近国江可令出馬之条、各先手之働於有之者、祝着可存候、遠江国天野宮内右衛門ニ雖内通遣候、不承引之間、天野領分国中輩廻文を手ニ入候様、手立肝要候、控岩嶋梶兵衛ニ申含候、かしく、
八月三日
 家康 御書判
小笠原信濃守殿
同 左衛門佐殿
同 喜三郎殿

→戦国遺文 今川氏編2182「徳川家康書状写」(唐津小笠原家文書)

永禄11年に比定。

 近くの国へ出馬するので、各々が先鋒としてお働きいただければ幸いです。遠江国の天野宮内右衛門に内通を打診しましたが承知しませんでしたので、天野の領地内の人々が回覧の書状を見られるように手回しするのが重要です。さらに岩嶋梶兵衛に申し含ませました。

徳政之事すまし候て、関越より御状井次ヘ一つ、家中衆へ一つ遣之候、先以御心易候、都田のも一つ取候、祝田・都田両郷之事ハ、何も惣次■■へく候、小但へ委細申候間、小但を能々被頼入候て、軈而井次より被仰付候様ニ尤候、此上者誰人も異儀被申間敷候、一ちんせんの事ハ銭主申やう有間敷候、我等主ニなり候て、御城の用意ニてつはうなり共たまくすりなり共、一かたかい候て御城ニ置候ハんよし、此方ニ而関越へも安助へも申定候、殊ニ二三年銭主方なんしう申候而、田畠渡候ハぬ上者、とかく申やう有ましく候由、小但へも申入候、能々小但ニ談合尤候、一御礼物之事、関越へ五貫文、安助へ三貫文ニ約束申候而、我等此方ニ而一筆を仕候、今度便ニ我等かたへ二三人より御礼物の借状可給候、大事の事ニ候間申事候、一都田の衆ハ礼物ハ別ニ可有候、借銭之多少ニよつて可有之候、此由瀬戸衆・都田衆へ内々にて可被申候、十郎兵ニも申候、此年来御百姓衆よりも我等口惜存候つるか本望候、百姓衆ハ我等せいニ入候事ハ■■[さほ]とハ御存有間敷候、一安助其地へ御越之事候間、今度徳政御きも入忝候とて、永楽二十疋の御樽代にて先々御礼申候て尤候、さやうニ候ハねハ百姓ハさのミそセう候ハぬに、我等きも入候なとゝ御そうしやも可被存候、たとへ銭主方此上 御上意へ御そせう申候共、何時も安助頼入候而可申入申候、今度先々御樽代にて出候て尤候、当所務被仕候て、やかて関越・安助御礼物之事ハとゝのい候やうに、かくこかんようにて候、其まへニさへ少ハ調度候、千ニ一つも銭主方 上様へ御訴訟申候共、あいてにハ此上ハ次郎殿にて可有候間、申やう有間敷候、殊ニ我等あいてにてい■■御心易可有候、又我等やとへ代物少の調候て御渡頼入候、すへのかんちやうニたて申へく候、長々在府之事候間、御すいりやう候へく候、や■へ用の事申越候間、まちまへニすこしなり共御わ■し頼入候、やとへも申こし候、返々本望候、恐々謹言、
 我等かたより岡殿井河へも申候、又其地さうせつのよし候間、とりしつめ候て被仰付候やうに、小但へ可被申候、
  匂左
八月三日
 直興(花押)
禰宜殿 参
[ウハ書]「 自駿府 匂左近
祝田 禰宜殿まいる」

