禁制

   平野之内 神戸市場

一甲乙人等濫妨狼藉之事

一陣取・放火之事

一伐採竹木之事

 右条々、於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、

永禄四年六月 日

(織田信長花押)

→岐阜県史「織田信長禁制」(高橋宗太郎氏所蔵文書)

 平野のうち、神戸市場。一、軍勢が乱暴・狼藉すること。一、陣地を取ったり放火すること。一、竹・木を伐採すること。右の項目に違反する者があれば、速やかに厳罰に処す。このように下知する。

美濃守殿御儀、不慮之仕合、無是非儀ニ候、御身上之儀、相違有間敷候由、道三申候、委細可被任稲葉伊予守差図者也、備後守病中故、我等方より如此ニ候、恐惶謹言、

十一月五日

織田與十郎 寛近(花押影)

土岐小次郎殿

→岐阜県史「織田寛近書状写」(村山文書)

 美濃守殿のこと、不慮の巡りあわせは是非もないことです。あなたの進退のこと、相違ないようにと道三が申しています。詳しくは稲葉伊予守の指示に任せられますように。備後守が病床にあるので、私からこのように申します。

永禄四年辛酉五月十一日義龍死去、尾軍乱入、

         同十三日従尾州乱入、別傳漸ク遁殺害奔出、不知落処、龍谷同前

同辛酉十二月十三日 亀年和尚遷化、

同五年壬戌三月二日 申刻傳燈焼亡、

同 三月十八日 夜於妙心寺門前龍谷棒殺

              大雲山梅龍寺什品

→岐阜県史「永禄沙汰 表紙裏」(梅龍寺文書)

一昨日貴札忝致拝見候、然ハ土屋民部少輔内岡部惣左衛門と申人之妹、尾州之内寺部と申在所ニ罷有由、最前被仰下候、尾張之内ニ寺部と申在所有之儀、しかと覚不申候、三州之内大納言殿領分ニ寺部と申在所御座候処、御せんさく被成候へ共、三河之内ノ寺部にて可有御座由被仰下、得其意存候、右之内寺部村ハ渡部忠右衛門知行所にて御座候間、様子相尋候て、手形可進之候、成瀬隼人正二三日以前ニ當御地罷下候、拙者儀、近日罷上候間、於尾州ニ様子相尋、手形可進之候、恐惶謹言、

三月十八日

神尾備前守殿

→岐阜県史「某書状案」(村瀬俊二氏所蔵文書)

 一昨日、お手紙をかたじけなくも拝見しました。ということで土屋民部少輔の内の岡部惣左衛門という人の妹は、尾張国の寺部という在所にいるとのことを前に仰せでした。尾張の中に寺部という在所があるとは、全く記憶にありません。三河国の大納言殿領地に寺部という在所がありますので、穿鑿となってしまいましたが、三河内の寺部ということで仰ったことだろうと思います。右の寺部村は渡部忠右衛門の知行なので、様子を聞いて手形を進呈します。成瀬隼人正が2~3日以前にこの地に下ってきました。私は近いうちに上りますので、尾張での様子を尋ねて手形を進呈します。

先日者、陣中へ飛脚祝着候、仍越後衆敗北之已後、至上刕出馬、如存覃行帰府、別而入魂候条、定而可為大慶候、随而崇福寺快川和尚、為恵林入院、當国へ来臨候、路次中傳馬以下馳走、偏ニ憑入存候、恐々謹言、

十月四日

信玄(花押)

長井隼人殿

→岐阜県史「武田信玄書状」(崇福寺文書)

 先日は陣中へ飛脚を戴き祝着に思います。越後衆が敗北した後、上野国に出馬してご存知のように手立てを講じて甲府へ戻ります。特別の昵懇なので、きっと大慶となることでしょう。従って、崇福寺の快川和尚が恵林院へ入られてこの国へ来臨します。道中の伝馬など奔走をひとえにお願いします。

