乍恐啓上候、 抑就 神宮御造営萱米之儀、従作所殿以各代御申候、然者御国之儀、御馳走候者、御神忠可目出候、我等茂急度可罷下候間、致程候、御礼可申上候、可得御意候、恐惶謹言、

六月吉日

末■(花押)

謹上朝比奈左京亮殿

参人々御中

→戦国遺文今川氏編「某末繁カ書状(切紙)」(伊勢松木文書)

1559(永禄2)年に比定。

恐れながら申上げます。神宮造営のための萱米のことですが、作所殿からそれぞれの取り次ぎ経由で申し込まれています。そこでお国のことで仲介者として奔走してくれるならば、その神忠はめでたいものです。私も急に下向してきたので、役が終わったらお礼を申し上げます。御意を得られますように。

[印文「義元」I型]遠州万国六郎左衛門尉屋敷、先年井伊谷為押之地利、人数籠置之処、信州衆出張之時、為初伊予守数多討取、為其吉例之間、彼堀之分年貢、如年来令免除訖、若重加下知就令開作者、相当之年貢令沙汰、為名主永可相拘者也、仍如件、

天文十六

  七月廿一日

   万国百姓

     六郎左衛門尉

→戦国遺文今川氏編「今川義元朱印状(折紙)」(沢木文書)

 遠江国万国の六郎左衛門尉屋敷について。先年井伊谷への押さえの地として部隊を配置していたところ、信濃国の軍が襲撃してきた。その際に伊予守をはじめとして多数を討ち取った。その吉例とするため、あの堀の分の年貢は年来のように免除する。もし重ねて指示を加えて開墾させるなら、相応の年貢を課す。名主として永く保持させるものである。

2005(平成17)年7月23日に発生した千葉県北西部地震の少し前、13時30分頃より立川市内の空き地(国有地)で雉が異様な鳴き方を始めた。

そこはフェンスで囲われていて、その前年から雄の雉が早朝よく鳴いていた。だが、その時は鶏に近いような声を頻繁に繰り返し、何事かと集まった5人前後の人間にも臆することなく鳴き続けた。私は箱根育ちで雉はよく見ていたが、それなりに用心深い鳥でこういう行動を見たことがない。間抜けな遭遇で大慌てしたり、人間は気づいているのに雉が気づかずにいたりは稀にあった。しかし人間との距離2メートル以内で鳴き続けるのは異常に見えた(最初に来たという人に聞いたところ、人が来る前から鳴き出してわざわざ通りのそばまで出てきていたという)。

上の画像がその時のもの。フェンスの網目にカメラのレンズを押し付けて撮影している。雉は15分ほどすると、のそのそと茂みに戻っていった。

この3時間後の16時35分に、地震が来た。立川市は震度3だったが、足立区では震度5強となった。ちなみに、都内最大の活断層である立川断層はここから800メートルぐらいの位置。

この手の話は「友達の友達……」というパターンが多いが、自分で直接見聞したことなので記事にしておこうと考えた。2011年3月11日のことを思い出してみるが、この頃は既に雉の鳴き声も聞こえなくなっていた。3時間前というパターンが同じであれば、11~12時頃に雉がどこかで鳴いていたのかも知れない。

※2011年7月15日、この空き地のそばで雌か幼鳥と思われる個体が目撃されている。ここ数年見かけなかっただけに、この情報に安堵した。

[印文「如律令」]制札 篠原永源寺

軍勢甲乙人等、山林竹木伐取、於濫妨狼籍之輩者、堅可加成敗者也、仍如件、

 天文十九年五月九日

→戦国遺文今川氏編「今川義元禁制」(豊田市篠原町・永澤寺文書)

 軍勢・軍属で山林・竹木の伐採、乱暴と狼藉を行なう者は、厳しく処罰するだろう。

[印文「如律令」]蒲神立宮之事

右、森林濫截取事、堅停止之畢、如前々可神主計、若於有違背之輩者、依注進可加下知者也、仍如件、

天文十九[庚戌]