→戦国遺文 今川氏編2181「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

永禄11年に比定。

 徳政のことを済ませまして、関口氏経からのお手紙を井伊次郎へ1つ、家臣たちへ1つ出しましたので、まずはご安心下さい。都田にも1つ取りました。祝田・都田の両郷のことは、どちらも惣次で行なうように、小野但馬守へ詳細を申しましたので、小野但馬守をよくよく頼み込んで、すぐに井伊次郎より指示を出されるのがもっともなことです。この上は、誰であっても異議を唱えることはなりません。一、陣銭のことは、銭主が介入するのはなりません。私が主となってお城の備えとして鉄砲なり弾薬なりを一通り購入して城内に備蓄すると、関口氏経にも『安西』にも報告しています。特に2~3年は銭主が難渋すると言って来ても、田畑を渡さない上は、何も言わせませぬよう、小野但馬守にも伝えています。よくよく小野但馬守と相談するのがもっともです。一、ご礼物のこと。関口氏経へ5貫文、『安西』へ3貫文の約束で、私がこちらで一筆いたしました。今度の手紙で私の方に2~3人からご礼物の借状をいただくように。大事なことだから申します。一、都田衆の礼物は別にあるように。借銭の多少によって用意するよう。このことは瀬戸衆・都田衆に内々で伝えますように。十郎兵にも伝えて下さい。この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう。一、『安助』がその地へお越しになりますので、「今度の徳政を援助いただいてありがたい」として、永楽20疋の御樽代でまずはお礼を申し上げるのがごもっともです。そのように言わなければ、百姓はそれほど訴訟していないだろうから、私が助力するまでもないと御奏者がお考えになるでしょう。たとえ銭主の方でこの上にも御上意を得ようと御訴訟したとしても、いつでも『安助』を頼んでおけばよいので、今度はまず御樽代を出すのがもっともなのです。この所務を取り回して、すぐに関口氏経・『安助』への御礼物のことが調うように覚悟が肝心です。その前であっても少しは調えたく。千に一つでも、銭主から上様へ御訴訟があったとしても、相手にはこうなったら次郎殿がいるでしょうから、訴状は上がらないでしょう。特に私が相手になりますから、ご安心下さい。また、私の宿所へ物品を少し用意してお渡し下さるようお願いします。細かい勘定に用立てます。長々駿府にいましたので、ご推察下さいますよう。宿所へ用事をご連絡されるかもしれないので、町前に少しでもお渡しいただけるようお願いします。宿所にも伝えてあります。返す返す、本望です。

 私から『岡殿井河』へも伝えます。また、その地で不穏な噂があるそうなので、取り静めて報告するように小野但馬守にお伝え下さい。

 今川家中に佐竹氏がいたので、ちょっとまとめてみた。初出は、今川義元が戦死する直前。掛川にある朝比奈備中守家の菩提寺常安寺のこと。

1560(永禄3)年5月2日
朝比奈泰朝は、佐竹丹波入道宛に、丹波入道の塔頭昌吉斎を乗安寺の末寺とし、その寺領として田地3段を寄進すること、昌吉斎が乗安寺と離別の際は土地を返却することを伝える。<戦今1510>
※以下、「戦今」は「戦国遺文今川氏編」を指す。

 ここで佐竹丹波入道は、昌吉斎を常安寺の塔頭としてそこに寄進している。ここから、朝比奈泰朝に仕えていたことが判る。

 次に登場するのはその翌年。今度は駿河の蒲原城に関連して出てくる。

1561(永禄4)年9月3日
今川氏真は、佐竹雅楽助宛に、佐竹又七郎が困窮して90貫文で売却した知行・跡職の買取を認める。また、被官や蒲原城の根小屋・堀・築地の修繕費用、段銭も扶助するとする。これを受けて又七郎の娘の縁談を進めるよう指示し、相違があれば買い返すよう伝える。「又七郎の合力である伝十郎に拠出した土地は、高貞(雅楽助か?)が買い取ったので無沙汰があれば召し放て。又七郎が十年間に方々で借金してまで無足の奉公を勤めたのは忠節だから、検地で増分があっても報告してそのまま収入とするように」と付け足す。<戦今1739>

 蒲原城といえば、永禄11年に武田晴信が襲撃した際に氏真が出陣しあっという間に崩壊したことで有名だが、ここの城番は相当にきつい業務だったらしい。

1551(天文20)年8月28日
今川義元は、由比左衛門宛に、蒲原在城の見返りに70貫文の負債を取り消す。<戦今1034>

 要衝の地だから、物入りでもあったのだろう。由比左衛門も佐竹又七郎も困窮に追い込まれている。ただ、200~300貫文の扶助が出た三河の城番と比べると小規模に思える。

 又七郎とちょっと関わりがあるかも知れないので、以下も挙げておく。

1539(天文8)年7月10日
今川義元は、小嶋又八郎宛に、去る8日に蒲原城防衛で活躍したことを賞し、江尻五日市のうち『よしそへ』という田地を与える。<戦今629・631>

