刈谷城を今川義元が『赦免』した件について、『赦免』とはどのような状況を指すのか、収集した書状を元に考察を行なってみる。
今川氏文書で該当するものは以下の通り。
01 今川義元、足立右馬助が岡崎赦免に奔走した功績を褒める
02 今川義元、明眼寺と阿部与左衛門に『織備』が悃望したため刈谷を赦免したと報告
03 今川義元、匂坂長能に鱸日向守とその親類を赦免しないよう指示
04 今川氏真、菅沼小法師を赦免し、本領を返付する
05 今川氏真、菅沼次大夫が菅沼小法師赦免に奔走したことを褒め加増する
06 今川氏真、岩瀬雅楽助に父和泉入道の赦免を伝える
07 今川氏真、鱸信正に叔父彦九郎が赦免されても裁決に変更はないと告知
08 今川氏真、千手院日瑜に飯尾豊前守を赦免したと報告
他氏での文書では以下のものが該当する。
09 武田晴信、天野安芸守に遠山氏赦免の仲介を依頼する
10 長坂虎房、天野安芸守に『今深』が悃望したため遠山孫次郎を赦免したと報告
11 北条氏康、山吉孫次郎に北丹の赦免決裁上程を依頼する
12 北条氏康・氏政、池田安芸守の借財を赦免して地所を進呈し活躍を期待する
13 後北条氏、大藤式部丞と寄子衆に陣夫供出を赦免することはないと告知
14 三木良頼、上杉輝虎に、伊達・蘆名氏を介して悃望した本庄氏の赦免を示唆
12/13は負担控除特典であり、本来であれば免除・宥免・免許と書くべきものを後北条氏では赦免としている。本考察では12/13は一先ず除外して検討する。
12/13以外の全文書で共通するのは、赦免を行なった結果として、赦免された側が赦免した側に従属しているという点である。さらに内容をまとめてみると、以下のようになる。
離反した親類を自陣営に戻した例:01/04(05)/06
第3者の悃望により赦免した例:02/09(10)/11/14
赦免による特典を否定した例:03/07
08に関しては、飯尾致実自らが悃望したと思われる書状がある。第3者でなくても悃望は出来るということだ。14で三木氏が示唆しているように、悃望→赦免という流れは一般的だったと考えられる。但し、離反した者が赦免される場合は、赦免する側への帰属が前提条件となる。越相同盟成立で行き場を失った北条高広の赦免を北条氏康が山吉孫次郎(→上杉輝虎)に依頼しているが、この場合も赦免を上杉輝虎が行なうならば、北条高広の帰属は上杉方となる。
以上を勘案すると、02において今川方が赦免を行なうのであれば刈谷城は今川方となる。この点はほぼ確実である。刈谷城が離反によって対立したのか、そもそも今川方でなかったかという点については、現段階では不明である。
なお、悃望を行なう第3者は、犬居天野氏(赦免される遠山氏と親しかった)、北条氏康(赦免される北条高広の所属陣営)という例がある。このことから、伊達・会津、織田信秀に関しては、それぞれ本庄氏・刈谷城主(水野氏?)と親しかったのではないかと予想される。

