芳札令披見候、如来意去十三日雪、北条家茶会之事羨鋪打過処、雪降済候之間、被相招候段、別而致大慶候、宗賀■被差加、於令同伴ハ寔可有興候、明廿五日朝卯刻以参可謝候、恐々、

十一月廿四日

治部大輔(花押)

杉山市蔵殿へ

→戦国遺文今川氏編「今川義元書状」(弘文荘待買古書目二九)

花押形は天文末~弘治頃と推定される。

 お手紙ありがとうございます。お書きの通り13日は雪でした。北条家の茶会は羨ましいと思いながら過ごしていました。雪が降り止んだので招かれたそうで、とても素晴らしいことです。宗賀を加えて同伴させるのは誠に趣があることです。明日25日朝の卯刻(午前6時頃)に参上してお礼いたします。

その1では、地元時代を思い出して色々と書いた。小田原住人からすると、入生田近くまで行って早川を越え急坂を登坂したり、早川駅の向こう側まで行って登るような距離は遠いのだと。

よくよく考えてみても、細川忠興が陣取ったという富士山陣場(板橋城)の独立丘陵までが『近い』という認識でよいだろう。

が、小田原合戦での上方勢にはまだ突っ込みどころがある。小田原の海上を埋め尽くしたと言われる水軍の存在だ。これを見た後北条氏が「制海権も奪われた」と嘆いたように書いている本もある。

でも、その水軍に肝心の停泊地がなかったことは余り指摘されない。当時の小田原近辺には大型船が着岸できる港はない。現在ある小田原漁港(早川港)は明治以降に作られたもので、早川河口から酒匂川河口までずっと遠浅の砂浜だった。当然大型の安宅船は無理なので、艀を使って物資を揚陸することとなる。そのポイントに選ばれたのが早川河口右岸の高台ではなかったか、と『小田原市史 城郭編』では推測している。確かに、15万の攻囲軍を養うには海上輸送された大量の物資は必須であり、そのためには揚陸ポイントが要る。ただ、急ごしらえの岸壁と艀のピストン輸送で間に合うのか。

米が1人1日1升と考えて1.5kg、これが人数分だと225トン/日となる。1日10時間連続で荷揚げし続けたとして、1分当たり375kgの速度で運ぶ必要がある。ちなみに4月3日に小田原着陣、7月1日に決着がついたとして90日。累計で20,250トンの米がつぎ込まれた計算になる。福井藩米蔵が1町歩(100m四方)で6万俵(3,600トン)を収容したということなので、その5.625倍が必要となる。実際には副食・調味料のほか、衣料品・弾薬も必要だろうから、3~4倍のロジスティクスは必須だったろう。4倍だとすると、早川の揚陸ポイントには2.25km四方の倉庫群が求められる。

この入出庫管理を迅速に行ない、水之尾から荻窪・多古・今井へと毎日物資を搬送する業務も出てくる。通説では長束正家がこなしたというが、彼だけでこなせるとは思えない。陣没した堀秀政は揚陸地点に近い場所に布陣していたというから、この業務で過労死した可能性もあるのではないか。

但しこれらの揚陸・配給業務も、船が絶え間なく物資を供給可能であるという前提に立っている。小田原沖に来る船は、下田を経由して行き来する際に、黒潮の流れをコントロールする必要がある。航路に不慣れな軍船が多数往復するとなると、安全確保のため輸送速度を落とさざるを得ないと思う。天候にも影響されるため、船舶内の物資・倉庫内に余剰在庫が要る。風雨があるからといって戦闘がなくなる訳でも兵士の腹が減らない訳でもないのだから。

このように、海路を使ったとしても補給には難点が多い。後北条氏からすると、小田原沖を埋め尽くす水軍が出てきたところで、さほどの脅威には感じなかっただろう。海が荒れれば敵が飢えるのも早い。

そこで上方勢は、関白道と呼ばれる箱根越えのハイウェイを構築することとなったのかも知れない。石垣山の占地はこの海陸のロジスティクス(兵站)に合っている。

その一方で、後北条氏はこれを見通していたのではないか。小田原城総構では、早川口から小峯御鐘台にかけて二重戸張という構造が3箇所見られる。

 

これが馬出のような攻撃起点機能を持っていたとすると、荷の揚陸地点を牽制するのにちょうどよい構造ではないだろうか。

 

 

そして、陸路の箱根、海路の下田というボトルネックを抱えた大軍が、ロジスティクスに窮して撤退する瞬間を待っていたのではないか。そのような仮説もまた興味深い。次回は両軍の布陣から戦略を考えてみたい。