 その他蒲原城について調べてみたが、永禄4年に佐竹雅楽助に預けられて以降史料がないので、氏真没落の時の城番が誰だったかは判らない。ただ、それを示唆する文書がある。

1569(永禄12)年4月18日
武田晴信は、万沢遠江守宛に、由比今宿60貫文(朝比奈備中守分)と若宮40貫文(佐竹分)を与える。但し若宮のうち5貫文は蒲原本免ということで差し引いている。<戦今2349>

 ここでいう「若宮」は蒲原に現在も残る和歌宮神社だろう。恐らくここが「蒲原根小屋」だったと思われる。佐竹雅楽助は今川方のまま没落したのだろう。また、朝比奈泰朝所領の由比今宿とセットになっている点から考えて、丹波入道と同じく、朝比奈備中守家の被官だったという可能性も高い。色々替わった蒲原城番だが、途中で朝比奈千代増が担当している時期もある。

 この佐竹氏のその後の消息は判らない。氏真と共に後北条家に行ったのか、後に旗本として残る朝比奈泰勝の家中に留まったのか、または断絶したのか。そもそもどこから来たかも不明なままだ。美濃にいた幕府奉公衆の佐竹氏が流れ着いた可能性もあるものの、今は未詳としか言えない。

今度宇津山東筋肝要之儀候間、就引付候、御知行之儀御堪忍祝着候、先少当座之為替代三百貫吉良河島、三百貫作手領、弐百貫小法師知行、百貫井谷領渡置申候、其上東筋相替儀候ハゝ、相違分可進候、貴所御忠節之儀候間、神八幡・富士・白山弥向後如在申間敷候、猶委細者左衛門尉行意可申入候、仍如件、
六月五日
 松蔵 家康判
西佐 参

→戦国遺文 今川氏編1994「松平家康判物写」(東京大学史料編纂所架蔵三川古文書)

永禄7年に比定。

 この度宇津山東方面が争点となったので、『引付』についてご知行で忍従していただき幸いです。まずは少しの当座の替地として300貫文を吉良河島、300貫文を作手領、200貫文を小法師知行、100貫文を井伊谷領からお渡しします。その上で、東方面で知行替えがあったなら、相応の分を進上します。あなたはご忠節を示していますので、神八幡・富士・白山にかけて、今後はぞんざいに扱うことはありません。詳しくは酒井忠次が手立てや真意を申し入れるでしょう。

月はくニ候而無御披露候ゆへ、当年相澄候ハす候而、此方ニ而越年候、さりなからかわる儀候ハぬ間、可有御心易候、就中、彼儀も御そうしや少も御隙なく候而、相とゝのわす候、はるハ早々相調可申候間、我等ニまかせられへく候、小但と此方ニ而談合申候、可有御心易候、何も此分御心得候へく候、よくゝゝそなたにて御おんみつニ候へく候、恐々謹言、
十二月廿八日
 匂左近 直興(花押)
祝田禰宜殿 まいる
[ウハ書]「自駿府 匂左近
祝田禰宜殿 まいる」

→戦国遺文 今川氏編2160「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

永禄10年に比定。

 年末でご披露がないので、当年では済まず、こちらで年を越します。とはいえ変わることはありませんので、ご安心くださいますように。とりわけ、あのことは仲介者に少しの隙もなくて調整できませんでした。新春は早々に調整していきますので、私にお任せ下さいますよう。小野但馬守とこちらで打ち合わせました。ご安心下さい。どれもこの調子で行けばご承認いただけるでしょう。くれぐれもあなたは内密になさいますように。

於遠州井伊谷之内永代買之事
一居屋敷壱所之事[本銭五貫文也、次郎法師有印判]、坂田入道前[伹是者助六郎買得云々、
一田畠弐段事[本銭四貫文也]、須部彦二郎前
一都田瀬戸各半名事[本銭参拾貫文也、信濃守有袖判]、袴田対馬入道前
已上
右、何茂永代買得証文明鏡之条、縦彼売主等、以如何様之忠節雖企訴訟、一切不可許容、於子孫永不可有相違、信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也、仍如件、
永禄十[丁卯]年十月十三日
 上総介(花押)

