2005(平成17)年7月23日に発生した千葉県北西部地震の少し前、13時30分頃より立川市内の空き地(国有地)で雉が異様な鳴き方を始めた。

そこはフェンスで囲われていて、その前年から雄の雉が早朝よく鳴いていた。だが、その時は鶏に近いような声を頻繁に繰り返し、何事かと集まった5人前後の人間にも臆することなく鳴き続けた。私は箱根育ちで雉はよく見ていたが、それなりに用心深い鳥でこういう行動を見たことがない。間抜けな遭遇で大慌てしたり、人間は気づいているのに雉が気づかずにいたりは稀にあった。しかし人間との距離2メートル以内で鳴き続けるのは異常に見えた(最初に来たという人に聞いたところ、人が来る前から鳴き出してわざわざ通りのそばまで出てきていたという)。

上の画像がその時のもの。フェンスの網目にカメラのレンズを押し付けて撮影している。雉は15分ほどすると、のそのそと茂みに戻っていった。

この3時間後の16時35分に、地震が来た。立川市は震度3だったが、足立区では震度5強となった。ちなみに、都内最大の活断層である立川断層はここから800メートルぐらいの位置。

この手の話は「友達の友達……」というパターンが多いが、自分で直接見聞したことなので記事にしておこうと考えた。2011年3月11日のことを思い出してみるが、この頃は既に雉の鳴き声も聞こえなくなっていた。3時間前というパターンが同じであれば、11~12時頃に雉がどこかで鳴いていたのかも知れない。

※2011年7月15日、この空き地のそばで雌か幼鳥と思われる個体が目撃されている。ここ数年見かけなかっただけに、この情報に安堵した。

1498(明応7)年、巨大地震が各地のライフラインを破壊した際、東海地方の大名はそれぞれ何歳だったかを列挙してみる。

伊勢家(伊豆国)

宗瑞42歳(黒田説)66歳の可能性もあり

氏綱11歳

今川家(駿河国)

氏親25歳

武田家(甲斐国)

信昌52歳

信縄27歳

信虎4歳

松平家(三河国)

親忠67歳

長忠43歳

信忠8歳

斯波家(尾張国)

義寛41歳

義達?歳

北畠家(伊勢国)

材親30歳

 

こうして並べてみると、働き盛りだったのは伊勢宗瑞・松平長忠・斯波義寛。この3者は後に東海の覇権をかけて激突することとなる。

すなわち、震災直後に伊豆全域と小田原を制圧。甲斐にちょっかいを出しつつ、今川氏親と協調して遠江、東三河と勢力を伸ばした宗瑞は、岩津の松平宗家を撃破する。

それを受けて、岩津分家筋の安城松平家の長忠は攻勢限界点を越えた今川方を反撃して退却させる。

一方、今川の遠江占領を快く思わない義寛は、宗瑞と氏親を政治的に孤立させる(その後に直接戦ったのは、それぞれの次代となる氏親・義達とはなるが……)。

各地域ごとに受けた被害はまちまちだと思うが、一先ず当主の年齢で考えてみた。

中公新書で割合気軽に入手できる(寒川旭著・2007年)。考古学のアプローチがメインで描かれており、先史時代から阪神・淡路大震災までを網羅している。液状化の痕跡は縄文時代の遺跡からも出てくるそうで、地割れで引き裂かれた住居がいくつも紹介されていた。地質学の解説もあるので、本格的に調べてみたい場合に便利だろう。こういった書籍を読むと、文献史学の限界を本当に痛感する。折り重なった地層と遺物から年代を測定する際、もうちょっと細かく比定するのを手伝うぐらいしか役に立っていないようだ。

古文書が本格的に蓄積されるのは16世紀後半からで、せいぜい500年(実情が判るものだと18世紀を待たねばならない)。地震は数千年単位の評価軸が必要になる訳で、「史料がないから」発生しないなどということは全く当てにならない。21世紀に入ってから、地層解析は急速な進歩を遂げ、かなりのことが明らかになってきた。そうなると文献史学は本当に補助的な位置づけになるだろう。

