『細江町史資料編4』に所収されている『井伊家伝記』の説明は以下。

最近、龍潭寺へ合併された中川の大藤寺に所蔵されていた文書で、祖山和尚が当時の古記録や言い伝えを基に、井伊家の由緒を正徳五年八月十五日に書き上げた草校で、上下二巻を合本してある。大藤寺境内は、井伊直親が住み、直政が生まれた処で、後に直親の菩提を弔う寺になった。

 1715(正徳5)年というと、井伊家が井伊谷を追われてから146年経っている。なぜこのタイミングだったかは、前述した『一八世紀前半遠州井伊谷における由緒の形成について』に事情が描かれている。1711(正徳元)年に『井之出入』という争論が発生した。井伊谷にある龍潭寺と正楽寺の間で、井伊氏始祖の伝承を持つ井戸の修理担当を奪い合った。

 この当時、井伊谷周辺を支配していたのは近藤氏で、5家(井伊谷・気賀・金指・大谷・花平)に分かれているものの一族総石高は1万石を超える大身の旗本である。正楽寺が当初井戸を管理しており、それは近藤氏が承認している。しかし戦国期に井戸を管理していた龍潭寺が現状を認めず、寺社奉行に訴えた。最終的には、井伊氏指示のもと龍潭寺が井戸を管理することが確定し、以後は井伊家当主が龍潭寺に参詣するなど、緊密な関係を築くこととなった。

 訴訟当時の彦根・与板の両井伊氏は龍潭寺の伝承に興味がなかったが、訴訟が進むにつれ段々と始祖伝承を共有していったという夏目氏の指摘から、龍潭寺側もその熱意に対応して『井伊家伝記』をしつらえたと見られる。

 しかしその記述は、同時代史料とは大きく矛盾する構成になっている。なぜか今川氏真が井伊家当主を付け狙うようになり、家老の小野但馬が讒言を繰り返している。そして最大の齟齬が次郎法師の存在だろう。

「備中次郎と申名は、井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生れ候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非南渓和尚御付被成候名なり」

 次郎が井伊家の伝統的な仮名なのは正しいが、受領が備中というのは疑問。少なくとも直政の父は信濃守を称していた痕跡がある。僧俗の名を兼ねるために『法師』を付けたというのは、聞いたことがない。

幼名 実名
次郎法師 赤松政則
小法師 菅沼貞吉
吉法師 織田信長
三法師 織田秀信
塩法師 大友義鎮
彦法師 鍋島直茂
千法師 吉川興経
長法師 竜造寺隆信

 Webで検索しただけなので厳密ではないが、他大名のどの法師も基本的に男児の幼名として扱われている。彼らとの明確な差異がない限り「次郎法師という名前は女性も名乗れる」とは判断できない(そもそも、1715年という後世史料しか根拠がない状態では次郎法師・直虎が女性という説は首肯できない)。

 そして「次郎法師は成人した女性」という設定にしてしまったために、『井伊家伝記』は迷走を繰り返す。直政が嫡流ではなくなってしまったり、その女性の周辺の継承候補者を除外(殺したり、国外逃亡させたり)しなくてはならなくなってしまった。

 少し踏み込んで当時の状況を考えてみよう。既に見たように、井伊氏が谷を出た時の状況は余り体裁のいいものではなかった。一方で、谷のすぐ南にいた堀江城の大沢氏は徳川方を相手に一歩も引かず、今川氏真の許可を得た上で降伏した。その後は吉良・今川・武田・畠山と同じく高家として高い格式を持った旗本になった。そして井伊谷は実質大名クラスの実力を持つ近藤氏が支配している。

 親藩筆頭で大老格である井伊家中が祖先の武功を誇る際に、大沢氏と近藤氏は非常に厄介な存在となる。『井伊家伝記』ではこの2家との直接比較を避けつつ、上位権力者である今川氏からの執拗な当主殺害と、当主が女性だったという言い訳を付け、自尊心を保とうとした試みではないだろうか。

 遠江国の国衆である井伊氏については、永禄年間は今川方に付いていることが確認できる。しかし、その後1582(天正10)年に徳川家康側近として井伊直政が現われるまでの事蹟は伝わっていない。今川方として井伊谷で最後に活動していたのは次郎法師だが、この人物については伝承が多く、同時代史料のみの手堅い推論が見当たらなかった。そこで、この人物を検討してみる。