四月八日

蒲西方

  神主

→戦国遺文今川氏編「今川義元朱印状(折紙)」(蒲神社文書)

 蒲神の宮を立てること。右、森林を乱伐することは堅く禁止する。前々のように、神主だけに許可するので、もし違反する者があれば報告により指示を加えるものとする。

ディケンズの小説はどの作品も我が家のように寛げる空間だ。ページをめくると馴染みの顔ぶれがいつも迎えてくれる。世情が騒がしい昨今、どうしても読みたくなって気に入りの3作品からこれを選んだ。

ディケンズが完結させた長編としてはこの『Our mutual friend』が最後になる(『エドウィン・ドルードの謎』は未完のため)。最初の長編『ピクウィック』ではまだ異物として扱われていたブルジョワジーだが、その台頭は最早既成事実となっていて、物語では彼らが多数活躍する。モチーフは拝金主義の否定。そしてもう1つは仮死と蘇生による価値観の再生だ。

テムズ川のボートに乗る父と娘を描くスピーディな描写で物語は始まる。このオープニングは極めて近代的に感じる。説明的な文章も入りつつも、基本的には登場人物の動作や表情によって内面を伝えてくる。初期の作品は中世的な間延びを見せていたのだから、最末期に至るまで文体を模索していたディケンズの凄みが判る。

小説のメタファーは上で上げた川(再生の場)で、折々で登場する。川で生活していた娘のリジー・ヘクサムは、ある事情から川を離れる。そこに待っていたのは川とは違う開けた人間関係だった。友もいれば敵もいる雑多な環境にいきなり放り込まれたと思うのだが、ここはさほど深く描かれていない。それよりも、リジーによって怠惰な人生から目覚めかけているユージン・レイバーンへの説明の方が多い。

前回読んだ時よりも印象に残ったのが、障害を持った少女ジェニーの奇妙な歌。リジーと一緒にいたロンドンの狭い屋上空間。ここを天国になぞらえ、階下に退散する小悪党に向かって「戻ってきて、死になさいね」と繰り返し歌う。この小説のメタファーを考えると、作者に一番近い位置にいる代弁者は彼女かも知れない。

もう一つのメタファーである塵芥の山(拝金の場)の主人公も、本来のあるじジョン・ハーマンではなく、許婚のベラ・ウィルファーになっている。まあ普通に考えれば物語として奇矯なのだが、先ずはお手並み拝見。

[外題]北条氏綱公御書置

[追而書]其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ、不謂事なから、古人の金言名句ハ聞給ひても失念之儀ある[へ]く候、親の言置事とあらは、心に忘れがたく可在哉と如此候、

一、大将によらす、諸侍迄も義を専に守るへし、義に違ひてハ、たとひ一国二国切取たりといふ共、後代の恥辱いかゝわ、天運つきはて威是[滅亡]を致すとも、義理違へましきと心得なは、末世にうしろ指をさゝるゝ恥辱ハ在間敷、従昔天下をしろしめす上とても、一度者威是[滅亡]の期あり、人の命はわすかの間なれは、むさき心底努々有へからす、古き物語を聞ても、義を守りての威是[滅亡]と、義を捨ての栄花とハ、天地各別にて候、大将の心底慥於如斯者、諸侍義理を思ハん、其上無道の働にて利を得たる者、天罰終に遁れ難し、

