古文書データの削除に続いて、独自解釈を基にした仮説も全て非公開化した。これで後片付けが完了したことになる。

戦国遺文を改めて読み返すことから、少しずつではあるが文書データの蓄積も進んできた。確たる目的もなく史料を読んでいくのもまた心満たされる一時であり、公私の煩いごとからしばし解放される愉悦は何にも代えがたい。

ただ、やはり専門家の解釈とのずれはしばしば出てきてしまう。趣味で調べている範囲では、仮説を立てることはやはり無理があると痛感し続けている。

その一例として「真手者」の解釈方法を巡って、専門家との見解の相違が浮かび上がったことを説明してみる。

まず原文は以下の通り(戦国遺文後北条氏編3027「北条氏政書状」(早稲田大学中央図書館所蔵文書))。

十一日之状、今十五披見候、 一、彼惑説偽之由、肝要候、其注進状披見之間、翌日肝要之年寄共を、以行召寄様ニ與分別候而、氏直へ愚拙案書進候而、態飛脚を被遣候キ、右之塩味故候、 一、証人之儀者、何も奏者中ヘ下知候、如何様専一之者撰、自白井者可被召寄候、自然相違之儀有之而者、沼田之備大切候、塩味過間敷候、上州ニ而城持者者、彼仁迄候、物主者真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候、恐ゝ謹言、

十一月十五日

氏政(花押)

安房守殿

この解釈を私流で行なう。

[note]11日の書状、今日15日に拝見しました。一、あの惑説が偽りであるとのこと。大事なことです。その注進状を拝見するため(披見之間)、翌日に主だった家老たちを、使者を送って(以行)呼び寄せるようにと判断して、氏直へ私の下書き(案書)を提出しまして、折り入って飛脚を出したのです。これは右の検討のためです。一、人質のことは、いずれも奏者たちへ指示します。どのようにしても重要な者(専一之者)を選んで、白井の者より呼び寄せますように。万一相違があっては、沼田の備えが大切ですから、考えを誤ってはなりません(塩味過間敷候)。上野国で城を持つ者としては、あの人だけです。物主は両手ほどいますが、家中に無駄な者が多いのです。[/note]

結構難解で、慎重な解釈が必要だ。偽りだったという「あの惑説」で、氏政が弟の氏邦対して騒いでいてるのが粗筋なのだが、何となく天正10年のとっちらかりようが連想される。あの時もそうだったが、氏政は氏邦に対して「情報を確かめて早く報告しろ」と急き立てることが多い印象がある。

まず最初に、一点原文に誤記があると思うので注記しておく。「塩味過間敷候」は語順が誤っており、正しくは「過塩味間敷候」=「塩味をあやまつまじく候」だろう。これは戦国遺文後北条氏編2395の北条氏政書状では「過塩味間敷候」となっていること、返り点の位置を考えると「過塩味」が本来正しい表記であることから判断できる。

さて、この11月15日の書状の比定は『戦国時代年表後北条氏編』(下山治久編・以下『下山年表』とする)と『後北条氏家臣団人名辞典』(下山治久編・以下『家臣団辞典』とする)によると、天正14年比定。その一方で『北条氏邦と猪俣邦憲』(浅倉直美編)所収の『猪俣邦憲について』(平岡豊著・以下『平岡論文』とする)では天正17年とされている。

両説何れが正しいのかを検討するために、まず自力で比定を試みる。

文中で氏政が「氏直へ自分の下書きを見せた」と書いていることから、この時の当主は氏直である。氏直が家督を継承したのは1580(天正8)年8月だから、この年から天正17年までに限定される。

次に、沼田城の守備が大切だとしているから、11月15日時点で沼田城が後北条方である年を挙げればよい。ここでまず下山説との齟齬が出てくる。

この書状の部分は、下山年表では以下の記述になっている。

北条氏政が北条氏邦に、羽柴秀吉の関東出馬は贋情報と判明した事、上野衆の人質の件は何れも奏者中に下知しており、同国白井城からは召し寄せる事。同国沼田城真田氏への守備は大切で、同家中には不穏な者もいるから注意せよ等と伝える。

ここでは「沼田之備大切候」を「沼田城への守備は大切」、「物主者真手者ニ候へ共」を「物主は真手者=真田の手の者」としている。これまで読んできた文書と比べると、違和感が大きいと言わざるを得ない。後北条氏は真田は一貫して「真田」と書いているし、「~への備え」であれば「対」や「為」「向」が併用される筈だ。例を挙げてみると、下の文では「北敵為備」となっている(小田原市史 小田原北条2 2067「北条氏直判物」)。