 今川氏から見た桶狭間に関しては、ほぼ史料を網羅できたと自負している。但し、1559(永禄2)年以前の三河・尾張の状況に関しては、2009年6月刊行予定の愛知県史資料編10を待つよりない。この史料の入手によって、松平・織田・水野の各氏がどのように動いたかが判明するだろう。それまでは、既にアップしている史料の訳文を精査していく予定だ。
 現在の状況を俯瞰すると、キーポイントとなるがどうやら『高橋荘』(愛知県豊田市付近)となる見込みである。この地域がどの勢力に属し、1560(永禄3)年にどのような動きをしたかによって、いわゆる『桶狭間合戦』当時の政治地図は異なるだろう。私は、南半『衣領』はほぼ今川方であったものの、北側の伊保・猿投の領域は、美濃斎藤氏に連なるのではないかと予想している。また、1560(永禄3)年当時、今川方が武節に軍を置いていることを考えると岩村の遠山氏の関連も考えられる。
 2008年は『桶狭間合戦』を巡る言説が多数登場した。2009年1月に信長公記に関する著述が上梓されることも合わせると、百花繚乱の趣がある。上杉氏との関連に着目したもの、正面攻撃にこだわったもの、背面奇襲の新説などなど、様々なアプローチが試みられており、興味は尽きない。惜しむらくは、どの著述も信長公記を元に考察している点である。信長公記の全てに史料価値がないと断定はしないが、『桶狭間合戦』の描写はまるで近世軍記物のようであり、信頼性はないと判断している。この軍記物的描写が論理的に破綻しているため『桶狭間合戦』には矛盾が生じ、多数の推論を生み出すこととなったのではないだろうか。
 何れにせよ、本サイトでは得られる限りの史料を精査して後、信長公記の検討に入る予定でいる。

1492(明応元)年

北条御所御遷化

 北条御所(堀越公方足利政知)が死去。

1493(明応2)年

駿河国より伊豆へ打入也。

駿河国から伊豆国へ出撃した。

1494(明応3)年

三月十六日合戦ニハ。武田彦八郎殿負玉フ。大蔵大輔打死。同山中殿打死也。此年藤沢道場焼ル。同當麻道場焼ル。

 3月26日の合戦で武田彦八郎殿が負傷なさり、大蔵大輔、山中殿が戦死した。この年藤沢道場(時宗清浄光院)と当麻道場(時宗無量光寺)が焼かれた。

1495(明応4)年

御所嶋へ落玉フ。此年八月伊豆ヨリ伊勢入道甲州打入。鎌山ニ陣ヲ張タレドモ。和談ニ而引反ス。

 御所(足利茶々丸)が島へ落ち延びられた。この年8月に伊豆国から伊勢入道(伊勢宗瑞)が甲斐国へ出撃。鎌山へ陣を張ったが、和睦して引き返した。

1496(明応5)年

北條君武州ヨリ甲州都留郡吉田正覚庵ニ移リ玉ヒテ。富士へ御出。此年。伊勢入道ノ弟弥次郎七月郎等太敷共ニ打死ス。

 北条君(足利茶々丸)が武蔵国から甲斐国都留郡吉田の正覚庵へ移動なさり、富士へお出でになった。この年、伊勢入道の弟弥次郎が7月に多数の郎党と共に戦死した。

1499(明応8)年

此年霜月王流サレテ三嶋ヘ付玉フ也。早雲入道諫テ相州ヘ送賜也。

 この年の11月、王が流されて三島へ到着なさった。早雲入道(伊勢宗瑞)が諌めて相模国へお送りした。

1504(永正元)年

駿河平ニ伊豆ノ国勢向テ伊豆勢負ル也。経木ヲ取テ数ス四万人打死スル也。

 駿河平へ伊豆国の軍勢が向かって、伊豆勢が負けた。経木を取って数えたところ4万人が戦死していた。

同七年戊午八月伊豆ノ御所腹切玉ヘリ。伊勢早雲御敵ニテ。

→戦国史研究27号『堀越公方滅亡の再検討』家永遵嗣

 1498(明応7)戊午年8月、伊豆の御所(足利茶々丸)が切腹された。伊勢早雲(宗瑞)と敵対されて。

1498(明応7)年

1月19日

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

1月24日

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

 1月19日。今川氏に養育されていた将軍(足利義澄)の妹である鎌倉姫君が近日上洛し、東隣に向かうということを聞き及び、赴いて相談する。
 1月24日。将軍の親族である姫君が駿河国から上洛して、東隣に滞在したという。

