『信長研究の最前線』(2014年・洋泉社)は、最新の研究成果を織り込んだという前書きがあるので一読。『桶狭間』に言及した章があるものの従来説のおさらいだったので特にコメントはない。

ただ、今川氏が関係する部分でとても疑問な点があったので指摘を試みてみようと思う。

信長は、官位を必要としたのか(木下聡)

織田信長が初期に名乗った上総介について説明する際に、信長が今川家を意識してこの官途を名乗ったのではないかという仮説を書いている。だが、その前提となる今川氏の官途がおかしい。

「上総介は今川家代々の家の官途であり、この当時義元は、今川氏が上総介に任官する前に用いる、治部大輔の官途だったからである」(52ページ)

一読して疑問符がついた。今川氏親は一貫して「修理大夫」だけど……。ということで確認。『今川氏と遠江・駿河の中世』(大塚勲著・2014年・岩田書院)では、今川当主歴代の官途・受領名は以下のようになっている。

範国 不明
範氏 中務大輔→上総介
氏家 中務大輔
泰範 宮内少輔→上総介
範政 上総介
範忠 民部大輔→上総介
義忠 治部大輔→上総介
氏親 修理大夫
氏輝 不明
義元 治部大輔
氏真 上総介

著者の木下氏が指摘する、「治部大輔から上総介への変更」に該当するのは実は義忠のみ。「変更後が上総介」という緩い条件でも4名しかいない。年代的に戦国期に当たる氏親以降の3当主は変更自体を行なっておらず、やはりこの仮説は論拠が薄い判断できる。

織田・徳川同盟は強固だったのか(平野明夫)

平野氏は、松平元康が今川氏真に反した時期を1560(永禄3)年内とする仮説を提示している。その論拠は、5月1日の水野信元宛北条氏康書状写の比定年を永禄4年としている点にある。

その他にもあれこれ論拠めいたものを書いているが、近世史料を前提にして同時代史料を解析したり、「織田方に交戦史料がないから」といって松平元康と織田信長は戦闘していないと論点を飛躍させ、「松平方の相手が織田方でないなら今川方」と妙な結論に至っている。ここは論じ詰めても詮がなさそうなので語らない(寺部を中心とするこの地域は何度も今川方に叛乱を起こしており、義元死去を受けて国衆が蜂起したのだと思う)。但し、替地について誤解している点は明記しておいた方がいいかも知れない。

1560(永禄3)年12月の大村弥兵衛宛今川氏真判物で、大村氏の挙母領の替地を氏真が与えている。ここを平野氏は、知行を変更できるのだから、挙母領は今川方だと判断している。

だが、原文を読めば単純な今川方領域内での知行地変更ではない可能性が高い。なぜなら、この文書の後半で「彼替地之儀於三河国中令扶助畢=あの替地のことは三河国を挙げて扶助させるものである」という文言があり、国の成り立ちとしての危機を示唆し、挙母衆に与えられた133貫文はすでに失われているとした方が自然である。

閑話休題。では前掲史料を改めて読んでみよう。文頭にある「抑近年対駿州企逆意」という文言と後半の「去年来候筋目駿三和談念願」という表現から、この文書が書かれた前年から今川・松平の対立は始まっていると平野氏は推測したように見える(同書内では言及していない)。だがそう単純なものではない。

この文書は松平氏被官に同日付で出されたものと合わせて解釈すべきだろう。

北条氏康、酒井左衛門尉に、松平氏と今川氏との和睦成就のため協力を求める

「態令啓候、蔵人佐殿駿州一和之儀、以玉瀧坊申届候、成就於氏康令念願計候、併可在其方馳走候、恐々謹言、」

短文なので充分な比較はできないが、「近年」の表現はない。これは水野複数年にわたって今川と敵対していた水野氏向けの言葉だといえる。

また、「去年の筋目で和睦したい」という表現も、松平氏向けでは存在しない。水野氏に向けては「他の敵をさしおいて三河で内戦しても仕方がない」という前提で、永禄3年という今川義元生前の状態に戻したいという意向を示さねばならなかった。これは「松平と今川が和睦する過程で水野が浮き、利権を失うのでは」という不安を払拭させる狙いだったと思う。

