今度尾州へ出陣ニ、具足・馬以下嗜之間、自当年千疋充可遣之、弥成其嗜可走廻者也、仍如件、

天文十九年 庚戌

八月廿日

植松藤太郎殿

→静岡県史「葛山氏元朱印状」

 今度尾張国に出陣するに当たり、具足と馬の用意をするため、今年から1000疋(10貫文)を提供する。その準備のためますます奔走するように。

「(端書(切封墨引))」

事長ゝ敷申様雖如何候、遠路御尋之義候条、如此候、

如仰、杳絶音問候処、急與示預、本望候、

一其表之儀、本庄逆心付而、去初冬ヨリ御在陣、至只今無手透被取結、外廻輪悉被為破(扌+却)、落居不可有程之由、珍重候、就其伊達・会津相頼、令懇望由承候、左候者、在赦免可然候歟、御思慮此節候、

一駿甲取合之義、尋承候、信州通路一円依無之、慥成儀不相聞候、乍去、当口沙汰之躰、武田信玄以調義、駿府へ被相働、悉放火候、今川氏真遠江之内懸河之地入城之由候、然処、北条氏政為後結被相働、甲府ヨリ通路取切、在陣之衆令難儀候間、新道ヲ切、雖通融候、曽而不自由之由候、近日之取沙汰、武田信玄紛夜被入馬候間、敗北之由候、東美濃遠山人数少ゝ立置候、彼者共帰陣候而、申鳴分如此候、必定歟、

一岐阜・甲州挨拶之義、甲府ヨリ使者付置、可有入魂由候、其子細者、対駿州織弾忠遺恨在之事候間、面向可為此一義候、奥意敦熟之義、不可有之歟、貴辺之義者、不被混善悪、被対岐阜、無御等閑躰可然候、別而申通事候条、不残心底申事候、

一京都合戦之義、自是差上候使者、一両日以前下国候、旧冬及月迫、諸牢人出張候而、泉州之内家原之地、三好左京兆拘候ヲ、出衆責崩、正月四日京表へ相働、公方様御座所六条へ責入候、左候処、  上意於御手前数度被及御一戦候、摂州之住池田・伊丹為御味方、西岡表へ相働候所ヲ、三好三人衆切懸、即時両人之衆切崩処ニ、  上意被寄御馬、御自身被切懸候ヘハ、天罰候哉、随分之者共悉被討捕、其尽敗北候、不移時日織弾忠被走参、五畿内之義不及申、四国・中国迄無残所属御存分、諸大名在洛之由候、当分者、  上意御座所之普請被申付、漸出来之由候、泉州堺之義、今度牢人仕立候間、可有発向之処、向後牢人衆許容有間敷之由、色ゝ詫言付而、宥免候、寔奇妙之仕立、不及是非義候、

一切ゝ可申通処、去年及両度、以使者令申候処、越中金山在不審、中途ヨリ差返候、不及兎角候キ、路次不成合期故、万端疎意之躰、失本意候処、遠路猶以示預、快然此事候、旁期来信候条、不能詳候、恐々謹言、

二月廿七日

良頼(花押)

山内殿

※神奈川県史では1569(永禄12)年に比定。また、村上文書に同日付、村上国清充良頼書状があるが、ほとんど同内容のものなので省略したという。

→神奈川県史「三木良頼書状」(上杉文書)

長々と申し上げるのもいかがかと思いましたが、遠路お尋ねいただきましたことも考えこのように申し上げます。

ご連絡途絶えておりましたところ、急にお便りいただき本望に思います。

一、その表の事ですが、本庄繁長が謀叛して冬の初めよりご在陣、今に至るまで隙もなく攻勢をかけられて外郭を悉く破却、落城まで程ないだろうと聞きました。珍重です。本庄は伊達・会津(蘆名盛興)を頼って懇望している事も聞きました。このような状況であれば、赦免があって然るべきでしょうか。ご思慮あるならこの時です。

