近世(江戸時代)のドラマで現代人はよく知っているかも知れない。任侠で仁義を切る台詞に「手前、生国は相模でござんす……」というものがある。また、商人が自称として「手前ども」という。

では、具体的に戦国期の人々は「手前」をどう使っていたのか。

現時点で「手前」を含む文書は13例。それぞれの意味から5つのグループに分けてみた。

●手近(対象に近い空間)
必ゝ手前計之備候者→手近な備えばかりを優先するならば
一間之内にて人ゝ之手前各別候者→1間のうちでそれぞれの作業範囲が別だと
猶以手前堅固之備→さらに手元を堅固に備え
於新太郎手前致討死候→新太郎の前で討ち死にしました
上意於御手前数度被及御一戦候→上意にてお手前で数度合戦に及び
或年貢を百姓ニ不為計而手前にて相計→あるいは年貢を百姓に計量させず手元で量り

●手元(懐具合)
彼替従其方手前可出由御心得被成候→その替地をあなたの手元より拠出するべきだとしているとのこと
就拙者手前不罷成→私のやり繰りがまかりならなかった件で
但当乱令味方者共、手前之儀者→但しこの反乱で味方した者たちの手元は

●身の回り(目先のこと)
手前之事候間→身の回りことに追われ
此度感状可遣候へ共、手前取乱間→この度感状を出そうと思いましたが、身の回りが取り乱した状態なので

●立場への配慮(~の手前・現代語に近い)
殿様御手前相違申候ハぬやうニ→殿様のお手前相違のないように

●第一人称(近世よく用いられる、謙譲を交えた自称か)
既真田手前へ相渡申候間→既に真田がこちらへ渡していると申していますので

●「手」を略したと思われる例(ほぼ資金拠出に関連)
倉賀野淡路守前より可請取之
都筑前より可出
藤源左衛門代前より可請取之者也
駿州衆各守氏真前

 最も多いのが、手近(対象に近い空間)となる。また、身の回り(目先のこと)もほぼ同じ意味である。合わせて8例。次に手元(懐具合)は3例。現代語では「手元不如意」という言い方で生き残っている。現代語でよく用いられるのは「~の手前」という立場への配慮という意味だろう。この時代では稀な用例だったのか、1点しか検出できていない。

 第一人称の「手前」は1例だが、『既真田手前へ相渡申候間』も、よくよく考えてみると「手近な」という意味で通るような気もする。そこでさらに、『時代別国語大辞典 室町時代編』(以下時代別辞典)で「手前」を引いてみると以下のようになっていた。

【てまへ】

<名詞>

1 その人の手の届く範囲にあるすぐ前のところの意で、他ならぬその人自身の、もと、ところであること、また、その人自身が当面する状況や事情を問題としていう。

2 特に、その人自身の内内の経済状態を取上げていう。

3 その人自身の裁量でなされるところ。また、あることが、その人自身の自由裁量にあることをいう。

4 特に、茶道で、その人が親しく茶を点ててふるまうこと。転じて、茶の点て方、その作法、をいう。

<代名詞>

1 自分のほうの意でややへりくだっていう一人称。わたくしども。

2 対等、あるいは、目下に対して、親しみをこめていう二人称。

 念のため「前」も引いてみたところ、意味の3番目にあった項目が、「手前」の名詞1・3と似ていることに気づいた。

【まへ】

3 その人の目の及ぶところ、自らの立場で責任を果たしうる領域・立場、の意を表わす。

 つまり、対象者の能動範囲という具体的な空間指定、対象者の組織内立場・建前という抽象的な帰属指定については、「手前」でも「前」でも構わないという仮説が成り立つ。

 さらに進んで、邦訳日葡辞典を直接引いてみた。

【Temaye】

ある人に属していること。または、関係していること。または、人のなす仕事。

 ここでは、時代別辞典にある代名詞の意味が入っていない。たまたま書き漏らしたか、人称代名詞として用いられるのが稀だったかだろう。日葡辞典は戦国期そのままの様相を伝えているだろうから、やはり個人的に人称があったかは疑問に感じる。