元康が反したのは、永禄4年4月12日(正確には11日夜半)だと確定できる。これは、今川氏真判物にある「去酉年四月十二日岡崎逆心刻」という言葉で確実に判る。それまでの間、公然と今川氏に反したとは思えない。なぜなら、この4月12日の牛久保城攻撃で今川方は大混乱に陥り城内の兵糧米が不足して国衆が立て替えている体たらくだった。平野氏が指摘するように、元康と交戦した国衆に氏真が感状を出しているようなら、裏はかかれないはずだ。

余談だが、同書で「當國ヘモ被丶書由」を「仮定」だと記している(71ページ)のも気になる。「由」は伝聞であって仮定は意味しない。「当国にも文書を書かれたとのこと」という解釈が妥当で、仮定とするのであれば逆に文が「(若)當國ヘモ被丶書上者」となる筈だ(「若=もし」はなくても可だと思うが)。それとも、私が知らないだけで「由」には仮定の意も含まれているのだろうか……。

森田善明氏の著(歴史新書y) 。

端的に述べてしまうと、史料を読む機会の少ない読者には危険な内容である。一次史料を使ってかなり踏み込んだ解析を行なっているのだが、あくまで相対的な仮説に過ぎない。

史実・真相・真実と書かれて「まあそんなこといってもそれは仮説だから」とか「その書状解釈違うかも。原典チェックしよう」と思うようなすれっからしの歴史好きならともかく、気軽に手に取った新書という形式から考えて、もっと素直な読者層もいるだろう。

いつの間にか本書の内容が既成事実として確定してしまわないように、老婆心ながら私の疑問点を記しておく。

「後北条氏が羽柴氏に外交的罠を仕掛けられて戦争に引きずり込まれた」というのがこの本の主張である。通説にあるように後北条氏の状況誤認識が原因ではなく、羽柴方の策略が滅亡の主要因だと説明している。

その根拠の1つに、羽柴秀吉が1589(天正17)年10月10日に戦争の準備をしたという事柄を挙げている。名胡桃城略取と北条氏政上洛遅延の問題が発生するのは11月以降なので、10月10日の秀吉の動きは、北条氏直がどう行動しようと開戦することの表われだとする。

10月10日の根拠として2つの文書を掲げているが、今回はその真偽を検討しない。なので、一先ず「真」として考える。また確かに、4月以降に羽柴方が東国の国衆に上洛を呼びかけることもなくなっている。その理由は以下のように説明される。

それはすでに「北条家討伐」が決まったからなのである。つまり、近々秀吉が、北条討伐のために関東に出向くことになるので、「関東や奥羽の諸大名を引見するのはそのときにしよう」となったのだ。

しかし、この動員は後北条氏を滅亡させるためだと断定できるだろうか。羽柴方が北関東の国衆への上洛要請を打ち切った1589(天正17)年4月は、後北条氏の臣従が明確になった時期でもある。ならばむしろ、東日本最大の大名が臣従してきたことをうまく使って、上洛を拒んでいる他の東国大名・国衆の服属を現地で進めようとした、という仮説も充分成り立つと思う。特に伊達政宗は怪しい動きをしているので、関東から東北にかけて本格的な軍勢を指揮して乗り込む必要があったのではないか。その足がかりとして後北条氏を使おうとした。

関東攻めの準備をしていた根拠とされる10月10日の長束正家宛の兵粮調達命令では、「小田原近辺の港へ船を送れ」と秀吉は書いている。だが、小田原周辺に良港はないのに、輸送船をなぜ相模灘に回漕させるのだろう。後北条氏との本格的な戦闘に入るのであれば、初動でいきなり伊豆半島を越えようとはしないだろう。相模灘が難所であることを見越して、早目に小田原へ物資を集積しようとしたのは、小田原で氏直の上に君臨し、ここで東国諸大名の出仕を受けようとしたように見える。

そもそも、本書が主張する策謀は目的が私には判らない。小田原開城後の知行替えで不服を言った織田信雄を軽々と改易したように、秀吉は圧倒的な政治力・軍事力を持っている。是が非でも攻める覚悟があるのに、『氏直が約束を守ってしまうかも知れない』ような微妙な条件を設定しなければならないのだろうか。佐野房綱や妙印尼辺りのカードを切った方が手っ取り早かったろうにと思う。

このほかにも色々と解釈に不自然な部分があるので、気づいた点をざっと記してみる。

まず、『家忠日記』の解釈。

相模(北条家)が真田の城を一つ取ったので、加勢に行く(155ページ)

と記述している。原文も書内に掲示されている。

さかみより信州真田城を一つとり候間、手たしにまいり候(163~164ページ)