明応地震については、東海と同時に南海地震が併発したことが確証されたそうだ。高知県四万十市・徳島県の板野郡と徳島市、大阪府東大阪市で相次いで砂脈(液状化現象跡)が発見されたのだ。684(天武13)年~1498(明応7)年の期間で、大体200年以内の間隔で南海地震が規則的に発生した可能性が高く、また同時に東海地震も伴っていたという。その後、1605(慶長10)年の慶長地震・1707(宝永4)年の宝永地震を考えると100年刻みになっている。1855(安政2)年では150年間隔が空き、今年2011(平成23)年に至るまで156年間発生していない。※1944(昭和19)年の昭和東南海地震をカウントすると100年周期に戻ったことになるが、個人的には微妙だと思う。

筆者は後書きで警告する。

都市化が進んだ地域では、開発によって地形が改変され、池や川や海を埋めた場所でも、ほとんどの人が知らずに住んでいる。土地の名称がむやみに改変されている現状では、地名から土地の履歴を察知することも難しい。明治時代前期に参謀本部が作った仮製地形図は昔の地形を知る貴重な資料で、大きな図書館で閲覧できるはずである。また、考古学の遺跡発掘調査は、地面の近くの地盤を知ることに役立つ。地震の被害は地形や地盤によって異なるが、発掘現場で地層や地震の痕跡を見て、将来の地震による被害を推測できる。

確かに明治の地図なら近代の改変は余り入っていないので参考になるだろう。また、地名も古いまま残されている。近所の図書館の規模が小さい場合には、その自治体の通史(~市史通史編のようなもの)とか、郷土の歴史本を読んでみるといいかも知れない。

 

地震に関しての個人的体験を、何かの参考になる可能性もあると思い書き留めておく。

 

関東大震災

これは祖母に聞いた話。1923(大正12)年の9月1日、小田原の酒匂にいたという。たまたま、祖父とともに庭にいたところ、グラグラと横に揺れた。それが収まったと思った瞬間、縦に大きく身体を突き上げられたそうだ。勿論立ってなどいられず、転倒した後四つん這いになった。座敷の奥に乳児だった長男(私から見ると伯父)がいたので、祖母は何とか進もうとしたが、バウンドして前に行かない。転がるようにして祖父が力ずくで駆け込み、長男を抱えだしたという。「怖い」と思う余裕はなく、身体が撥ねて困ると考えたという。

祖父母宅は国道1号線沿い。【酒匂県営住宅入り口交差点】のすぐそばにあった。暫くすると海水がくるぶしより上に浸された。とはいえ酒匂はずっと平地だったので覚悟を決めていたところ、水はそれ以上来なかった。母屋は無事だったが、裏にあった蔵は横転していた。既に零落していたが往時は大地主だったので、祖母は蔵の敷地を掘ってみた。残念なことに、何も出なかったそうだ。

伊豆大島近海地震

私が実際に経験した地震1978年近辺に起きた。一番大きかったのは1月14日の震度5~6だが、その前後で何十回も地震があったことを記憶している。当時住んでいた箱根では、夜中だと地響きの音が微かに聞こえ、「来る!」と思った瞬間、軽く突き上げられた後に横揺れがかかった。最初の頃は家族が全員集まって様子を見ていたが、その後は回数が多いこともあって放置状態だった。最も大きく揺れた本震は土曜。放課後の体育館で横向きに揺ら揺ら来て、かなり長かった。震度は5だったように記憶している。

夜間が多かったように思うが、昼間でも何回か震度4程度はあり、友人と平均台に乗ったり徒競争をしたりで遊んでいた。今から考えると地震酔いもあったようだ。

ちなみに、それなりに揺れた体験だったので、東京に来てからもこれを基準に地震を判断している。今回の地震と比べると、同じくらいに感じた(間に33年も挟んでいるので定かではないが)。但し、3月11日の私は千代田区のビルの5階におり、それなりにしなったと思われる。8階では蛍光灯が落ち、キャビネットが倒れたという。地下の食堂にいた者の話を聞くと、ラーメン丼の中身が飛び散った程度。