 そこで、次回改めて『既真田手前へ相渡申候間』が「人称代名詞でなければどうか?」を検証してみようと思う。

懇望・悃望の用例についてまとめた。なお、懇望と関係が深い『赦免』は、検証a18:刈谷赦免についてでまとめているのでご参照を。

a 懇望された側が明記された場合

a-1 斯波義達から上杉顕定へ

就遠州之儀、従屋形管領へ依懇望被申子細候、去春以来当国致滞留候

a-2 伊勢外宮(話者)から六角定頼へ

抑両太神宮御仮殿朽損以外候、然間、六角殿江依懇望、内宮御仮殿造替候

b 懇望した側が複数記載されている場合

b-1 椎名康胤らから上杉輝虎(話者)へ

初推名何も敵躰候者共、雖悃望候、とても見詰候間

b-2佐竹義重・宇都宮広綱・東方衆・北条氏政から白川義親へ

条々御懇志本望至極候、仍旧冬於関宿始佐・宮東方之衆、氏政懇望、就此儀、御存分具被露御紙面候

b-3 長尾憲景・長尾景房・長野業正から上杉輝虎へ

為始北条孫次郎、宗者数百人被討捕、白井・惣社・蓑勾悃望之段風聞、目出度奉存候

 

[warning]b-2については、「佐竹義重・宇都宮広綱・東方衆から北条氏政へ」という解釈も取りうるが、現段階では氏政を懇望される側には置いていない。文の用例だけを見るならば、aで見たように懇望された側の人称が記載される場合、単純に『人称→懇望』という並びではなく『人称→江(依)懇望』という形式が取られるため(「依」は前後の状況から入れられるので、必須条件ではないだろう)。文意や史料の収集状況によっては、この定義は変更になるだろう。[/warning]

 

c 懇望された側が話者=差出人ではない場合

c-1 本庄繁長から伊達輝宗・蘆名盛興へ

其表之儀、本庄逆心付而、去初冬ヨリ御在陣、至只今無手透被取結、外廻輪悉被為破(扌+却)、落居不可有程之由、珍重候、就其伊達・会津相頼、令懇望由承候、左候者、在赦免可然候歟、御思慮此節候

c-2 北条氏政から武田晴信へ

越甲何与哉覧取成ニ付而、氏政悃望動之由申候、兎角ニ堅固之動ニ者有之間敷候

c-3 由良国繁から北条氏政へ

当秋之動、由良信濃守依懇望候、去十五日出張

d 懇望された側が話者=差出人の場合

d-1 佐竹義重から北条氏直へ

将又佐竹様ゝ悃望之間、令赦免

d-2 奥平定勝親類から今川義元へ

今度九八郎就構逆心、可加成敗之処、各親類九八郎於永高野江追上、監物儀谷可引入之由、達而之懇望之条、赦免之上

d-3 三好方から足利義昭へ

去春已来三好かたより、種々懇望仕候、其外御調略之筋、幾重ニ存之由候き

d-4 藤田康邦から北条氏康へ

并高松筋へ散動之事、藤田色ゝ令懇望間、一動申付可打散存候、御人数之事御大儀候共、御用意肝要候

d-5 匂坂長能から今川義元へ

此人等去年令逆心之条、雖可遂成敗、長能入道依無無沙汰令懇望之条、各免除

d-6 織田信秀から今川義元へ

今度、山口左馬助、別可馳走之由祝着候、雖然、織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候

「懇望・悃望」の語義としては、それぞれの文の解釈を踏まえると以下のような分布がある。完全に網羅していないのであくまで参考例ではあるが、軍事用語としてある程度機能しているように見える。

経済的援助の要請 1例 a-2
謀叛による罪の免除要請 3例 c-1/d-2/d-5
降伏時手続き上の要請 5例 b-1/b-3/d-1/d-3/d-6
援軍・共同作戦の要請 5例 a-1/b-2/c-2/c-3/d-4