→戦国遺文 今川氏編2150「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 一、住んでいる屋敷1箇所のこと(本銭5貫文。次郎法師の印あり)。坂田入道の前(ただしこれは助六郎が買い取ったという)。一、田畑2段のこと(本銭4貫文)。須部彦次郎の前。一、都田・瀬戸それぞれ半名のこと(本銭30貫文。信濃守の印あり)。袴田対馬入道の前。以上。右は何れも永代で買い取った証文がはっきりしていますから、たとえ売主などがどのような忠節をなして、訴訟を企てたとしても、一切許容しない。子孫に至るまで相違があってはならない。信濃守の代々忠節のことを言ってきたので、今後はますます奉公を勤めるように。

彼一儀種々越後殿へ申候、先年御判形のすちめにて候間、御切紙御越候ともくるしからす候へ共、我等共御奉行まへにてさいきよニむすひ候て、御ひらうなきまへニいかゝのよしおほせ候、又二郎殿のまへをなにとかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、次郎殿御存分しかときゝとゝけ候て、早々被仰付候而尤之由、次郎殿より関越ヘ被仰候様ニ、小但へ可被申候、我等方よりも小但へ其由申候、たとへ次郎殿より御状御越候ハす候共、小但より安助兵まて尤之由被仰候と、御切紙とりこされへく候、二郎殿もそれにて関越へ可申候、小但へ能々談合候へく候、恐々謹言、
六月卅日
 匂左 直興(花押)
[ウハ書]「自駿府 匂左近 まいる

ほう田の 禰宜とのへ

→戦国遺文 今川氏編2134「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 あの一件を色々と越後殿へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

龍潭寺寄進状之事
一 当寺領田畠并山境之事、南者下馬鳥居古通、西者かふらくり田垣河端、北者笠淵冨田庵浦垣・坂口屋敷之垣、東者隠龍三郎左衛門尉源三畠を限、如前々可為境之事、
一 勝楽寺山為敷銭永買付、双方入相可為成敗之事、同東光坊屋敷々銭永代買付、縦向後本銭雖令返弁、永代之上者、不可有相違候、同元寮大泉又五郎、彼三屋敷并横尾之畠、大工淵畠田少、門前崎田少、大内之田、桧岡之田、為敷銭拾七貫五百文、永代可為買付之事
一 蔵屋敷前々有由緒、令寄進也、同与三郎屋敷一間、同矢はき屋敷、是ハ只今仙首座寮屋敷也、隠龍軒者道哲之為祠堂、屋敷一間、瓜作田一反、同安陰・即休両人為祠堂、瓜作田弐反、同得春庵屋敷一間、可為寮舎之事
一 白清院領、為行輝之菩提処、西月之寄進之上者、神宮寺地家者、屋敷等如前々不可有相違之事
一 円通寺二宮屋敷、南者道哲卵搭、西者峰、北者井平方山、東者大道、可為境也、北岡地家者、屋敷田畠不可有相違之事
一 大藤寺黙宗御在世之時、寮舎相定之上、道鑑討死之後、雷庵以時分大破之上、相改永可為寮舎之事
一 祠堂銭買付并諸寮舎・未寺祠堂買付、同敷銭一作買之事、縦彼地主給恩雖召放、為祠堂銭之上者、澄文次第永不可有相違之事
一 寺領之内、於非法之輩者、理非決断之上、政道担那候間可申付、家内諸職等之事者、為不入不可有旦那之綺之事
右条々、信濃守為菩提所建立之上者、不可有棟別諸役之沙汰、并天下一同徳政并私徳政一切不可有許容候、守此旨、永可被専子孫繁栄之懇祈者也、於彼孫不可有別条也、仍如件、
永禄八[乙丑]年 九月十五日
 次郎法師[黒印・印文未詳]
進上 南渓和尚 侍者御中

→戦国遺文 今川氏編2050「井伊直虎置文」(浜松市北区引佐町井伊谷・竜潭寺文書)

一、当寺が領する田畠と山境のこと。南は下馬鳥居の古通、西は『かふらくり』田垣の河端、北は笠淵冨田庵の浦垣・坂口屋敷の垣、東は隠龍三郎左衛門尉源三の畠を限りとする。以前のように境界とすること

