一 松崎籠城之衆足弱事、上郷償之在所并西条端、又寺内仁雖有之、改次第可成敗、若自然寺内不及手者、早速交名可有注進、即改其方江可相渡事

一 取出普請出来之上、猶々松崎城江出入可停止、縦雖為償之在所、使一人之外、一切出入、手柄次第可成敗事

一 敵相詰調儀候者、其方差図次第可令領掌、但松崎城中之者、忠節有其望者、兼而加談合可申付事

右条々、所定不可有相違、若別人雖有訴詔、不可許容者也、仍如件、

十一月九日

 元康(花押)

松井左近とのへ

→戦国遺文 今川氏編1765「松平元康判物」(埼玉県川越市・光西寺所蔵松井家文書)

花押形から永禄4年に比定。

 一、松崎に籠城した足弱のこと。上郷補償の在所並びに西条端、また寺内にあるとはいえ、確認次第処分するように。万一寺内に手が及ばないなら、すぐに名を書いて報告するように。すぐに確認してあなたに渡すだろう。一、砦の普請ができた上で、念を入れて松崎への出入りを停止するように。たとえ補償の在所とはいっても、使者1名のほかは一切出入り禁止とし、違反者は切り捨て自由にせよ。一、敵が手詰まりで『調儀』するなら、あなたの判断で了承して下さい。但し、松崎城中で忠節を望んでいる者がいたら、前から談合をして指示しておくこと。右の条項は決められたことで相違がないように。もし別の者が訴訟に及んだとしても許容はしないだろう。

[朱印]定

一 九八郎子仙千代休息之時者、道絞娘同親類質物三人以上四人可置之、雖然仙千代牛久保江帰城之時者、親類質物弐人宛にて可為番替事

一 日近之近辺償、可為力量次第事

一 長九郎子長菊可拘置之事

右条々、所令領掌、仍如件、

永禄四年 六月十一日

奥平監物殿

→戦国遺文 今川氏編1704「今川氏真朱印状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

一、九八郎の子である仙千代が休息する時は、道絞の娘か親類から人質3人以上4人を置くように。とはいえ仙千代が牛久保ヘ帰城の時は、親類の人質2人で番替すべきこと。一、日近の近辺での補償は実力次第になすべきこと。一、長九郎の子である長菊は確保しておくこと。右の条項了解させていただきました。

今川義元が奥平定勝の忠義を賞した文書について、私が当初試みた解釈で不明だった部分が、改めて検討した結果解明できたので、備忘として記しておく。

同去年配当形之厚分等之事

という文を「同じく去る年配当した形の『厚分』等のこと」としていた。この結果『厚分』なる用語が不明なままだったが、文書全体を視野に入れてみると、ここは奥平定勝の弟である日近久兵衛尉の知行分を指している。

去年息千々代・同名親類等依忠節

 この忠節は、前年の1547(天文16)年8月25日に今川義元が作手仙千代・藤河久兵衛尉に宛てて約束した判物と呼応する。何らかの事情によって当主定勝が不在だった奥平氏に対して、義元が成功報酬を約束したものである。「藤河(ふぢかは)」となっているのは聞き違いからの当て字で、義元文書でもその後一貫して呼称している「日近(ひぢか)」が久兵衛尉の苗字であろう(但し、1541(天文10)年に義元が久兵衛尉に対して藤河を給したという記述が『作手村誌』にあるそうで、一概に断定はできない)。

 その翌年1月26日になって、義元は定勝の弟である久兵衛尉の謀叛が明確になったといって、久兵衛尉の本知行のほか、前年宛て行なった知行を定勝の所有とした。

 さてここで「厚」とされている字をよく似た「原」に読み替えてみる。この文書は「写」であるから、書写上誤っていた可能性は高い。そうすると、「形之原=形原」が浮かび上がってくる。日近久兵衛尉は、形原を恩賞として与えられていた。奥平氏本拠、山中七郷からも離れてはいるが、同文書中にある「遠江国高部」(静岡県袋井市)よりはよほど近いといえよう。

