月: 2011年8月

遠過ぎる石垣山 その2

その1では、地元時代を思い出して色々と書いた。小田原住人からすると、入生田近くまで行って早川を越え急坂を登坂したり、早川駅の向こう側まで行って登るような距離は遠いのだと。 よくよく考えてみても、細川忠興が陣取ったという富 遠過ぎる石垣山 その2

遠過ぎる石垣山 その1

1982年の夏、中学生だった私は初めて石垣山に登った。何となく入った郷土史研究会の活動で「城跡にでも行ってみるか」ということになり、場所を任された次第。ちなみに、顧問の教師を含めて郷土史に興味のある者は私だけ。2班あって 遠過ぎる石垣山 その1

今川義元、興津左近助に、遠江国笠原庄浜野村の砂丘開発仲裁案を伝える

遠州笠原庄村岡西方知行内、浜野村後之砂地之事 右、従前々東西両郷分置之地入同以来、宛行知行之砂領主之事、 信家廿ヶ年余令開発雖令所務、今度斎藤六郎衛門以新儀、可為東方之旨申出之条、双方雖遂裁許、依難及分別、以奉行人令点検 今川義元、興津左近助に、遠江国笠原庄浜野村の砂丘開発仲裁案を伝える

今川義元、鱸越前守の新たな給地と従来の給地を書き出し保障する

年来相拘名職年貢之事 一西野郷名田之事、十九貫文田畠山河屋敷共、 一井山名之事、七貫六百文 一則貞名之事、六貫六百文 一二本木名之事、四貫三百六十文山河屋敷共、    宛行新地四十貫之事 一久九平郷十三貫文 一植野郷六貫 今川義元、鱸越前守の新たな給地と従来の給地を書き出し保障する

『西湘地域』という妄想

西湘。文字通り、西の湘南。 最近は小田原周辺を「西湘」地域と呼ぶ例が多いように見受ける。これは私が東京に出てからだから、1990年代からだと思う。「湘南」ブランドを想起させる名称が口当たりもよく、ベッドタウン・観光での誘 『西湘地域』という妄想