編3「北条氏照朱印状」(武州文書多摩郡市之丞所蔵文書)

1588(天正16)年に比定。

書き出し。一、この度の戦争について、この郷にいる男たる者は、先年の吉例のとおり、桧原谷の加勢を指示された。平山右衛門大夫の一報次第で速やかに、男たる者はあの谷に集まり、活躍して下さい。よそへ越した者は『従類』とともに死罪とすること。
一、桧原において渡す普請のことは、これもまた無沙汰なく活躍すること。
右は、大途の戦争についてこのように定め置きます。この掟に背く者は死罪と処す旨を仰せ出されている。

伊藤潤・乃至政彦の共著で、洋泉社の文庫yから刊行されている。

先週紹介した『上杉景虎―謙信後継を狙った反主流派の盟主』(以下前書)と同じモチーフを扱っている。第2章までを関東の戦国史概観に据えていることから、調査初心者にとっては本書のほうがハードルは低いと思う。但し、同時代史料からの確度が低い記述(天文末年に輝虎が上野国に侵攻したとする説)も書かれている。景虎が武田氏の人質となっていた伝承についても、前書は葛山三郎の誤伝と合わせた検証を行なって現実性が低いとしている一方、本書は各種軍記物の記述のみを引用して「あながち虚構とばかりはいえない」としている。このため、読み込みに注意は必要。

内容としては前書とほぼ同等だが、武田勝頼の動向に紙幅を割いている点は参考になった。御館の乱に対する勝頼の行動は一貫しておらず、不可解な要素を多分に含んでいる。解明には及んでいなかったものの、越後と同期した勝頼の動きをまとめてあったのは判りやすかった。

本書の主論は景勝陣代説にある。輝虎後継者の選定は難航を極めたようで、景勝は上田長尾継承者にせざるを得ず、景虎は後北条氏との絶縁とともに後継者にはできない状態だった。そこで、景虎が景勝妹との間にもうけた道満丸を正式な後継者とし、それまでの中継ぎ当主を景勝に据えたとする。ここから、景勝が御館の乱まで未婚だったのは「道満丸への継承が前提だったため」となって矛盾がないとしているが、これは疑問である。景勝の主目的を上田家継承とするなら、その次代の継承者も確保せねばならず、未婚維持はおかしいからだ。もっと突っ込むと、景虎を出家させていない疑問点も出てくる。また、憲政には息子憲藤が同行していたという伝承があり(憲藤も父と同時に殺されたとしている)、これが真実なら、反・景勝派は「関東管領正嫡」という旗印のもと、憲政・憲藤を担ぐことも可能だった。

ここまでくると、単純に輝虎が後継者選定で無能だったと断定したほうがしっくり来るのではないか。解決するのが面倒になって、混乱を招くような放置をしていたと考えたほうが判りやすいように思う。下手に「深謀遠慮があった筈」と考え過ぎてはいないだろうか。

『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』(杉山正明著・講談社学芸文庫)を読んで、考え込んでしまった。

この本は丁寧な解説でモンゴル帝国の成り立ちと限界点が紹介されている良著で、世界史の授業でよく言われる「モンゴルの破壊」についてもそれがイデオロギーによる虚説であると証明している。南宋、アラブ諸国、中央アジア諸国いずれもが、モンゴルの介入によって文化・文明が破壊された事実はなく、むしろ都市は発展すらしているという。史料や統計で明らかになっているそうだ。

では何故通説はなくならないのか。モンゴルはヨーロッパ・アラブ・アジアをまたいだ大帝国のため、様々な国で少しずつ研究は進んでいるものの、統合された史論にはなっていない。このことが原因で、国ごとのローカルな通説を修正できていないようだ。詳細は本書を見てもらえれば納得できるが、ロシア・中国・ペルシャの通説固執例を詳しく出している。

もう1点気になる指摘があった。初版(1995年)当時隆盛していたウォーラステイン氏による「世界システム論」を軸にした、現在の社会システムを遡って主な歴史を決めていく欧米流の『グローバルな歴史』が築かれつつあるという。たしかに、大航海時代以降、西欧を根拠地とする文明は世界を席巻した。それは現代も継続している。この欧米が自らの覇権を振り返ったのが『グローバルな歴史』である。そのような史観自体は否定していないが、杉山氏が問題としているのは、世界システム論でアジア・アフリカも含んだ全ての歴史を語れると信じ込んでいる点。そしてその史論を欧米の知識層が多数支持している点なのだ。

