[懸紙上書]「西浦百姓 大川兵庫助  評定衆」

西浦小代官藤守、或年貢を百姓ニ不為計而手前にて相計、或升目を掟之外取候、実犯露顕之上、被為籠舎、彼虚妄不出者、可被処死罪候、兎角向後彼藤守西浦へ被遣間敷旨、被仰出者、仍如件、

天正五年[丁丑]卯月十日[虎朱印]

 評定衆 下野守康保(花押)

西浦百姓 大川兵庫助

→戦国遺文 後北条氏編 1900「北条家裁許朱印状」(国立史料館所蔵文書)

 西浦の小代官である藤守は、あるいは年貢を百姓に計量させず手元で量り、あるいは升目を掟から外れた方法で取るといいます。犯行が明らかになった上は、投獄し、騙して得た利益を出さぬ際は死罪に処すでしょう。とにかく今後はあの藤守は西浦へ派遣することはならぬ旨、仰せであった。

「横折」

今度於奈胡桃、敵一人討捕候、高名感悦候、弥可走廻候、仍如件、

十一月十日

(北条氏政花押)

小河池左京亮殿

→戦国遺文 後北条氏編 2111「北条氏政感状写」(鶏肋編百六)

天正7年に比定。

 この度名胡桃において、敵1人を討ち取りました。高名に感悦しました。ますますご活躍下さい。

 戦国時代全般でよく言われる「飢饉の時代」について、最近少し疑問に思っている。

 食糧難ということは、人口に比べて食料生産が少ないということだ。しかし、史料を見ると実態は間逆の方向を指しているように見える。

 この時代、動員された軍勢を使って収穫前の作物を刈り取ったり、農耕地を破壊したりしていることが多い。収穫までその領域を確保しておけば食料が得られるし、後々その土地が自領になった際、徹底的に破壊された農耕地は復元に時間がかかる。その利点を無視してわざわざ破壊行動を行なうのは、食料が豊富という前提に立った嫌がらせだからだろう。飢饉ならば虐殺行為になってしまう。

 そして、兵糧で困窮するのは完全封鎖された籠城兵ぐらいという点も飢饉説を否定してる。一般に食料が乏しい状態で戦争が起きれば、攻め込んだ側が先に飢え始める。補給線は長くなるし、飢饉では現地調達もままならないからだ。攻囲側が食料を持っているということは、移動可能な余剰食糧を購入でき、また在地に調達可能な食料が一定量存在することを意味する。

 戦争面でいうと、兵糧よりむしろ兵員集めで苦労している史料が圧倒的に多い。牢人衆として金銭で囲っておく行動も、人手不足ならではの制度だろう。

 民間でも、人は不足していたと思われる事例が多い。在地から逃げた百姓は何年も追い続けているし、国衆や給人どころか大名の間でも逃亡した百姓の扱いで対立が生じた事例もある。この遺恨は近世初頭まで引きずっている。

 では、気候不順が伝えられる中で何故この時代は食料が余っていたのか。

 後北条氏・今川氏の宛行や検地では増分がよく出てくる。これを消極的に捉えているのが現在の通説で、いわく、長らく実態が明らかでなかった土地生産を戦国大名が強制的に検地した結果増分が出たとしている。しかし、検地が追いつかぬ程急速に生産が拡大していたと積極的に考える方法もある。制度の変更や技術の進展で生産技術が急拡大しても、人口がすぐに追随するかは微妙だと思う(これは統計による裏づけが必要かも知れない)。

 思い込みや通説を無視して史料と向き合うならば、戦国は食糧余りの時代であり、人材難が深刻化していたと考えるほうが合理的だ。

後北条氏がその最末期に分国総動員をかけた印判状は有名で「ひらひら武者めくように」という一節はよく引用される。では何故武者めかなければならないのだろうか。

同じく同氏の軍役規定では、宛所の給人が「馬上」であるように指示したものが殆どだが、何故騎馬なのかを考えてみた。

■利点

視界が広い
見映えがする
移動が早い(但し本人のみ)

■不利点

弓・石・鉄砲の的になる
飼料が必要
平時の維持費がかかる

移動力についてはほぼ無効だと思う。日本には平野が少ないし、指揮官だけがすぐ逃げられる条件が志気を高めるとも思えない。視界を活かした斥候・伝令ならば馬上は適すると考えられるが、指揮官がする役割だろうか。

