牧庵佐野へ御越ニ付而、道筋之儀、当領分御留申付候、其筋目候、一段申越候キ、定可参着候、然ニ従 屋形様如被仰越者、岩付通被仰付由候、左様ニ候得者、猶以無相違候、其方清戸迄案内者可申候、道之留之儀者、清戸迄之儀と先段申越候、大磯・座間・府中・清戸四ヶ所之儀者、兼日申付候、但従 屋形様被仰付候留不被知候、自 屋形様被仰付候者、如其留之者、罷付案内者一理可走廻、扨又我ゝ領分於留ニ者、如先筋目可走廻候、兎角清戸迄之案内をハ、其方可走廻候、従清戸者岩付之留 屋形様可被仰付候、岩付迄之案内者、清戸之両武藤可致之候、彼者之所へ印判遣候、能ゝ入勢可走廻候、恐ゝ謹言、

六月二日

氏照(花押)

宇野二郎右衛門殿

→戦国遺文 後北条氏編 1918「北条氏照書状」(河合文書)

天正5年に比定。

 牧庵が佐野へお越しになるに当たり、筋目のこと、こちらの領分にご宿泊になる申し付けです。その筋道は先に通達していますから、きっと届いているでしょう。ということで屋形様より仰せになったのは、岩槻を通されるようにとのことです。このようですから、更に相違ありませんように。あなたが清戸まで案内をして下さい。道中で宿泊することは、清戸までと先に通達されています。大磯・座間・府中・清戸の4箇所のことは、兼ねて申し付けられています。但し、屋形様より仰せ付けられた宿泊についてはこの範囲ではありません。屋形様から仰せ付けられれば、そのように宿泊させ、案内をつけるところは『一理』として活躍するように。そしてまた我々の領分に宿泊には、先の筋目のように活躍して下さい。とにかく清戸までの案内であなたは活躍して下さい。清戸よりは岩槻に宿泊するよう屋形様の仰せです。岩槻までの道案内は、清戸の両武藤がして下さい。あちらへは印判を送っています。よくよく精を入れ活躍して下さい。

如顕先書、京勢催行由、注進連続之間、先軍勢を集候、其表之義任置候条、善悪共安房守被相談、無二可被及防戦候、

一、郷村之兵粮、正月晦日迄限而、悉く要害へ被入置事、惣並候、厳可有下知候、少之切所をかたとり、城中へ兵粮被入義、諸人難渋毎度候、畢境其方可被楯籠居城江皆可被集候、自元郷村ニ有之者、小旗先迄も然与被指置義、勿論候、

一、長井坂当番小幡衆ニ候、当表へ参陣ニ定候間、来正月七日ニ、必ゝ彼番所被請取人衆可被返事、

  已上

右、定所如件、

十二月廿七日

 「氏直朱印」

長尾左衛門尉殿

同 孫七郎殿

→1998「北条家朱印状写」(暁庵景治年譜)

天正17年に比定。

先の書状で示したように、京の軍勢が動員されたとのこと。報告が続いていますから、まずは軍勢を集めています。そちら方面の件はお任せしますから、事の善し悪しともに安房守に相談され、とにかく防戦して下さい。
一、郷村の兵糧は、1月末日を期限にして、全て要害へ入れて置くこと。例外はありませんので厳重に命令して下さい。少しでも厳重な場所ということで城中へ兵糧を入れられることは、毎回諸人が困ることです。最終的にはあなたが籠城する城に全て集めるべく、郷村の者は元より『小旗先』まで確実に指示なさる事は言うまでもありません。
一、長井坂の当番である小幡衆は、こちら方面に参陣が決まりましたので、来たる1月7日に必ずあの番所を受け持って(小幡の)部隊を撤収なさるように。

笠原千松幼少付而、陣代之事、其方ニ申付候、自当年乙亥歳、来癸未歳迄九ケ年立候者、経公儀千松に可相渡、然者代官所同心衆私領如比間、請取厳密ニ可致之、就中、豆州郡代之事、如先規相改、毛頭掟無妄様ニ可被走廻、仍状如件、

天正三年[乙亥]三月二日

氏政(花押)