「(モト懸紙ウハ書)武田伊豆守 義元」

連々無御等閑毎時御馳走、誠御入魂異于他候之間、於当国山西壱所号岡田地[近年三条殿所務分]進之候、雖些少之儀候、御志計候、弥於無御疎略者本望候、恐々謹言、

六月十九日

義元(花押影)

武田伊豆守殿

→戦国遺文今川氏編「今川義元書状写(折紙)」(国立公文書館所蔵楓軒文書纂巻四十)

花押は1546(天文15)年頃のものという。

 常々連絡を絶やすことなく、いつも奔走していただき、本当に親しさが他とは異なります。そこで、山西地方の岡田という地所(近年は三条殿が経営していた分)を進呈します。些少ではありますが、気持ちとしてお納め下さい。ますます親密になれれば幸いです。

[印文「義元」I型]参河国篠原郷永源寺之事

一祠堂寄進田弐町[寮舎共]之事

一買得之田地壱町八段之事[但自此内地頭方江年貢銭参貫六十余納之云々]

一増米弐斗八升余之事

一祠堂之米銭取引之事

一諸寮舎買得之田地、何方仁雖有之、任証文不有相違之事

  付、諸末寺如前々可被相計之事

 右条々、如年来永領掌了、山林見伐所令停止之也、弥修造勤行不可有怠慢者也、仍如件、

弘治参年

五月八日

治部大輔(花押)

永源寺

→戦国遺文今川氏編「今川義元朱印状」(豊田市篠原町・永澤寺文書)

 三河国篠原郷永源寺のこと。一、祠堂・寄進田2町(寮舎=附属組織も含む)のこと。一、買い取った田1町8段のこと(但し、この中から地頭方へ年貢銭3貫60文余りを納めるという)。一、増収した米2斗8升余りのこと。一、祠堂の米・銭を取引すること。一、諸々の附属組織の田は、どこにあったとしても証文の通りとして、相違はないこと。付則、諸々の末寺は前々のように取り計らうべきこと。

 右の条々は、年来のように末永く了解する。山林の伐採計画は停止するように。ますます修行・勤行に励み、怠慢しないように。

1982年の夏、中学生だった私は初めて石垣山に登った。何となく入った郷土史研究会の活動で「城跡にでも行ってみるか」ということになり、場所を任された次第。ちなみに、顧問の教師を含めて郷土史に興味のある者は私だけ。2班あってもう片方は弥生の竪穴住居の1/1復元だった。

当時の石垣山はまだ公園化も全くしていない状況。麓に小さな看板があるだけでもありがたいという感じだった。入生田から箱根ターンパイクを突っ切るコースを顧問の自家用車で登坂するが、驚くほどの急坂。「こんなところに作って……確かに誰も攻められないだろうけど」と一同呆れ顔。城跡の中に入ると、杉林の中にゴロゴロ転がる巨石、螺旋に下る井戸曲輪を見て全員が「これは凄い」と息を呑んだ。

ちょっと気分がよくなった私は、いつも歴史系の書籍で言われる例の台詞を口にした。「この城は小田原城を一望できる要衝で、ここを占領された後北条氏の士気は下がったそうな」と。

だが、友人と顧問の反応は鈍い。

「確かに小田原の街を全て見渡せるけどなあ……遠いんじゃないかな」

「ここ(伝・二の丸)からだと左(八幡山)が遮られて見えないよ」

「むしろ風祭の奥の山の方なら、もっとよく見えるだろうに」

「夏場は霧も出るし、かえって見えなくなるんじゃないの?」

何とも否定的な意見であるが、言われてみると確かに「遠い」。小田原城の模擬天守展望台でも、

「あれが有名な一夜城だって」

「どこ? どれ?」

「矢印だけじゃ判らないな。えー、パンフレットだと『箱根ターンパイクの看板の上』らしい」

「え、あの辺の山? 遠いね。どれがどれやら……」

というやり取りを何度も聞いた覚えがある。

「だって、秀吉って物凄い大軍でびっしり小田原城を取り囲んだんだよね? じゃあ、もっと近くで作ればよかったんじゃないの? あそこだと、箱根から降りてないよね。何だかおっかなびっくりだよね?」

小田原近辺の住人の感覚だと、板橋で東海新幹線の高架ガードを過ぎた辺りから『箱根っぽく』なってくる(実際には、入生田と山崎の間が小田原市と箱根町の境界なのだが)。石材屋とビーバートザン(ホームセンター)の辺は小田原の周縁部という感覚だ。ちなみに後北条の頃からあったという小田原用水はこの近くから始まっている。