西欧が火器によってアジア・アフリカに侵攻するのは19世紀以降であり、たかだか200年の歴史でしかない。それ以前の世界史も存在するということを、欧米以外の各国史家が発言していかなければならないだろう。その意味では、西洋植民地時代に先駆けて独自の世界帝国を形成したモンゴルは、現代の欧米覇権主義に対抗し得る歴史的題材である、と語られている。

このくだりを読むと、「別の目的を持つ歴史論」の危険性に改めて気づく。歴史は国内統治や外交、詐欺に巻き込まれやすい。たとえば日本の戦国代であれば、江戸初期に書かれた軍記の多くは、作者の宣伝に使われたり、遺族からの要望でいもしない人物が加筆されたりしていた。現代から見るとどうでもいいような理由で歴史が変えられていったし、それは現代でも続いている。

別目的や主観を排除するには、史料だけを見つめて、推論の上に推論を重ねない注意を払って仮説を組み立てていくしかない。しかし、史料は事実を語ってくれるのだろうか……。最近疑問に思っている。歴史学は再現性を全く担保できない。史料第一主義の立場からすると、これは絶望的な欠陥だといえる。

山鳥・蝋燭到来候、仍干海鼠・海鼠腸遣候、然而諸軍勢悉打着候、諸山手ニ為陣取候、眼前之事、善悪ニ付而可心安候、如顕先書、上州之儀者、沼田一城ニ極候、心ミしかく擬候而者、一向可為無届候、其塩味専一候、普請与くらい物者、此両様ニ極候、普請者、猪俣自身鍬を取者、其地ニ普請せぬ者ハ有間敷候、豆州之城ゝ、美濃守を始、自身夜昼之無着別成之由云候、謹言、

正月十六日

猪俣能登守殿

→小田原市史 資料編「北条氏政書状」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

1590(天正18)年に比定。

山鳥・蝋燭が到来しました。『干しナマコ』と『このわた(ナマコ腸の塩辛)』をお送りします。さて、諸軍勢は全て到着し、それぞれ山手に陣取っています。眼前のこと、善悪についてはご安心下さい。先の書状のように、上野国のことは沼田城の存在に極まっています。短気な考えでは一向に行き届かないことでしょう。熟慮が大切です。普請と食料、この2つのあり方に極まります。普請については猪俣自身が鍬を取れば、その地で普請しない者はいなくなるでしょう。伊豆国の城々は美濃守が率先して自ら昼夜の区別なく行なっているそうです。

伝奇的な扱われ方が多かった上杉景虎だが、本書(今福匡著・宮帯出版社)は同時代史料を重視した重厚な内容になっている。巻末には可能な限りの原文掲示もされており、読者へのフォローも適切に行なわれている。

上杉景虎を語る場合にはすべからく御館の乱が中心となるが、その際に「上杉輝虎は後継者を誰にしていたか」が問われることとなる。前管領上杉憲政が景虎方にいることから、「少なくとも管領は景虎が継承、越後国主は景勝か?」という説が有力だ。しかし個人的にはいくつか疑問があった。輝虎は何故後継者を2名確保したままだったのか、景虎だけでなく憲政・道満丸(景虎嫡男)・景虎室(景勝妹)が殺された経緯はどういったものだったのか……。

景勝による家督掌握が順当だったのは、本書で提示された文書から明らかになった。つまり、当初は景勝の継承に誰も異議を唱えていない点から、景勝後継は輝虎期から定められていたという論である。続いて、三条人質問題によって神余氏が導火線となってまず憲政が景勝と対立した構図も判った。同時に読み進めていた『関ヶ原前夜』(光成準治著・NHKブックス=奥野氏ご教示により読了)によると、御館の乱から翌年にかけて急速に景勝専制体制が築かれていたという。