急度令馳一簡候、仍信玄濃州之内遠山号岩村認候処、城主取合、敵数多討捕、敵追払候、則織田信長兄弟ニ候織田三郎五郎・河尻与兵衛、遠山岩村江入置、遠山七頭織田被入手候、惣躰遠山証人信玄ニ、差置候処ニ、遠山兄弟病死候付、此度信玄打不虞候、結句以此次而信長遠山入手、信長成吉事事候、岐阜へ者、佐久間貮千余人ニ而、留守中被申付候、
一濃州へ之信玄相馳、以其足参州号山家三方へ信玄来、行候処ニ、是度家康取合被追払、信玄失手、駿州ニ有之由申候、織田信長・徳川家康、此度信玄成敵躰之事、且無擬、且信玄運之極歟、さりとてハ大事之覚語、信玄怠候、偏当家之弓矢わかやくへき随相ニ候、何様此口打釘、自春中信長・家康申合、信玄ニ行をかゝせるへく候、定而可為大慶候、
一従所ゝ申来分者、賀州凶徒可敗北由申来候、左様ニも候歟、初推名何も敵躰候者共、雖悃望候、とても見詰候間、此度撃取、向後迄此口為可心易、何をも申払候、如何様ニ只者、除間敷候条、可心易候、乍去夜中敗北候者、無了簡候、
一織田方・徳川方使者飛脚置詰、行談合候間、是亦可心易候、濃州へ者、自当陣五日路ニ候、参州へ者、七日路ニ候、程近申合候、
一為披見三木良頼書中・家康書中差越候、良頼書中之内、自綱相動候、今ハ良頼病気ニ而不期今明日候間、息自綱当陣へ越由候事候、万吉帰陳之節可申候、謹言、
 追而申候、信長ハ朝倉義景対陣、向義景要害多取立、陳中堅固ニ申付、息寿妙丸為差向、信長ハ濃州へ帰陣ニ而、家康令談合、如何共駿州へ打籠、此度可果由候、兎角ニ信玄はちのすに手をさし、無用之事仕出候間、信玄折角可申候、家康・良頼書中披見之上、厩橋へ可越候、飛脚労候者、彼飛脚ヲハ吾分所ニ留、身の直書・良頼・家康之書中、吾分飛脚に為持、弥五郎所へ指越、返事を取、彼飛脚ヲ可返候、其地所ゝ之寄合普請用心弓断有間敷候、以上、
十月十八日
謙信
河田伯耆守殿

→岐阜県史「上杉謙信書状写」(歴代古案)

 取り急ぎ書状をお送りします。信玄は美濃国のうち遠山は岩村を号して認めていたところ、城主の取り合いがあり、敵を多数討ち、敵を追い払いました。そして織田信長の兄弟である三郎五郎と、河尻与兵衛を遠山岩村に入れておきました。遠山の7頭を織田が入手されました。総じて遠山氏の人質は信玄のもとにおいていましたが、遠山兄弟が病死したので、今回は信玄を恐れませんでした。結局こうしたことをもって信長が遠山を手に入れまして、信長にとっては吉事となりました。岐阜には佐久間が2000余人で留守中の警備を申し付けていました。
 一、美濃国へ信玄が出動し、その足で三河国の山家三方と号すところへ信玄が来て作戦したところ、今度は家康が取り合って追い払いました。信玄は手を失い、駿河国にいるとのことです。織田信長・徳川家康が今回信玄と敵対したことは疑いないことで、信玄の運も極まったのでしょうか。全くもって、覚悟を信玄は怠りまして、ひとえに当家の弓矢が若やぐ瑞相です。どうやってでもこの方面で釘を打ちます。春中から信長・家康が申し合わせて、信玄の作戦を挫くならば、きっとめでたいことです。
 一、諸方面から報告があった分では、加賀国の凶徒が敗北するだろうとのことです。そのようにもなりましょうか。椎名氏を始めとしていずれも敵となった者たちで、懇望しているとはいっても、とても見過ごせるものではありません。この度討ち取ります。今後この方面の安心を得るため、何があっても受け付けず、何があろうとただでは済ませませんのでご安心を。とはいえ夜間に敗北してしまって了見を得ませんでした。
 一、織田と徳川方の使者は飛脚を常駐させ、打ち合わせを行なっていますので、こちらもご安心下さい。美濃国へは、こちらの陣より5日、三河国には7日の行程です。近距離で話し合っています。
 一、参照のため、三木良頼と家康の書面を送ります。良頼の書面で、自綱が出動しているとありますが、現在良頼は病気で今日明日も判りません。なので息子の自綱が当陣へ来るとのことです。万事は陣に帰ってから申しましょう。
 追って申しますと、信長は朝倉義景と対陣していましたが、義景に対して要害を多く築いて陣中を堅く指示し、息子奇妙丸を向かわせました。信長は美濃国に帰って家康と打ち合わせをし、何があっても駿河国へ侵攻して、この度は討ち果たそうとのことです。とにかく信玄は蜂の巣に手を突っ込み、無用なことを仕出かしたものですから『折角』となるでしょう。家康・良頼書面をご覧の上、厩橋へお送り下さい。飛脚が疲労していたら、あの飛脚は自分の所に留め、私直筆の書状、良頼と家康の書面をあなたの飛脚に持たせて弥五郎の所へ送って下さい。返事を持たせてあの飛脚をお返し下さい。そちらの各所での寄合普請には用心して油断がないようにして下さい。