一、駿河と甲斐の紛争をお尋ねでした。信濃の通路一円はなく、確実な事柄は何も聞いていません。さりながら、こちらで話されている内容を伝えます。武田信玄は調略を使って駿府へ攻め込み、悉く放火した。今川氏真は遠江国掛川の地に入城。そうしたところ北条氏政がその後詰として出動し、甲府への通路を占拠し、在陣の衆を難儀させました。新道を切り通して通行していたのですが色々と不自由しており、最近の話では武田信玄が夜間移動したところ敗北したそうです。東美濃の遠山氏が少しの軍を派遣しており、彼らが帰還して話している内容だそうですから、確実かも知れません。

一、岐阜と甲州が挨拶を交わした件。甲府より使者が到達し、親しくしてほしいと申し入れたそうです。その詳細は、駿河に対して織田弾正忠が遺恨を持っているので、面と向かってこの一義をなすべく、心の奥で熟考していること、ない訳でもないのでしょうか。あなたのことは、好悪両方が混ざっていました。岐阜に対して等閑にすることのないようしなければ。特別に申し上げる事もあり、心底残さず申している事です。

一、京都の合戦の事。これより差し上げた使者は、一両日前に下国した者です。前の冬から年末まで諸牢人が出動しており、三好左京兆が占拠していた和泉国の家原の地を、出動した衆が攻め崩して1月4日に京都方面へ移動、将軍の御座所である六条に攻め入りました。そうなったところ、上意にてお手前で数度合戦に及び、摂津国の池田氏・伊丹氏が味方となって西岡方面へ出撃したところを、三好三人衆が切りかかり、即時に両氏の部隊が切り崩されました。ところが将軍が馬を寄せられてご自身で切りかかり、天罰でしょうか、たくさんの者が悉く討ち取られました。敗北し尽くしました。時日を移さず織田弾正忠が急行して、畿内は申すに及ばず、四国・中国まで残すところなく味方にして、諸大名は京都に当面滞在するようにしています。将軍の御座所を普請するよう命令し、ようやく出来上がったとのことです。和泉国堺の事、今度の牢人を仕立てたということで、出陣しようとしたところ、今後は牢人を許容しませんという陳情を色々と言ってきましたので、許したということです。本当に奇妙な仕立てで、是非に及びません。

一、切れ切れにご連絡しているところ、去年は2回にわたり使者をもってご連絡していたところ、越中金山(神保氏)に不審な言動があり、途中から引き返してきました。どうしようもなく、通行に都合がつかず色々と疎意となっています。本意ではありませんが、遠路なおもご連絡をいただき、嬉しいのはこのことです。次のお便りを期しておりますので、詳細は申せません。

1522(大永2)年

刈谷

此国、折ふし俄に牟楯する事有りて、矢作八橋をばえ渡らず。舟にて、同国水野和泉守館、苅屋一宿。

常滑

尾張知多郡常滑、水野紀三郎宿所、一日。野間と云所、義朝の廟あり。

1524(大永4)年

亀山より駿河へ

六月七日、尾張知多郡大野の旅宿。八日に参川苅屋といふ所、水野和泉守宿所一宿。同国土羅一向堂一日逗留。十日に今橋牧野田三一宿。

1526(大永6)年

今橋

三河国今橋牧野田三、彼父、おほぢより知人にて、国のさかひわづらはしきに、人おほく物の具などして、むかへにとて、ことごと敷ぞおぼえし。此所一日。熊谷越後守来り、物語。夜ふけ侍りし。

伊奈

田三同名平三郎、猪名と云所一宿。

深溝

松平大炊助宿所連歌。

沢のうへの山たちめぐる春田かな

此所の様なるべし。

吉良東条

東条殿はじめて参ずる事也。二・三日逗留。連歌。発句は色代申て、

  ふぢ波やさかりかへらぬ春もがな

暮春のよせにや。翌日、宗長、

  波や行春のかざしのわたつ海

おなじ暮春なり。

刈谷

かりや水野和泉守宿所。

  かぜや春磯の花さくおきつなみ

守山

廿七日、尾張国守山松平与一館、千句。清須より、織田の筑前守・伊賀守・同名衆、小守護代坂井摂津守、皆はじめて人衆、興ありしなり。

  あづさ弓花にとりそへ春のかな

新地の知行、彼是祝言にや。

熱田

熱田宮社参。宮めぐり屋しづかに、松かぜ神さびて、まことに神代おぼゆる社内、この御神は東海道の鎮護の神とかや。宮の家ゝ、くぎぬきまで、潮の満干、鳴海・星崎、松の木の間このま、伊勢海見はたされ、こゝの眺望、たがことの葉もたるまじくなむ。旅宿滝の坊興行。筑前守来あわれて、