今度西国衆就出張、従最前参陣、河内守者北敵為備松山在城、掃部助者当地在陣、旁以肝要候、弥竭粉骨可被走廻候、本意之上、於駿甲両国之内一所可遣候、仍状如件、

天正十八年[庚寅] 卯月廿九日

氏直(花押)

上田掃部助殿

同河内守殿

とはいえ、下山氏は後北条氏に関しては造詣の深い泰斗である。何か要因があるのかも知れないが、私の手の届く範囲では論拠を見つけられず、行き止まりである。下山説の検討は終えるしかない。

平岡説がまだあるということで、やむをえず、このまま自己流の推論を続けてみる。

1580(天正08)年 ? 5月4日に藤田信吉が武田方に降伏(下山年表)
1581(天正09)年 ? 11月に海野氏内応未遂(下山年表)
1582(天正10)年 × 滝川氏→真田氏へ移管
1583(天正11)年 × 真田氏保有
1584(天正12)年 × 真田氏保有
1585(天正13)年 × 真田氏保有
1586(天正14)年 × 真田氏保有・羽柴との臨戦態勢
1587(天正15)年 × 真田氏保有
1588(天正16)年 × 真田氏保有
1589(天正17)年 ○ 7月に真田氏→後北条氏へ移管

天正8年と9年の領有者は明確には判っていない。どちらも、下山年表に記述はあるものの文書名が記されていないためだ。ただ、両年ともに沼田周辺で後北条氏の支配を窺わせる文書がなく、むしろ武田氏の攻勢に苦慮している様子が見て取れる。前記のように下山説は解釈に追随できないこともあって、天正14年比定も含め候補から外してよいと考えられる。

ということで残された天正17年が最も適合する比定となるが、それを採った平岡説をそのまま受け入れられるかというと、ここにも実は疑問がある。平岡論文から、この文書に該当する部分を抜き出してみる。

そして、猪俣能登守が富永氏の出身であったということは、天正17年と推定される11月15日付の北条氏邦宛北条氏政書状のなかに「沼田之備大切ニ候、塩味過間敷候、上州ニ而城持者者、彼仁迄候、物主者、真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候」とあるが、沼田城主は猪俣能登守であり(後述する)、彼が「真手者」であると氏政が言っていることに符合する。もし猪俣能登守が新参者である猪俣氏に出自を持つものであったなら、氏政がそのように言うはずがない。

まず、「真手者」の解釈も理解できない。平岡氏が用いているのは「まて=真面目・律儀」という意である。これは時代別国語辞典にも掲載されているのだが、表記は「真手」ではない。このため、当て字を使ったという推測を間に入れなければならないし、前後の文とも整合性がとれなくなる。

ここでの焦点は「上州ニ而城持者者、彼仁迄候、物主者真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候」の解釈なのだが、平岡説だと、以下のようになってしまう。

上野国にて城を持つ者はあの人だけです。物主は律儀なのですが、家中に無駄な者が多いのです。

つまり、当てになるのは物主=猪俣邦憲だけでその家中は無駄な者だという解釈になる。それを受けると前文の「白井の者から召し寄せろ」という指示は、邦憲被官たちの人質が白井にいたということになる。これを直接示す史料がないため、解釈に無理があるようにしか見えない。

ついで私が疑問に思うのは、「沼田之備大切」があるが故に「彼仁迄」と高評価された人物を沼田城主猪俣邦憲に安直に比定している点だ(沼田城主が邦憲であることは私も疑問は持っていないが、この「彼仁」を指すのが邦憲がは判らないということだ)。氏政が氏邦に強く要請しているのは人質の招集であり、中でも白井からの人質は特に重視せよという内容だから、邦憲本人か被官の人質が白井にいたということになる。

後北条氏が上野国の人質を集めていたのは厩橋であるから、邦憲の関係者だけが白井に証人を置いていたのだろうか。ところが、白井城には白井長尾氏が城主として存在しており、厩橋のような直轄城ではないし、白井長尾氏自身がその人質を小田原に預けている事実もある。天正10年7月頃と想定される北条氏政書状写(戦国遺文後北条氏編2473)では、北条氏政が長尾憲景に宛てて、炎天の時に小田原城に参府して息子の鳥房丸を人質に差し出した忠節を称賛し、北条氏直も懇意にすると伝えている。また、翌年10月9日には、北条氏直が、長尾鳥房丸の母が病気のため、長尾家臣の矢野山城守に人質を代えることを認めている(戦国遺文後北条氏編2580)。