御札拝覧申候、御家中之體、如仰外聞不可然次第候、於此方令迷惑候、不寄退候間共、不被捨置可被仰談事可然候、何篇重而以使者御存分可承候、三郎殿様雖若年之義候、不謂御苦労可為尤候、猶ゝ期来音候、恐惶謹言、

六月廿二日

道三(花押)

織田玄蕃允殿

  御報

→岐阜県史「斎藤道三書状」(浅井文書)

 書状を拝見しました。ご家中の様子、おっしゃるように建前のようにはいかない次第で、こちらも混乱しています。寄せるのも退けるのもならない状況ではありますが、放置せずに話し合いを続けるべきのがよいでしょう。何度も重ねて使者を出し、お考えを伺いましょう。三郎の殿様は若年ではありますが、ご苦労をいわないことがもっともです。更にご連絡をお待ちしております。

急度馳筆候、仍聞得分ハ、濃州一変、殊因幡山被則由、雖不初儀候、無比類擬目出度、為其不取敢以脚力申送候、何様重而可申遣候、恐々謹言、

七月十三日

輝虎(花押)

織田尾張守殿

→愛知県史 資料編11「上杉輝虎書状」(織田信長文書の研究所所収文書)

1567(永禄10)年に比定。

 取り急ぎしたためます。聞くところによると、美濃国が一変して、特に稲葉山を乗っ取られたとのこと。初めてのことではありませんが、比類のないことでめでたいことです。このため、とりあえず飛脚を申し送ります。色々と重ねてご連絡するでしょう。

就濃州之儀、尾張守如存分被申付、為祝儀宝蔵院差越被申珍重候、殊更時宜可然之由候、於良頼本望候、弥長久被仰談候者尤ニ候、於様躰者、宝蔵院・竜蔵坊可被申候条、不能具候、恐々謹言、

六月十五日

良頼(花押)

山内殿

→愛知県史 資料編10「三木良頼書状」(伊佐早文書)

1567(永禄10)年に比定。

 美濃国のこと。尾張守が掌握したとのことで、祝儀のため宝蔵院を派遣して報告され、素晴らしいことです。ことさらに時宜が相応しいだろうのことで、良頼としては本望です。ますますの武運長久を仰せになられたのはもっともなことです。状況は宝蔵院と竜蔵坊が申し上げるでしょうから、詳しくは述べません。

就尾州矢止儀、人質同心感悦処、信長乱入儀驚入候、雖然尚以参洛之事対尾張守申遣之間、最前之筋目無相違様令馳走者可為神妙、猶信恵可申候也、

閏八月廿六日

(足利義秋花押)

→愛知県史 資料編11「足利義秋御内書」(名古屋市博物館所蔵文書)

1566(永禄9)年に比定。

 尾張国の停戦のこと。人質をとって同意し喜んでいたところ、信長が乱入して驚いています。そうはいってもさらに上洛のことを尾張守に指示していますので、直前に決めたように相違なく奔走するのが神妙でしょう。更に信恵が申します。