後北条氏、西浦百姓に、代官の藤守を彼らの告訴により投獄したと告げる
[懸紙上書]「西浦百姓 大川兵庫助 評定衆」 西浦小代官藤守、或年貢を百姓ニ不為計而手前にて相計、或升目を掟之外取候、実犯露顕之上、被為籠舎、彼虚妄不出者、可被処死罪候、兎角向後彼藤守西浦へ被遣間敷旨、被仰出者、仍如件 …
[懸紙上書]「西浦百姓 大川兵庫助 評定衆」 西浦小代官藤守、或年貢を百姓ニ不為計而手前にて相計、或升目を掟之外取候、実犯露顕之上、被為籠舎、彼虚妄不出者、可被処死罪候、兎角向後彼藤守西浦へ被遣間敷旨、被仰出者、仍如件 …
「横折」 今度於奈胡桃、敵一人討捕候、高名感悦候、弥可走廻候、仍如件、 十一月十日 (北条氏政花押) 小河池左京亮殿 →戦国遺文 後北条氏編 2111「北条氏政感状写」(鶏肋編百六) 天正7年に比定。 この度名胡桃にお …
戦国時代全般でよく言われる「飢饉の時代」について、最近少し疑問に思っている。 食糧難ということは、人口に比べて食料生産が少ないということだ。しかし、史料を見ると実態は間逆の方向を指しているように見える。 この時代、 …
後北条氏がその最末期に分国総動員をかけた印判状は有名で「ひらひら武者めくように」という一節はよく引用される。では何故武者めかなければならないのだろうか。 同じく同氏の軍役規定では、宛所の給人が「馬上」であるように指示した …
四百六拾六俵 借米本利之辻 但丑年迄 此返弁 弐百十八俵 丑九月より十一月を切而返弁、五十四貫五百文之分、 弐百十八俵 寅年同断、 卅俵 卯年九月 已上四百六十六俵 一、諸人之借米、丑年迄本利合四百余俵也 …
先日、早雲寺住持の明叟宗普を調べた折り、彼が氏康と同年齢だと知った。北条綱成も同い年となる。また、今川氏輝も同年なので、氏康室の瑞渓院殿も年齢は近い(氏輝と同母。姉か妹かは不詳)。幻庵の名で知られる北条宗哲は彼らの20~ …
新田へ鉄砲衆合力候、五挺可然放者可被申付候、明後可遣候、島津左衛門自馬廻遣候間、従者可同心旨可被申付候、掟従是委以書出可申付候、万端遣念可被申付候、仍如件、 五月十九日[虎印] 常陸守殿 →戦国遺文 後北条氏編 1911 …
先段中村但馬所迄申越候条、定可披露候、然者甲相両国近年改而結骨肉、別而令入魂候処、無其曲、表裏追日連続、取分去年越国錯乱以来、敵対同前之擬耳、雖然、於愚者堪忍令閉口候処、此度駿豆之境号沼津地、被築地利候、此時者、不及了簡 …
松山城主の上田長則が、元服したてと思われる木呂子新左衛門に宛てた文書を紹介した。「親の苦労(後見?)で最初は奉行するものだが、木呂子家は代々の近臣だから特別に扱う」と書いているので、新左衛門は父を失って幼くして元服、相続 …
著者は梅沢太久夫氏。神田の三省堂で購入。まつやま書房という東松山の地元で『比企双書』として出版している。 内容は本格的で、関東戦国史を調べる際にとても重宝するだろう。私はじっくり読もうと思う。 そもそも上田氏は権現山挙兵 …