何より、遠距離兵器の的になるのは不利だろう。戦闘の初期に指揮官を失う確率が高過ぎる。

他の文書では、兵卒にもなるべく派手で新品の兵装を徹底させている。槍の穂先がなければ箔を貼れと指示しているから、殺傷力は考慮されていない。

鉄砲足軽に紬を渡しているのも、コストのかかる鉄砲兵を目立たせようとしている気がする。

感状を見ても1~2人殺したと褒めているものが多いし、実際の合戦の9割以上は武装して威嚇し合うだけで終わりだったように見える。であれば、殺傷力より外観を重視する指示書も納得できる。

そしてこれは『武田氏研究』44号の『遠江・三河から見た武田氏』で山田邦明氏が語っている内容とも重なってくる。

<前略>それで結局起請文を交わして、「あなたは城主でいてもいいです。土地も全部安堵します。だから僕の家来になってくださいね」となる。これが百点満点の開城なんです。戦争もしない、誰も死なない。敵を家来にしてしまう。いわば吸収合併みたいなものです。

これは講演の内容をまとめたものだが、1次史料に基づいて判りやすく実相が説明されている。機会があればまた紹介していこうと思う。

四百六拾六俵  借米本利之辻 但丑年迄

  此返弁

 弐百十八俵 丑九月より十一月を切而返弁、五十四貫五百文之分、

 弐百十八俵 寅年同断、

 卅俵 卯年九月

  已上四百六十六俵

一、諸人之借米、丑年迄本利合四百余俵也、諸人之借銭・借米、自御大途是非之綺、更雖有間敷子細候、与大郎父善右衛門先年駿州乱之刻、大聖院殿為御使、火急之砌、抛身命駿州へ罷越、剰遠州迄、御前之致御供候、其忠功更ニ不浅候、然ニ今与大郎借銭ニ進退打捨所不敏之間、如此返弁被仰出事、

一、知行之内五拾余貫、丑・寅両年着到赦免畢、是を以借米可済払事、

一、残五拾余貫を以、此員数ニ相当之軍役勤之、自卯年秋如前ゝ軍役本役ニ可走廻事、

 右定処、蔵本へも一ゝ為見御印判可申断候、定而各可聞届候、仍如件、

[丁丑]三月十九日[虎朱印]

山角上野守 奉之

西原与大郎殿

→戦国遺文 後北条氏編 1896「北条家朱印状写」(大竹文書)

天正5年に比定。

 466俵 借米の元本・利息合計(但し丑年まで)。この返済。218俵 丑年9月より11月を目処に返済、54貫500文の分である。218俵 寅年も同様である。30俵 卯年9月。以上466俵。一、諸人の借米は、丑年までの元利合計400余俵である。諸人の借銭・借米は、御大途より超法規措置をするのはあるまじき事だが、与大郎父の善右衛門は先年駿河国で乱があった際、大聖院殿(氏康)の使者を勤め、緊急時ということで身命を投げ打って駿河国に赴いた。更には遠江国まで御前のお供をしました。その忠功は浅くありません。ということで現在与大郎が借銭で進退を失い不憫なので、このように返済するよう仰せになりました事。一、知行のうち50余貫文、丑・寅両年の着到は免除する。これを使って借米を返済する事。一、残る50余貫文をもって、この員数に相当する軍役を勤め、卯年の秋より以前のように軍役・本役に活躍する事。

 右に定めるところ、蔵本へも逐一御印判を見せて証明して下さい。きっと聞き届けるでしょう。

先日、早雲寺住持の明叟宗普を調べた折り、彼が氏康と同年齢だと知った。北条綱成も同い年となる。また、今川氏輝も同年なので、氏康室の瑞渓院殿も年齢は近い(氏輝と同母。姉か妹かは不詳)。幻庵の名で知られる北条宗哲は彼らの20~23歳上となる。この人達は70代まで生きた。

次に、推測ではあるが宗端と氏隆は60代ではないかと思う。

後北条氏の他の人間は割合短命で、50代半ばまで生きたのは、氏綱・氏康・氏政・氏照・氏邦・氏規・氏勝・氏隆。

氏時、為昌、氏尭、景虎、三郎(宗哲長男)、氏信、氏繁、氏秀はもっと若く亡くなっている。

50代以下の人で不慮の死は氏政、氏照、景虎、氏信のみ。

宗教は明叟、内政は宗哲、軍事は綱成、閨閥は瑞渓院殿という長老体制が組めた点は後北条氏にとって強みになっただろう。

新田へ鉄砲衆合力候、五挺可然放者可被申付候、明後可遣候、島津左衛門自馬廻遣候間、従者可同心旨可被申付候、掟従是委以書出可申付候、万端遣念可被申付候、仍如件、

五月十九日[虎印]

常陸守殿

→戦国遺文 後北条氏編 1911「北条家朱印状写」(小田原編年録附録四)

