月: 2012年3月

徳川家康、名胡桃の状況を報告してきた真田信之に返書する

(封紙ウハ書)「真田源三郎殿」 来書披見候、然者、なくるミの事得其意候、左候へ者、其許之様子京都之両使被存候間、則彼両人迄其方使者差上候、定而披露可被申候、将又菱喰十到来、令悦喜候、猶榊原式部太輔可申候也、 十一月十日 徳川家康、名胡桃の状況を報告してきた真田信之に返書する

由良成繁、松本石見守に、後北条氏と武田氏の紛争状況を伝える

覚 一幻庵息新三郎陣所、かんはら、冨士川取越被申事、[付、大石源三、屋形様江被及直札候事、] 一氏政、小田原打立十二日、 一駿河懸合者十三日、甲衆うきつにて四百四人討捕候、 一陣所、駿河のぬまと、 一甲之陣所、駿河之苻内 由良成繁、松本石見守に、後北条氏と武田氏の紛争状況を伝える

北条氏直、駿河国沼津における、小野沢五郎兵衛の忠節を賞す

去月沼津相動、宿城仕払候砌、敵一人討捕候、高名誠神妙候、弥可竭粉骨候、仍如件、 九月十三日 (氏直花押) 小野沢五郎兵衛殿 →小田原市史 通史編 原始 古代 中世 別冊 小田原北条氏五代発給文書補遺 「北条氏直感状」(加 北条氏直、駿河国沼津における、小野沢五郎兵衛の忠節を賞す

後北条氏、沼上出羽守に、金井但馬が押し取った、小机一騎合給米十二俵の受け取りを認める

金井但馬就捧訴状、沼上出羽守以相目安遂糾明畢、然而号沼上借米、小机一騎合之給米金井押取事、無是非曲事候、彼一騎合給拾弐俵、来十日を切而自金井前可請取旨、依仰状如件、 天正十二年[甲申]三月二日[虎朱印] 評定衆 下総守  後北条氏、沼上出羽守に、金井但馬が押し取った、小机一騎合給米十二俵の受け取りを認める

『謎解き関ヶ原合戦』

桐野作人著・アスキー新書。史料ベースできっちり構成されている。とはいえ『関ヶ原前夜』と比較すると、二次史料の多用が目立つ。興味深かったのは、小早川秀秋の家臣である稲葉正成・平岡頼勝が、徳川家康側近の山岡道阿弥・岡野江雪斎 『謎解き関ヶ原合戦』

一両人

現代語では『一両日』というと1~2日となる。一(1)から両(2)とするためだ。では戦国期はどうか。アップした文書から検索すると4例が挙がった。 01)用所之義、町人一両人被相加、厳密ニ可致候 必要なことは、町人『一両人』 一両人