1978年の経験から「揺れは何度も来る」と注意を促したが、その場にいた20~30代のメンバーは1度で収まると考えていたようだ。「このような揺れは初めて」と語る者が殆どだった。そう言われれば、2000年の三宅島噴火を除き、関東が震源地の地震は絶えている。

その後色々と判ったことがあるので再び覚書。考古学の地層研究で2009年に色々と動きがあったようだ。地震関連の予算は、2006(平成18)年が中越地震の影響を受けて補正予算がかかっているものの、大体が100億円前後。2007年度以降はコツコツと研究を積み重ねたのだろう。

地震調査研究推進本部の資料

宮城県沖地震における重点的な調査観測 平成21年版

3.4 地質調査・津波シミュレーションに基づく地震発生履歴に関する研究 2009(平成21)年3月2日

文書内101ページ目から抜粋。防波堤に囲われた部分が請戸港。赤丸が貞観津波堆積物検出地点。青丸は掘削地点。

2011年の震災時は左側の予想範囲まで浸水し、港周辺は壊滅した。貞観津波の到達点と適合する結果となった。

赤丸の北側で半島状に突出している白いエリアは請戸城跡。

 

 

 

文書内102ページの福島県北部沿岸の津波浸水域想定図。

請戸港は完全に浸水するものの、福島第一原発付近は浸水エリアが狭いこともあって余り書かれていない。

地層調査が充分に行なわれておらず未知数だった可能性もある。

 

 

 

経済産業省の資料

総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会の耐震・構造設計小委員会内、地震・津波、地質・地盤 合同WGの議事録

第32回 2009(平成21)年6月24日

16ページで、委員の岡村氏が貞観地震が連動型の巨大なものであった可能性を指摘。それまでの、双葉断層からの震動対策一辺倒だった議論に疑問を示す。東京電力側は被害を示す史料がないと回答。事務局は今後の対応を約束。

第33回 2009(平成21)年7月13日

2ページで、東京電力が貞観地震想定対応を回答するが、やはり双葉断層絡みでの震動に終始。岡村氏からはスマトラ沖地震のような連動型は従来の枠組みで捉えきれないとの指摘があり、引き続き調査することとなる。

間に合わなかった研究成果

中部地震で震動が問題視されたことから、活断層とその震度が東京電力の最大の関心事だった。そのことから、スマトラ沖のような連鎖地震で津波が発生することに注力できなかった。また、福島沿岸が津波の文献伝承を持たなかった故に災害予見に達するのに時間がかかった。但し、関係者が全力かつ最優先で臨んだとしても、どれだけ被害を抑えられたかは判らない。1.5年では短過ぎて準備期間とすらいえない。もう3年あれば状況は大きく変わっていたかも知れない。

史料上の制約から明応地震の文献上の調べは諦めつつあったが、信州大学工学部の『東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震)』(地震予知連絡会会報35巻)を読んで少し認識が変わった。最初にまとめ部分がある。

  1. 四地震共に遠州灘沿岸に震度Ⅵ以上の地域が存在するが,宝永・安政東海地震のそれは駿河湾奥まで広がっている。
  2. 四地震共に伊勢湾沿岸に震度Ⅵ以上の地域が存在する。
  3. 宝永・安政東海地震では甲府盆地でも震度Ⅵ以上となった。安政東海地震では富士川両岸の村々でも震度Ⅵとなった。
  4. 震度 V の範囲は宝永・安政東海地震共に近畿以北においては,ほぼ同じであるが,宝永地震がやや小さい。これは史料の量が少ないことによるのかもしれない。東南海地震のⅤの範囲は前の 2 つの地震に比べあきらかに小さい。
  5. 明応地震については史料が少なく決定的なことはいえないが,今の史料状況からいえることは,安政東海地震の震度分布と良く似ていて,その震度枠は超えない。