 形原については形原又七(松平家広)が牢人から復帰したことを竹谷与次郎(松平清善)に告げる文書の日付が天文16年閏7月23日なのが興味深い。書中で誇らしく給人として復活したことを告げている又七は、本知行が回復したかは書いていない。「今度牢人いたし候時、方々へ出し置候知行、手ニ入候事候共」とあるので、手元に戻ってきてはいない可能性もある。

 ここで形原の知行について整理すると、天文16年閏七月以前には、形原又七の手元からは離れていた。それが、田原侵攻を機に一気に西進してきた今川方によって、恐らく9月~12月の間に奥平一族の日近久兵衛尉に与えられている。となると、形原又七を牢人させ、本知行を所有していた人物は今川方によって追い払われていたと考えられる。又七が給人に回復できたのも、今川方の侵攻による政変があったからだろう。

 対抗勢力については、検証a21:小豆坂合戦の趨勢から、織田信秀の後ろ盾を得た岡崎の松平広忠と考えてほぼ間違いないだろう。

 形原については、1556(弘治2)年と思われる荒川義広宛今川義元書状でも触れられており、そこでは「荒河殿幡豆・糟塚・形原堅固候」とあって荒川氏所領になっている。

知行方之事

一四百貫文 牛久保城共

一弐百貫文 行明

一百貫文 大村不動堂方

一百貫文 豊河中条方

一百貫文 小倉方

一百貫文 麻生田

一百貫文 賀茂

一百貫文 下条

一五百貫文 ほそや 七根 下条之内百貫文 [但此三ケ郷之於不足者、都合可申付事]

一八百貫文 大沼領一円

一四百貫文 保久一円

一五百貫文 大給領

  都合三千五百貫文

一遠州 三ケ一之事

一日近 如近年其方可為家中事

一縁昨之事

一徳政之儀、駿・遠・東三河之分者、先年如被相究、相違有間敷候事

右条々如件、

永禄七年[甲子] 二月廿七日

 家康 御判

奥平監物丞殿

戦国遺文 今川氏編→1966「松平家康判物写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

一今度父子以馳走、菅沼小法師属味方畢、然者去年三州悉逆心之割、無二依忠節充行知行之内、萩・牧平・樫山三ケ所、合五貫文、只今本領主爾令還附之段、太以神妙也、因茲為改替出置知行之事

一菅沼新八郎本知悉并蔭山方稲木村共所令扶助也、此員数三百五拾貫文、但右之五百貫文改替之員数為不足之間、彼知行増分雖有申出輩、不可及其沙汰事

一彼知行之内、自余之輩爾雖出置之、為右之五百貫文之改替、只今充行于定能上者、不準自余之条、其領主方江不可及替地之沙汰、併依忠節之軽重、以他之地替地可申付、於彼地定能爾出置上者、聊不可有相違事

右条々、永領掌不可有相違者也、仍如件、

永禄六[癸亥]年五月十四日

 [今川氏真也]上総介 判

奥平監物之丞殿

→戦国遺文 今川氏編1913「今川氏真判物写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

 一、今度父子が奔走して菅沼小法師を味方にした。ということで去る年三河国がことごとく逆心した際に示した無二の忠節により、渡した知行のうち、萩・牧平・樫山の3箇所、合わせて5貫文を元の領主に現在還付しているのは、本当に神妙である。ここに代わりの知行を出すこと。一、菅沼新八郎の本知行全てと、蔭山方の稲木村を共に扶助するところとする。この員数は350貫文。但し、右の500貫文の代わりとするには不足があるので、あの知行で増分が出てもそれは軍役対象・課税対象とはしないこと。一、あの知行のうちで他の者が充て行ないを受けたとしても、500貫文の替地であるため、今定能に充て行なう上は対象外とする。その領主方への替地処理対象とはせず、忠節の軽重を鑑みて他の地を替地として申し付けるように。あの地を定能に渡した上はいささかの相違もあってはならないこと。

 右の条々、末永く諒承して相違があってはならない。

今川氏真が簗瀬九郎左衛門尉に宛てた文書について、私が当初試みた解釈が誤っていたため訂正を行なった。備忘録として、修正内容と根拠、適用範囲を書き記しておこうと思う。具体的にいうと、