 井伊次郎が初出するのは、1564(永禄7)年の年貢割付だ。

井伊次郎法師、祝田年貢の納付先を指定する

 この文書で「次郎」という言葉は出てこないが、文書名が「井伊次郎法師年貢割付」となっているため挙げてみた。裏の貼紙で「永禄七年甲子七月六日割付 万千世様御証文」とあり、後筆ではあるが次郎法師が直政であると示している(万千代は井伊直政の幼名)。直政は永禄4年の生年が伝わっている。もし直政であればこの時に万千代から次郎法師へと改名したこととなる。但し元服はしていないだろう。元服前に活動する例としては、ほぼ同時代・同地域の菅沼小法師がいるため、万千代が次郎法師である解釈は妥当だろう。

 ここでは井伊谷の南部にある祝田120貫文の納付先が書かれている。井伊一門が25貫文、家臣の小野源一郎が15貫文でその同族の小野但馬が3貫文となっている。小野家では受領名を名乗る但馬が上位だと思われるが、ここで小禄となっているのは、祝田では源一郎の知行が多かったということだろう。

 小野氏はこの後の文書でも井伊被官として登場する。『井伊氏と家老小野一族』(井村修)によると、龍潭寺に小野七郎左衛門古隆の建立した小野玄蕃朝直の笠塔婆が残されているという。

正面 永禄三庚申
 永定院心臾威安居士
五月十九日
俗名小野玄蕃
裏面 玄蕃五代孫 井伊兵部小輔
家臣 小野七郎左衛門造立

 小野七郎左衛門は正徳年間(1711~16)に出てくる人物なので、かなり後世の人間である。『一八世紀前半遠州井伊谷における由緒の形成について』(夏目琢史・一橋大学機関リポジトリ)によると、与板藩家老であった七郎左衛門は井伊谷にかなり詳しく、能動的に龍潭寺に関わろうとしている。小野玄蕃という人物が鳴海原(桶狭間)で戦死したことはある程度信用してよいように考えられる。そうなると、直政の父と思われる人物も永禄3年5月に戦死し、その翌年に産まれた直政が3歳になるのを待って文書発給を始めたという推測が引き続いて得られるだろう。

 ついで現われるのが1565(永禄8)年9月15日。龍潭寺への寄進状で、「次郎法師」と名乗って印文未詳の黒印を押している。

井伊次郎法師、龍潭寺寄進地を確定する

 この文書名として「井伊直虎置文」とあるが、単なる寄進状を置文としている点から考えて「次郎法師=直虎」という信憑性は低い。「道鑑討死之後」「信濃守為菩提所建立」という文があるが、この人物が直政の父親かも知れない。

 この後、永禄9年に今川氏主導で遠江国で徳政が行なわれる。井伊谷ではこの年に文書が残されていないが、翌年には影響が出始める。

今川氏真、瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする

 井伊次郎は出てこないが、後に関係するため挙げておく。日付は永禄10年10月13日。これから何度も出されることになる、瀬戸方久の買収地保証書の初出である。

 瀬戸方久は井伊谷の瀬戸に住んでいた商人と思われ、何とかして前年の徳政を覆そうとしていたのだろう。今川氏真に直接判物を出してもらっている。しかし、氏真が書いたのは「信濃守代々令忠節之旨申之条」であって、徳政回避の文言はない。そもそもこの文書は宛て先を欠いており、方久が偽って次郎法師名で土地保証を得て、証文だけ改修した可能性が高いように見える。であれば、「信濃守の代々忠節に免じて」という文も納得がいく。解釈に慎重さが求められる文書だろう。

 それと並行して、極秘で匂坂直興が動いている。小野但馬とともに駿府で訴訟活動していることを、井伊谷の祝田禰宜にその年の12月に報告している。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政が認可されるとの状況を伝える

 「調整に時間がかかり、年を越してしまうだろう」と述べているが、買収地の確保を目指す瀬戸方久とは相反する活動である。

 この書状を出した匂坂左近直興もよく判らない。井伊谷関連でしか登場しない人物で、「直」の通字を名乗っているということから、井伊氏と関係があるように見える。幼児の直政に取って代わることはなかったので、今川氏の指示で直政同心につけられた匂坂一族としてとりあえず考えておく。

 その翌年と思われる6月30日「匂坂直興書状」で次郎法師が言及される。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える