であるなら、「彼仁」は長尾輝景で、彼は沼田城守備に関係していたという仮説が最も信憑性が高いと考えられる。氏政の指示は「長尾輝景の人質をまずは白井から出させよ」と解釈した方がより自然である。天正10年頃とは違って、この時に白井長尾氏の人質は小田原にいなかったのだろう。

白井長尾氏の来歴の一部を列挙してみる。括弧内は全て戦国遺文後北条氏編の文書番号。

天正7年3月12日 北条氏政が北条氏邦に向け、長尾憲景帰属を認めると伝える(2149)
天正9年5月7日 氏政が憲景に上野国で武田方と交戦した忠節を賞す(2235)

天正10年2月25日 長尾輝景初出。伊香保郷へ宛行(2317)
3月12日 氏邦が憲景経由で真田昌幸へ音信(2325)
4月2日 輝景が渋川市双林寺に寄進(4742)
7月頃 憲景の息子、鳥房丸が小田原へ行く(2473)
12月2日 氏政が憲景に去秋後北条氏へ出仕したことを賞す(2449)

天正11年3月25日 憲景が伊香保に掟書(2516)
4月24日 氏邦が矢野新三に、憲景が利根川を越えて攻撃した忠節を褒める(2528)
8月13日 父憲景から家督譲渡。口上は氏邦(2563)
8月17日 憲景が伊熊に制札を発給(2567)
10月9日 鳥房丸が母の病気を受けて一時帰国(2580)

天正12年4月2日 憲景死没
12月6日 輝景が矢野山城守に先代の席次を保証(2744)

天正13年12月11日 氏直が輝景に不動山城留守を任せる(3969)

天正14年4月8日 輝景が野村左京に憲景の時と同じ安堵を与える(2947)

天正15年12月25日 氏政が輝景に倉内での真田氏夜襲を警戒するよう指示(3240)

この中では一貫して氏邦が白井長尾氏の取次を務めており、懸案の書状写で氏政が氏邦に「白井から人質を呼び寄せるように」と伝えている点とも符合する。

してみると、「上州ニ而城持者」は白井長尾氏を含む「上州国衆」を指すとみてよい。当主側近出身の猪俣邦憲は当てはまらないのではないか。そして「物主者真手者ニ候へ共、家中ニ徒者多候」での「真手」はそのまま「両手」を指して「両手の数ほど」だろうと考えられる。何故なら、逆接を伴って「十指ほどにもいるものの、家中に無駄な者が多い」とすればすんなり読めるからだ。

「家中」が、城持者たちそれぞれの家中を指しているのか、後北条家中全体を指すのかは判断ができない。ただ前提として「上州ニ而」としているから、前者なのかも知れない。

そうやって更に考察を続けて、白井長尾氏に関してもっと情報を集めようと考えてみたりはする。だが、下山説・平岡説を独自に否定している点が引っかかって逡巡を覚えて仕方がない。それを無視して『桶狭間再考』『椙山陣考』『松田調儀』を何とか検討してみたものの、やはり引っかかる。

本来であれば未熟な私見を鍛えるいい機会になる筈が、専門家諸氏の考察とは平行線のままで解消できていない。

やはりこの道は誤りなのかという思いが大きくなっている。より多くの史料を調べて、少しはまともに見識が持てるようにならなければ。とは思うものの、調べが進むほどにどんどんひどいことになっている感覚しかなく、最早改善の見込みはないのではないかと結論が出かけている。

文書を読むこと自体は好きなので、もう少しだけ悩ませてもらいつつ、最終的には撤収しなければならないだろう。

翻刻された文言を、現代語に置き換えたものを私は「解釈」と呼んでいる。「現代語訳=翻訳」ではないからだ。翻訳とは、2つの言語を使う人同士をつなぐことを示すのが一般的な語義だろうと思う。たとえば、英語しか話せない者に、日本語の意味を解釈して英語に変換する作業が翻訳だ。これは互いの話者が同時に生きているから成り立つ。ところが古文書だとそうはいかない。

明後六日ニ鯛卅枚、あわひ百盃、相調可持来候、替り者、於此方可被為渡候由、被仰出候、始而之御用被仰付候間、少も無如在、必ゝ六日ニ者、夜通も可持来候、至無沙汰者、可為曲事候、御肴共ふゑん可相調者也、仍如件、『戦国遺文後北条氏編2613』