  郭公松の葉ごしか遠干潟

神官所望に、

  うす紅葉松にあつたの若葉かな

後堀河院百首やらむ、こゝもあつたのなどある様におぼゆる。老のひがおぼえにや。

去月十七日、三州名倉於舟渡橋、岩村人数出張候処、敵山内采女か被官後藤三右衛門討捕之、同類之被官加藤甚四郎討捕之、同山本甚兵衛被疵一ヶ所、中村彦次郎蒙疵神妙之至也、弥可抽戦功之由、可申付候状如件、

永禄元年六月二日

義元判

奥平松千代殿

→静岡県史「今川義元感状写」

 先月17日、三河国名倉の舟渡橋にて、岩村の軍勢が攻め寄せたところ、敵山内采女の被官後藤三右衛門、同じく被官の加藤甚四郎を討ち取り、山本甚兵衛に槍傷1箇所を負わせ、中村彦次郎を負傷させたのは素晴らしい。ますます戦功にぬきんでるように。

野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並

寺中参

是後ノ十郎左衛門也

元藤四郎元茂ト云

→東浦町誌「水野藤十郎左衛門尉判物 柿並寺中宛」

野間大御堂は前の代から守護不入といえども、さらに許諾がほしいとのことで、一円は免許する。諸々の課役と寺内の竹や木、人夫以下このほかのことは今後も申すことはあってはならない。

官途之儀、監物丞可然候、猶晴直可申也

八月廿三日

(義輝花押)

水野監物丞とのへ

→東浦町誌「足利義輝官途挙状」

 官途のこと、監物丞がふさわしいでしょう。さらに晴直が申し上げます。
 

奉寄進大渓堅雄禅定門日霊供田事

元青山土佐給田、市舛ニ四俵成

一壱石目 坪池田 小作職共ニ

畑是も土佐給の畑 庚戌年ハ小作こうや源次郎ニ三百文ニ申付候間

 三百文可有御納所候、百文ハ此方より可参候

一四百文目 坪本苅屋南

 前ハ五百文目にて当年始而

 世上売買下値直ニ付而如此候

 以後ハ畑を御見セ候て、いか程ニも

 可被仰付候

畑是も土佐引跡新畑ニ而候

一四百文目 坪せき

 是も五百文めにて候を、四百文ニ付進入候

 以後ハ其方よりいか程ニも可被仰付候

畑是ハ丹羽弥六郎給の内にて

一弐百文目 坪六枚畑の内 小作小嶋三郎右衛門入道

  田合壱石目

  畑合壱貫文目

右此年貢米を五俵宛納所申候、当年より此分小作職共ニ渡申所如件

水野藤九郎代牛田源五 守次(花押)

天文十九年 庚戌

三月六日

陵厳寺御長老忍浦様 参

→東浦町誌「水野藤九郎代牛田守次寄進状写」

 大渓堅雄禅定門日霊へ供するため寄進する田のこと。元青山にある土佐守の給田、市で規定した枡でニ四俵となります。
 一、1石は池田の土地で小作職込み。畑も土佐守の給畑です。庚戌年は小作人『こうや源次郎』に2~300文で申し付けていました。300文はお納めいただき、100文はこちらから参らせます。
 一、400文は本苅屋南の土地。前は500文で今年始めましたが、今のご時世地価の相場が下がって、このような値下がり具合です。以降は畑を実見していただいて、どのようなご意見でも仰せになって下さい。この畑も土佐守の新畑でした。
 一、400文は『せき』の土地。ここも500文だったものが400文でお渡しすることとなりました。以後はあなたからどのようにも仰せになって下さい。畑は丹羽弥六郎の知行からです。
一、200文は六枚畑の内の土地。小作は小嶋三郎右衛門入道。田は合わせて1石、畑は合わせて1貫文。
 右の年貢米を五俵宛で納めます。当年よりこの分は小作職ともにお渡しします。