一、侍中より地下人百姓等に至迄、何も不便に可被存候、惣別人に捨りたる者ハこれなく候、器量・骨柄・弁舌・才覚人にすくれて、然も又道に達し、あつはれ能侍と見る処、思ひの外武勇無調法之者あり、又何事も無案内にて、人のゆるしたるうつけ者に、於武道者、剛強の働する者、必ある事也、たとひ片輪なる者なり共、用ひ様にて重宝になる事多かれハ、其外ハすたりたる者ハ、一人もあるましき也、その者の役立処を召■[遣]、役ニたゝさる処を不遣候而、何れをも用に立候を、能大将■[と]申なり、此者ハ一向の役ニたゝさるうつけ者よと見かぎりはて候事ハ、大将の心にハ浅ましく、せはき心なり、一国共持大将の下々者、善人悪人如何程かあらん、うつけ者とても、死[罪]科無之内にハ刑罰を加へ難し、侍中に我身は大将の御見限り被成候と存候得者、いさミの心なく、誠のうつけ者となりて役ニたゝす、大将はいかなる者をも不便に思召そ[候]と、諸人にあまねくしらせ度事也、皆々役ニたてんも立間敷も、大将の心にあり、上代とても賢人ハ稀なる者なれハ、末世には猶以あるましき也、大将にも十分の人はなけれハ、見あやまり聞あやまり、いか程かあらん、たとヘハ能一番奥[興]行するに、大夫に笛を吹かせ、鞁[鼓]打に舞ハせてハ、見物なりかたし、大夫に舞ハせ、笛・鞁[鼓]それゝゝに申付なは、其人をもかへす、同役者ニて能一番成就す、国持大将の侍を召遣候事、又如此候、罪科在之輩ハ、各別小身衆者、可有用捨事歟、

一、侍者驕らす諂らハす、其身の分招[限]を守をよしとす、たとへは五百貫の分招[限]にて千貫の真似をする者ハ、多分ハこれ手苦労者なり、其故は、人の分限ハ天よりふるにあらす、地より沸にあらす、知行損定[亡]の事あり、軍役おほき年あり、火事に逢者あり、親類眷属多き者あり、此内一色にても、其身にふり来りなは、千貫の分限者、九百貫にも八百貫にもならん、然るにケ様の者ハ、百姓に無理なる役儀を掛るか、商買之利潤か町人を迷惑さするか、博奕上手にて勝とるか、如何様にも出所あるへき也、此者出頭人に音物を遣し、能々手苦労を致すニ付、家老も目かくれ、是こそ忠節人よとほむれは、大将も五百貫の所領にて千貫の侍を召遣候と目見せよく成申候、左候得ハ、家中加様の風儀を、大将ハ御数寄候とて、華麗を好ミ、何とそ大身のまねをせむとする故、借銀かさなり、内語[証]次第につまり、町人百姓をたおし、後者博奕を心によせ候、さもなき輩ハ、衣裳麁相なれハ、此度の出仕ハ如何、人馬小勢にて見苦敷けれは、此度の御供ハ如何、大将の思召も、傍輩の見聞も、何とかと思へとも、町人百姓をたおし候事も、商賈の利潤も、博奕の勝負も無調法なれハ是非なし、■[虚]病を講[構]へ不罷出候、左候得者、出仕の侍次第々々にすくなく、地下百姓も相応に華麗を好ミ、其上侍中にたおされ、家を明、田畠を捨て、他国へにけ走り、残る百姓ハ、何事そあれかし、給人に思ひしらせんとたくむ故、国中〓(采<の下に>女)盆[貧]にして、大将の鉾先よハし、当時上杉殿の家中の風儀如此候、能々心得らるへし、或ハ他人の財を請取、或ハ親類縁者すくなく、又ハ天然の福人もありときく、加様之輩ハ、五百貫にても、六七百貫のまねハなるへき也、千貫の真似ハ、手苦労なくてハ覚束なし、乍去これ等も分限を守りたるよりハおとり也と存せらるへし、盆[貧]なる者まねをせは、又々件の風儀になるへけれは也、