松田新六郎殿

→戦国遺文 後北条氏編 1771「北条氏政判物」(松田敬一郎氏所蔵文書)

 笠原千松が幼少なので、陣代のことをあなたに申し付けます。当年の天正3(乙亥)年より来る天正11(癸未)年までの9年が経過したら、公儀を経て千松に渡すように。ということで、代官所・同心衆・私領はこのようなので、受け取りを厳密にするように。とりわけ、伊豆郡代のことは、先の決まりの通りに調べて、万一にも掟なしの馬鹿げたことがないよう手を尽くされますように。

大手諸軍在陣之内、万一古河・栗橋之間へ敵動有之付而者、何時も栗橋川向迄、町人衆悉払而馳参、布施美作守相談、相応之儀可走廻候、若致無沙汰者有之者、後日聞出次第、可行重科候、如何ニも入精可走回候、仍如件、

[虎朱印]三月十三日

[宛所欠損]

→戦国遺文 後北条氏編 2150「北条家朱印状写」(下総旧事三)

天正8年に比定。

 大手の諸軍が在陣する状況で、万一古河・栗橋の中間点に敵が攻撃してきたなら、何時でも栗橋の川向こうまで町人が全員馳せ集まり、布施美作守に相談し、的確な対応を行なって下さい。もし欠席する者があれば、後日聞き出し次第に重罰に処すでしょう。どうやってでも精を入れて活躍して下さい。

内ゝ今日者可申上由、奉存候処、一昨廿七日之御書、只今未刻奉拝見候、 一 軈而御帰可被成由、被仰下候、此度者懸御目不申候事、折角仕候、二月者御参府ニ可有御座間、其時分懸御目申候て可申上候、 一 御隠居様又御隠居之由、被仰下候、去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候、 一 一両日以前、妙音院・一鴎参着、口上被聞召届候哉、拙者所へも冨田・津田状を越申由、一昨廿七日之御書、参候シ、自元口上者、是非不承届候、将亦一昨日朝弥・家為御使参候、此口上を家へも自関白殿被仰越候間、可然御返事尤由、比一理にて参由申候シ、朝弥、自妙音院申候とて物語申候分者、此度之儀者、沼田之事ニ参候、御当方御ために可然御模様之由申候シ、定而御談合可有御座候、珍儀御座候者、可被仰下候、 一、足利之儀、如何様ニも可被為引付儀、御肝要与奉存候、定而自方ゝ扱之儀、可有御座候、御味方ニさせらるゝ程之儀ニ御座候ハゝ、殿様御手前相違申候ハぬやうニ、兼而被御申上、御尤ニ御座候歟、但何事も入不申御世上ニ御座候、我等式者、遠州之事ニも何ニも取合不申候、年罷寄候間、うまき物を被下度計ニ御座候、返ゝ此度懸御目不申候事、何共ケ共迷惑不及是非奉存候、猶自是可申上旨御披露、恐惶謹言、

追而、一種被下候、拝領過分奉存候、併はや殊外之まつこに罷成候、又一種進上仕候、御披露、

十一月晦日

美濃守 氏規(花押)

酒井殿

→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「北条氏規書状写」(武州文書十八)