隙入

北条氏政、酒井伯耆守に、榎本参陣を褒め防戦を指示するの中で

今度当表隙入ニ付而、榎本ニ以三百之人数在陣可走廻由

という表現がある。「隙入」を当初「すきいる」=「隙を狙って入り込む」のように漠然と解釈していたが、以下の語義があることが判った。

『古文書古記録語辞典』

ひまいる 手間どる、手数がかかるの意。

『時代別国語大辞典』

ひまいり 心ならずも時間をとられる用事。

ということで、アップした文書の解釈は、

この度、この方面で手間取っている件で、榎本に300の人数で在陣して活躍なさるだろうとのこと

とするのが正しいようだ。

現代語では『一両日』というと1~2日となる。一(1)から両(2)とするためだ。では戦国期はどうか。アップした文書から検索すると4例が挙がった。

01)用所之義、町人一両人被相加、厳密ニ可致候

必要なことは、町人『一両人』を加えられ、厳密にして下さい。

02)依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候

このお返事により、家老の方『一両人』が書面をもって申し入れられるでしょう。

03)当地悉令放火、敵一両人討捕、注進状令披見候

当地でことごとく放火して、敵『一両人』を討ち取った報告書を拝見しました。

04)猶伝馬銭於不出者、此儀及横合者、一両人可成敗之状如件

なお、伝馬銭を拠出しない者、このことに異議を唱える者は、『一両人』成敗するだろうことは件の通りである

01は「1~2人」だとしても問題はない。但し、その前段で町人が付けられる対象が「新田証人上下2人」と書かれているため、「町人一」が「両人に相加えられ」るように「厳密に致すべく候」と切り分けられる可能性がある。

02については「家老格が1~2人」であるなら問題はない。但し、書状を書いたのは一宮宗是という今川家臣に過ぎず、格上であろう家老を「1~2人」と大雑把に括る点に疑問がある。「一両人」と挿入しなくても意味は通るように思えるので、更に疑問は大きくなった。

03については明らかにおかしい。感状で、討ち取った数をこのように記述する例はない。「一人」か「二人」では大きく異なるからだろう。「余人」がつく場合もあるが、これは二桁の戦果を集団で得た際に用いられている。討ち取った人数が1人か2人か不明だったまま感状を発行した可能性もあるものの、「注進状を披見せしめ候」とあるから報告書は上がっている筈だ。

04も「1~2人」では無理が大きい。成敗対象者は、伝馬銭拠出の拒否者と異議提唱者となる。違反した者は全て処罰対象となり得る訳で、1~2人と枠をはめる表現は矛盾する。どちらもを成敗するということだから、『一両人』=「どちらの者も」とした方が自然だ。1~2という数の概念よりは、名前を特定しない任意の人間という側面が強い。とはいえ違反した者の成敗を記述した文書で『一両人』が見られるのはこの文書だけであることから、何故ここにだけ使われていたのか謎は残る。

では今度は『一両人』を「任意の有資格者=然るべき誰か=責任がとれる者」と読み替えて考えてみる。01、02、04に矛盾はない。然るべき町人(責任を負える者)、家老のうち誰か責任が取れる者、違反者のうち責任を取れる者となる。03は特異で、名前が出てこないで「敵一人」と記述する感状が多い中、何故ことさらに「敵のうち然るべき誰か」という意味合いを持たせたのかを解明しなければこの仮説は成り立たない。ただ、何れにせよ「両=2」の意味は入っていないと考えることに矛盾は生じないだろう。

そこで、「両」がつく数詞を更に検索すると、「両三人」という言葉が見当たった。こちらも「両=2」と捉えると2~3人となる筈である。

05)小田殿内、山内・前野・高田、両三人へたけを一すしつゝ遣し候
06)同五月廿日父平左衛門と重時并近藤石見守両三人、於三州最前令忠節
07)今度自房州、越上州へ候使両三人搦捕候、先代未聞忠節候