明応地震が江戸期の宝永・安政東海の大地震と同じ構図であったとすると、富士川両岸と甲府盆地が甚大な被害を受けたこととなる。これは妙法寺記(勝山記)が記す、武田信縄・信恵の和睦とそれに伴う足利茶々丸の切腹と適合する。

信縄と信恵が和睦したのは、甲斐国での地震被害が大きかったことを窺わせる。そして、茶々丸を伊豆から追い出した伊勢宗瑞と都留郡で紛争していた小山田氏は信恵派だった。そうなると、山内上杉氏を経由して甲斐入りした茶々丸を支えていたのは信縄だと思われる。

甲斐が地震で壊滅した場合内戦停止は当然の措置である。その際、今川氏親・伊勢宗瑞と関東管領上杉顕定のどちらを採るかが議論されただろう。駿河・伊豆・相模も被害を受けたとは思うが、それよりも甲斐が厳しい状況になったと想定すると、損害軽微だが遠隔地の顕定よりも、より被害の大きな甲斐を狙っている近接地の氏親・宗瑞のほうが脅威だったと。

安政東海地震の被害が上記レポートに抜粋されているが、被害家屋がなかった元吉原と、503軒中で全壊276・半壊145だった吉原は、約2km程しか離れていない(元吉原は今井の元吉原小学校付近・吉原は吉原本町駅付近)。こういった事例があると、同じ震災地でも拠点が壊滅した地域と軽微だった地域に分かれるだろう。

拠点それぞれについては、明応の史料が殆どないため難しい。また、安政東海を援用するとしても、沈降・隆起のほか埋め立てなどで地形が変わっている可能性も考慮せねばなるまい。とはいえ、可能性が出てきたのはよいことだ。

『地震と噴火の日本史』岩波新書・伊藤和明著。噴火系と、津波型、内陸直下型で区分けして解説している。文はかなり平明で判りやすいので、入門書になるかと思う。

明応地震については殆ど触れておらず、どちらかというと、江戸期以降の確実な資料に基づいて説明している。富士山の記述はかなり興味深かった。我々の感覚だと富士は休火山だが、奈良時代から宝永に至るまで、噴煙たなびく活火山の時代のほうが長いということを改めて知った。江戸期にあった浅間山・富士山の噴火、そして内陸型地震では、山崩れで堰き止め湖ができ、それが決壊して大洪水を巻き起こしたことを繰り返し強調している。同じことが現代の河川に起きた際、どのようなことになるかは別途調べるしかないが、コンクリートで覆われた流路がどう変貌するかを防災上考慮する必要があるだろう。

津波でいうと、1703(元禄16)年11月23日の元禄地震では、房総に津波が来たという。安房郡和田町真浦が10.5メートルの波高で最高となる。船橋は2メートル。元禄段丘となって現われた隆起によって、房総南端の野島が地続きになった。館山駅もこの元禄段丘の上にあるそうだ。津波の章の最後は、2011年3月30日の今日読むと興味深い(本書刊行は2002年)。

いま岩手県田老町には、高さ10mあまり、総延長が1350mという巨大な防潮堤が築かれていて、町を津波から守っている。この防潮堤は、田老で波高14.6mを記録した明治三陸地震津波のあとに計画され、昭和三陸地震津波のあと着工、戦後に完成したもので、田老町のシンボルにもなっている。

しかし驚いたことに、いま田老町を訪れてみると、この巨大防潮堤の外側つまり海の側に、住宅や店舗などが立ち並んでいるのである。大津波が襲えば、瞬時に流出するであろうことはまちがいない。まさに、津波危険地域の土地利用のあり方が問われる景観となっているのである。過去の災害体験は、すでに風化してしまったのであろうか。

(118ページ)

 