為慶中周讃禅定尼毎日霊供

楞厳寺江附置申下地田之事

 合壱所者 坪ハ深見苅屋百姓友三郎

 散田之内、せまち参十四・東五十弐間・南参十六間・西参十三間・北六十間、是ハ以壱間尺杖、四方合百八十一間在之

右彼田之土代壱貫文目、然ハ毎年石職壱石にて候お、以苅屋郷一舛、延米壱斗六舛ともニ合壱石壱斗六舛宛可有御納候、従大永四年甲申年之石米進之候、於彼田末代無懈怠石米可有御納候、小作之儀、神谷豊後守・丹羽五郎左衛門尉両人ニ申付候、仍為後日状若件

大永五年 乙酉

弐月彼岸日

水野和泉守

近守(花押・朱印)

楞厳寺 参

→東浦町誌「水野和泉守寄進状」

 慶中周讃禅定尼への毎日の霊供として、楞厳寺へ所属させる地田のこと。一箇所目、坪は深見刈谷の百姓友三郎。散田のうち瀬町が34(間)、東52間、南36間、西33間、北60間、これは1間尺杖を用いています。四方合わせて181間あります。右の田は地価1貫文目、しからば毎年課税は1石であるものを、刈谷郷の1枡を以て延べで米1斗6枡、ともに合わせて1石1斗6枡宛となるのでお納め下さい。1524(大永4)甲申年よりこの石米を進呈します。あの田は末代まで怠ることなく石米を納めます。小作人のことは、神谷豊後守・丹羽五郎左衛門尉の二人に申し付けています。よって後日のためこのように書状とします。

就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念訴訟之上、前後雖成判形、既豊前守逆心之刻、敵地江衆徒等悉雖令退散、日瑜一身同宿被官已下召連、不移時日頭陀寺城被相移以忠節、頭陀寺一円補任之上者、一切不可許容、兼亦彼衆徒等憑飯尾、頭陀寺領事、雖企競望、是又不可許容者也、仍如件、

永禄七年

十月二日

上総介(花押)

千手院

→静岡県史 資料編7「今川氏真判物」

 今度の飯尾豊前守赦免に当たり、頭陀寺城を破壊するので、その前に他の土地に居住することを日瑜の考えに任せて了承した。であるから寺屋敷を見立てて再度申請するように。頭陀寺のことだが、この度全焼したので、日瑜は他の場所に居住するという。営々と寺の建築物を再建するように。そして前の院主と衆僧のこと、何らかの忠節を立てたり、失念してから訴訟して前後する判決を出したとしても、既に豊前守逆心の際、衆徒が敵地へことごとく退散するさなか、日瑜自身は同宿の被官以下を召し連ね、忠節のため時をおかずに頭陀寺城から移動した。頭陀寺一円を補任させるので、(このような判決は)一切許容しない。そしてまた、あの衆徒が飯尾を頼んで頭陀寺を領したいと係争があっても、これもまた許容しない。

遠江国幡鎌郷之事

右、父靱負入道、今度高林藤左衛門屋敷江相移候、其上被官人討死、手負数多出来、捨身候故、存忠節之段、尤以神妙也、然者彼地仍為不領、今度遂訴訟之条、為新知行補任永不可有相違、縦同名源兵衛尉雖企訴訟、匂坂逆心之刻令同意之間、一切不可許容、兼尤同名半平年来新野左馬助方雖為同心、自今已後山虎令同心合力之間、令与力陣番等可相勤候、以寺社領事可為如前々、守此旨弥可抽奉公之状如件、

永禄七年十月廿一日

上総介

幡鎌山虎殿

→静岡県史 資料編7「今川氏真判物写」

 遠江国幡鎌郷のこと。右のことですが、父の靱負入道がこの度高林藤左衛門の屋敷へ突入し、その上で被官が討ち死にし負傷者が多数生じました。身を捨てて忠節を行なったことは最も神妙であります。ですからあの地を領有できず訴訟中であった案件で新しい知行を与えることは末永く相違ありません。たとえ同姓の源兵衛尉が訴訟を企てるといえども、(彼は)匂坂が逆心した際に同意したものですから、一切許容しません。その一方、同姓の半平が年来新野左馬助の同心となっていましたが、これからは山虎の同心とします。与力として陣番を勤めさせて下さい。寺社領のことは前々のようにすること。このことを守っていよいよ奉公にぬきんでるように。