疑問なのが「より」を「が」としている点。また、「手たし」を「加勢」としている点もおかしい。私が解釈するならば、

信州真田が相模より城を一つ取りましたので、手出しに行きました。

となる(現代語風に主格を先頭に移動した)。城を奪ったのは真田氏であると解釈した方が自然だろう。更に、「手たし」が「加勢」を意味するという例は見たことがない(逆に、本書内で引用されている氏直書状では「加勢」がそのまま出てくる)。「合力」ならば「加勢」の言い換えになるだろうけれど。「手たし=手出」は侵攻・攻撃の意ではないか。つまり、家忠が書き留めた内容は、真田が後北条の城を奪ったので後北条が反撃した、ということだ。事実がどうかはともかく、家忠が聞いた風聞はこうだったのだろう。

次いで、名胡桃城を奪われたと真田信幸が徳川家康に報告した書状のこと。

来書披見した。しからば、名胡桃のことはわかった。ついては、そちらの様子は京都の両使(富田一白・津田盛月)がよく存じているので、そのほうから両人へ使者を送って報告するがよかろう。それはそうと、菱喰(ヒシの実を食べるカモ科の冬鳥)一〇が届き、うれしく思っている。なお、くわしくは榊原康政が述べよう。

<中略>

まるでこの件にはかかわりたくない、とでもいいたげな態度を示していたのだ。(167ページ)

と解釈している。だが、私の解釈は異なる。

書状拝見しました。ということで、名胡桃のことはその意を把握しました。そういうことなら、あなたの状況は京都の両使者も知っていますので、すぐ両人にあなたの使者を送ります。きっと披露してくれるでしょう。そしてまたヒシクイ10羽が来ました。嬉しいことです。さらに榊原式部大輔が申し上げるでしょう。

「則彼両人迄其方使者差上候」を、著者は勘違いしている。その主張する解釈をとるならば、後半は「自其方使者可差上候=其の方より使者差し上ぐべく候」となるはずだ。「可」がないのは、既に家康が信幸からの使者を独断で京へ送ったからだろう。その後で信幸に事情を説明したのがこの書状だと思う。また、本書の説明文では、ことさら贈答品の礼を書いて、家康が話を逸らしているかのような印象を与える文章構造になっている。これは、一般読者に対する誤誘導になりかねない。この時代は、切迫した状況でも贈答品の礼はきっちり書くものである点は指摘しておく。

本書はまた、事件以前から名胡桃城は後北条方だったと結論づけているが、この解釈にも疑問がある。

氏直は、「すでに真田が手前へ渡したものなので、奪い合う必要もない」といっている。要するに、北条家は、「沼田城といっしょに名胡桃城も譲渡された」と認識していたのである。(178ページ)

これは冨田左近将監・津田隼人正宛て氏直書状にある「既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候」から推測しているのだが、事件発生時に真田方の城主中山某が後北条氏へ渡したという従来の解釈でも矛盾はない。

氏直は同文書内で、上杉氏が「信州川中嶋ト知行替」として出動したことを訴えており、そうなったら沼田城が危ういので「加勢」した、としている。真田氏と上杉氏の間であれば、川中島と名胡桃との知行替えは想定可能であり、名胡桃城主の中山が上記知行替えを理由に後北条方に帰属した際の証拠が「中山書付」と考えれば文脈上問題がない。

森田氏の主張のように名胡桃が事件前から後北条方だとすると、川中島との知行替えとは何だったのか不明になってしまう。このことについて同書では以下のように曖昧な推測しか提示できていない。

「信濃の川中島と知行替えだと申して越後衆が出勢してきた」というのも、上杉家が川中島の軍勢を右のいずれかのルートで吾妻郡に派遣したものと想像できる。(182~183ページ)

※高村注:「右のいずれかのルート」は、川中島から嬬恋・草津を経て吾妻郡に抜ける経路を指す。

川中島と知行替えとなったのはどこだったのか。この点が判らないと本書の仮説は成り立たないだろう。

また、198ページで北条氏規の11月晦日の書状を1589(天正17)年に比定しているのも疑問だ。下山治久氏の『戦国時代年表後北条氏編』と黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史)』はどちらも、この文書を前年の天正16年に比定している。これは文中で足利のことが触れられている点を考慮してのことだろう。長尾顕長はこの当時後北条氏から離反して攻撃されていた(翌年2月20日には降伏が確認される)。天正16年だとすると、その前の8月に上洛した氏規が引き続き徳川家を通じて交渉を継続している時期でもあって、彼が家康との外交を担っているのも自然である。