本書でも同様の見解が載せられている。敵襲を予見した神余氏が独自に人質を集めたのを景勝が咎めた。その後実際に敵襲があったため神余氏は赦免を願い出たが、景勝は許さなかったという。つまり、集権派と分権派の派閥抗争が原因だとしている。分権派であるがゆえに、総力では圧倒しながらも景虎方は作戦に乱れが生じて敗北したとする。とても納得性の高い結論だと感じた。

ただ、憲政・道満丸・景虎室が殺された理由は首肯しかねた。御館から景虎が逃げた後で憲政・道満丸が和を求めた点に解を求めているようだ(「乱の主役が逃亡した後で、証人を差し出したところで交渉は不可能であろう」)。しかし、その理由なら憲政は生かしておいてよかったと思う。輝虎がいない状況では、前の管領として景勝の地位を保証するのは憲政しかいないためだ。また、景虎が生家後北条氏に逃げ込んだ場合、道満丸・景虎室を擁すことも重要になってくるだろう。つまり、7日後の景虎敗死を織り込んでこそ「憲政・道満丸は用済み」という認識が正しくなる。

景虎が逃げ込んだ鮫が尾城で堀江宗親に裏切られて自刃したという説にも疑問を投げかけている。なぜなら堀江宗親はその後史料に出ておらず、景虎に殉じたと考えられるためだ。一方で、御館に立て篭もっていながら乱後すぐに復帰した本庄顕長については実は景勝方で館内の情報をリークしていたのでは……というニュアンスで綴っている(明言はしていない)。

その他、甲越同盟の破綻についての叙述で、機能しなかった原因が後北条氏側にあると断定している点が少し気になった。後北条を調べている立場からすると、「上杉が武田を全く牽制できなかった」同盟ゆえに破棄もやむなしという氏政判断が納得できるのだが……。

昨年(2010年)夏に中津へ立ち寄ることがあり、中津城に行ってみた。

本丸に作られた大天守を望む。高さから言うと、5層で過不足はないと思うが、建坪が少ないので異様な感じがする。松本城天守が上層の逓減率が低く頭でっかちなため、実見した際、写真よりも威圧感があって驚くが、ちょうどその逆パターン。

本丸の石垣は野面積みっぽかった。この写真は、後世組み直されたエッジ部分だと思われる。石垣は角をしっかり組まないと崩れやすいのだが……。

管理事務所、小天守、大天守が重なるように撮影(岡山城っぽく)。左手には奥平神社があるが、どちらも後世の築造物。江戸期に天守や神社があった記録はない。ちなみに、手前の車庫は標準的な大きさのもの。若干パースがかかるとはいえ、天守が5層であることが不自然なのが判ると思う。

奥平神社の側面から撮影。屋根瓦に雑草が生えている……かなりの財政難かと。

大天守最上階からの眺望。左手が山国川で、手前の建物が中津大神宮。山その向こうの奥にあるのがその社務所で、さらに奥の木立には中津神社がある。また、社務所右側に金比羅神社があるが、ここの櫓が天守代わりだったという。

この画面の右手には、黒田氏入部に抵抗して騙まし討ちで滅亡させられた宇都宮氏を祀った城井神社がある。城跡に神社はつきものだが、これだけ密集しているのも珍しい。

城井神社の表札が、何だかマジックっぽいインクで書かれていた驚いた。下の画像は金比羅社内に安置されていた魚のお神輿。これも初めて見た代物でびっくり。

城下の寺町にある合元寺。赤い壁は、騙まし討ちにあった宇都宮家臣のもので、何度塗り替えても赤く浮かび上がることから、赤く塗って目立たなくさせたという。中津城の寺町は道路が狭く、かなりの密集状態にある。自動車は1台ぎりぎり通れる道で、なおかつ曲がりくねっている。往時の面影は忠実に伝えられている。

中津城のそばには福沢諭吉旧居記念館もあって、明治時代の中津についての展示も見られる。福沢諭吉が勉学に励んだという土蔵の2階には、ご覧のようなフィギュアが安置されている。

中津城の天守は2010年10月に埼玉の福祉事業会社『千雅』が買い取っており、内装工事で行なっていたようだ。2011(平成23)年2月26~27日には天守前に特設雛壇を設置し、「人間ひな飾り」を開催するという。

