この小文では、着到定という文書で怪しいと思ったものを検討している。文書の解釈は省いているが、リクエストがあれば別途載せてみようと思う。


0)「着到定」って何?

たとえばあなたが何かの手柄を立てて、後北条氏に家来として採用されたとしよう。この状態だとあなたは当主の「被官」と呼ばれる。暫くすると、あなたに「知行」が与えられる。これには土地の名前と金額(当時のお金の単位である「貫文」)が書かれている。たとえば、「阿佐ヶ谷、50貫500文」みたいに。場合によっては「蔵出」といって、現金で支給されることもある。

知行地があればそこに行って現地の百姓と相談し、土地を治めていく訳だけど、次に後北条氏から「着到定」が届く。これは、与えられた知行の金額への税金のようなもので「軍役」と呼ばれる。収入を使って、軍隊を編成しなければならない。「旗をこの寸法で何本用意しろ」とか「馬上の侍は馬鎧をつけろ」とか細かく決められているし、ものによっては特定の人名まで指定されている。この軍隊をつれて本隊に合流する際の出欠リストが「着到」で、これを定めたから「着到定」と呼ぶ。

さて戦争になると、今度は「陣触」が届く。前に送られた着到定に従って、指示された時間・場所に軍隊を着到させなければならない。戦ってまた手柄があれば「感状」が貰える。これは「あなたの戦いぶりに感じ入った」という証明書で、後々恩賞を増やして貰う際の参考資料になる。

恩賞が下されて知行が増えると「軍役」も増えるのでまた改めて着到定が来る。

これが後北条氏被官の基本的流れ。

1)着到定の内容

1581(天正9)年に太田源五郎と思われる人が出したものをサンプルにしてみる。

「改定着到之事
一本、大小旗持、具足・陳笠、金銀之間ニ而紋可出、皮笠何も同前
一本、指物、四方竪六尺・横四尺、持手具足・皮笠
一本、鑓二間之中柄、具足・皮笠、金銀之間相当ニ可推、但鑓之事也
一騎、馬上、具足・甲・手蓋・面肪・大立物、金銀何間も可推、馬鎧金
已上四人
右、前ゝ之着到之内、少ゝ相改定置者也、可致披見、毛頭無相違可致之、大途堅被仰付間、猶以不可致相違候、火急ニ用意、来廿を切而出来専一ニ候、仍如件」
辛巳七月八日/(朱印「印文未詳」)/内山弥右衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編2256「太田源五郎ヵ朱印状写」(内山文書文書)

題名があって、その後に4人分の武装内容が書かれる。本来はその手前に着到の根拠になる課税額が書かれるのだけど、これは改定版の着到定なので略されているようだ。

最初の人は、旗持ちで、具足と陣笠をつけるよう書かれている。金か銀で紋(識別用のマーク)を付けるように但し書きがあり、これは皮笠でも同様にしろということだ。

次に、指物持ち。指物は基本的に旗よりは小さい。ここでは寸法が明記されている。持ち手は具足と皮笠を着用させよとする。

3番目にやっと武器が登場。2間の「中柄」鑓で、装備は同じく具足・皮笠。金か銀で鑓に箔押しをしろとする。

最後に自分自身が登場し、馬上で「具足・甲・手蓋・面肪・大立物」を装備し、それぞれ金か銀で箔を押させ、馬には金属製の馬鎧もつけさせている。

この項目の後には、改めて一斉に着到定をすることになったことと、この着到定を違反することは許さないということ、今度の20日までに用意をしておけという注意書きが入る。