ところが、05と06はともに人名を明確に指し示しており、数字のぶれも任意性も全くない。07だけ人名はないものの、この時氏康はこの手柄に狂喜しており、前代未聞の手柄だとして太刀を与えるばかりか知行も給付し、「更に通行するだろうからもっと捕捉せよ」と書いている。ここまでの手柄に対して「2~3人」というぶれを用いるとは考えにくい。3例ともに「3人であってそれ以外の人数ではない」という強調の意味で「両」を付けているように思われる。

「一両人」「両三人」の共通点を抜き出すと、『両を2としていない』『特定の人物への依存度が高い』となる。一方「両」の位置が異なる点は重要な差異と考えうる。「両一人」か「三両人」が成立しない以上、この2つの言葉を取りまとめるのは難しいからだ。

恐らく私がアップした文書が少な過ぎて判断できないのだろう。今後は類例を更に探すとして、01~04の各文書では暫定処置として『一両人』として当てはめて解釈を行なわない。

「用所」の例を挙げてみる。

01)世間只今之義相替候間、用所不成事候

世間の現在の状況は変わってしまったので、『用所』もならないことです。

02)過半小田原之川へ引上而置、用所次第可乗出候

大半を小田原の川へ引き上げて配置し、『用所』しだいで乗り出して下さい。

03)矢普請之儀者、先段氏直用所ニ而是へ被尋候時、諸人聞前にて、拙者申出候、氏直同意候キ

矢普請のことは、先に氏直が『用所』にてこちらへお尋ねになった時、諸人の聞く前で私が申し出ました。氏直は同意しました。

04)然者手切以前之事者、此方へ用所之度毎、何ヶ度も遂披露、可罷越

ということで手切れ以前のことは、こちらへ『用所』のたびごとに何度でも報告し連絡して下さい。

05)仍鉄炮薬玉進之候、猶用所付而重而可進候

鉄砲の火薬と弾丸を進呈します。さらに『用所』については重ねて進呈するでしょう。

06)用所之義、町人一両人被相加、厳密ニ可致候

『用所』のことは、町人一両人をつけて、厳密に行なって下さい。

このうち01と06は「身の回りの経費」を意味するように見受けられる。02と05は「軍事上の必要事項」であると考えられる。03と04は難解であるが、「作戦会議の場」もしくは「作戦会議」を表わすと考えるのが自然かと思う。

意味が3つあるという仮説にすぐ落ち着くのは安易な気もするが、01では資金繰りに困った憲政が手元不如意を切々と訴えているし、06では町人が出てくるので軍事用語ではない。03は、氏政が家臣の注視の中で氏直に進言した様子が描かれているし、04では「そのたびごと」とあるので開催されるものというニュアンスが強く会議体を思わせる。02・05は「必要に応じて」という意味にしか解釈できない。語源としては「用のあるところ→必要に応じて」というものだったのが、戦国期多義性をつけたのかも知れない。

現代語と異なり、古文書の『我等』は単数の一人称「私」を表わす。

石田三成が「於我等満足此事候」と言った時、満足したのは三成自身のみである。現代語に釣られてついつい「われら=私達」と読みがちになる。

もう1つ「我々」という言い回しもある。これは「われわれ=私達」だろうか。いくつか調べてみたが、単数と明確に限定できる例は1つだけだった。

知行方之儀、如先代為不入進候、於公私之内も別而頼母敷思召候間、可被守立事、専一候、我ゝ若輩ニ候之間、如此候、粉骨尽就走廻者、弥ゝ可引立候、為後日仍如件

上記は、吉良氏朝が家臣の江戸彦九郎に免税を与える代わりに活躍を期待した文書。ここで「我ゝ若輩ニ候之間」とある。「私達が若輩なので」では明らかに変で、氏朝が「私が若輩なので」と解釈した方が正しい。