一当郷ニ有之者、侍・凡下共ニ廿日可雇候、行之子細有之間、悉弓・鑓・鉄炮何にても得道具を持、何時成共、一左右次第、可罷出事、

一此度若一人成共、隠而不罷出儀、後日聞届次第、当郷之小代官并百姓頭可切頸事、

一惣而為男者ハ、十五、七十を切而、悉可罷立、舞ゝ・猿引躰之者成共、可罷出事、

一男之内当郷ニ可残者ハ、七十より上之極老、定使、十五より内之童部、陣夫、此外者悉可立事、

一此度心有者、鑓之さひをもみかき、紙小旗をも致走廻候ハゝ、於郷中、似合之望を相叶被下事、

一可罷出者ハ、来廿八日公郷之原へ集、公方検使之前にて着到ニ付、可罷帰、小代官・百姓頭致同道、可罷出、但雨降候ハゝ無用、何時成共、廿八日より後天気次第罷出、可付着到事、

 付、着到ニ付時、似合ニ可持道具を持来、可付之、又弓・鑓之類持得間敷程之男ハ、鍬・かまなり共、可持来事、

一出家ニ候共、此度一廻之事、発起次第、可罷立事、

 右、七ヶ条之旨、能ゝ見届、可入精、愚ニ致覚悟候者、可行厳科、又入精候者、為忠節間、如右記似合之望を相叶、可被仰付者也、仍如件、追而、御出馬御留守之間、御隠居御封判を被為

 推候、以上、

[有効朱印]七月廿三日

木古葉 小代官

    百姓中

→神奈川県史 資料編3「北条氏政掟書写」(相州文書所収三浦郡増右衛門所蔵文書)

1585(天正13)年に比定。

 掟。
 一、当郷にいる者は、侍・凡下ともに20日雇うこととする。手立ての詳細はあるので、全員が弓・槍・鉄砲の何れかの武器を持ち、いつであっても連絡次第で出てくること。
 一、この度はもし1人でも隠れて出てこなかった場合、後日把握出来次第、この郷の小代官・百姓頭を斬首すること。
 一、総じて男たる者は、15~70歳で切って、ことごとく出て、舞々・猿楽の者であっても出てくること。
 一、男のうちこの郷に残るべき者は、70より上の『極老』・使者・15より下の児童・陣夫である。このほかはことごとく立つべきこと。
 一、この度心ある者は、槍の錆びを磨き、紙の小旗をして活躍するならば、郷内において、見合った望みを叶えて下さるだろうこと。
 一、出るべき者は、来る28日に公郷の原へ集まり、公方検使の前で着到してから帰りなさい。小代官・百姓頭が同道して出るように。但し雨が降ったら順延で、28日以降の天気次第で出て、着到をつけること。
 附則。着到する際、見合った武器を持って来て、これを記入する。また、弓・槍の類を持っていない男は、鍬・鎌などでも持って来ること。
 一、出家であっても、この度一巡りのこと、発起次第で立つこと。
 右の7箇条の旨、よくよく見届け、精を入れるように。愚かな覚悟をするなら厳しい罪に処す。また、精を入れ忠節をなすならば、右記の通り見合った望みを叶えると、仰せ付けられている。
 追記。ご出馬でお留守なので、ご隠居が封印の判を押された。

無沙汰とは沙汰がないことを指すが、具体的には以下の事例のように使われている。義務を果たさないというニュアンスが最も強く、社会的な状況から徴発の無視・サボタージュの例が多いようだ。

外交に関わるもの

万乙景虎可存無沙汰覚悟候共

努ゝ非無沙汰候

上の『万乙』は意味が取れないが、後半は「長尾景虎に与同するつもりはないだろうが」で間違いない。下は後詰の遅延が政治的意図によるものではないと強調したもの。どちらも政治的距離が遠くなる意味合いで使っている。

