夜前、敵、城中へ入候所、執合数多討捕候由、誠以心懸神妙被思召候、猶有馬法印・長束大蔵大輔可申候也、

卯月六日

榊原式部太輔とのへ

→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「豊臣秀吉朱印状写」(古文書集三)

1590(天正18)年に比定。

昨夜、敵が城内へ入りましたところ、邀撃して多数を討ち取ったとのこと。本当に神妙な心がけだとの思し召しです。さらに有馬法印と長束大蔵大輔が申すでしょう。

Posted from WordPress for Android

この文書の年次比定は従来永禄4年とされている。「酉」とあるから自ずと12年おきに限定されるからだ。「禄寿応隠」の虎印判初見は1518(永正15)年と言われるから、本文書の上限は永正10年には遡れるだろう。下限は後北条氏滅亡前の天正13年となる。

  • 永正10年(癸酉)
  • 大永5年(乙酉)
  • 天文6年(丁酉)
  • 天文18年(己酉)
  • 永禄4年(辛酉)
  • 天正元年(癸酉)
  • 天正13年(乙酉)

天文18年をまず考えてみる。この段階では新田横瀬氏・足利長尾氏は山内上杉方であるから、人質を後北条氏に送ったとは考えにくい。同様の理由で、上杉憲政が上野国にいた天文18年以前は対象外となる。

引き続き消去法で考えていく。永禄4年は、ちょうど越後勢の侵攻と合っている。人質を伊豆三島に退避させる観点からは問題ない。ただ、関東幕注文に横瀬・足利両氏は名を連ねている。天文末年から永禄3年までの間で後北条氏が人質を取るまでの支配透徹をこなせたかが問題になるだろう。永禄4年説は保留としておこう。

天正元年以降。こちらは、奉者の大草左近大夫(康盛)が、氏康没後に当主側近から北条宗哲家臣に変わっているため、除外される。

後は永禄4年説の留保事項をクリアすれば比定は完了する。ところがこれが意外に難しい。

長尾景虎が上野国に駐屯を始めた永禄3年9月、北条氏政が浦野氏に人質提出を求めた書状がある。浦野氏も関東幕注文に名前があるから、横瀬・足利両氏も同様に氏政から人質提出を求められていた可能性が高い。しかし、上野国衆が実際に人質を出したかは微妙だ。大戸の浦野氏は近隣の倉賀野に人質を出すよう依頼されている。来襲直前になって「実子を倉賀野へ」と依頼しているのだから、それ以前には人質をとれていないということだ。さらに、「川越へ」とすら言えていない。利根川以南へ出せという高圧的な言辞は使えなかったのだろう。

また、永禄4年説では、直前まで小田原を攻囲されていた事から人質を安全な三島に移送したとされる。だが、上で考えたように、小田原に「新田証人」がいた可能性は低い。

逆に、小田原から人質がいなくなるデメリットは大きいだろう。小田原城が安全ではないという宣言になるし、人質引き渡しによる交渉を小田原で行なえなくなる。退嬰的で不可解な政治判断ではないか。永禄4年説もこうなると適合性が低い。

ここで天正13年を検討してみると、実は自然な流れである事に気付く。まず、前年末より北条氏照が利根川を渡って新田と館林に侵攻している。1月4日の氏照書状では両所とも降伏して接収完了しており、11日には進軍してきた氏直が館林城主の長尾顕長を接見。氏直は2月13日以前に小田原へ戻る。この時連れて来た人質が3月7日に三島へ移動。この時の由良・長尾氏は完全降伏であるから人質を強制的に移送するのも可能だ。ちなみに、人質の正体は国繁と顕長兄弟の母妙印尼と、その従者だったのではないかと推測している。

更に、当時後北条氏は徳川氏と同盟しており、三島はその国境に当たる。羽柴氏は両氏共通の敵国であり、佐野氏を介して羽柴方となった新田・館林の由良国繁と長尾顕長もまた敵であった。氏直からすれば、両者からの人質を豆駿国境に置く事は、徳川氏と共有する人質だというアピールにもなり、政治的な利点があったように思える。