まあ確かにあの距離では、本当に『一夜城』な演出をしたとしても、当時の小田原住民には反応が薄かったんじゃないのか、と思える。関東初の総石垣作り! とか、杉原紙で白亜の漆喰に見せかけた! とか。やってもよく見えない。小峯や水之尾近辺にいた連中しか判らないかも。そもそも、全面石垣・漆喰と瓦という構造が関東にないので判りにくい。「何か変なもの作ってるけど、大丈夫かあいつら」ぐらいにしか思われないとしたら、秀吉もがっかりだろう。

小田原人にとっては、

「ターンパイクの上に凄い城を建てられた!」(石垣山城)

というよりは、

「陸上競技場の500メートル手前まで攻め込まれていた!」(羽柴秀次の荻窪仕寄)

の方がインパクトがあるように思う。

そう考えると、石垣山城はむしろ味方に見せるための城だったのかも知れない。街をすっぽり覆った小田原城外郭。それをさらに包囲した上方勢の陣地は広範囲に及ぶ。風祭・水之尾・天子台・荻窪・井細田・多古・今井を眼下に収めるには、石垣山ぐらい引いた位置取りが必要だったと。完成速度からいって、遠征に及ぶ前に築城位置は決まっていた可能性が高い。巨大な小田原外郭を事前に掌握していた羽柴方の情報収集力は凄まじいものがある。その一方で、15万という巨大な軍勢の集合体だからこそ、全軍の動きを監視する必要も出てきてしまった。軍記ものの記述だが、徳川方・織田方が翻意するという噂もあったようだし。

つまり、石垣山城は「あれだけ近くに本格的な城を築いた」というより「あれだけ遠ざけないと包囲軍が見渡せない」という点に凄みがあるのではないか。

遠州笠原庄村岡西方知行内、浜野村後之砂地之事

右、従前々東西両郷分置之地入同以来、宛行知行之砂領主之事、 信家廿ヶ年余令開発雖令所務、今度斎藤六郎衛門以新儀、可為東方之旨申出之条、双方雖遂裁許、依難及分別、以奉行人令点検地形処、彼砂地不分明之旨申之条、東西砂地明鏡之切発分、又者自今以後令開発砂地之田畠、可為兼帯之旨加下知上者、双方立合可所務、此外於芝原者、先規相定之上、開発次第無相違可令所務、山屋敷之儀者、奉行人見届之条、不及異儀、并先年書載地検帳分、近年之切発之地、知行之内無紛之条、如前々可令所務者也、仍如件、

天文廿年十二月廿三日

治部大輔判「右ニ同」

興津左近助殿

→戦国遺文今川氏編「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書編纂所収興津文書)

 遠江国笠原庄、村岡西方の知行内、浜野村の後ろの砂地のこと。右は、前々から東西両郷が共同で使っていた入会地としており、宛て行なった砂地の領主は20年余の開墾と経営を任せた信家であった。この度斎藤六郎左衛門が新たな宛て行ないによって(砂地の)東方の領有を申し出た。双方の言い分を裁許しようとしたが、明快な理由がないので奉行人を派遣して地形を点検した。そうしたところ、あの砂地は明確には分けられないということで、これから開発される田畠は共同名義となるように指示を与える。この上は双方が立ち会って経営を行ない、このほかの芝原については先の規則で定めたように開墾出来次第間違いなく経営するように。山・屋敷のことは奉行人が見届けるので、異義を挟むな。そして、先年検地帳に記載した土地、近年開墾した土地は、知行として間違いはないのだから、以前の通りにこれを経営するように。

[印文「義元」I型]制札

一軍勢甲乙人等、不可致濫妨狼藉事

一山林竹木不可伐取之事

一非分之儀不可申懸事

一年貢已下無々沙汰処、不可入催促事

一為俗之進退、指置往持寺家不可相対事

右条々、堅所令停止之也、若於違背之輩者、可加下知者也、仍如件、

弘治参年

五月八日

永源寺

→戦国遺文今川氏編「今川義元禁制」(豊田市篠原町・永澤寺文書)

一、軍勢・軍属は乱暴・狼藉を働かないこと。一、山林・竹木は伐採しないこと。一、無理なことで言いがかりをつけないこと。一、年貢などの納入が滞っていた場合に催促を入れないこと。一、世俗の都合のために、住持・寺家に指図して臨まないこと。