では、現代語で言う複数の一人称「私達」はどう表記されるのだろうか。

抑駿州此方間之義

「そもそも、駿河国とこちらの間のことは……」

今度当方安危砌候条

「この度はこちらの存在に関わることなので……」

大坂へ遣候当方之使者

「大阪へ送りましたこちらの使者……」

上記のように「私達」というよりは「こちら」に近いような言葉(此方・当方)が使われていた。ちなみに「我方」は、たまたまなのか当サイト内で1件もヒットしなかった。

では「等」自体が現代語と違う用法なのだろうか。

其外被拘来山林等、如年来永不可有相違

「そのほか所持しておられた山林など、年来のように末永く相違のないように……」

上記から考えて、「等=など」で現代語と同じだ。三人称の場合はどうか。具体的には「彼等」「彼者」の2通りがある。意外にも「彼等」の例は少なく3つのみ。

若於彼等同心相放者別人可入替

「もしその(=かの)同心が解職されるならば、別の者を入れ替えるように……」

彼等依妄言、御上洛相滞

「彼の妄言によりご上洛が滞り……」

彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候

「彼が連れていった者たちは守るべき権益のない者です……」

 何れも、単数である。「彼者」は例が多いのだが、単数の意味しかない。念のため1例を挙げておく。

日比彼者屋敷之由、此方江条々申筋目有

「日ごろあの者の屋敷だったとのことで、こちらへ逐次言ってきた筋目があり……」

 三人称で複数の場合「者共」がつくようだ。

東美濃遠山人数少ゝ立置候、彼者共帰陣候而、申鳴分如此候、必定歟

「東美濃の遠山氏が少しの軍を派遣しており、彼らが帰還して話している内容だそうですから、確実かも知れません……」

 現代人から見ると、人称の単数・複数が見分けづらいものだが、注意して解釈していきたいと思う。

無沙汰とは沙汰がないことを指すが、具体的には以下の事例のように使われている。義務を果たさないというニュアンスが最も強く、社会的な状況から徴発の無視・サボタージュの例が多いようだ。

外交に関わるもの

万乙景虎可存無沙汰覚悟候共

努ゝ非無沙汰候

上の『万乙』は意味が取れないが、後半は「長尾景虎に与同するつもりはないだろうが」で間違いない。下は後詰の遅延が政治的意図によるものではないと強調したもの。どちらも政治的距離が遠くなる意味合いで使っている。

納税に関わるもの

詞堂領年貢令無沙汰之事

もしすこしも御ふさた申候ハゝ、めしはなし候て

上は禁制。下は寄進地からの納税が滞ったら代官を罷免してよいと通達したもの。どちらも無沙汰とは納税がない状態を指している。

連絡に関わるもの

余ニ無沙汰之様ニ可被思召候条

取乱之条、早々覃御報候、非無沙汰

上は現地の徴税担当者が「余りに無沙汰だと思われたので」と途中経過を報告したもの。事態が進展していないが、交渉のサボタージュだと誤解された節がある。下は武田信虎が急遽駿河へ赴くことになって慌てて連絡したもの。疎意からではなく、本当に慌しいのだというニュアンス。

徴発の無視・サボタージュに関わるもの

若至于無沙汰之族者

神社之修理、不可有無沙汰者也

各同心之者陣番並元康へ奉公等於無沙汰仕者

若奉行就無沙汰申付者

致無沙汰付者、即令打散

無沙汰付者、可為曲事旨

若無沙汰之在所有之者、請御意、過銭之儀可申付者也

是又無ゝ沙汰可走廻事

致無沙汰人衆等

例が多いのでとりまとめるが、どれも作業員や物資の徴発を拒むことを「無沙汰」としている。沙汰の語例を追っていないのだが、沙汰を「徴発義務の決定」とすると、それを無視することを無沙汰としていたのではないかと思う。そこから派生して外交・納税・連絡でも義務違反の意図で使われるようになり、現代語では連絡の範囲のみで「ご無沙汰しております」と使用していると推測できる。