天正5年に比定。

 新田へ鉄砲衆が援軍で行きます。5挺の適格者を申し付けて明後日に送って下さい。島津左衛門が馬廻から派遣されますから、従者は同心する旨を申し付けて下さい。掟はこの者から詳しく書出にして申し付けます。万端に念を入れて申し付けて下さい。

先段中村但馬所迄申越候条、定可披露候、然者甲相両国近年改而結骨肉、別而令入魂候処、無其曲、表裏追日連続、取分去年越国錯乱以来、敵対同前之擬耳、雖然、於愚者堪忍令閉口候処、此度駿豆之境号沼津地、被築地利候、此時者、不及了簡候、於当方も、豆州之構可致之候、廻愚案、始末之備、此砌極一ケ度候、遠境与申、無心千万候へ共、扨又思慮可申御間ニ無之間、抛是非申届候、一途ニ御人衆数多立給候ハ、可為本望候、有御遅ゝ者、其曲有間敷候間、御内意候者、一刻も早ゝ待入候、大手之人衆も、悉来七日・八日ニ者、爰元、可来候条、返ゝ於此砌者、無二被思召詰、御出勢可為本懐候、恐ゝ謹言、

九月三日

氏政(花押)

千葉殿

→戦国遺文 後北条氏編 2099「北条氏政書状」(渡辺忠胤氏所蔵文書)

天正7年に比定。

 先日中村但馬守の所へご連絡しましたので、きっと披露なさったでしょう。ということで甲斐国・相模国の両国が近年改めて骨肉を結びました。格別に入魂になろうとしたところ、それも虚しく、日を追って裏切りが連続し、取り分け、去る年の越後国錯乱以来、敵対同然の扱いのようなものでした。そうはいっても、私は耐えて黙っていましたところに、この度駿河国・伊豆国の国境、沼津という地に、『地利』を築かれてしまいました。ここにきて我慢できなくなりました。こちらとしても、伊豆国に防御拠点を作ることになるでしょう。策を巡らして細かく備えます。この際の一戦に極まります。遠いところといい、無理な願いですし、思慮に及ぶことでもないのですが、ご内意ですから、一刻も早くとお待ちしています。大手軍の部隊も、全て来る7~8日にはこちらに来るでしょう。返す返すもこの一戦です。無二に思い詰められ、ご出陣なさるなら本懐でしょう。

松山城主の上田長則が、元服したてと思われる木呂子新左衛門に宛てた文書を紹介した。「親の苦労(後見?)で最初は奉行するものだが、木呂子家は代々の近臣だから特別に扱う」と書いているので、新左衛門は父を失って幼くして元服、相続したように見える。

新左衛門は大塚という知行地を与えられているが、その見返りとして税金と労働力を主家に提供しなければならない。これは他国(他の大名家)でも同じだとしている。若い新左衛門に配慮して、戦国の世のルールを手ほどきしているような印象がある。

それと同時に出されている朱印状では「これは内緒だけど、無理せず可能な範囲でいいのだから」と助言している。大人の世界には厚かましさも必要だから頑り過ぎないようにと。

長則はこの翌年3月に50歳で死去。跡を憲定が継いでいる。『改訂版 武蔵松山城主上田氏』によると、長則は嫡流であったものの父を早くなくし、当主を継いだ叔父朝直(宗調)に育てられたという。憲定は朝直の実子だったようで、それなりに複雑な係累を持っている。その境遇もあってか、内密の朱印状まで与えて守ろうとしたのは、幼い日の自分と新左衛門が重なったからだろうか。

ちなみに新左衛門は小田原合戦時松山城を預けられるものの開城する。その後は名主になったようで、享保4(1719)年の新田開発に『木呂子新左衛門』と子孫の名が出ている。

ここで1点重要な疑問点が出てくる。徴税義務があって軍事力の提供義務がないということは、大塚郷代官でしかないのだろうか。他の松山衆を見てみないと判らないが、少し様子が違うようだ。

著者は梅沢太久夫氏。神田の三省堂で購入。まつやま書房という東松山の地元で『比企双書』として出版している。

内容は本格的で、関東戦国史を調べる際にとても重宝するだろう。私はじっくり読もうと思う。

そもそも上田氏は権現山挙兵や、松山城攻防で知られているものの、大石や長尾とは異なり、把握が難しい。

少し見ただけだが、案独斎が何人もいたり、諱が朝直な人物が2人いたり。秩父から東に進出している様子は、氏邦との関係性も窺えて面白い。

1次史料に丹念に向き合う好著である事は間違いないので、興味のある方はご一読を。