右条々、堅く禁止する。もし違反した者があれば指示を加えるだろう。

年来相拘名職年貢之事

一西野郷名田之事、十九貫文田畠山河屋敷共、

一井山名之事、七貫六百文

一則貞名之事、六貫六百文

一二本木名之事、四貫三百六十文山河屋敷共、

   宛行新地四十貫之事

一久九平郷十三貫文

一植野郷六貫文

一山中郷十壱貫文

一行広郷六百貫六百文

一鵜瀬郷三貫三百文

右、今度松平左衛門督逆心之刻、兄弟八人相談、九久平仁中条与三郎・松平田三左衛門尉楯籠之処、間廻計策城主市兵衛尉共立出、抽忠節之条、依其賞彼市兵衛知行八■貫文之内四十貫文分書立居屋敷共、長所宛行之也、并抱来名田、如書立員数領賞畢、買得地等如前々、年貢諸役之事可相勤、内徳等ハ為新給恩令扶助之■、縦先地頭并売主雖為退転、不可有相違、陣参奉■不可令怠慢者也、仍如件、

天文廿一年

十一月廿二日

治部大輔判

鱸越前守殿

→戦国遺文今川氏編「今川義元判物写」(彰考館所蔵名将之消息録)

 <所領員数略>

右は、この度松平左衛門督が逆心した際、兄弟8人で相談し、九久平に中条与三郎・松平田三左衛門尉が立て籠もったのに対して計策を廻らし、城主市兵衛尉ともどもに追い出した。忠節がぬきんでいているので、その賞与として市兵衛尉の知行80貫文のうち40貫文を書き出して与えます(居住地の屋敷も含む)。あわせて年来の給地の員数も書き出します。買い取った地は以前と同じく年貢・諸役は勤めること。生産増分は新たな恩としてそのまま与えます。たとえ地頭・売主が退転したとしても、相違はありません。陣奉公で怠慢はないように。

西湘。文字通り、西の湘南。

最近は小田原周辺を「西湘」地域と呼ぶ例が多いように見受ける。これは私が東京に出てからだから、1990年代からだと思う。「湘南」ブランドを想起させる名称が口当たりもよく、ベッドタウン・観光での誘致に使われるようだ。

でも、昔は地域名として使われることはなかった。この地域はあくまで足柄地方だった。

「西湘」という言葉の初例は市内酒匂地区にある県立西湘高校。1957(昭和32)年、近隣の酒匂中学敷地内にて創立している。他の使用例である西湘バイパスが1967(昭和42)年なので、それより10年早い。ではなぜ、「西湘」という名前が高校名に使われたのか。

小田原付近にある県立高校は殆どが地域名を冠している(小田原・足柄・大井・吉田島・湯河原・山北)。例外は城東・城北・城内で、小田原城を基準に方角を入れている。更に例外だったのが西湘である(小田原の私立高校が「旭丘」「相洋」だったことを考えると、私学なネーミングである)。元々は城東高校の普通科から派生したという話を聞いているが、建学時は女子高だったという。

『西+湘』という命名の由来は、校内では著名な話だった。私はここの出身だが、学年担当の教師から「西湘というのは、『西の湘南高校』を目指してつけられた名前だ。それをお前たちは(以下略)」と怒られるのはよくある話だった。その創設に当たって、旧県西学区で最も進学率の高い小田原高校、またはその上を行く隣接学区の平塚江南高校を目標に据えるのではなく、文武共に全国でトップレベルの湘南高校を目指したというのだから大言壮語も甚だしい。しかも女子高で、だ(その後は極端に男子を増員し、80年代には男子が70%以上を占めていた)。

一方の西湘バイパスについては、「湘南のドライブというイメージを小田原までつなげたい」という希望があったように思う。その際に、10年経って人口に膾炙されてきた『西湘』が用いられたのではないか。従来は箱根・熱海の東、東京からの通過点に過ぎなかったこの地域を「西の湘南でもあるんですよ」とアピールする狙いが窺える。

ということで、私が在学した1980年代半ばだと「西湘」といえば高校かバイパスだった。地域名ではないし、一般的には「湘南は湘南で小田原とは別」という前提があった。平塚でさえ遠いのに、そのまた先の江ノ島の辺りが湘南だと考えていたから。

ところがその後で、『湘南』ナンバー問題が勃発する。これは小田原に住んでいた友人に聞いた話だが、自動車の『相模』ナンバーが飽和となり、『足柄』『湘南』の両ナンバーが検討された辺りから妙な話になってきたらしい。