明智光秀書状写 に「然而」があるが、引用元の『証言 本能寺の変』でこれを逆説としている。当サイトの用語解説然而で、逆接の用法は辞書に見られるのみで掲出文書に見られないことから、その存在に疑義を呈していた。よい機会なので藤田氏が挙げた文書が逆接かを検討してみたい。

「御返報」とあることから、本文書は返信である。宛所の雑賀五郷・土橋重治(以下、紀州勢)と明智光秀は、これまで書状のやり取りがなかった。紀州勢が上意を受けて出撃準備をしており、その中で同じ上意を奉じる明智に連絡を取ったとする。上意は当時の現職将軍足利義昭から発せられており、彼を京に入れることが目的である。ここまでの藤田氏の説明に異論はない。

但し、何故以下の解釈にしなければならないのかは理解に苦しむ。

なお「然而」を「しかして」と順接に読み、この時点ではじめて光秀が義昭に与同したとする見解もある(桐野、二〇〇一)。これについては、通常は「しかれども」と読み、「しかしながら」「そうであるが」と逆接で解釈するから、成り立たない。これは次に述べるように、本史料全体からもそのように解釈しないと整合的に解釈できないことにもよっている。(同書194~195頁)

このあとの「次に述べるように」というのは、追伸で「詳しくは将軍から上意として示されるので、上洛の件は詳しく書きません」ということを指す。どうも、桐野氏と藤田氏の間で、いつから明智が義昭を奉じていたかで意見が分かれ、そのキーワードとして「然而」を順接・逆接どちらに解釈するかが論じられてように思う。

では純粋に文面だけ見たら順接・逆接どちらが相応しいかを検討してみよう。箇条書きの部分を見ると、紀州勢が最初に送った文面がおぼろに判る。どこかの国と親しい間柄であること・和泉と河内方面へ進軍すること・近江と美濃の情勢を気にしていること。そしてこの3点の前提として、足利義昭を互いに奉じていおり、明智への書状も義昭の指示に基づいていることが推測される。

この箇条書き部分を踏まえて、文頭を見ていこう。最初に、音信が初回であることは間違いないと相手の見解を支持している。そして、義昭を奉じていることを示してもらったことを感謝している。明智は先の書状が来るまで紀州勢が同じ陣営だと認識していなかった。

この後に問題の「然而」が入る。次に続くのは、明智が義昭の上洛を命じられてすぐに了解したこと。その次がこの上洛作戦を前提にして紀州勢活動を依頼している一文である。紀伊国から和泉・河内に進軍するというのは、毛利氏に擁された義昭が攝津に上陸することを想定したものだろう。しかし、紀州勢は上洛作戦をこの返報で初めて知った可能性が高い。追記で「詳細は義昭から来るだろう」と書いたり、「すぐに承った」と急遽決まったことと強調したりしているからだ。

そこで改めて考えてみると、「然而」が逆接だと、

  • 「明智と紀州勢が同陣営で嬉しい」ところが「上洛作戦を即座に受託したのでそれを織り込んで動いて」

となり、文意が定かではない。一方順接だと、

  • 「明智と紀州勢が同陣営で嬉しい」ということで「上洛作戦を即座に受託したのでそれを織り込んで動いて」

となって問題はない。このことから、無理に逆接に読む必要はないと判断できる。

検証a03で、沓掛城で証文を失った案件を取り上げたが、その他のものと比較を行なって、それがどの程度異例だったのかを考えてみたい。

彼地一円為不入免許之旨先印判雖有之、去年五月十九日合戦之砌、於沓掛令失却之旨申候条、任其儀如先規所令免除也

あの土地一円を不入として免除する旨、先の印判にあるとはいえ、去年5月19日の合戦時に、沓掛にて紛失した旨を申告しているので、その件は先の文書の通りとして、土地は免除とする。