一、万事倹約を守るへし、華麗を好む時ハ、下民を貪らされハ、出る所なし、倹約を守る時ハ、下民を痛めす、侍中より地下人百姓迄も富貴也、国中富貴なる時ハ、大将の鉾先つよくして、合戦の勝利疑ひなし、亡父入道殿ハ、小身より天性の福人と世間に申候、さこそ天道の冥加にて可在之候得共、第一ハ倹約を守り、華麗を好ミ給ハさる故也、惣別侍ハ古風なるをよしとす、当世風を好ハ、多分ハ是軽薄者也と常々申させ給ぬ、

一、手際なる合戦ニて夥敷勝利を得て後、驕の心出来し、敵を侮り、或ハ無[不]行義[儀]なる事必ある事也、可敢[慎]ゝゝ、如斯候而滅亡の家、古より多し、此心万事にわたる[ぞ]、勝て甲の緒をしめよといふ事、忘れ給ふへからす、

右、賢[堅]於被相守者、可為当家

繁昌者也、

天文十年五月廿一日氏綱御判

→小田原市史中世2小田原北条1「北条氏綱置文写」(宇留島常造氏所蔵文書)

[warning]侍所頭人伊勢氏の近い親戚である伊勢宗瑞を「小身」としている。山内・扇谷どちらか曖昧な「上杉殿」を使っている。貧弱な軍装を推奨している。この3点から同時代文書としては疑問を感じる。特に最後の点は、その後の後北条氏印判状と逆を示すだけに不審。[/warning]

一、大将だけでなく、諸侍たちも義をひたすらに守るように。義を違えてしまっては、たとえ1~2国を攻め取ったとしても、後世の恥辱は拭い難いでしょう。天運が尽き果てて滅亡するのだとしても、義理を違えまいと心得るなら、後の世で後ろ指を指される恥辱はありません。昔から天下を統治する天皇であっても、一度は滅亡した時期があります。人の命は僅かの間ですから、さもしい心がけは絶対にしてはなりません。古い物語でも、義を守っての滅亡と、義を捨てての栄華では天地のような違いがあります。大将の心がけがこのようであれば、諸侍も義理を大切にするでしょう。さらに、無道を働いて利を得る者は、天罰を逃れがたいことです。

一、侍から一般の百姓などにいたるまで、誰でも愛情を注ぐようお考えなさい。総じて人というのは、捨てるべき者はありません。器量・骨柄・弁舌・才覚が人に優れて、道徳も弁えて素晴らしい侍だと見えた者でも、意外にも武勇がないこともあり、逆に何をやっても駄目で皆が馬鹿者だと見ていたら、武道では剛勇無双の働きをする者も必ずいます。たとえ障害者であっても、用い方次第で重宝することが多いのですから、健常者なら「使えない」などという者がいる筈もありません。それぞれの役に立つところを引き出して、役に立たないところでは使わなければどのようにも役に立ちます。これをよい大将というのです。この者は役立たずだと見放すなら、大将として浅ましく狭い心情です。一国を治める大将の下の者たちでも、本当の善人・悪人がどれほどいるでしょう。馬鹿者であっても罪もないのに罰することはできません。侍の中に「自分は大将に見限られた」と思う者がいれば、士気も落ちて本当の馬鹿者になって役に立ちません。大将はどのような者にも愛情を持っていると万人に知らせたいものです。皆が役に立つかどうかは大将の心によります。古代でも賢人はまれですから、現代ではさらにいないでしょう。大将でも万能ではありませんから、見間違い・聞き違いなどはいくらでもあります。たとえば能の興行で大夫に笛を吹かせて、太鼓打ちに舞わせては見世物になりません。大夫に舞わせ、笛・太鼓を担当者に任せれば、人を変えなくても能が出来上がります。国持ちの大将が人を使うのはこのようなことなのです。罪人で、特に身分の低い者には容赦なさるべきでしょうか。