当初小田原を含む足柄上・下郡は『足柄』ナンバー、茅ヶ崎・藤沢が『湘南ナンバー』。残りはそのまま『相模』ナンバーの予定だった。ところが、平塚をどうするかで揉めたそうだ。平塚は自身が湘南地域であることを喧伝しており、地元に所属するプロサッカーチームにも湘南を冠している。紆余曲折あったものの、まあ平塚までは湘南としようと決まった。ところが今度は伊勢原や二宮、大磯が騒ぎ出した上、明らかに関係がない小田原までが「平塚が湘南なら自分たちも湘南だ」と主張し始めた。

結局小田原も湘南ナンバーにはなるのだが、それにつられて足柄の郡部と南足柄市も『足柄』ナンバーではなく『湘南』ナンバーになるという奇妙な状況が出現した。そもそも『相模の南の水辺』という意味合いで中国から移入された言葉が『湘南』なのに、海もなく南でもない、山北や箱根までが『湘南』ナンバーとなっている。このことを東京で指摘される際、必死に湘南になりたがっているように思えて私は気恥ずかしさを覚える。小田原周辺では気にしていないのだろうか……。

話は少し逸れたが、この『湘南』ナンバー騒動は『西湘』地域自称につながってくる。『足柄』地方であることを恥じ、『湘南』イメージのお零れをもらおうというものだ。このまま行けば、足柄平野を西湘平野に、酒匂川を西湘川にするかも知れない。足柄には味わい深い地名が多数あるのに、もったいないことである。

言わずもがなではあるが、過去の小田原町は箱根・湯河原・真鶴とともに足柄下郡であった。上郡は南足柄市・中井・大井・松田・山北・開成となる。これらの地域は近世小田原藩とほぼ同一であり、明治の最初期には伊豆国と合わせて足柄県を構成していた。室町・戦国期には一時的に西郡と呼ばれていたものの、その前はやはり足柄郡である。

『湘南の西』という東京視点に踊らされ、『足柄』という独自の地域名を忌避する姿は浅ましい。かつては南関東の中心地だった誇りはもはや感じられない。そして、そのような軽薄な姿勢では、歴史的資産を観光資源にする資格はないように思う。

端的な例を挙げるなら、現在の小田原駅前にある北条氏政・氏照の墓所に『幸せの鈴』が安直さを象徴している。墓所に願掛けをして鈴を結び、成就したらまた鈴を結びに来させるもので、ジャラジャラぶら下げる辺りは平塚市が『湘南平』とネーミングした高麗山の『ハート・ロック』を真似たように見える。

後北条歴代で最もリアリストであった氏政に『幸せの鈴』を宛がうとは……元々後北条氏には冷淡な小田原にしても、これはひどい扱いではなかろうか。看板には史料の裏づけでもあるかのように次の記述がある。

ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。

何がどう『伝えられた』のだろうか。史料上、開城を決意したのは氏直だし、「伊達も離れたし八王子・韮山も落ちてやっぱり勝てなそうだから」というのが理由だと思われる。氏政・氏照にしたって領民のために小田原合戦を起こした訳ではない。後北条氏は「御国のために徴兵に応じろ」という理屈を使っていたが、その御国は国民国家ではなくあくまで後北条家を指す。暴力団のショバ代のようなものだ。そもそも、徴兵されなければ巻き込まれる筈もない百姓を大量動員したのは氏政・氏照なのだから「戦禍にまみえる領民を思」う筈もない。そこを強引に平和の象徴とするなら、きちんと根拠を示さねばならない。

そのような努力を怠り、単純に史跡を観光資源として利用する。また古来より名を馳せた『足柄』の地域名を捨て軽佻浮薄な『西湘』と名乗る。それが小田原の経済的な発展を期すための唯一の方法で苦渋の決断、というものなら致し方ない。が、それにしても少し節操がなさ過ぎないだろうか。

御書拝覧本望候、仍ゆかけ五給候、祝着之至候、随毎年令進献候、御合力之儀無相違申付候、可御心安候、委曲可得貴意候、恐々謹言、

閏十月廿九日

義元(花押)

三条殿

   人々中

→戦国遺文今川氏編「今川義元書状(切紙)」(思文閣古書資料目録二〇八号、善本特輯二〇輯一〇八号文書)

1555(弘治元)年に比定。三条実澄宛て。

 お手紙拝読でき、光栄です。弓懸5つをいただいて、祝着の至りです。毎年のようにいただいて、合力のことは相違なく指示しましたのでご安心を。細かい点はご意向を伺うでしょう。