雖帯天沢寺殿判形、去庚申年於沓掛令失却之由之条、重所成判形也

天沢寺殿の判形、去る庚申年に沓掛において紛失したそうなので、さらに判形を発行する。

 上記が沓掛での証書紛失時の文言である。

雖有先判、令失却之上、重及判形了、若至于後々年、彼失却之判形出之、就有譲状之由申掠輩者、遂糾明可加成敗者也、仍如件
代々証文近日逢盗賊失却云々、縦従他之手雖出之、不可有許容
親ニて候者買徳仕候文書ハ、先年午歳大乱ニ失申候間、此文書可為支証者也、已後ニ従何方違乱之儀候共、此儀者一段申合候て売申候間、此道者ハ其例ニ不可成候也

 いずれもが、紛失・盗難によって失われた先行文書が出てきた場合の対応(後出文書優先)を記載している。

 これと沓掛紛失の件を比較すると、紛失文書の再登場を今川氏は懸念していないのが異なっている。沓掛でなくなった文書が二度と現われることがないと、今川氏は明確に認識していた。かなり確度の強い推測だが、今川氏が給人の文書を沓掛城に集積し、開城時に責任者が焼却を見届けたのではないだろうか。

 「お墨付き」という言葉は現代でも活きており、上位者から承認を得たものとして使われる。そして、「太鼓判」という言葉も残っている。こちらは上位者というよりはその道の達人が当該物の品質を保証するという意味合いだ。情報や判断の保証である「お墨付き」「太鼓判」という古い言葉が、インターネットやテレビが隆盛する現代にも残っているのは興味深い。
 どちらも戦国期に確定した文書形式に関係がある言葉だ。「お墨付き」の「墨」は直筆か花押(サイン)に該当するし、「太鼓判」は文字通り「印判」がそれに当たる。大名の権威を持った文書を得るため、戦国時代の人々は奔走した。

 中世には自力救済の考え方が大きく入っている。これは、自分の身は自分で守るというもので、発行される文書のあり方にも影響を与えている。
 例で挙げてみる。B祭の開催ごとに、A氏は自宅の庭先にゴミを廃棄されて困っていたとしよう。現代であれば、A氏はまず町内会・もしくは市役所(または警察)に相談する。その中で、「祭礼時に個人宅にゴミを廃棄してはいけない」という条例があるかを確認するだろう。あれば「条例違反です」と看板を立てて本人が見張るだろうし、条例がなければ「マナー違反です」と看板の表記を変えると考えられる。これが現代版の自力救済となる。
 とはいえ、現代では家が潰れる程のゴミが来た場合は警察や自治体が保護してくれる。一方、中世ではそれも自力救済のままだ。一番判りやすいのが「禁制」。これは戦時に寺社・村などに発給される文書で、その村に対する禁止事項が記載されている。たとえば、今川義元禁制にあるように、基本的にはその寺社に預けられた物資・人員の権利保護が謳われる。財産や人権の保護は現代でも保証されているが、内容は大きく異なる。
 現代の国民国家では、文民統制が原則だし国民を守る義務を軍は持っている。「いかなる民間施設に対しても暴行は認められない」という前提を構築して、国民を守ることを明示。その上で超法規措置を例外として逐次指令することとなる。この例外処理は司令部が各部隊側に通達する。それは、事前通告したという既成事実があって初めて違反者を処罰できるからだ。
 戦国大名の権力は国民国家でないため、軍が民間人を保護する義務を持たない。このため、保護を希望する民間施設は大名に例外処理を依頼することとなる。先の例で大樹寺は、今川義元からの禁制を得るために発行手数料(御礼銭)を用意しなければならない。
 そして、禁制が出されたからといって自動的に保護される訳ではない。各部隊には通知されないため、禁制を与えられた側が襲ってくる部隊ごとに禁制をかざして対峙する必要がある。禁制を示したのに襲われても権力側は補償しない。そういう状況の中で、寺や村の武装化は進展していったと思われる(寺・村の武装化に伴って戦国期内戦が激化したという説もあるが)。