1507(永正4)年

2月13日

霽、自晩雨降、入夜甚、公兄朝臣明日可下向駿州云々、為暇請予罷向、於女中有杯酌、中納言以下参会

2月14日

晴、(中略)今日三条少将公兄朝臣下駿河、外祖母彼国守護今川母也、路粮料万疋上云々、

5月24日

霽、暁雨甚、玄清来、自駿河金代納之、先以蘇息者也、

 2月13日。みぞれ。晩より雨が降り、夜に入ると激しくなった。三条公兄朝臣が明日駿河国へ下向するだろうという。あらかじめ挨拶に向かい、女中の酌で宴席があり、中納言以下が参会した。
 2月14日。晴れ。(中略)今日三条少将公兄朝臣が駿河国へ下る。外祖母はあの国の守護である今川氏の母。移動費用が1万疋(100貫文)という。
 5月24日。みぞれ。明け方に雨が激しかった。玄清が来る。駿河国の金を代納。まずは息がつけた。

先婦養珠院宗栄儀

在中全書法華六十六部未充宝納氏綱

綱前緒取収篭之

金筒追州(修)於旧蹟贈

献 願伏此功早證

仏果及与群生円種(珠)

大永戊子七月日 願主敬白

→戦国遺文 後北条氏編「大田八幡宮経筒銘(島根県大田市・南八幡宮)」

大永戊子は、1528(大永8/享禄元)年

亡妻である養珠院宗栄のことで、法華経六十六部をここに入れて納めましたが、すべてではありませんでした。氏綱は改めてこれをとり納めます。金属の筒を追贈し、いち早く功徳があるようお願いいたします。仏の果報が得られあらゆる生き物に円珠を与えてください。

論点

ここでの仮説は、史料検討を経ていない。ひとまず記録として残しておく。後北条氏五代の中で生母が判らないのは伊勢宗瑞と北条氏康のみである。後北条前史に埋もれていた伊勢宗瑞の正体は、近年の研究で徐々に明らかになりつつあるが、同氏全盛期の氏康生母が判らないのは異常ではあるまいか。氏綱が伊勢から北条に改姓した契機として氏康の存在があったと推測してみよう。

北条改姓から見た氏康の存在

伊勢氏綱が、北条と姓を変えたのが、氏康7歳の1522(大永2)年。七五三の風習のように、7歳を過ぎると神の領域から人間の領域に降りてくるという感覚が中世・近世にはあった。これは嬰児死亡率が高かったため。そうなると、氏康が成人する目処が立った段階で北条と名乗ったことになる。
氏康は、伊勢姓の氏綱を父に持ちながら、北条姓の母を持っていたのではないか。そして、氏康の母は1528(享禄元)年7月には既に亡くなっていたことが、氏綱文書から判明している。氏康以降に子をなす余力がなかった可能性も高く、氏康が成人しないならば改姓根拠を失う。このために、氏綱は氏康が7歳になるのを待って改姓したのではないか。
これで、俗説にある「氏綱が北条にゆかりの妻を得て北条に改姓した」という証言に裏が取れる。では「北条にゆかりの妻」は誰か?
勝山記で「北条君」と呼ばれている人物がいる。足利茶々丸である。彼は堀越公方だった足利政知の息子だ。
そして彼には妹がいた。それらしき女性が三条西実隆の日記(明応7年1月)から伺える。文中の東隣は正親町三条実望。

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

この文面からだと、当時将軍だった足利義澄の妹と記されているだけだが、義澄も政知の息子であって、茶々丸とは兄弟である(同母かは不明)。
ということは、この姫君は義澄・茶々丸双方の妹となるだろう。その後、この姫君の消息は途絶えている。

政知・義澄・氏綱・氏康の年齡

 名前   生年   没年   堀越御所陥落   姫の上洛   氏康誕生 
 足利政知  1435(永享7)  1491(延徳3)  没後1年  没後6年  没後23年
 足利義澄  1480(文明12)  1511(永正8)  13歳  20歳  没後4年
 伊勢氏綱  1486(文明18)  1549(天文18)  7歳  12歳  28歳
 鎌倉姫君  1481-1492?  ?  0-12歳?  5-17歳?  21-33歳?
 養珠院殿  ?  1527(大永7)  ?  ?  死去12年前
 北条氏康  1515(永正12)  1571(元亀2)  誕生前22年  誕生前17年  0歳