為初奥平久兵衛尉・鱸九平次、随分者数多討取段

という文を、「奥平久兵衛尉、鱸九平次たちによって多数の者を討ち取った」としてしまった。他の文書を見ると、「為初」もしくは「為始」=「はじめとして」が用いられた場合、その後ろに「討捕」があったらその中間にある人名は討ち取られた対象を指す。

為始北条孫次郎、宗者数百人被討捕

「北条孫次郎」は後北条方であるのは明確で、文書を発行した正木時茂が上杉方であるのも自明なので、討ち取られたのが孫次郎であるのは確実である。

信玄親類ニ、長円寺弟号本郷八郎右衛門人を為始、十余人討捕候キ

目的語が入れ替わっているが「信玄の親類で長円寺の弟と号している本郷八郎右衛門の人」は本来「為始」の後に来る言葉である。発給者と思われる北条氏政はこの頃武田晴信と敵対しており、討ち取った対象者は本郷八郎右衛門である。

今でも解釈に至らぬ点が多いのだが、これをアップした頃は未熟どころの問題ではない拙劣さで、該当文書の後半に「両人」とある割に宛所が簗瀬九郎左衛門尉だけだったので、ではこの2名は奥平と鱸だろうと早合点してしまった。その後、下記文書を解釈したので当然誤りに気づいてよかったものを、見過ごしていた。

原田三郎右衛門尉・簗瀬九郎左衛門尉宛、今川義元判物

原田三郎右衛門尉は簗瀬九郎左衛門尉とセットで動いているので、この文書の宛所に三郎右衛門尉がなかったとしても、両人といえばこの2名で通じたものと思われる。

上記を受けて、関連する下記ページを改めた。

今川氏真、簗瀬九郎左衛門尉の戦功を賞す

検証a11:各人物の所在

鳴海原合戦関連時系列

去年於一鍬田一戦之刻、合鑓号鈴木弥助者福嶋東市尉与、令合討之段、太以感悦也、弥可励忠功之状如件、

永禄六[癸亥] 六月朔日

 上総介(花押)

小笠原与左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編1922「今川氏真感状」(小笠原文書)

 去る年一鍬田で一戦した際、鈴木弥助と名乗る者と槍を合わせ、福嶋東市と協力して討ち取りましたことは大いに感悦である。ますます忠功に励むように。

[懸紙ウハ書]「田嶋新左衛門尉殿 上総介」

去年以調略、一宮端城并地下中令放火之間、神妙ニ候、弥可励忠節之状如件、

永禄六 三月廿四日

 上総介(花押)

田嶋新左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編1904「今川氏真感状」(長崎県島原市・本光寺常盤歴史資料館所蔵田嶋文書)

 去る年調略として一宮の端城と市街地を放火したのは神妙です。ますます忠節に励んで下さい。

去九日、至大代口松平蔵人取懸之処、各走廻、敵数多討捕候、殊自身粉骨之旨、雖不始于今感悦候、弥無由断用心等肝要候、謹言、

十一月十三日

 氏真判

奥平監物丞殿

→戦国遺文 今川氏編1880「今川氏真感状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

永禄5年に比定。

去る9日、大代口を松平蔵人が攻撃してきた際に、各々が駆け回り、敵を多数討ち取りました。特にご自身が粉骨されたことは、最初ではないとはいえ今も感悦です。ますます油断のないよう用心なさるのが大切です。

去九日、至大代口松平蔵人取懸之割、被官人林与右衛門尉走廻、本田八蔵討捕之旨、太以神妙也、弥可抽戦功之由、可申聞之状如件、

永禄五年 十一月十三日

 氏真判

奥平監物丞殿

→戦国遺文 今川氏編1879「今川氏真感状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

 去る9日、大代口を松平蔵人が攻撃してきた際に、被官人林与右衛門尉が駆け回り、本田八蔵を討ち取ったのは、大いに感悦である。ますます戦功にぬきんでるようにと、申し聞かせなさい。