解釈文を詳しく見てみる。

 あの一件を色々と越後殿へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

 あの一件というのは、年末から訴えている徳政推進だろう。越後殿は不明。直興が、恐らく駿府へ直訴しようとした祝田禰宜に対して、言い分があるなら次郎殿から関口氏経に報告するのが筋で、そう計らうように小野但馬へ自分からも言っておくとしている。現地は次郎殿を飛び越して案件を上げようとしていたのを、直興が懸命に押し留めている形だ。瀬戸方久への氏真文書で仄見えた構図がはっきりと姿を現わす。事の是非よりも、組織の指揮系統をとにかく重視しなければならないほど、次郎法師の統治能力は低迷している。補助役の小野但馬が機能しているようにも見えない。また、半年経っても進まない訴訟に祝田禰宜が相当苛立っている様子も伺われる。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政執行に当たり礼物を出すことを要求する

 「徳政之事すまし候」という吉報が祝田禰宜に出されたのは8月3日。直興は、関口氏経が対応するとしている。その際に色々と経費がかかることを伝えているのがメインだが、銭主=商人が暫く難渋するだろうとか、陣銭は商人とは関係ないとか書いているため、徳政を推進する側に直興・祝田禰宜がいたと判る。特に直興は「この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう」とまで書いている。直興はここまで深く関わっていたのだ。

 翌日付で関口氏経から約束どおり判物が出される。宛て先は「井次」。

 寅年=永禄9年に徳政が行なわれた筈なのに、井伊一門の主水佑が私意で免除し、祝田・都田で施行されていなかったことを指摘し、商人の思惑は考慮せず徳政を実行せよと命じている。

 前日の直興書状でも触れられていたが、同様の判物が井伊氏の一門・家臣に宛てて出されている。念を入れたということか。

 これで一件落着かと思いきや、9月14日に氏真から方久に徳政免除が出されるという、とんでもないことが起きる。氏真の言い分は、前回のような曖昧なものではなくなっており、明らかに徳政回避の言質を与えている。

今川氏真、瀬戸方久に、井伊谷で買い取った土地を保証する

去る丙寅年に谷全体で徳政のことで訴訟があったとはいえ、方久が買い取った分は次郎法師家老の誓紙、井伊主水佑の一筆で明瞭であるから、今まで買い取った名職・永地は、証文の通りに末永く相違がないように。ということでこの度新城を築造しているので、根小屋・蔵の建設を負担するので商売の税は免除する。

 新城の築造費用を全て方久に負わせる一方で、徳政からは除外するという方針。これまでに奮闘してきた匂坂直興の努力が水泡に帰した瞬間だ。しかし、これに反発したのが関口氏経で、何と氏真に反する判物を11月19日に出している。

関口氏経・井伊次郎法師、祝田禰宜・百姓に、徳政の実効を保証する

祝田郷の徳政のこと。去る寅年に御判形によってご命令になったとはいえ、銭主が抗議して今も落着しない。本百姓が訴訟してきたので、先の御判形のとおりに許容しない。

 今川政権の末期症状とでも言おうか。今川家当主が保証した徳政免除を今川一門の重臣が否定している。この時、氏経は証文の実効性を上げるためか「次郎直虎」と連署している。これまで「次郎」「次郎法師」としか呼ばれていなかった人物に、いきなり実名が付けられた形だ。

 但し、この実名と花押は氏経による偽造だろう。『静岡県史 資料編』ではこの時の花押を紹介しているが、直虎の花押は歴代井伊氏、さらには直政のものと比べて全く形状が異なる上、複雑で大きな形状をしており違和感があり過ぎる。「直虎」という実名は、「寅年の徳政」に絡んだことに引っ掛けたか。

 実名に寅・虎が付く者は寅年生まれであることが多いようで、酉年生まれと伝わる直政には相応しくないように感じられる。1554(天文23)年の寅年生まれだと1568(永禄11)年に14歳なので、元服して直虎を名乗っても違和感がないが、そのような人物はいない。やはり「直虎」の実在性はかなり低いのではないか。露見したら謀叛にも近い行為だが、今川政権の中心部は混乱を極めていて、それを見越した偽造だったのかも知れない。

 国衆に対して徳政を指導できなくなっている今川氏にもはや猶予は残されておらず、この文書を最後に井伊谷において井伊・今川が現われることはなくなる。

12月12日に徳川家康は菅沼二郎衛門・近藤石見守・鈴木三郎太夫に起請文を与えて遠江先導を依頼。次の舞台が幕を開けた。

徳川家康、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時に、井伊谷侵攻に当たり知行を拠出することを約す
徳川家康、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時に、遠江国の知行を与える