基本的なところはこんな感じ。

2)甲立物の寸法が記載された着到定

先ほどのサンプルと同じ年に北条氏光が出したとされる着到定をまず見てみよう。

「弐拾七貫弐百文、寺家鴨志田
此着到
一本、鑓二間之中柄、箔可推、持手具足・皮笠
一本、指物四方、寸法竪六尺五寸、横四尺弐寸、具足・皮笠
一騎、自分、甲・面肪、立物寸方五尺七分、上江成共、横江成共、後江成共、随意、必竟左右江之長可為此分、具足・手蓋・馬鎧、金紋随意
一人、歩者、具足・皮笠・手蓋・指物
以上四人
右、以前之着倒被改而遣候、自今以後厳蜜可務之候、仍如件」
天正九辛巳七月廿八日/差出人欠/大曽根飛騨守
戦北2259「北条氏光ヵ着到定書写」(大曽根俊雄氏所蔵文書)

これは、文言があっさりしている点、宛所が「殿」ではなく「江」である点からすでに疑問があるのだけど、甲の前立(立物)の寸法が5尺7分(1.5m)と長大なのも変な感じがする。文書では立物寸法の補足で「上にでも後ろにでも随意の設計でよい。最終的には左右の幅である」としているが、幅が1.5m以内なら、上方向と後ろ方向に延ばしてよいという。

伊達政宗や井伊直政の甲など、近世に伝わっているものは1メール以上の甲立物があるようだが、戦国期に実戦で投入されていたかは個人的に疑問。さらに、役高27.2貫文の大曽根飛騨が本当に着装したのか。そもそも他の着到では旗指物や鑓の寸法を記載しているが、甲立物は「必ずつけろ。ピカピカにしろ」ぐらいしか指示していない(戦北956/995/3985)。

「十壱貫五百四十四文、知行之辻
弐人、上下
鑓、壱本長柄
大立物
以上改而被仰付条ゝ
一、竹鑓御法度之事、付、はくおさる鑓御法度之事
一、二重して策紙可致之、長さ可為六寸七寸事
一、鑓持歩者にかわ笠きすへき事
一、道具廿より内之者ニ為持間敷事
一、無立物甲、雖軍法ニ候、由井衆不立者も有之、見合ニ打而可被捨、於来秋可致大立物事
右、着到知行役候処、毎陣令不足候、無是非候、来秋不足之儀ニ有之者、知行を可被召上、御断度ゝ重上、於来秋被指置間敷者也、仍如件」
寅六月十一日/(朱印「如意成就」)/来住野大炊助殿
戦国遺文後北条氏編0956「北条氏照朱印状写」(武州文書所収多摩郡徳兵衛所蔵文書)

「今度之御働■■■■甲立物無之付而者、可被為改易、如何ニもきらへやかにいたし、可走廻旨、被仰出者也、仍如件」
寅十一月廿一日/(朱印「如意成就」)/三沢衆
戦国遺文後北条氏編0995「北条氏照朱印状」(土方文書)

「(見せ消ち:さし物、地黒之しない)壱張、弓
以上
右、来御動可為盆前間、又ゝ可致支度、歩者まて黒きはをりおきせ、くろき物おかふらせへし、馬お能ゝこやすへき者也、仍如件
立物なき甲、法度候
六月七日/(朱印「翕邦把福」)/小河筑前守殿
戦国遺文後北条氏編3985「北条氏邦朱印状写」(諸州古文書十二)

3)もう一つの立物寸法

では氏光の大曾根丹波守宛着到は偽文書なのか。実は、甲立物の寸法について、これとほぼ同じ常見を記載している某着到写(板部岡能登守[康雄]宛・戦北3831)もある。

「板部岡能登守
百五拾七貫五百文、延沢
弐拾五貫文、用田
参拾八貫文、奈古谷
百六拾貫文、宮岱牛島
四拾弐貫五百文、御蔵出
以上四百弐拾三貫文
此着到
四本、小旗方寸竪一丈四尺八寸、横弐尺御前ニ有、御本指手具足皮笠
一本、指物四方竪六尺五寸、横四尺弐寸、武具道理
廿五本、鑓二間長柄何も箔可推、武具道理
二張、歩弓侍、射手ニ入精、見懸斗ハ可為相違、如形も致者専一ニ候、此仕立金頭金甲立物、寸法長四尺壱寸上へ成共横へ成共後へ成共何者様ニ成共随意、畢竟左右口之長可為此分指物風袋長五尺、横四尺弐寸、輪六尺弐寸五分、但シ色朱中ニ五寸之筋横ニ一筋
三挺、歩鉄炮侍、此仕立始中終右同理。(後欠)」
月日欠/差出人欠/宛所欠
戦国遺文後北条氏編3831「北条家ヵ着到定書写」(井上レン氏所蔵文書)