天正13年説のネックは1点。この文書の奉者を大草康盛とするなら、康盛は既に丹後守となって北条宗哲家臣になっていることだ。しかし、この大草左近大夫を康盛ではなく、残存文書が1通しかないもう1人の大草左近大夫(康盛の後継者)だと考えるなら、天正13年の方が比定として妥当であると考えられる。

1590(天正18)年5月16日

十六日(中略)

一小太郎東国人ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云ゝ、一段城堅固、万ゝノ猛勢取巻、城ノ内五里四方ニ人勢六万在之申ト、永ゝ敷見ヘ了ト、人馬多ク死タル、道ノクサキ事無限云ゝ、

1590(天正18)年7月26日

廿六日(中略)

一小田原ノ様ムサゝゝト落居、氏直ハ家康ヘカケ入、先無別儀、父ノ氏正・弟奥州ノ守ハ生害、則盆以前ニ首二ツ京ヘ上了、ニセ物ノ様ニ申、今度猿楽衆上テ必定ゝゝ云ゝ、関白殿只人ニ非ス、ムサゝゝト天道ニテ落居ト聞ヘ了、頓テ御馬被入トテ、郡山ノ正二位大納言殿昨夕在京了、扨日本国六十余州嶋ゝ迄一円御存分ニ帰了、不思議ゝゝゝノ事也、高麗南蛮ヨリモ御礼ノ使罷越、京堺ニ逗留了、ゝ妙希代ゝゝ、

→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「多聞院日記」

 5月16日。一、小太郎が東国の人を見回って帰ってきた。昨夕帰ったという。一段と城が堅固。数万の猛烈な軍が取り囲み、城の中5里四方に6万の軍勢がいるようで、これは長期戦になると。人馬が多く死んでいて、道が臭いこと限りなかったという。

 7月26日。一、小田原の様子、むざむざと落城。氏直は家康の元に駆け入り、まずは無事だった。父の氏政とその弟陸奥守(氏照)は自害。そして盆以前に首級2つが京へ上った。贋物のように言われていたが、この度猿楽衆が上って「間違いない」と確証したという。関白殿はただの人ではない。むざむざと天道にて落城と聞いた。すぐに帰京なさるとのことで、郡山の大納言(秀長)殿は昨夕から在京。さても日本国60余州の島々まで一円の支配をなしてお帰りだ。不思議不思議のことだ。高麗・南蛮からも表敬の使者が来て京・堺に逗留している。奇妙で珍しいことだ。

Posted from WordPress for Android

(封紙ウハ書)「真田源三郎殿」

来書披見候、然者、なくるミの事得其意候、左候へ者、其許之様子京都之両使被存候間、則彼両人迄其方使者差上候、定而披露可被申候、将又菱喰十到来、令悦喜候、猶榊原式部太輔可申候也、

十一月十日

家康(花押)

真田源三郎殿

→群馬県史 「徳川家康書状」(長野県真田家文書)

1589(天正17)年に比定。

 書状拝見しました。ということで、名胡桃のことはその意を把握しました。そういうことなら、あなたの状況は京都の両使者も知っていますので、すぐ両人にあなたの使者を送ります。きっと披露してくれるでしょう。そしてまたヒシクイ10羽が来ました。嬉しいことです。さらに榊原式部大輔が申し上げるでしょう。


一幻庵息新三郎陣所、かんはら、冨士川取越被申事、[付、大石源三、屋形様江被及直札候事、]
一氏政、小田原打立十二日、
一駿河懸合者十三日、甲衆うきつにて四百四人討捕候、
一陣所、駿河のぬまと、
一甲之陣所、駿河之苻内、かつら山替候間、如此候、
一駿河之氏真、あへ山かへつほミ被申候、人数之儀、一騎一人無患候、
一新太郎、当月廿三日ニ駿河江罷立被申候、
一かつら山要害こうこく寺と申地利、自此方則候事、
以上
 由良 成重
十二月廿八日
松石 参