今度長篠籠城之砌、励無類之戦功、頸一被討捕条、神妙被思食候、殊去月於井伊谷、別而忠信之由御悦喜候、然而三州御本意之上、於西三河之内、必須相当之地一所可被宛行之趣、被仰出者也、仍如件、
元亀四[発酉] 十一月廿三日
 山県三郎兵衛尉 奉之
伊藤忠右衛門殿

→戦国遺文 武田氏編2220「武田家朱印状写」(山梨県誌本「機山公展出陳古文書写」)

 定め。この度長篠の籠城の際、無類の戦功に励み、首級1つ討ち取りましたので、神妙だとの思し召しです。特に去る月井伊谷において、格別の忠信をされたとのことでご喜悦です。ということで三河国でご本意を遂げた上は、西三河のうち適切なる地を必ず1箇所宛て行なわれるだろうとの趣旨、仰せ出されました。

以幸便染一筆候、仍敵于今長篠在陣之由候条、自去廿三日至今日、打続人数立遣候、小笠原掃部大夫并自当府、先日今福・城・横田等差立候キ、又今日も武藤喜兵衛尉・山県善右衛門尉出陣候間、万端有談合堅固之儀肝要候、勝頼も上信之人衆引付、三日之内ニ可打着候、家康長篠切所を差越在陣之間、天所ニ候、此時不能可討留事案内候、歓喜不可過挾量候、如何様ニも勝頼着陣之間、家康留置度候、恐々謹言、
七月晦日
 勝頼 判
道絞
奥平美作守殿

→戦国遺文 武田氏編2143「武田勝頼書状写」(東京大学総合図書館所蔵「松平奥平家古文書写」)

天正1年に比定。

 時宜を得た便があったので一筆申し上げます。さて敵が現在長篠に在陣しているとのことで、去る23日より今日に至るまで、連続して部隊を派遣しました。小笠原掃部大夫、そして当府より先日は今福・城・横田らを送り出しました。また今日も、武藤喜兵衛尉・山県善右衛門尉が出陣しましたから、全て相談して堅固にすることが大切です。勝頼も上野国・信濃国の部隊を招集して、3日のうちに到着するでしょう。家康が長篠の難所を越えて在陣しているので、天の好機です。この時でなければ討ち取ることはできないでしょう、歓喜は過ぎることはないでしょう。勝頼が着陣するまでの間、どのようにしても家康を留め置くように。

急度染■■■[一筆候]、■■[仍而]敵地内通之族如申越者、於其■■■■[地謀叛之]輩就有之、其地へ成揺之由候、城内之用心不可有由断候、自然三十六人衆之内、謀叛之輩可有之歟、不審ニ候、高野被相談、用心等可被入于念候、為其越早飛脚候、猶長々在番、苦労不知謝候、近日番替可相移候、可御心安候、恐々謹言、
九月八日
 勝頼(花押)
上条伊勢入道殿[後閑信純]
伴野宮内少輔殿
小幡民部助殿[昌高]
依田能登守殿[阿江木常林]
竹■[重]藤五郎殿

→戦国遺文 武田氏編2173「武田勝頼書状」(長野県長和町・竹重家文書)

天正1年に比定。

 取り急ぎ一筆申し上げます。さて敵地内通の輩が報告どおりなら、その地において謀叛の輩がいます。その地へ揺さぶりがあったとのことです。城内の用心で油断があってはなりません。万一にでも、三十六人衆(三方人衆?)のうち謀叛の輩がいるのでしょうか。不審です。高野と相談されて、用心など念を入れられますように。そのために早飛脚を派遣します。なお、長々在番の苦労は謝すところを知りません。近日番替えで移しましょう。ご安心下さい。

長篠之模様無心許之旨、節々被入芳札快然ニ候、去五日其表御旗本陣場ヘ打出之由候、遠州動之衆者、直二俣通長篠へ可出勢之旨、成下知候、然則勝利無疑候、吉左右自是可申越候、恐々謹言、
九月八日
 勝頼(花押)
真田源太左衛門尉殿

→戦国遺文 武田氏編2172「武田勝頼書状」(福井県・真田家文書)