納税に関わるもの

詞堂領年貢令無沙汰之事

もしすこしも御ふさた申候ハゝ、めしはなし候て

上は禁制。下は寄進地からの納税が滞ったら代官を罷免してよいと通達したもの。どちらも無沙汰とは納税がない状態を指している。

連絡に関わるもの

余ニ無沙汰之様ニ可被思召候条

取乱之条、早々覃御報候、非無沙汰

上は現地の徴税担当者が「余りに無沙汰だと思われたので」と途中経過を報告したもの。事態が進展していないが、交渉のサボタージュだと誤解された節がある。下は武田信虎が急遽駿河へ赴くことになって慌てて連絡したもの。疎意からではなく、本当に慌しいのだというニュアンス。

徴発の無視・サボタージュに関わるもの

若至于無沙汰之族者

神社之修理、不可有無沙汰者也

各同心之者陣番並元康へ奉公等於無沙汰仕者

若奉行就無沙汰申付者

致無沙汰付者、即令打散

無沙汰付者、可為曲事旨

若無沙汰之在所有之者、請御意、過銭之儀可申付者也

是又無ゝ沙汰可走廻事

致無沙汰人衆等

例が多いのでとりまとめるが、どれも作業員や物資の徴発を拒むことを「無沙汰」としている。沙汰の語例を追っていないのだが、沙汰を「徴発義務の決定」とすると、それを無視することを無沙汰としていたのではないかと思う。そこから派生して外交・納税・連絡でも義務違反の意図で使われるようになり、現代語では連絡の範囲のみで「ご無沙汰しております」と使用していると推測できる。

『戦国を生きた公家の妻たち』 (後藤みち子著・歴史文化ライブラリー)を読んだところ、最近の日本で取り沙汰されている夫婦別姓に関して考察されていたのが面白かった。戦国時代になるまでの公家では、女性の地位が低く夫や子供と同じ姓を名乗れなかったという。現代とは逆で『別姓から同姓へ』という流れがあったのだ。夫婦同姓を可能にしたのが『正妻』という概念であり、政略結婚という手法だった。

『家』が現代でいう企業体を意味し始めていた戦国期。武家も公家も、変則的な末子相続から嫡長子相続が一般的になってくるが、嫡子は正妻が産むのが原則というスタイルを作り出すことで、嫡子には正妻の実家の支援も受けられるようになる。実際に文献に当たってみても、女性を介したつながりで活動していることが多い。

上掲書では例として、この頃普及し始めた風呂の風習を挙げていた。男性だけが行なっていた時は、気心の知れた2~3人の友人だけで月を見ながら適当に集まってダラダラ飲んでいた。そこに女性が入ったことで、実家の兄弟や姉妹を通じた縁戚なども多数呼んで定時開催するようになり、政治サロンとして機能するようになったという。何だか現代でもそのまま当てはまりそうな風景である。

外交に参加できる政略結婚は女性にとって一種の参政権であり、そのためには婚家の苗字を称す唯一の嫁=正妻であるという地位が必要だ。それまでの妻たちは単に子を産む道具とされていて、正妻も妾も区別がなかったという。この時、『正妻』というこれまでなかった存在を作るため、嫁と姑が団結して事に臨んでいる。正妻は当主と同等の地位を持ち、姑から嫁へ代々継承されるものである。そして、実家と婚家を政治的に結ぶ外交機能を担うという定義が徐々になされていく様子は興味深かった。

ここでは公家を扱っていたが、武家のほうが早く正妻システムを導入していたように思う。きっちり史料に当たった訳ではないものの、鎌倉後期には正妻と嫡男は確立されており、執権北条氏が有力御家人の正妻に自身の一族を送り込んでいたと理解できる。

ちなみに、現代の日本社会では恋愛結婚が至上であるため、「政略結婚は非人道的」という認識があるように思う。いわく「女性は政治の道具に過ぎない」と。ところが、恋愛結婚が見合い結婚を上回った1970年代以降、離婚率・未婚率が上昇している(見合い結婚の方が離婚率が低い)ことから考えて、恋愛結婚が日本人にとって自然で合理的な婚姻手法とは考えがたい。

16世紀に導入された夫婦同姓は、21世紀に入って新たな議論を呼んでいる。最早『家』は法人と同義ではなく、個人が大きな権限を持つ時代に突入した。家のシステムが変革される場に居合わせることが出来るならば歴史を調べる者として至福の限りである。