上の文書で北条氏繁の奥さんが頼んだことは、実は確認のしようがない。この言語を話せる人間は死滅しているからだ。だから一方的な解釈を行なうことはできても、それで意味が合っていたかは判らない。そしてまた、戦国遺文で「ふゑん」は「無塩」だと注記してあるが、これが正しいのかも厳密に確認はできない。

もし彼女が生きていたら、塩を振っていない鯛と鮑を持ち込んだ際にその解釈の正否が判り、その「解釈」は「翻訳」へと一気に昇格できるのだろう。

そうした考えがあって、私は自戒を込めて「解釈」として現代語に置き換えたものをアップロードし続けた。

そしてその解釈は、文書ごとにサイトに掲載してきた。これは、全くの独学で解読する知識がなかったために、逐語訳を積み重ねていき、過去分から検索して意味を整合していくために必要だったからだ。だから初期の置き換えでは現代語に寄り添っていたが、ここ最近は「現代語に適当なものがなければそのまま」にしていた。

自力で語彙を増やすには文書を読んで仮の解釈を重ねていくしかなかった。

各種辞書を活用したとしても、掲載されていないとか、意味が明らかに違うということもあって参考程度にしかならなかった。「令」「被」「急度」「一両人」などは、個別に文書内の実例を追っていくことで、この時代の今川・後北条で用いられていた語義と辞書に掲載されている用法が異なることが判った。

その一方で、語彙によって意味の近似値を探る意図以外にも、なるべく全ての原文と解釈文を掲載したかったという目論見もある。

文書は1つの伝達パッケージである。その中でごく一部分しか提示せずに推論するのは間違っていると考えていたからだ。文章全体を俯瞰して、書き手がどういう意図を他に持っているのか、宛所に対して何を伝えたがっているのかを見るべきだ。

とはいえ、必要な数語のために、とてつもなく長い書状をデータに起こす時には躊躇いを感じた。できれば部分だけをデータ化して済ましてしまいたかったのが本音だ。だが、そうやって勝手に切り取る権限は自分にはないとの思いで全文を掲出し続けた。

結果として、その推論時には興味がなかった文が後でヒントになることが多かったし、語の用例を増やすという副産物は貴重なものだった。だからそこまでの自分の判断はそう間違ったものではないと考えている。

では、どこで道を踏み外したのだろう。そうやって僅かずつでも解釈を重ねてきたのに、何故専門書と見解の相違が出てきてしまったのか。

根本的な過ちがあるとすれば、方法は正しいとして、それを試みた私自身の資質が至らなかったという点、解釈の基点となる蓄積文書数が少ないうえ採録傾向が偏っていた点(気の向くままに採取した文書が1,144件、本文総文字数で174,036字でしかない)が挙げられる。

資質の至らなさは今更どうこうなるものでもないので一先ず措く。一方で、文書数の偏向と蓄積の少なさは今後少しずつでも改善していければとは思う。だが、データを見ると年比定や文書番号でかなりの不備が見つかっていてそれを修正中という体たらく。これまで行なってきた推論は一旦破棄して、ゼロから思考実験のやり直しをするしかないだろう。

遺構が刻々と失われている状況で全国の城跡を調査することは、大変意義深い活動だと思っている。職業的な研究者では到底手が回らない部分を、アマチュアが主体的に調べて開示してくれている。

その一方で、翻刻された文書の解釈は100年後に行なっても構わないものだ。むしろ、新出史料や翻刻史料が年を追って増加することを踏まえると、今の時点で解釈を行なうこと自体、後考への悪影響になる可能性も高い。大局的に考えるならば、アマチュアの自分が行なってきた自己流の解釈と仮説構築について暗澹とした思いを禁じえない。

勿論、視点の異なる人間によって、同じ文書であっても異なる解釈が出てくる可能性はある。だから自己流の解釈をネット上に公開することで、後世参考になる仮説を導く契機になるかも知れない。

しかしそれとても、他の先行研究での文書解釈との齟齬がないという前提によって、自らの我流解釈への客観的信頼を担保できなければならないだろう。

2014年秋頃から顕著になってきたが、考察の参考にしようと書籍や論文を手に入れても、解釈の違いが気になって先に進むのが容易ではない。何とか手がかりを得ようと関連する文書を色々と読んでみるのだが、自分の解釈がどうして違ってしまうのかすら把握できずにいる。