※義澄の将軍在職は1494(明応3)-1508(永正5)年。

補足

堀越御所陥落後も北条の君(茶々丸)は生き延びている。伊豆南端から島嶼に渡り江戸湾から武蔵入り、甲斐に移って富士山麓にいたらしい。
後北条氏は、『北条』を名乗った割には、伊豆北条氏の遺蹟を尊重していない。菩提寺の成就院を守っていたのは、堀越公方を名乗った足利氏だった形跡あり。

調査立脚点

 家康の祖父清康と父広忠は、ともに家臣に暗殺され、その暗殺者を同じ人物(植村新六郎)がその場で斬り殺している。推理小説的に、これはなにか裏がありそう。しかも、清康を暗殺した阿部弥七郎の父親である阿部大蔵は、その後も何事もなく松平家に仕えている。というか、広忠が大叔父信定に狙われると亡命させるほどの忠勤ぶりだ。何かがおかしい。
 通説では、清康・広忠が斬られた刀が村正だったとしてその偶然性を強調している。が、強調すべきは上記の暗合性だろう。徳川史観は何かを隠そうとしたのではないだろうか。

年齢上の疑惑

 松平氏が家康に至るまでの生没年をまとめてみた。

名前 生没年 嫡子出生時年齢 享年
親忠 1438-1501 17? 63
長忠 1455?-1544 35? 89?
信忠 1490-1531 21 41
清康 1511-1535 15 24(暗殺)
広忠 1526-1549 16 23(暗殺)
家康 1542-1616 17 76

 表を見て、清康・広忠特有の点に気づく。それぞれ嫡子出生時年齢が若い。どちらも24歳・23歳で暗殺されているので、駆け足になっている。戦国時代は産むのも早いのかというと、案外そうでもない。他家を参照すると、大体20代以降だ。
 信忠生年1490(延徳2)年、その孫の広忠享年1549(天文18)年。3代目が死ぬまでの間が59年しかない。よく言われる『人間50年』に照らし合わせてみても、これは異常ではあるまいか。

他家をチェック

 まずは今川氏。この一族は基本的に晩婚だ。但し、義元は氏輝の弟で氏輝は嗣子なく若死にしている。

 名前   生没年   嫡子出生時年齢   享年 
 範政   1364-1433   44   69 
 範忠   1408-1461?   28   53 
 義忠   1436-1478   37   42(戦死) 
 氏親   1473-1526   40   53
 氏輝   1513-1536   -   23(暗殺?) 
 義元   1519-60   19   41(戦死) 
 氏真   1538-1614   32   76 

 後北条氏。初代宗瑞に関しては最近の説を採用している。

 名前   生没年   嫡子出生時年齢   享年 
 宗瑞   1455-1519   32   64 
 氏綱   1487-1541   28   54 
 氏康   1515-1571   18   56 
 氏政   1538-1590   24   52(自刃) 
 氏直   1562-1591   25?   30 

 最後に甲斐武田氏。信縄は父信昌と相続を争っている。生年が追いきれなかったので彼のデータは不確定だ。晴信(信玄)は13歳で扇谷上杉氏の娘を懐妊させたが、母体が幼く妻子ともに死んでいる。義信は父晴信と相続を争い自刃。

 名前   生没年   嫡子出生時年齢   享年 
 信昌   1447-1505   ?   58 
 信縄   ?-1507   ?   ? 
 信虎   1494-1574   25   80 
 晴信   1521-1573   17   52 
 義信   1538-1567   -   29(自刃) 

名乗りの疑惑

 松平家の名乗りとしては『〜忠』が一般的であるのに対して、清康はイレギュラーだ。家康の存在が大きいために気づきにくいが、家康は清康と生没年がかぶらない。また、良質の史料には清孝という名乗りしか残されていない。