一、侍は驕らずへつらわず、自分の分相応を守るのがよいでしょう。たとえば500貫文の知行で1,000貫文の者の真似をする者は、遠からず苦労するでしょう。なぜなら、人の収支は天から降ってきたり地から湧いて出る訳ではありません。知行を失うこともあるでしょう。軍役が多い年があったり、火事になったり、親類縁者が多くなったりもするでしょう。この内1つでも身に降りかかったならば、1,000貫文の収入が900貫文にも800貫文にもなるでしょう。そうなればこのような者は、百姓に無茶な課税をしたり商売に介入して町人に迷惑をかけるか、賭博で逆転を狙うか、どのようにしても資金を用意し、実力者に賄賂を贈って工作します。これで家老も目がくらみ、こういう者が忠義者だと呼んだりします。そうなると大将も500貫文の所領で1,000貫文の侍を雇っている訳で、見栄もはれます。そうなると、家中がこのような流儀で、大将は風流と華美を好んで何かと大身の真似をするので、借金がかさみ、資金の流れが次第に逼迫、町人・百姓から搾取し尽し、後は賭博に頼るでしょう。そうでない者は、衣装が粗末なので今回の出仕はどうしようか、人も馬も少なくて見苦しいので今回の供はどうしようか、大将や同僚の目など色々と思うものの、町人・百姓に負担を強いることも商売も賭博もできないのでどうしようもない。仮病を使って出てこなくなる。そうやって出仕の侍が徐々に少なくなっていく。一般の百姓たちも華美を好み、その上武家に搾取されて家財や田畑を捨てて他国に逃げていく。残った百姓たちは、何かあれば武家に思い知らせてやろうと企む。だから国が弱まり大将の戦力も弱い。今の上杉殿の家中はこんな状況です。よくよく覚えておくように。他人の財産を狙い、親類縁者も少なく、自然に福が来ると言っているような輩は、500貫文の収入で600~700貫文の真似をするだろう。1,000貫文の真似をするには、色々な苦労がなければ覚束ない。しかしながら、こういったことも分相応であることには劣ると考えておくように。貧乏な者の真似は上記のような結末になるだろう。

一、万事倹約を守るように。華美を好む時は、民衆から搾取しよいことがない。倹約を守る時は、民衆を痛めず、武家も民衆も富貴である。国中が富貴であれば大将の戦力が高く、合戦の勝利は間違いない。亡き父は、身分が低い頃から天性の福人であると世間で言われていました。天の恵みでそうだったのではなく、第一に倹約を守り、華美を好まれなかったからです。概して武家は古風であるのがよいのです。流行を好むのは、恐らく軽薄な者だと常々おっしゃっていました。

一、手際だった合戦でおびただしい勝利を得たら、驕りの心が出るだろう。敵を侮り、行儀の悪いことが必ず出てくる。慎んで用心深くあるように。こうしたことで滅亡した家は古来より多い。この心得は全てに言える。勝って兜の緒を締めよということ、お忘れにならないように。

追伸 あなたは万事において私より生来優れているように見えますから、言わずもがなのことですが、昔の人の名言を聞いても忘れてしまうこともあるでしょうが、親の言い置いたことであるなら、心に忘れがたく残ることもあろうかと思い、このようにしました。

星崎根上之内今度鳴海江同心之もの共跡職、悉為欠所上者、堅可遂糺明者也、仍如件、

天文廿四

二月五日

上総介

 信長(花押)

一雲軒

花井右衛門尉兵衛殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物」(徳川美術館所蔵文書)

 星崎・根上のうち、この度鳴海へ同心した者たちの『跡職』は、全てを『欠所』(闕所)とするので、断固として糾明するように。

『雪の峠・剣の舞』(岩明均著・KCコミック)は、歴史関係のブログでいくつか取り上げられた名作だ。特に『雪の峠』は佐竹氏に詳しい方も絶賛していたので、書店に少量入荷したという機会に購入してみた。結果からいうと、絶賛は正しい評価だった。いくつか研究成果とずれているし、フィクションとして故意に変更されている箇所もあるが、それでも、というかだからこそ面白く普遍的な内容に仕上がっている。

