中郡白根表ニ京勢地衆集居所打散、敵一人討捕、走廻至、忠信感悦候、弥可抽粉骨候、小田原へ申立、可遣 御感状候、当時往行就不自由ニ、先自判を出之者也、仍如件、
天正十八年[庚寅] 四月十七日

 大和守(花押)
 御検使 大藤長門守(花押)
井上源三郎殿

→戦国遺文 後北条氏編3714「内藤綱秀感状写」(新編相模国風土記稿津久井縣十)

 中郡白根方面に京勢地衆が集まっていたところ撃退し、敵1人を討ち取り、活躍の至りで忠信は感悦しました。ますます粉骨にぬきんでますように。小田原へ申請してご感状をいただくところですが、今は往復が不自由なので、まず私の証書を出しておくものです。

昨七日、岡崎衆鑓合之砌、敵之首一ツ鑓突、并敵追払抜群之働、甚以神妙也、尚可抽戦忠状如件、

永禄四 十二月八日

 氏真判

陶山善六との

→戦国遺文 今川氏編2759「今川氏真感状写」(伊予史談会文庫所蔵各家系図陶山由緒記所収)実否要検討。

 去る7日、岡崎衆と槍を合わせた際に、敵の首級1つ槍で突き、同時に敵を追い払う抜群の活躍をした。大変神妙である。さらに戦忠にぬきんでるように。

去月晦日、大河取出江相働、端城乗入、悉令放火、并敵二人討捕之由、甚以心地好候、弥馳走可為祝着候、恐々謹言、

六月七日

 氏真 判

奥平源二郎殿

→戦国遺文 今川氏編2653「今川氏真感状写」(東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写)

去る月晦日に大河砦を攻撃し、端城に乗り入れてことごとく放火、合わせて2人を討ち取ったとのこと。とても心地よいことです。ますます奔走するなら祝着です。

今度小山地、徳河取詰候処、数日籠城、尽粉骨抽戦功候条、神妙候、弥可励軍忠候也、仍如件、

天正三 九月廿一日[「晴信」朱印影]

佐野惣左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2574「武田勝頼感状写」(静岡市駿河区森下町・小和田哲男氏所蔵佐野氏古文書写)

この度小山の地を徳川が取り囲んできたところ、数日間籠城し、粉骨を尽くし戦功にぬきんでましたので、神妙です。ますます軍忠に励むように。

於高天神甲斐方人数寄来所、各加勢無比類故、敵無相違追出、令感候、弥忠節候ハゝ、敢如在有間鋪者也、

元亀二年三月廿九日

 家康書判

小笠原民部少輔殿

同 右馬佐殿

同 左衛門佐殿

富士宮若丸殿

  但軍代

長野信濃殿

富田新九郎殿

→戦国遺文 今川氏編2481「徳川家康感状写」(唐津・小笠原家文書)

高天神において武田方の部隊が攻め寄せたところ、それぞれ加勢して比類がなかった故に、敵を相違なく追い出し、感じ入りました。ますます忠節を行なうならば、あえて疎かにすることはありません。

「[包紙]鈴木主水助殿」

去四月廿七日、於三澤敵相動刻、合鑓走廻、其上同去十七日於大宮■壱ツ討捕事、太神妙也、弥可抽軍功状、仍如件、

永禄十三年 五月廿二日

 氏真(花押影)

鈴木主水助殿

→戦国遺文 今川氏編2454「今川氏真感状写」(静嘉堂文庫所蔵古文書タ)

去る4月27日三澤において敵が攻撃したとき、槍を合わせ活躍し、その上同月17日に大宮において首級1つを討ち取ったこと、とても神妙である。ますます軍功にぬきんでるように。

今度木戸口、及一戦、首一被討捕、御高名無比類候、猶小六殿可有演説候、弥忠節尤専要候、恐ゝ謹言、

二月廿五日

卜全 判

西尾五左衛門殿

御宿所

→岐阜県史p373「氏家卜全感状写」(内閣文庫所蔵文書)

1561(永禄4)年に比定。

この度木戸口で一戦に及び、首級1つを討ち取られました。ご高名は比類がありません。さらに小六殿がご説明されるでしょう。ますますの忠節がもっともで専要です。

去廿一日、浅井備前出張付而、退衆相談、笠縫表江取懸候処、於木戸口及一戦、稲葉縫殿右衛門被討捕之、太刀疵二箇所被負、御働無比類候、拙者大慶不過之候、殊家中衆高名、是又尤候、猶ゝ馳走本望候、恐ゝ謹言、

二月廿五日

 卜全 判

西尾小六殿

 御宿所

→岐阜県史p356「氏家卜全感状写」(内閣文庫所蔵文書)

永禄4年に比定。

去る21日、浅井備前守が侵入したことについて。退却する者たちと相談し、笠縫方面へ攻撃したところ、木戸口において一戦し、稲葉縫殿右衛門を討ち取られました。太刀傷2箇所を負われて、お働きは比類がありません。拙者の大慶はこれに過ぎません。ことに家中衆の高名もまたもっともです。さらなる奔走を望みます。

去五日、於三州田原大原構、最前合鑓無比類働、甚以神妙至也、弥可抽戦功之状如件、

天文十六[未]年九月十五日

 義元判

松井惣左衛門殿

戦国遺文 今川氏編841「今川義元感状写」(国立公文書館所蔵記録御用所本古文書八上)

去る5日に、三河国田原の大原構において前線で槍を合わせて比類なき働きをした。本当に神妙の至りである。ますます戦功にぬきんでるように。

今度鱸日向守逆心之刻、走廻リ日向守楯出寺部城請取処、其上親類・被官就相替、日向守重而令入城処、相戦蒙疵、殊息半弥助・同被官名倉、遂討死罷退候、然者年来別而奉公之筋目令言上候間、於寺部領内百貫文之地、令扶助畢、在所相定之儀者、寺部落着之上可申付、守此旨、弥可抽忠功之状如件、

永禄元年[戊午]四月十二日

治部大輔

松平次郎右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編1390「今川義元感状写」(国立公文書館所蔵譜牒余録巻四十二)

次郎右衛門は重吉。

この度鱸日向守が謀叛を起こした際、活躍して日向守が盾を出した寺部を接収したところ、その上親類・被官を交替させることについて日向守を再度入城させたところ、戦闘になり負傷した。特に息子の半弥助とその被官名倉が討ち死にして退きました。ということで年来格別に奉公している筋目を言上しましたので、寺部領内において100貫文の土地を扶助させていただきます。在所を定めることは、寺部が落着した上で申し付けます。この旨を守りますます忠功に励むように。