ちなみにこの文書を1589(天正17)年としているのは『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで』(平山優・著)と小田原市史であるが、それが定説となっているかは疑問(どちらも「足利」への言及はない)。

※本書末尾の参考文献では『戦国時代年表後北条氏編』も『小田原合戦と北条氏』も含まれておらず、この点疑問に思った。どちらも非常に重要な書籍であると私は考えている。何か理由があるのだろうか。

氏直が家康に対して事情を陳弁した書状についても、本書は解釈を誤っている。

「上洛遅延のこと御状にありましたが、約束を違えた覚えはありません。十二月上洛の予定を一月、二月に移したというのならば、そうともいえましょうが」(194ページ)

上洛遅延之由、被露御状候、無曲存候、当月之儀、正、二月にも相移候者尤候歟

この原文を私は以下のように解釈した。

上洛遅延のことを披露したお手紙。つまらないことです。当月のこと、1月・2月にも移せばよいものではありませんか。

「無曲」は「つまらない・面白くない」という意味で使われる。これを「約束を違えた覚えはない」とする根拠はない。「相移候者尤候歟」は、「相移」が「移す」で「候者=そうらえば」は「であれば・ならば」、「尤」は現代語でいう「ごもっとも」と同じでよいだろう。「歟」は疑問形を表わす。ここで懸案となるのが「尤」の扱いで、この部分だけさらに抽出して意味を出すと以下のように違いが出る。

  • 高村解釈:1月でも2月でも移してしまうのが「尤」なことだ
  • 森田氏解釈:1月や2月に移したとしたら上洛遅延と言われるのも「尤」なことだ。

どちらも文脈上可能な解釈ではあるが、陳弁という状況を考えるとどうだろう。「上洛が遅れたじゃないか、12月に来ると言っただろう」と怒っている相手がいて、その仲介者に向かって「2月」をわざわざ言及するだろうか。森田氏の解釈に従うならば「そもそも約束は1月だった」と真っ先に言うのではないか。

更に補足すると、「~というのならば」としているのに原文には仮定を示す「若」がない点、「歟」を「が」としているがその実例はない点からも、著者の解釈は不自然である。

加えて氏直が弁明した冨田左近将監・津田隼人正宛て書状の全貌を正しく開示していない。氏直は「安心して上洛できない」という点を書状の初めに強く訴え、家康の折には秀吉は人質を出したのにと引き合いに出して地位向上を狙っている。家康宛書状でも、安心して上洛させてほしいと強く訴えている。氏直の弁明2文書は極めて重要なので、全文を詳細に検討し掲載すべきではないだろうか。

もう1点見逃せないのが、佐々成政が羽柴秀吉に攻められた際の記述。

信雄をとおしておこなわれた和睦交渉は、「誓紙も人質も受け取っていない」という、ほとんどいいがかりに近い、手続き上の不備を理由に退けられたのである。(205ページ)

これはさすがに解釈・仮説の問題ではないと思う。難航した相越同盟の紆余曲折を考えると、起請文・人質は外交上重要な要素だろう。軍事力で圧倒的な優位にある秀吉に対して、何も提出せずに「攻めないでほしい」と依頼するのは、むしろ成政の方が無茶に思える。この点も、古文書を直接見る機会のない読者に誤解を植えつけることになるだろう。

ここに挙げた部分に関連しない記述では、猪俣邦憲の実像をきちんと描いたり、徳川家との同盟関係を判り易くなぞったりしており、史料を丁寧に解釈している。ただ、冒頭で既に述べたことだが、今回細かく取り上げた恣意的解釈、考え違いが論旨の基点をぶれさせ、結果として史料を省みない強引な後北条擁護論になっている。

名胡桃城の問題は、更に考えるところがあるので、この後に詳細に検討してみる。

山室恭子著・講談社学術文庫。結論から言うと、

絶対的な名著なので、時間があるならこのサイトを見るよりこの本を買うべき!