舞台は関ヶ原合戦後。秋田に転封された佐竹家中が題材になっている。城をどこに置くかで様々な駆け引きが繰り広げられるのがストーリーの殆どを占めるのだが、裏にあるテーマ『雪の峠を越えてきたのに……』という怨念(越山した上杉輝虎と、常陸から峠を越えた佐竹家が、梶原政景の心中でオーバーラップされる)も上手にリフレインされている。

様々な読み方があると思うが、私は中間年齢層の悲劇として興味深く読んだ。戦国華やかだった頃の武功世代と、太平の世の武士像を模索する官僚世代の間にいた面々。老いた武功世代は彼らの頭越しで官僚世代にバトンを渡す。官僚世代には新しいビジョンがあるからだ。彼らは若く順応性が高い。だが、そうなると中間世代の行き場がなくなってしまう。現代日本で言うと、年功序列と実績主義の狭間で割を食った世代が同じようなものだった。

徳川の世がほぼ決まって最早合戦もないだろうし、二君に仕えるなんて無茶もきかない。武士は槍より算盤が大事。中間世代の川井忠遠・梶原政景もこれは判っている。だが、これから自分の時代だと思っていたら「世の中大きく変わるから君らは要らない」と言われた訳で。それは抵抗するだろう。城を置くなら軍略に基づくべきで、商設備や交易ルートは二の次、戦国の世が終わるなどあってはならぬ、と。この自説を最後まで譲らず義宣に誅された川井忠遠は、ある意味この作品の本当の主人公であろう。

ちなみに、本作では言及されていないが、新世代のリーダーである渋江政光は大坂冬の陣で戦死する。武功派を粛清した余波での戦死は皮肉なものだ。華々しい戦死は、前文の通り誅殺された川井忠遠こそが望んだものだった筈だ。一方で、主家を逐電して余命を永らえた梶原政景にしても、実は永禄の頃上杉輝虎に誅されたかったのでは、という願望が垣間見える。輝虎の暴力を恐れて黙ってしまった自分を愧じながら生きていることが、彼の夢想シーンで示唆されるからだ。つまり、3名の主要人物はそれぞれに最も望まぬ死に方をしているのだと感じた。

読了後に調べてみたが、渋江氏は元々岩槻の領主だった。その後で山内・扇谷上杉氏がやってきて岩槻太田氏が君臨する。しかし、北条氏綱が攻め込むや渋江三郎は、抗戦を叫ぶ太田資正を追い出して岩槻城を後北条方にした。渋江三郎はその後の乱戦で討ち死にするが、岩槻城が本来は渋江氏のものだったと窺わせる史料である。作中の渋江政光は元々小山家中にいた者が養子に入ったので血縁関係はない。だが、渋江三郎と同姓の者が太田資正の息子と対峙するという図式は、妙に因縁めいて感じられた。

※同巻に収められた『剣の舞』は疋田文五郎がモチーフになっているが、余り戦国らしさは感じられない作品だった。残念。

 

雖未申通候、馳走候、抑今度尾州之儀属本意由候、天下之名誉不可如之候、将亦万松院殿御時、治部大輔へ御所望之段、御約束之子細候キ、堅雖被仰置候、近日雪斎毎事令斟酌、不存之由候条、此節馳走可為御祝着候、武命取合肝要候也、謹言、

二月十三日

朝比奈

→戦国遺文今川氏編「近衛種家書状草案」(近衛文書)

1551(天文20)年に比定。

 まだご挨拶していませんでしたが、使者を走らせます。そもそも、この度の尾張国のことは本意に属されたそうで、天下の名誉はこのことです。万松院殿(足利義晴)の時に治部大輔(今川義元)にご所望であり、お約束の詳細もありました。堅くお命じになったことなので、最近は毎日雪斎に打診していますが、知らないと言っています。この際に奔走いただくなら祝着でしょう。武運・戦略が大切です。