独習する者にとってこれは非常に重い。読んだ文書の数は徐々にだが増えているのだから、知識不足というよりも、能力不足が原因だと結論付けられる。無自覚に解釈方向が捻じ曲がってしまっており、自己修正できていないのだろう。

このような状態で私の解釈を開示し続けるのは、歴史を調べる多くの方々への悪影響となる。だから一旦はサイトごと消去してしまおうかと考えてみた。ところがそれでは、この後で私と同じ手法を試みるアマチュアが出てきた際に、同じ轍を踏むことになると思い当たった。

私が試みている解釈法は、文書をデータ化して、似た文言が現れたところで比較して語彙を増やしていく手順である。目の前にある翻刻だけから解釈を試みたので、このやり方になった。後に『古文書・古記録語辞典』『時代別国語大辞典』も参考にしていくようになったが、基本的な手法は変わっていない。

無我夢中で解釈を重ねて来たのだけど、ふと気づけば自分の過去の解釈を真に批判してみた事がなかった。まずはこれをやってみよう。

うまく行かない確率の方が高そうだが、それならそれで、素人がこれを試みた結果、何がどう破綻していったのかを詳細にレポートすることで、幾許か世の中に貢献できるだろう。

どのように検証していくか、長考が続く……。

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ひとまず、自分の頭の中で今川義元の死について疑問はクリアされた。何れこの事件のあらましを再構築せねばならないだろう。

西三河国衆の家格から考えて、義元が姪婿に選んだのは吉良義昭ではないかという仮説は、史料が極端に少ない中での憶測でしかない。後に徳川家康が嫡男信康を切腹させ、正室清池院殿を殺害した理由として、義昭からの強奪を検討した。ただ、それならば後に信康は実子ではなかったと徳川家御用史観で片がつけられる筈だと思い直した。

家康がクーデター前に義昭と交戦を始めたのは、西三河で最大の競合相手となる勢力を潰しておこうと考えてのことだろう。

この後、3月中に戦国遺文の今川氏編最終巻が刊行されるだろう。これまでアップしていなかった文書を整理しつつ、データが網羅されるのを静かに迎えようと思う。

1月8日にこのサイトで不正ファイルが置かれていたのでご報告。9~12日にメンテナンスモードになっていたのは原因究明と対応のためだった。

CMSとしてWordpressを利用しているが、このCMSは全世界で60%のシェアを持っているためにサイバー攻撃も集中し易く、昨年頃から管理者アカウントへの不正ログインを試みるアクセスは1日で数百件にのぼった。
座視もできないので安全策はある程度講じていた。

  1. adminアカウントの削除
  2. 管理パスワードの強化(6桁から13桁へ変更・独自認証追加)
  3. wp-admin配下の海外アクセス禁止
  4. 1週間ごとにアクセスログの容量をチェック(Bluteforth除け)

ところが、Wordpressがインストールされているディレクトリに、見知らぬファイルが4つ置かれていた(txt/cie.txt/config.txt/config1.txt)。それぞれは単なるテキストファイルだったが、cie.txtには外部から定期的にアクセスがあった。このcie.txtには「Hacked by Mr. DellatioNx196」という文字列だけが入っている。

アクセスログを見たところ、Wordpressのプラグイン「category and page icons」の脆弱性を衝かれていたことが判明した。

180.211.91.94 – – [08/Jan/2015:12:06:29 +0900] “GET /cie-x.txt HTTP/1.1” 404 33 “https://old.rek.jp/wp-content/plugins/category-page-icons/include/wpdev-flash-uploader.php” “Mozilla/5.0 (Windows NT 5.1) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/38.0.2125.122 Safari/537.36”

このアクセス自体は404で返しているものの、実際にcie.txtは存在しているので、wpdev-flash-uploader.phpが関与していることは間違いない。攻撃元のIPアドレスはロシアだったが、恐らく単なる踏み台だろう。

対応策として、このプラグインの作者にメールを送り、include以下のファイルへのアクセスを遮断した。

wp-adminを閉じたとしても、テーマ・プラグインでファイルコントロール系のスクリプトが含まれている場合は注意が必要だというのが今回の教訓。

ただ気になっているのが、20日が経過した現在もcie.txtへのアクセスを試みる通信がある点。アクセス元は「xxxxx.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp」(xxxxxはこちらで伏せた)で、プロバイダーasahi-netにつながっている個人用ルータではないかと思う。ご覧になっている方でasahi-netをお使いの方はルータの設定をご確認いただければ幸いである。