1589(天正17)年に比定。

 内々に今日申し上げたいことがあると思っていたところ、一昨27日のご書状を現在の未刻に拝見しています。一、すぐにお帰りになられるだろうとの仰せ。この度はお目にかかれませんこと、残念です。2月はご参府なさっているでしょうから、その時にお目にかかって申し上げましょう。一、ご隠居様がまたご隠居なさるとのこと仰せです。前に私が上洛の時分よりひたすら引きこもられて、どんな些事であろうと再び揺らぐことがあってはならぬと仰せになってしまいました。どうにもならないご様子だと存じております。一、一両日より前に妙音院・一鴎軒が参着したそうですが、口上をお聞きになりましたでしょうか。私の所へも「冨田・津田の書状を送るだろう」と妙音院から言ってきたと、お話がありました。一昨27日の御書が参りまして、もとより口上は是非を承り届けていません。はたまた一昨日朝比奈弥太郎が家康のためにお使いに参りました。この口上を家康へも関白殿が仰せになられたので、然るべくお返事するのがもっともとのこと、この一理をもって参上したとのことです。朝比奈弥太郎が妙音院が申したこととして物語した分は、この度のことは、沼田のことで参りました。そちら側の為に、しかるべき『御模様』とのこと申して、きっとご談合がおありになるでしょう。何かあったら、仰せ下されるでしょう。一、足利のこと。いかようにも検討なされるのは大切なことと考えております。きっと方々からの陳情があるでしょう。お味方になさるほどのことでしたらば、殿様のお手前相違のないように以前から申し上げられるのは、ごもっともなことでしょうか。但し、何事も入りがたい世の中ですから、私のようなことは『遠州』のことでも何のことでも取り合ってもらえないでしょう。年をとってしまいましたので、どうにか善処いただこうとそればかりです。返す返すも、この度お目にかかれませんでしたこと、どうにもこうにも戸惑うばかりです。なお、この者より申し上げることをご披露下さい。

 追記:一種を下されましたこと、私には過分なことだと思っています。そしてもう殊のほかの末期になりました。また、一種を進上します。ご披露を。

自奥州如注進者、去廿三、足利表動之砌、致先勢、外張際へ押詰、敵被討捕之由、心地好仕合、感悦候、猶比度ニ候間、別而可被走廻事専肝候、恐ゝ謹言、

八月廿六日

氏直(花押)

冨岡六郎四郎殿

→1913「北条氏直書状」(埼玉県児玉町 富岡好一所蔵)

群馬県史は1586(天正14)年に比定。小田原市史・後北条氏年表(下山版)ともに天正16年に比定。

陸奥守より報告で、去る23日、足利方面で戦闘があった際、先鋒を勤めて外郭の際まで押し寄せ、敵を討ち取られたとのこと。心地よいことで感悦です。さらにこの時ですから、格別に活躍なさることが唯一大切です。

去廿四日、於足利表、敵一人討捕候、高名之至、神妙候、弥可走廻候也、

正月廿八日

 (北条氏直花押)

金井猪助殿

→2019「北条氏直感状」(埼玉県浦和市 金井輝夫所蔵)

小田原市史は天正18年、後北条氏年表は17年に比定。同文文書で辻新三郎・反町大膳亮・宇津木下総守に宛てたものがある。

 去る24日、足利方面で敵1人を討ち取りました。高名の至りで神妙です。ますます活躍するように。

去月廿四日、向足利伏兵之砌、終日抽而走廻之由、神妙候、弥可相稼候、謹言、

二月二日

 氏直(花押)

桜井武兵衛尉殿

→2020「北条氏直感状」(島根県松江市 桜井元昭所蔵)

小田原市史は天正18年、年表は17年に比定。

 去る月24日、足利に向かって伏兵を配置した際、終日ぬきんでた活躍をしたそうで、神妙です。ますます戦績を稼ぐように。

八月廿八日於山川口、久下兵庫助一人打取之由、并地主早水惣左衛門・立崎綴正、敵一人宛打取候、感悦、堀左へ■依而弥可走廻之旨、被仰出者也、仍而如件、

九月十日

『押欠写』

大石信濃守殿

→戦国遺文 後北条氏編 1944「北条氏照?判物写」(安得虎子十)

天正5年に比定。

 8月28日山川口において、久下兵庫助1人を討ち取ったとのこと、ならびに地主早水惣左衛門・立崎弾正が、敵1人ずつを討ち取りました。感悦なさっています。『堀左』へますます活躍するようにとの旨、仰せである。

舟橋三王山南之構之小ほり半分ツゝ、両宿より可致之候、模様者、近藤治部左衛門・太田美作守如作意可致之者也、仍如件、

天正五[丁丑]年

[朱印]壬七月朔日

関宿 綱代宿・臺宿町人衆中

→戦国遺文 後北条氏編 1925「北条家朱印状写」(下総旧事三)

 舟橋三王山南の構えの小堀を半分ずつ、両宿で作業して下さい。段取りは近藤治部左衛門、太田美作守の意図のように行なうこと。