山本与三郎方借銭、此方へ相済候、其外誰々雖有借来候、令免許候上者、不可有其儀者也、仍而状如件、

天文廿弐 五月廿日

信長(花押影)

津嶋

九郎大夫殿へ

→愛知県史 資料編10「織田信長判物写」(河村家文書)

 山本与三郎の借金、こちらで返済しました。その他誰かが債権を言ってきても、免除とした上はその事実はありません。

急度令申候、仍借銭之儀付而退出之由候、神慮如何之儀候間、津内借銭質物之事者、従此方申付候条、不可有別儀候、早々御帰可然候、仍状如件、

天文九

十二月

弾正忠

信秀(花押)

神主兵部少輔殿

     御宿所

→愛知県史 資料編10「織田信秀判物」(某氏所蔵文書)

 取り急ぎ申し上げます。借金のことで退去されたとのこと。神慮を考え合わせて、津島の借金と担保のことは、こちらから申し付けますので問題はありません。早々にお帰りいただくのがよいかと思います。

急度申候、仍神主兵部少輔、借銭之儀付而退出之由候、神慮之儀不可然候間、彼於借銭質物者、■成其心得、早々帰宅候様馳走肝要候、■■謹言、

十二月

弾正忠

信秀(花押)

津嶋五ケ村中

→愛知県史 資料編10「織田信秀書状」(某氏所蔵文書)

1540(天文9)年に比定。

 取り急ぎお伝えます。神主の兵部少輔が借金によって退去したとのこと。神慮のことに添わないので、あの借金・担保は心得たので、早々に帰宅されるよう奔走することが大切です。

就御借銭之儀、去々年以折紙申候筋目、聊不可有相違候上者、誰々自然雖有申子細、少も不可存疎意、可致成其御心得候、委細林新五郎可申入候、恐々謹言、

六月八日

信秀(花押)

(ウワ書)「(墨引)神主殿 御宿所 織田弾正忠 信秀」

→愛知県史 資料編10「織田信秀書状」(津島神社文書)

1540(天文9)年に否定。

 借金のことについて、一昨年に折紙で申し上げた内容は少しの相違もあってはならない上は、誰かが万一苦情を言ったとしても、疎意を覚えることは全くないでしょう。この心得を得て行動して下さい。詳細は林新五郎が申し入れるでしょう。

■■■■し申候大日屋しきの■■

    合壱反者

■■■■有要用ニ代物七貫文ニ■■■うりわたし申候処ニ実正也、■■■下一同之徳政入候共、■■■孫々違乱煩候ましく候、■■■後日永代うりけん状■■■件、

神主兵部少輔

広長(花押)

■文九年[庚子]七月五日

■六郎殿

→愛知県史 資料編10「紀広長売券」(津島神社文書)

一 外宮御材木十二月廿一日カツゝゝ到来ス、

一 天文十年三月六日ニ金五枚尾州来ル[久志本周防守殿使]

 其以後代物ニテ渡ル、合七百貫文弾正忠ヨリ渡ル、

 (中略)

一 [天文十年]九月廿四日ニ、祭主殿・行事官下向アリ、于時備彦一神主

一 [同]九月廿六日遷宮スルゝゝト執行候処大慶此時也、

一 今度遷被成之[候]、為其礼従京都如此也口宣ヲ下ル、弾正忠ヲ三川守ニナサル、

一 織田弾正忠大裏口宣可[奉]被成三河守ニ

→愛知県史 資料編10(外宮天文引付)

雖未通候、令啓達候、抑両太神宮御仮殿朽損以外候、然間、六角殿江依懇望、内宮御仮殿造替候、就先年両太神宮遷御前儀、外宮可為先之由、公武御教書厳重候、其謂内宮江相届之処、彼造宮延引候、外宮造営料難調候、此節以御神忠、致成御造営者、弥御家繁栄可為貴代規模候、此由可得御意候、恐々謹言、

五月十一日 備彦

謹上 織田弾正忠殿 御宿所

→愛知県史 資料編10「外宮一禰宜度会備彦書状写」(外宮天文引付)

1540(天文9)年に比定。

 これまでご挨拶しておりませんでしたが、ご連絡申し上げます。そもそも両太神宮の御仮殿汚れ・破損はもってのほかです。という状況で、六角殿へ懇望して内宮は御仮殿の造り替えを行ないます。前回の両太神宮遷御の礼から、外宮が先に行なうべきであると、公武の御教書で厳重に決められております。そのことは内宮へ届けられ、そちらの改築も延期されております。外宮の造営料調達が難航しておりますので、この機会に神への忠義を果たし造営なさるならば、ますます御家が反映しあなたの代で規模をなすでしょう。このことで御意を得られますように。

一渓道看 天文九年六月六日

     松平左馬助長家

月峰秀光 天文九年六月六日

     松平甚六郎

信翁祥忠 天文九年六月六日

     松平源次郎

     [清康御舎弟信家、又信康]

明微道光 天文九年六月六日

     林藤助

鏡清禅門 天文九年六月六日

     内藤善左衛門

月柄浄心 天文九年六月六日

     近藤与市郎

大甫道看 天文九年六月六日

     高木トノ

浄貞信士 天文九年六月六日

     足立弥市郎

丈関浄心 天文九年六月六日

     足立宗四郎

右九霊、同軍之討死歟、年月日共同シ、当寺過去帳ニモ同所ニ書記有之、

→愛知県史 資料編10「大樹寺過去帳写」(朝野旧聞襃藁)

久閣筆候、疎遠之至■、仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段、可喜思食■、武家御内書如此候、依■有見除子細、被仰候、■佐々木弾正少弼使僧可申伝候也、状如件、

七月五日

今川治部大輔■

→愛知県史 資料編10「近衛種家書状案」(近衛文書)

1551(天文20)年に比定。ほぼ同文の、太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連宛文書がある。

 久しく筆をおいておりました。疎遠の至りです。土岐美濃守入国のこと、尾張国織田備後守に相談しているそうです。ということで、あの国の境目など再論(?)に及ばぬよう、ますます平穏である段、お喜びに思われるでしょう。武家御内書はこのようなので、細かい点は除いて見るように仰せられました。さらに佐々木弾正少弼の使僧が申し伝えることでしょう。

参河・尾張国境目之儀、扨下向之由候、暑気之時■苦労候、仍彼城之儀、自■存分、定不可残候歟、然■美濃守入国間之事、仍無事之段如此間、置目■相違之様、以御内書之■、可被申調事肝要候、委■令直談候条、令省略候也、謹言、

七月六日

(近衛種家 花押)

春蔵主

→愛知県史 資料編10「近衛稙家書状案」(近衛文書)

1551(天文20)年に比定。

 三河・尾張の国境のこと。下向されるそうで、暑いさなかご苦労なことです。あの城のことですが、自らの存分により、きっと残らないことでしょうか。であれば美濃守入国の間のこと、平穏の段このようになっていますので、置目に相違ないよう、御内書の内容をもってご調整下さるのが肝要です。詳しくはお会いした際に申しますので省略します。