→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「由良成繁覚書写」(上杉家文書)

1568(永禄11)年に比定。

 覚書。一、北条幻庵の息子新三郎の陣所は蒲原で富士川を越えたと言われています(大石源三(氏照)が屋形様へ直接書状を出されたそうです)。一、北条氏政が小田原を12日に打ち立ちました。一、駿河国での交戦は13日。武田方を興津で404人討ち取りました。一、駿河国の今川氏真は安倍の山小屋へ撤退したとのこと。部隊は1騎1名も損害はありません。一、新太郎(氏邦)は今月23日に駿河国へ出発すると連絡がありました。一、葛山の要害で興国寺という場所をこちらから乗っ取りました。

去月沼津相動、宿城仕払候砌、敵一人討捕候、高名誠神妙候、弥可竭粉骨候、仍如件、

九月十三日

(氏直花押)

小野沢五郎兵衛殿

→小田原市史 通史編 原始 古代 中世 別冊 小田原北条氏五代発給文書補遺 「北条氏直感状」(加古文書)

1581(天正9)年に比定。

 去る月に沼津で作戦し宿城の攻略を指示した際に、敵1名を討ち取りました。高名は本当に神妙なことです。ますます粉骨を尽されますよう。

金井但馬就捧訴状、沼上出羽守以相目安遂糾明畢、然而号沼上借米、小机一騎合之給米金井押取事、無是非曲事候、彼一騎合給拾弐俵、来十日を切而自金井前可請取旨、依仰状如件、

天正十二年[甲申]三月二日[虎朱印]

評定衆

下総守 康信(花押)

沼上出羽守殿

→小田原市史 通史編 原始 古代 中世 別冊 小田原北条氏五代発給文書補遺 「北条家裁許朱印状写」(模写古文書四)

金井但馬が提出した訴状について、沼上出羽守の相目安をもって糾明を遂げた。これにより沼上が称する借米である、小机一騎合の給米が金井に押収されたことは紛れもない違法行為であります。あの一騎合給20俵は、来る10日を期限として金井の手元から受け取るように。仰せによりこのようにする。

九月廿日於甲州都留郡合戦、無粉骨比類、弥可被励忠節候、謹言、

九月廿二日

[宗瑞花押]

神田祐泉

→小田原市史 通史編 原始 古代 中世 別冊 小田原北条氏五代発給文書補遺 「伊勢宗瑞感状写」(松蘿随筆集古三十三)

 9月20日、甲斐国都留郡での合戦での活躍は比類がなかった。ますます忠節に励むように。

桐野作人著・アスキー新書。史料ベースできっちり構成されている。とはいえ『関ヶ原前夜』と比較すると、二次史料の多用が目立つ。興味深かったのは、小早川秀秋の家臣である稲葉正成・平岡頼勝が、徳川家康側近の山岡道阿弥・岡野江雪斎と接触していたというくだり(189ページ)。

岡野江雪斎は、旧名板部岡江雪斎融成。北条氏規や笠原康明と共に後北条末期の上方外交を担当している。

『家臣団辞典』によると、関ヶ原合戦では、小早川勢の牢人笠原越前守が島津豊久を攻めたとのこと。ちなみに、稲葉正成の次男正勝は後の小田原藩主だったリする。

小早川秀秋の家中も色々面白そう。

書中少し気になったのが、「外実」を外聞と解釈していた点。これは「外聞與云、実儀與云」(http://rek.jp/?p=1754)の省略だと思われる。「外の見栄えも内情も」と解いた方がよさそうだ。