いま東京および首都圏に住む大多数の市民は、関東大震災以後の長い静穏な時代に慣れすぎてしまってはいないだろうか。その意味でも、江戸地震直後の模様を記して『時風録』の次の一節は、現代への大きな教訓を秘めているように思えてならない。

「ここにおいて日頃遊惰驕逸の輩も、はじめて夢の覚めたる如く、太平の有難かりしをしりて、自ら大工、左官の手伝、あるははちもちなどして、衣は寒さを凌ぎ、食は飢を凌ぎ、家は風雨をしのぐにさえ足ればなど云あへるも、心のまことにかへれるにや、殊勝にも又哀れ也」

(199ページ)

このほかにも、統計的に見れば160年に一度直下型地震に襲われる京都を懸念している。前回揺れた1830(文政13)年以後、170年余り揺れていないという。

 

『中世の巨大地震 』(歴史文化ライブラリー・矢田 俊文著)を読了。1498(明応7)年の地震が比較的詳しく書かれている。が、中世の震災は殆ど史料がないことが確認できただけだった。貞観の大地震はさておき、書状がある程度出てくる明応年間でも厳しいようだ。今日の公家が日記に載せているものの、これらの史料は交際用の備忘録という性格もあり、必要最小限の表現に留まることが多い。

判ったことをとりあえず覚書。

  1. 京での揺れは激しかったものの、被害はなかった模様
  2. 奈良は興福寺の地蔵堂が崩落した程度
  3. 伊勢の大塩村は津波で塩田が破壊され、家屋180軒のうち100軒が流された
  4. 伊勢の安濃津は津波で壊滅。阿漕浦という河川と海に挟まれた場所に位置
  5. 同じく安濃津、1522(大永2)年に連歌師宗長が訪れた際は無人の廃墟だった
  6. 駿河の小川湊は津波で壊滅し別の場所に復興(河川と海に挟まれた立地)
  7. 遠江の元島遺跡(見附宿の南)では液状化。潟湖に位置
  8. 浜名湖と遠州灘に挟まれた場所にあった橋本は地震と津波で壊滅(河川と海・湖に挟まれた立地)
  9. 浜名川の流路が変わり、浜名湖が汽水湖となる
  10. 紀伊の和歌川の流路が変わる(津波が原因か)

このほかに、遠江国掛塚湊も津波で被害を受けたようだ。また、安濃津はその後場所を移して現在の津市の位置に復興する。旧来の場所では、宝永地震後にようやく居住が見られる。

中世の文献にはかなり制約が多い。近世も後半になるとようやく個人の克明な記録が見られるようになる。地震に関する著作はまだまだ読みはじめなので、とりあえず他を読み進めようと思う。

まだ地名辞典も調べていない状況だが、ネットを調べて判ったことを覚書。

件の発電所ができる前は、塩田だったそうだ。その前は陸軍が1940(昭和15)年に突貫で作った磐城飛行場。さらにその前は起伏の緩やかな松山だったという。これは発電所南の展望台にある石碑に書いてあると下記にて記述あり。

空港探索

ここで紹介されているが、1947(昭和22)年当時に米軍が空撮した画像がある。

航空写真

※国土変遷アーカイブは現在休止中の模様。

写真上部が今回の津波でほぼ壊滅した請戸港。中央やや下にある白いエリアが塩田だった頃の地所。詳しい高低差は判らないが、これを見た限りでは津波の被害が大きそうな地形だと思える。

請戸は相馬藩の主要港だったというので、津波の近世記録が残されているかも知れない。請戸にも城があったそうで、

城郭放浪記

で紹介されている。また、郷土史の観点から請戸を描いている記事もある。ここで富永氏が出てくるのが興味深い。

今日の一句一首

請戸のくさ野神社の『浮渡神祠』から、請戸の古称が浮渡だったと推測している記事が二葉町サイトにあった。

……どうも話が迂回し始めたようなので、この件はここらで一旦留めておこうと思う。