である。ぜひご購読を。

20130623

 

私事ながら、このところ本業がずっと多忙を極めており、書店に顔を出しても、選書や学術文庫のコーナーには寄らずにいた。一つには近所で贔屓にしている書店は歴史棚がそれなりに気が利いていて、それ系の文庫・新書・雑誌も集約してくれている。そんな油断をついて、『中世のなかに生まれた近世』が講談社学術文庫で復刊されていた。……やはり巡回ルートはきちんと守らないと、ろくな事にならないという教訓になった。

それにしても慶事である。いつの間にか絶版に近い状況になってとても悲しく思っていたのだが、定評ある講談社学術文庫に入ったということでひと安心。ひと月遅れという不覚ながら早速入手したので、ご紹介を試みようと思う。

本書は、中世から近世への端境期に生きた戦国大名たちを、黒と白に分けるという印象的な手法で分析している。

黒は印判を用いて本格的な官僚機構を備えた大名家。後北条氏がその代表格で、大量の文書を隅々にまで発行し、徴税能力が高く大規模なインフラ整備も可能な体制を築いている。武田・今川に広がり、織田・羽柴に受け継がれていくシステムだ。

対する白の大名は、印判ではなく自ら花押を付した書状を家臣に渡す手法をとっていて、人と人のつながりを重視したゆるやかな統治を展開している。こちらは西国の毛利氏・大友氏・島津氏など広汎にわたって存在していた。

この黒白の大名たちがどうやって変化し淘汰され生まれてきたかを、それぞれの家別・地域別に検証するのがこの本の目的だ。

だが、その凄さは史料へのアプローチにある。黒白の色分けを、文書1つ1つを詳細に検討しながらコツコツと行なっているのだ。結論には最後の最後まで飛びつかない。書札礼のありようのみを愚直に追い続けて、慎重過ぎるのではないかと焦れて仕方がないほど考えてから、黒の大名の始点を推測するに至る。……ここから先は手にとってご堪能を。

この『中世のなかに生まれた近世』は山室恭子氏のデビュー作なのだが、私の中では『東と西の語る日本の歴史』(網野善彦)、『新・木綿以前のこと』(永原慶二)に並ぶ衝撃作だった。古文書が持つ妖しい多元解釈の世界を、こうもきれいに編み上げることができるのかと、しばし言葉を忘れたほどだった。いわばこのサイトの出発点と到達点が同時にここにある訳だ。

著者は梅沢太久夫氏。神田の三省堂で購入。まつやま書房という東松山の地元で『比企双書』として出版している。

内容は本格的で、関東戦国史を調べる際にとても重宝するだろう。私はじっくり読もうと思う。

そもそも上田氏は権現山挙兵や、松山城攻防で知られているものの、大石や長尾とは異なり、把握が難しい。

少し見ただけだが、案独斎が何人もいたり、諱が朝直な人物が2人いたり。秩父から東に進出している様子は、氏邦との関係性も窺えて面白い。

1次史料に丹念に向き合う好著である事は間違いないので、興味のある方はご一読を。

桐野作人著・アスキー新書。史料ベースできっちり構成されている。とはいえ『関ヶ原前夜』と比較すると、二次史料の多用が目立つ。興味深かったのは、小早川秀秋の家臣である稲葉正成・平岡頼勝が、徳川家康側近の山岡道阿弥・岡野江雪斎と接触していたというくだり(189ページ)。

岡野江雪斎は、旧名板部岡江雪斎融成。北条氏規や笠原康明と共に後北条末期の上方外交を担当している。

『家臣団辞典』によると、関ヶ原合戦では、小早川勢の牢人笠原越前守が島津豊久を攻めたとのこと。ちなみに、稲葉正成の次男正勝は後の小田原藩主だったリする。

小早川秀秋の家中も色々面白そう。

書中少し気になったのが、「外実」を外聞と解釈していた点。これは「外聞與云、実儀與云」(http://rek.jp/?p=1754)の省略だと思われる。「外の見栄えも内情も」と解いた方がよさそうだ。

上杉輝虎の視点から関東出征を描いている。概ね合っていると思うのだが、後北条・今川を中心に調べている身からすると色々疑問がある。

●氏真の塩荷抑留について永禄11年と比定しているが、永禄11年12月18日に駿河方面斥候として大藤政信と清水康英が命じられており、その文脈から考えると政信が抑留したのは永禄12年6月だと考えるのが妥当だろう。

●輝虎が氏真直状を非礼とした点をさらりと書いているが、室町復古体制を目指す事と矛盾しないだろうか。また、永禄10年という比定のままだが、戦国遺文今川編第2巻の長谷川弘道氏論考で永禄12年以降と改められていた点には触れていない。