「金頭金甲立物、寸法長四尺壱寸上へ成共横へ成共後へ成共何者様ニ成共随意、畢竟左右口之長可為此分」と、寸法が4尺1寸(1.2m)でちょっと小振り。だが、この装備は弓侍・鉄炮侍のもの。大曾根丹波守自身の立物を指定したさっきの文書よりも、むしろ違和感は大きい。2人の弓侍と3人の鉄炮侍がそれぞれこの長大な立物をつけていたという。

※弓と鉄炮の侍が持つ指物は風袋で「長五尺、横四尺弐寸、輪六尺弐寸五分」(1.5×1.3m、直径1.9m)。「風袋」はこの文書でしか見られない。ここも疑問。

同時に、この康雄宛着到定が奇妙なのは、弓侍の部分だけ記述が細かく、更には「射手ニ入精、見懸斗ハ可為相違、如形も致者専一ニ候=射手は訓練させよ。見せ掛けだけではいけない。形のようにできるのが大切だ」としているところ。後北条氏は他の文書で一貫して「とにかく見かけを良くしろ」しか書いていないため、違和感が猛烈にある。

※駄目押しでもう1点不審なのは、これだけくどく立物を書き立てたのに、他の着到で弓侍に書かれている「可付うつほ」がないこと。

総じていうなら、この康雄宛着到定は、弓術に思い入れのある後世改変者が、弓侍の項目を書き換えてしまったように感じる。先の氏光着到定との関連性も高いことから、職業的に文書改竄を行なっていた者が両文書に関わったのかも知れない。

4)板部岡康雄宛で、別の角度から見て奇妙な文書が……

「井上レン氏所蔵文書」には他に板部岡右衛門[康雄]宛て(戦北1130)があるが、こちらも真贋に注意が必要だ。1569(永禄12)年の干支が入った北条氏政判物で、12月23日付け。掛川への出征で万一死亡したら妻女の面倒は必ず見るという悲壮な内容なのだが、前日付の清水新七郎の文書(戦北1129)とほぼ同文なのが気になる(小田原市史では何故か共に23日付け)。

〇清水宛
「今度懸川へ相移、於竭粉骨者、罷帰上、進進之儀涯分可引立候、万一遂討死歟、又者海上不計以難風令越度共、一跡之事、速申付、妻女之儀、聊も無別条可加扶助候、此条至寄子・被官・中間等迄、可為同筋目間、可為申聞者也、仍而如件」
極月廿二日/氏政(花押)/清水新七郎殿
戦国遺文後北条氏編1129「北条氏政判物写」(古証文五)

〇板部岡宛
「今度懸川相移、於竭粉骨者、罷帰上、進退之儀涯分可引立候、万一遂討死歟、又ハ海上不計以難風令越度とも、一跡之事、速ニ申付、妻女之儀、無別条可加扶助候、此条至寄子・被官・中間迄、可為同筋目間、可為申聞者也、仍而如件」
戊辰極月廿三日/氏政(花押)/板部岡右衛門殿
戦国遺文後北条氏編1130「北条氏政判物写」(井上レン氏所蔵文書)

この話に突っ込んでいく前に、高橋郷左衛門が貰った同様の遺族補償を見てみよう。

〇永禄4年に上杉が大反攻した際の決死の使者
「氏康(花押)
今度大事使申付候、涯分無相違可走廻候、然者、一廉可加扶助候、若於路次、身命致無曲候者、子を可引立候、仍状如件」
酉壬三月十三日/氏政(花押)/高橋郷左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編0691「北条氏康加判同氏政判物」(東京都目黒区・高橋健二所蔵)