一、勝楽寺山は敷銭として永代で買い付けたので、双方の入会は処罰すること。同じく東光坊の屋敷も敷銭として永代で買い付けた。たとえ今後金銭を返弁したとしても、永代であるから、総意があってはなりません。同じく元寮大泉又五郎の3屋敷と横尾の畠、大工淵畠田が少し、門前の崎田が少し、大内の田、桧岡の田、敷銭として17貫500文、永代で買い付けています。
一、蔵屋敷は前々の由緒があり寄進されたものです。同じく与三郎屋敷1間、同じく矢作屋敷、これらは現在は仙首座寮の屋敷である。隠龍軒は道哲の祠堂として、屋敷1間・瓜作田1反は同じく安陰・即休両人の祠堂とします。瓜作田2反も同じく。得春庵屋敷1間は寮舎とすること。
一、白清院領は行輝の菩提処とします。西月が寄進したうえは、神宮・寺地・家・屋敷などは以前のとおり変更があってはならないこと。
一、円通寺二宮屋敷、南は道哲の卵搭、西は峰、北は井平方山、東は大道を境とする。北岡地の家は屋敷・田畠に相違があってはならないこと。
一、大藤寺黙宗がご在世の時に寮舎が決まったうえは、道鑑討死の後、雷庵の時分から大破していたので、改めて末永く寮舎とすること。
一、祠堂銭の買い付け、諸寮舎・未寺の祠堂の買い付け、同じく敷銭一作買いのこと。たとえあの地主の給恩が召し放たれたとしても、祠堂銭となったうえは、証文に沿って末永く相違があってはならないこと。
一、寺領の内、法律に違反したものは容疑を判断します。政道は旦那衆へ問い合わせ、家内の諸事は旦那から影響を受けてはならないこと。
 右の条々、信濃守の菩提所として建立するうえは、棟別・諸役の課税はあってはなりません。合わせて、全国で一斉に行なわれる徳政・私的な徳政のどちらも一切許容はありません。このことを守り、末永く子孫繁栄の祈祷に専念すること。あの孫でも別状があってはなりません。

去永禄十一年『戊辰十二月十三日駿』州錯『乱』、其砌、自奥津構令供、其『故兄兵衛』大夫為始、悉親類共雖令別心、於母妻一身遠州懸河致供、籠城中昼夜走廻、殊巳正月廿一日、於天王山一戦之刻、走廻之段神妙也、只今迄以無足雖令奉公、進退困窮付而、暇之儀申之間、無相違出上者、東西於何方茂進退可相定、本意之上早々馳来、如前々可致奉公、本地・新地・代官所今度忠節分者、各可為並者也、仍如件、

元亀二年[辛未] 九月廿五日

 氏真(花押)

冨永右馬助殿

→戦国遺文 今川氏編2489「今川氏真判物」(島根県浜田市・江木徹氏所蔵文書)『』内は後世に裏打紙に記された破損箇所の補筆。

 去る永禄11年(戊辰)12月13日に駿河国が内戦となったその際に、興津城から随伴し、そのために、兄兵衛大夫をはじめとして親類が全て裏切ったとはいえ、母・妻は体一つで遠江国掛川に供をした。籠城中は昼夜活躍して、特に巳年の1月21日、天王山で一戦したときに活躍したのは神妙である。現在に至るまで無給で奉公してくれているとはいえ、生活に困窮して暇乞いを願っているので、相違なく出そう。その上は、東西どちらにでも進退を決めればよいだろう。本意を遂げたならば早々に駆けつけて、以前のように奉公するように。本知行・新知行・代官職も、今度の忠節の分として、それぞれ並べよう。

牧野入城之刻より無々沙汰雖令奉公、任御内儀浜松へ罷帰之義、不及是非、於本意之時者走参可令奉公也、知行配当等之義者、一々其次第申付、不可有相違者也、仍如件、

天正五年[丑] 三月一日

 宗誾(花押)

海老江弥三郎殿

→戦国遺文 今川氏編2591「今川氏真判物」(広島大学大学院文学研究科日本史学研究室所蔵海老江文書)

 牧野入城の時から怠けることなく奉公してもらった。家康の意向で浜松へ帰還することは、是非を論じるまでもない。本意を遂げた折には、駆けつけて奉公するように。知行・配当などのことは、一つ一つその後で申し付けるから、相違があってはならない。