●足利義輝が諸大名の流動的なパワーバランスの上にしか成立し得ず、書状を出す度に大名が対応を試みていたという記述は納得できた。しかし、義輝横死後に輝虎が名乗りを「旱虎」に変えた意図を服喪と断定しているのは疑問。将軍の権勢を頼めなくなった自嘲とも考えられないだろうか。

●武田の駿河侵攻に至るまでの考察は薄い。関東政局に与えた影響は大きいのではないか。

●小田城下の人身売買について、極単に低い値付によって事実上の捕虜解放だった、としている点は強引に思う。20文でしか売れなかったから「春中」販売していたので、シンプルに考えれば身請元までごっそり拉致した挙句、飢饉で人買いの動きも純かったという事だろう。人身売買での利潤を求めないなら、城主小田氏治を助命したようにそのまま解放すればよい。市場に出されるというのは全財産没収・家族離散が伴うから、小田領の生産能力は落ちる。税収確保のために領民秩序は温存した方がよい。後北条・武田が自領内生産者確保のために他国から人馬をさらい、身請を求める親族には高値を吹っ掛けたという意図の方が判り易い。在地性からでは不可解に思える小田城下の出来事を元に、藤木氏は上杉輝虎の背後に広域の奴隷商人の在存を示唆したのではないか。

●関東侵攻で輝虎方は略奪を行なっていないとしているが、少し一方的であるように思う。放火・耕作地破壊はちょくちょく行なっていたように記憶している。曖昧な記憶なので、今度年表を追ってみたい。

[note]
補記:2015年7月19日

 上杉輝虎の破壊・略奪行為については、『戦国合戦の舞台裏』(盛本昌広著・洋泉社)で紹介されていた(p131~141)。何れも1574(天正2)年のこと。3月28日/4月1日/5月/閏11月20日の書状で耕作地の破壊を味方に伝えている。

 また、『戦国時代年表後北条氏編』では、1563(永禄6)年4月吉日付けの史料(神奈川県史資料編3下7328)にて、相模国厚木郷が上杉輝虎の侵攻で「郷村が壊滅的な被害を受け」とある。この史料はその復興時の記録のため、被害を受けたのは永禄4年と推測される。1566(永禄9)年11月10日に輝虎は「北条勢が在陣しているので利根川を越えて北は高山(群・藤岡市)から南は武蔵深谷(埼・深谷市)まで放火し」とある。

 どちらの書籍でも後北条・武田も同様に破壊・略奪行為は行なっていることが示されている。これらのことから考えて、程度の差が多少あるにせよ、輝虎が破壊・略奪を忌避した証左がないことが判る。
[/note]

輝虎の管領就職を対三好軍事計画の一環としている点は興味深いので、今後の研究の進展を楽しみに待ちたい。

『記憶の歴史学』(金子拓著・講談社メチエ選書)を半ばで止め『戦国北条五代』に切り替えていたが、再び読み進めている。

これはかなり挑戦的な内容だ。文献史学では、普通一次史料を疑わない。しかし、現代でもよくある事だが、記憶と記録には乖離がある。それは私も常々感じていた。氏真の文書が鳴海原合戦について『信長公記』よりも早く書かれ信憑性も高いのだとしても、厳密に言えばそれは程度の差でしかない。氏真にしても太田牛ーにしても、限られた情報の中でそれぞれの都合に添って記録した筈である。あらゆる史料には誤解と作為が含まれ、出来事を正確に再現はできない。
史料と史料を繋いで立体的解釈を試みるのが歴史学だから、史料の可謬性を言い出したら成立しない。その禁断の領域に踏み込んだ点は素晴らしい。
まだ読了していないが、丁寧に読み進めたい。

とりあえず新たに仕入れた記述を備忘。

  • 北条改姓は1523(大永3)年に氏綱から行なわれたが、氏康は大永5年まで伊勢姓のまま(100頁)
  • 北条氏照は1555(弘治元)年足利義氏元服式で氏康と共に登場するのが史料初見(168頁)
  • 北条氏規の居城は三崎か館林であり、韮山は有事の城番として入った(187頁)

1991年に刊行された、中公新書・高橋崇著の1冊である。今でこそ厳密な史料第一主義の新書も増えてきたが、当時としては異色なほど史料にこだわっていた。安倍氏と清原氏という東北在地勢力と、関東・東海の武士団を率いた源頼義・義家父子の関わりを詳細に叙述している本格派だ。