〇永禄12年に武田が駿河乱入した際の決死の使者
「今度致使処に、万一令没身儀有之者、実子源七郎ニ、一跡之儀無相違可出置者也、仍如件」
正月十三日/氏政(花押)/高橋郷左衛門尉殿」
戦国遺文後北条氏編1141「北条氏政判物」(高橋健二郎氏所蔵文書)

郷左衛門は2通この補償文書を貰っているのだが、永禄4年と同12年では記載内容が異なる。これは実子の源七郎の成長に合わせて変えたのだろう。

となると、板部岡康雄と清水新七郎が全く同じ後継者状況だったと考えなければならない。その確率よりも、既存の文書をどちらかが模写した可能性の方が高いような感じもする。ここから疑問が始まる。

5)遠江担当者に実は康雄はいない

「遠候(州?)之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候」と、遠江への部隊派遣は清水新七郎と大藤式部丞だけが赴くように、という氏政の厳命がある(12月18日・戦北1123)。どちらかが既存の文書を模写したとするなら、それは康雄である確率が飛躍的に高まる。

大藤は掛川での活躍を氏真に賞されているし(1月5日・戦今2357)、新七郎は氏政から2174貫文という莫大な給地を受けている(5月3日・戦北1233)。また新七郎は「懸川相移、城内堅固ニ持固、百余日被被籠城」と氏政から感謝されており、掛川に籠城していたことは確実だ(5月23日・戦北1228)。

〇遠江は大藤と清水だけが担当せよ命令
「遠候之儀、大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言」
十二月十八日/氏政(花押)/清水太郎左衛門殿・布施佐渡守殿・大藤式部丞殿・杉山周防守殿
戦国遺文後北条氏編1123「北条氏政書状写」(小沼氏所蔵文書)

〇氏真が大藤の活躍を誉めたもの
「今度不慮之儀就出来、其城江被相移、走廻之段怡悦候、備之儀、氏康・氏政へ申入候間、馳走肝要ニ候、猶附口上候、恐々謹言」
正月五日/氏真(花押)/大藤式部殿
戦国遺文今川氏編2230「今川氏真書状」(大藤文書)

〇氏政が清水に大規模な知行を与えたもの
「感状之知行書立之事
千八百七拾四貫文、葛山領佐野郷
弐百貫文、ゝ、葛山堀内分
百貫文、ゝ、清五郷
以上
弐千百七拾四貫文
此内、
千貫文 先日感状之地
千七拾四貫文、一騎合百六騎、但、壱人拾貫文積
百貫文、歩鉄炮廿人
右、以今度之忠功如此申付候条、父上上野守走廻間者別様ニ致立、其方一旗ニ而可取、以恩賞之地致立人数、可及作謀者也、仍而状如件」
永禄十二己巳壬五月三日/氏政公御有印綬有/清水新七郎殿
戦国遺文後北条氏編1233「北条氏政判物写」(高崎市清水文書)

〇氏政が清水の掛川籠城を誉めたもの
「就駿軍鉾楯、氏真至于懸河地退出、因茲駿遠両国悉敵対之割、抛身命、任下知凌海陸之難所、数百里無相違懸川相移、城内堅固ニ持固、百余日被被籠城、終氏真并御前御帰国候、誠以忠信無頭、高名之至、無比類候、仍太刀一腰并五万之地遣之候、仍状如件」
永禄十二年己巳五月廿三日/氏政(花押)/清水新七郎殿
戦国遺文後北条氏編1228「北条氏政判物写」(古証文五)

大藤・清水の活躍に比べ、この流れの中での康雄の事績はあの遺族補償しかない。故に、この文書の信憑性はかなり慎重に検討するべきだと思う。

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