仮説1

 清康と広忠は同一人物だったのではないか?
 何故一人の人物を分けたのか……。徳川家康の父として、清康(広忠)に相応しくない事情があったため、御用学者が総出で隠蔽工作に乗り出したのではないか。理由として想定できるのは、
長忠が嫡男信忠の正室を寝取り信定を産ませた? 長忠は信忠よりも信定を可愛がったという伝承あり。
変節に伴う変名があり、信忠→清孝→清康→広忠、と改名していった。ただしその変節が宇喜田直家や毛利元就ばりにえげつなかった。
殺され方があまりにもへぼかった。
 というもの。最後の案は、清康と広忠ともに同じ殺され方をしている点に着目している。

解ける謎

 仮説1を考えると破綻がなくなる点とし以下の3点を挙げる。
信定が安城松平家を乗っ取る際に9歳の幼君広忠を配流して幽閉したこと。
篠島脱出後、広忠の政治交渉が巧みであり、信定配下の切り崩しも巧妙。
今川氏輝兄弟暗殺と篠島脱出が絡むとするなら、広忠は壮年なほうが納得がいく。

データ検証

 ということで仮説1を更に検証。清康と広忠は同一人物として人物Xを想定。

 名前   生没年   嫡子出生時年齢   享年● 
 親忠   1438-1501   17?   63 
 長忠   1455?-1544   35?   89? 
 信忠   1490-1531   21   41 
 X   1511-1549   31   38(暗殺) 
 家康   1542-1616   17   76 

 このXは、動乱の果てに殺されている。広忠が幼年で篠島に幽閉されたとする逸話を考えると、それまでは政権が不安定だったのだろう。そして、篠島からの復帰後ようやく嫡男家康を儲けることができたと。

仮説2

 清康・広忠どころか、信忠も同一人物だったと推定してみる。そうすれば、以下の点が解消できる。
 清康が13歳で家督を継ぐと同時に岡崎城を攻撃し成功していること。Yだとすれば34歳のこととなる。

 名前   生没年   嫡子出生時年齢   享年 
 親忠   1438-1501   17?   63 
 長忠   1455?-1544   35?   89? 
 Y   1490-1549   52   59(暗殺) 
 家康   1542-1616   17   76

 この仮説の検討には、かなりの困難が予想される。ただでさえ史料の量が少ない戦国前期、しかも近世徳川氏政権時代のフィルタがかかっているという状況である。まずは関連史料の積み上げを行ってみる。

 歴史上の矛盾点に関して、史料に基づく検証を抜いて記述してみる。完全な形ではなく、また伝承や通史も参照しつつ道筋だけ探る。このことにより、仮説構築時の指針を打ち出して史料検証の拠点としていこうと考えている。一先ずは、旧サイトで掲載していたものをアップする。
 また、『素朴な疑問』やインターネット上の情報をとりまとめた備忘録としてもエントリーする予定。確実な一次史料による検証ではないのでその点はご留意を。

去十二日之一札今十六辰刻披見候、仍二日ニ四郎人衆、其方人数箱根・足柄へ懸急候由、即日被帰候、又大藤八日番替尤ニ候、来ル廿二日ニ人数を被立、廿ニ昼替尤ニ候、従而足柄手蜜ニ付而、其方人衆不足之由無余儀候、小田原程近候間、小幡先を見候ても片時之内にも自小田原可懸立覚悟ニ候、敵味方調儀刻ゝ候間、諸卒小田原へ可打集候、恐々謹言、

八月十六日

氏政(花押)

(後欠)

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状」(志方起氏所蔵文書)

1571(元亀2)年に比定。

去る12日の書状、現在16日辰刻に拝見しました。2日に四郎の部隊とあなたの部隊が箱根・足柄へ急行したそうで、即日帰還されました。また、大藤が8日に当番交代したのは妥当です。来る22日に部隊を立たせ、20日昼に交代するのはもっともです。これにより足柄は手広になりあなたの部隊では不足となりますが、どうしようもないことです。小田原は程近いので、小幡先を見たとしても1時間で小田原から駆けつける覚悟です。敵味方の諜報戦が刻々と動いておりますので、諸部隊を小田原へ集結させるでしょう。