月: 2012年5月

後北条氏、西浦百姓に、代官の藤守を彼らの告訴により投獄したと告げる

[懸紙上書]「西浦百姓 大川兵庫助  評定衆」 西浦小代官藤守、或年貢を百姓ニ不為計而手前にて相計、或升目を掟之外取候、実犯露顕之上、被為籠舎、彼虚妄不出者、可被処死罪候、兎角向後彼藤守西浦へ被遣間敷旨、被仰出者、仍如件 後北条氏、西浦百姓に、代官の藤守を彼らの告訴により投獄したと告げる

北条氏政、小河池左京亮に、名胡桃で敵1人が討ち取ったことを賞す

「横折」 今度於奈胡桃、敵一人討捕候、高名感悦候、弥可走廻候、仍如件、 十一月十日 (北条氏政花押) 小河池左京亮殿 →戦国遺文 後北条氏編 2111「北条氏政感状写」(鶏肋編百六) 天正7年に比定。  この度名胡桃にお 北条氏政、小河池左京亮に、名胡桃で敵1人が討ち取ったことを賞す

武者めくという事

後北条氏がその最末期に分国総動員をかけた印判状は有名で「ひらひら武者めくように」という一節はよく引用される。では何故武者めかなければならないのだろうか。 同じく同氏の軍役規定では、宛所の給人が「馬上」であるように指示した 武者めくという事

後北条家中の長老

先日、早雲寺住持の明叟宗普を調べた折り、彼が氏康と同年齢だと知った。北条綱成も同い年となる。また、今川氏輝も同年なので、氏康室の瑞渓院殿も年齢は近い(氏輝と同母。姉か妹かは不詳)。幻庵の名で知られる北条宗哲は彼らの20~ 後北条家中の長老

後北条氏、北条氏繁に、新田への救援で鉄砲衆5名を送るよう通達

新田へ鉄砲衆合力候、五挺可然放者可被申付候、明後可遣候、島津左衛門自馬廻遣候間、従者可同心旨可被申付候、掟従是委以書出可申付候、万端遣念可被申付候、仍如件、 五月十九日[虎印] 常陸守殿 →戦国遺文 後北条氏編 1911 後北条氏、北条氏繁に、新田への救援で鉄砲衆5名を送るよう通達

北条氏政、千葉邦胤に、武田氏との断交を伝え援軍を求める

先段中村但馬所迄申越候条、定可披露候、然者甲相両国近年改而結骨肉、別而令入魂候処、無其曲、表裏追日連続、取分去年越国錯乱以来、敵対同前之擬耳、雖然、於愚者堪忍令閉口候処、此度駿豆之境号沼津地、被築地利候、此時者、不及了簡 北条氏政、千葉邦胤に、武田氏との断交を伝え援軍を求める

上田長則の親心

松山城主の上田長則が、元服したてと思われる木呂子新左衛門に宛てた文書を紹介した。「親の苦労(後見?)で最初は奉行するものだが、木呂子家は代々の近臣だから特別に扱う」と書いているので、新左衛門は父を失って幼くして元服、相続 上田長則の親心