天正1年に比定。

長篠の状況が心もとないとのこと、折々でお手紙をいただきまして嬉しく思います。去る5日にその方面のご旗本が陣場へ出撃したとのこと、遠江国で行軍している国衆は、真っ直ぐ二俣を通り長篠へ出征の旨、指示を出しました。そしてすぐに勝利することは疑いがありません。吉報をこちらからお知らせします。

其已後之行如何、聞届度候、仍敵于今長篠在陣之由候条、其許之動有工夫、如何様ニも家康其表へ分人数、長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合、調略尤ニ候、畢竟二俣へ付飛脚、家康引間迄退散之有無被聞届、可被入人数事肝要候、長篠表後詰之儀者、人事相調候故、廿三四之間、敵陣辺迄陳寄候由候之条、定而之間、是非可有之歟、以此旨其表之行、示合候之様肝煎尤候、為其遣早飛脚候、但半途迄被納人数候者、不及是非候、恐々謹言、
八月廿五日
 勝頼(花押)
山県三郎右兵衛尉殿

→戦国遺文 武田氏編2155「武田勝頼書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

天正1年に比定。

 それ以後の作戦はいかがでしょうか。お聞きしたく思います。さて敵が現在長篠に在陣しているとのことですから、あなたは動きを工夫して、どのようにしても家康がその方面に兵数を分けさせ、長篠の後詰になるように、穴山信君・武田信廉・朝比奈信置・岡部元信・岡部正綱たちと相談して、調略するのがもっともです。結局、二俣へ飛脚をつけ、家康が引間まで退却したかどうかを聞いて、部隊を入れるようにするのが大切です。長篠方面への後詰のことは、人事を調整します。なので、23~24の間は敵陣の辺りまで陣を寄せているとのことですから、期日中はぜひこうしてもらえないでしょうか。この趣旨でその方面の作戦を示し合わせるよう肝煎りすることがもっともです。そのため早飛脚を派遣します。但し途中で兵員を納められたらどうしようもないことです。

服部中宛行本知行分之事
 合百弐拾貫文
 此内 百貫文者遠州刑部村 弐拾貫文者参州岡村
右、年来戦忠明鏡之上、今度境目就調略、若於討死者、宛行知行分、息子つう丸ニ可申付、彼者幼少之間者、安孫刑部右衛門以異見、知行分所務もの也、
天正五[丁丑]年四月廿三日
 家康公御判
服部中殿

→静岡県史資料8 1056「徳川家康判物写」(記録御用所本古文書一○内閣文庫所蔵)

 服部中に宛行なう本知行のこと。合計で120貫文。このうち、100貫文は遠江国刑部村。20貫文は三河国岡村。右は、年来の戦忠が明確である上、この度国境の調略でもし討ち死にした場合に、宛行なう知行は息子の『つう丸』に与える。あの者が幼少の間は、安孫刑部右衛門が後見し、知行の経営を行なうものとする。

宛行知行之事
右、白須賀郷并長屋郷田畠・野山・船綱等、不准自余相除之、彼郷中見出聞出之田地等、一円勝重可為計、然者去ル戌年高天神籠城之時節、凌敵地及数ヶ度令通用、不顧身命忠節、為其賞彼知行出置候、永不可有相違、守此旨弥可抽忠功者也、仍如件、
天正五[丁丑]四月廿三日
 家康御書判
勾坂牛之助殿

→静岡県史資料編8 1055「徳川家康判物写」(浅羽本系図四十七)

 知行宛行ないのこと。右、白須賀郷並びに長屋郷の田畑・野山・船網などは、他とは異なり免税とし、その郷中で見たり聞いたりした田や土地など、一円を勝重だけのものとするように。それは去る戌年に高天神に籠城した折に、敵地を数回にわたり通って、命を顧みずに行なった忠節によりその褒美として知行として出すものである。末永く相違のないように。このことを守り、忠功にぬきんでるように。

跡部美作守帰候間、染一筆候、長々在陣、留守中窮屈令推量候、大概明隙候条、月合候者可帰陣候、可心易候、猶兄弟衆中好申候て、可被待帰府候、恐々謹言、
八月廿日
 信玄(花押)
聖道ヘ

→戦国遺文武田氏編2094「武田信玄書状」(東京都・山下家文書)

 跡部勝忠が帰るというので、一筆いたします。長々と在陣し、留守中は気苦しかったろうと思います。大体のところは手が空きましたから、『月合』(月の変わり目?)になれば帰陣するでしょう。安心されますように。兄弟のみんなと仲良くして、甲府への帰りを待っていて下さい。