1498(明応7)年、巨大地震が各地のライフラインを破壊した際、東海地方の大名はそれぞれ何歳だったかを列挙してみる。

伊勢家(伊豆国)

宗瑞42歳(黒田説)66歳の可能性もあり

氏綱11歳

今川家(駿河国)

氏親25歳

武田家(甲斐国)

信昌52歳

信縄27歳

信虎4歳

松平家(三河国)

親忠67歳

長忠43歳

信忠8歳

斯波家(尾張国)

義寛41歳

義達?歳

北畠家(伊勢国)

材親30歳

 

こうして並べてみると、働き盛りだったのは伊勢宗瑞・松平長忠・斯波義寛。この3者は後に東海の覇権をかけて激突することとなる。

すなわち、震災直後に伊豆全域と小田原を制圧。甲斐にちょっかいを出しつつ、今川氏親と協調して遠江、東三河と勢力を伸ばした宗瑞は、岩津の松平宗家を撃破する。

それを受けて、岩津分家筋の安城松平家の長忠は攻勢限界点を越えた今川方を反撃して退却させる。

一方、今川の遠江占領を快く思わない義寛は、宗瑞と氏親を政治的に孤立させる(その後に直接戦ったのは、それぞれの次代となる氏親・義達とはなるが……)。

各地域ごとに受けた被害はまちまちだと思うが、一先ず当主の年齢で考えてみた。

輝虎守筋目不致非分事

一関東江年ゝ成動、致静謐事も、上杉憲政東官領与奪、依之相動及其稼事、

一信州江成行事、第一小笠原・村上・高梨・須田・井上・嶋津、其外信国之諸士〓[穴+牛]道、又者輝虎分国西上州へ武田晴信成妨候、於河中嶋も、手飼之者多数討死候、此所存を以、武田晴信退治之稼、是又非道有之間敷事、

一越中口静謐之事、是者、神保・椎名間之取相様ゝ及意見候得共、無承引候、椎名事、亡父以来申合与云、長尾小四郎養子成之与云、旁以難捨、及加勢事、是又非分無之候、惣別当家之義、従坂東及下知候間、官領意見次第成之候、縦不頼候共、及意見事、輝虎非分有之間敷事、

一以後之事者、如何も候得、於只今者、何之国においても、料所一ヶ所まつハらす候、当座の依〓[りっしんべん+占]有之間敷事、

一輝虎分国において、寺社神領武士之拘置事、依世猥、或輝虎不付意見、或無據存分ニ候間、如斯候、併堂社仏堂之修理建立、寺社神領之事をも、及心通申付候、武田晴信・伊勢氏康退治之上者、如前ゝ弥以涯分可申付候、少にても輝虎於一代改而不致非分事、惣別大小事共、従神慮外者、頼不申候、輝虎不知非道不存候、此上之義者、輝虎所願、弥以成熟所也、仍如件、

永禄七年[甲子]六月廿四日

上杉輝虎(花押)

弥彦

御宝前

→神奈川県史 資料編3「上杉輝虎願文」(弥彦神社文書)

輝虎が筋目を守り非分をしていないこと。一、関東へ連年出撃して平和をなしたことも、上杉憲政の関東管領与奪、これにより出撃して実績を上げたこと。
一、信濃国へ邀撃を行なったこと。第一に小笠原・村上・高梨・須田・井上・嶋津、その他信濃国の諸士浪人、または輝虎の領国西上野国へ武田晴信が妨害を行なったので、川中島においても、子飼いの者が多数討ち死にしました。この所存で、武田晴信を退治するための実績です。これもまた非道ではないこと。
一、越中口の平和をなしたこと。これは、神保・椎名の間の紛争に色々と仲介をしましたが、落とし所がなく、椎名のことは亡父以来申し合わせていることといい、長尾小四郎の養子にしていることといい、どう見ても捨てがたく、援軍しましたこと、これもまた非分ではありません。総じて当家のことは、坂東より下知がありましたので、関東管領の意見次第になりまして、たとえ頼まれなくとも、意見することは輝虎の非分ではないこと。
一、後のことはさておき、現在はどの国においても料所1箇所もねだったりしていません。時々の依怙はありません。
一、輝虎の領国において、寺社神領を武士が保持することは、世を乱すので、あるいは輝虎が意見を付けず、あるいは存分によっていないので、このようにしました。そして堂社仏堂の修理と建立、寺社神領のことをも、心が通って指示しました。武田晴信・伊勢氏康が退治されたならば、前々のようになるよう、ますます、及ぶ限り指示しましょう。改めまして、輝虎の一代において非分を行なわないことは、総じて大小のことでも、神慮以外は頼みません。輝虎が非道を知らずに思うことなく、この上で、輝虎の願いがますます成就するところです。