現代語では『一両日』というと1~2日となる。一(1)から両(2)とするためだ。では戦国期はどうか。アップした文書から検索すると4例が挙がった。

01)用所之義、町人一両人被相加、厳密ニ可致候

必要なことは、町人『一両人』を加えられ、厳密にして下さい。

02)依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候

このお返事により、家老の方『一両人』が書面をもって申し入れられるでしょう。

03)当地悉令放火、敵一両人討捕、注進状令披見候

当地でことごとく放火して、敵『一両人』を討ち取った報告書を拝見しました。

04)猶伝馬銭於不出者、此儀及横合者、一両人可成敗之状如件

なお、伝馬銭を拠出しない者、このことに異議を唱える者は、『一両人』成敗するだろうことは件の通りである

01は「1~2人」だとしても問題はない。但し、その前段で町人が付けられる対象が「新田証人上下2人」と書かれているため、「町人一」が「両人に相加えられ」るように「厳密に致すべく候」と切り分けられる可能性がある。

02については「家老格が1~2人」であるなら問題はない。但し、書状を書いたのは一宮宗是という今川家臣に過ぎず、格上であろう家老を「1~2人」と大雑把に括る点に疑問がある。「一両人」と挿入しなくても意味は通るように思えるので、更に疑問は大きくなった。

03については明らかにおかしい。感状で、討ち取った数をこのように記述する例はない。「一人」か「二人」では大きく異なるからだろう。「余人」がつく場合もあるが、これは二桁の戦果を集団で得た際に用いられている。討ち取った人数が1人か2人か不明だったまま感状を発行した可能性もあるものの、「注進状を披見せしめ候」とあるから報告書は上がっている筈だ。

04も「1~2人」では無理が大きい。成敗対象者は、伝馬銭拠出の拒否者と異議提唱者となる。違反した者は全て処罰対象となり得る訳で、1~2人と枠をはめる表現は矛盾する。どちらもを成敗するということだから、『一両人』=「どちらの者も」とした方が自然だ。1~2という数の概念よりは、名前を特定しない任意の人間という側面が強い。とはいえ違反した者の成敗を記述した文書で『一両人』が見られるのはこの文書だけであることから、何故ここにだけ使われていたのか謎は残る。

では今度は『一両人』を「任意の有資格者=然るべき誰か=責任がとれる者」と読み替えて考えてみる。01、02、04に矛盾はない。然るべき町人(責任を負える者)、家老のうち誰か責任が取れる者、違反者のうち責任を取れる者となる。03は特異で、名前が出てこないで「敵一人」と記述する感状が多い中、何故ことさらに「敵のうち然るべき誰か」という意味合いを持たせたのかを解明しなければこの仮説は成り立たない。ただ、何れにせよ「両=2」の意味は入っていないと考えることに矛盾は生じないだろう。

そこで、「両」がつく数詞を更に検索すると、「両三人」という言葉が見当たった。こちらも「両=2」と捉えると2~3人となる筈である。

05)小田殿内、山内・前野・高田、両三人へたけを一すしつゝ遣し候
06)同五月廿日父平左衛門と重時并近藤石見守両三人、於三州最前令忠節
07)今度自房州、越上州へ候使両三人搦捕候、先代未聞忠節候

ところが、05と06はともに人名を明確に指し示しており、数字のぶれも任意性も全くない。07だけ人名はないものの、この時氏康はこの手柄に狂喜しており、前代未聞の手柄だとして太刀を与えるばかりか知行も給付し、「更に通行するだろうからもっと捕捉せよ」と書いている。ここまでの手柄に対して「2~3人」というぶれを用いるとは考えにくい。3例ともに「3人であってそれ以外の人数ではない」という強調の意味で「両」を付けているように思われる。

「一両人」「両三人」の共通点を抜き出すと、『両を2としていない』『特定の人物への依存度が高い』となる。一方「両」の位置が異なる点は重要な差異と考えうる。「両一人」か「三両人」が成立しない以上、この2つの言葉を取りまとめるのは難しいからだ。

恐らく私がアップした文書が少な過ぎて判断できないのだろう。今後は類例を更に探すとして、01~04の各文書では暫定処置として『一両人』として当てはめて解釈を行なわない。