一般には、前九年と後三年は源氏が関東に基盤を作る画期だと見られている。2度の戦闘で活躍した源氏がその後の飛躍の準備をしたという。ところが、源頼義と義家は、朝廷の職権を巧みに用いて安倍・清原氏の内紛に付け込んだという可能性が高いとする。史料を読み込むと、合戦の主体ですらなく、単にセールストークで利権を確保しようとした事実が浮かび上がってくる。

本書から話は飛躍するが、蝦夷征伐の過程で朝廷は東北地方から多数の捕虜を収奪し、貢納物の徴発期間として城・柵を多数設置している。そして、その尖兵として関東武士が着目され、利用されてきた。だがその関東武士が精強だったかというと、疑問符がつく。奈良時代の関東は未開の地であり、百済からの亡命者と流刑者、没落貴族が、東北の捕虜を使役したというのが実態に近いだろう。平将門・藤原秀郷らについても、個人的な武勇譚でしか語られていない。そこに軍事的な強みは見られない。その関東武士を初めて組織化したのが源頼朝である。ここでバイアスがかかり、関東武士はその祖である頼義・義家との関係を強調し、前九年・後三年での奉公を広めたのだと思う。

関西・関東という国内2大地域が歴史の主観となることが殆どだが、それを敢えて外し、当事者である東北からの史観を入れた意味で本書は貴重である。歴史は、京・鎌倉・江戸からだけ語られるものではない。

後三年の役が結局朝廷に認められず、利権につながらないことが判ると、義家は清原武衡・家衡の首級を路傍に打ち捨てて京に帰る。葬ることもないその姿に、武家源氏の裏の顔が仄見える。

本書(洋泉社新書y・盛本昌広著)は、戦国時代の合戦は具体的にどのように行なわれたか、を判りやすく解説した内容である。出陣の準備から行軍、食料や武器の調達方法、陣中生活の決まりから退陣方法までを網羅している。たとえばどこかの戦国大名がステレオタイプに「よし、出陣じゃー!」などと言って軍配を振り回したとしても、そのまま馬に跨って戦地に赴ける訳もない。もしそんなことをやったら、よくて強制隠居、最悪家を乗っ取られて殺されるだろう。

では本当のところは「出陣じゃー!」の後にどういう作業があったのか。それを一つずつ積み上げて説明してくれている。その手の細かいことは実は不明なことが多く、考察は自然と重箱の隅をつつくような地味な作業となる。著者は『家忠日記』と『三河物語』をベースとしつつ、1次史料も併用して実態に迫る。ちなみに、出陣が決まったら法螺貝や鐘を鳴らしたそうだ。音を聞いた面々が「お呼びですか?」と使者を出す。そこで急な出陣やその取りやめ、打ち合わせ開催などを伝える。場合によって(多分音が聞こえない範囲の通知)は伝達係が出陣スケジュールと目的地を伝えて回ったらしい。

第3章『兵粮・軍需物資の補給・確保』が最も興味深い。麦の生長に合わせて出陣した可能性に言及しており、個人的に調べている鳴海原合戦もそのようなスケジューリングで考えてみようと思った。

このように(編注:織田信長の)、本願寺攻撃は天正三・四・五年すべて四月から五月にかけて行なわれている。これは明らかに麦の収穫期を狙ったものであり、麦苗薙捨を行なって兵粮の補給を絶つことが目的であった。(130ページ)

鳴海原合戦の5月19日では、麦の薙ぎ捨てどころか田植えが終わっている。農作物を収穫前に破壊する作戦はよく行なわれるものの、基本的には収穫直前を狙うことが多い。これは心理効果を狙ったものだ。麦はなく、稲も植えたばかりという5月19日は、略奪・破壊の時期として最悪の日程だと言ってよい。こんな時に侵攻した今川義元は何をしたかったのか。謎が深まった。

もう1点、行軍の目安として挙げられているのが川の水量と渡渉地。川が渡れないとそれ以上進めないが、渡る人数が多いと大変な訳だ。東日本でいうと利根川が最も有名。台風が終わった後、雪解け水が現われるまでの冬が最も行軍に適している。旧暦5月19日は雑節『入梅』に近く、梅雨入り期となる。河川と低地が入り混じる鳴海原の地形では、戦闘に似合わない時期である。更に謎が深まった。

ちなみに、法螺貝で伝達係を集める手法は、川崎市中原区で大正時代まで遺されていたという。