西三河入りした今川義元はこの地域を安定させるべく、以下の3つの要素に対応する必要があった。

  1. 吉良氏・水野氏の完全服属
  2. 美濃遠山氏の排除
  3. 尾張織田氏の排除

吉良氏については未調査の部分が多く、これから考察を重ねなければならない。しかし、吉良義安と今川氏真は互いの嫡男・嫡女を相互に娶わせていることから、検証a39で考えた『松平元康後継者説』に自ら疑問を持つようになった。西三河国衆の代表的存在で、松平各氏の惣領的存在であるとはいえ、松平元康の出自は低い。更に大給松平氏などは既に直臣化している。それよりは吉良義安か義昭の兄弟どちらかに姪を嫁がせた方が家格や影響力から考えても効率がよい。

そうなると気になってくるのが、1561(永禄4)年4月11日に牛久保を夜襲するクーデターの直前に吉良東条城を攻めている点だ(4月5日に感状がある)。意表をつくのであれば事前に独自の動きをしない方が得策なのだが。今川氏に反した義昭を攻撃したのだとしても、クーデター後にも攻撃を続けている。全くもって謎の行動だと言わざるを得ない。

まだまだ証拠はないものの、吉良義昭に嫁していた清池院殿と信康・亀姫を自分の妻子にするために追い落としたのかも知れない。この頃三河の人質は吉田から岡崎に移っていたので、清池院殿たちが吉良家の人質として岡崎にいた可能性は高い(義元姪であるからそれなりの待遇は得ていただろうけれど)。後年、次男・三男が確定した際に清池院殿と信康が抹殺されたことを考えると、このような裏事情があったのではないかと勘繰りたくなる。

水野氏については、鳴海・大高の封鎖で締め上げていたことは既述の通り。これにつられて織田氏をこの方面に張り付かせることも狙っていたと考えている。

というのは、単純に尾張と交戦するなら、敵の敵である美濃斎藤氏と共同作戦をとるのが一般的である。だが、検証a42で検討した通り、東美濃の遠山氏は武田氏に従属しており、この遠山氏につられて武田氏は斎藤氏と敵対して織田氏と結んでいた。この状況では斎藤氏と通信することは難しい。また、積極的に織田氏を攻めることも、よほどの理由がないと行なえまい。

義元が採った戦略は、自らの分国内にいる水野氏を追い込みつつ織田氏を挑発し、結果的に濃尾国境の織田方を手薄にするという消極策だったと推測している。

一方でこれに伴い、過去何度も三河に乱入してきている遠山氏を義元は警戒し、武節城に天野・菅沼などを配している。天野氏は松井・岡部と並ぶ武功の一族であるから、本来なら遠山氏は押さえ込まれる筈だったが、義元が敗死した当日に武節城は攻撃されている。これは注目すべきだと思う。1560(永禄3)年5月19日に行なわれた戦闘は、大高城周辺・鳴海原・武節城となる。織田が全力で大高・鳴海を攻撃している間は、遠山が斎藤を牽制しているのなら判りやすいのだが、織田・遠山は日を合わせて今川方を一斉攻撃していることになるのだ。斎藤氏に何があったのか。先に書いた吉良氏への考察よりも、この点は重要だ。義元が想定した勢力均衡が突如瓦解し、大量の兵員を急速に投入されたことが、義元の死の要因だったと思われるからだ。

さて、積み上げた検証は大詰めに差し掛かった。斎藤義龍については岐阜県史が最もよくまとまった史料集になると思うのだが、編年構成ではないため時間がかかりそうだ。他の史料集も探りつつゴールを目指すとしよう。

今川義元の三河出馬について、政治的名理由を考察してみた。

まとめると、三河国衆を取りまとめるために義元自身と松平元康の出征が必要だったという点を基点として、以下の要素を含んでいる。

■嫡男を長期間もうけられないでいる氏真の後継能力を疑い、姪孫である松平信康を岡崎に据えて氏真と相対的な権限を与えようとした。

■武田晴信が織田信長と交渉を開始していた。これは東美濃の遠山氏と共に美濃の斎藤義龍に対抗するため。そのため、今川氏がこの戦線の主導権を握るために、織田氏を従属させる必要があった。

また、以下の要因も想定してよいかも知れない。

■義元・氏真が朝廷から任官されたのが5月8日であったため、この任官を三河国で受けたかった。

■伊勢遷宮の費用負担を、支配が徹底していない西三河・東尾張に及ぼすために軍事的バイアスを強めた。

これら西への偏重政策は、当時40代に突入した義元の余命予測に基づく可能性もある。今川家累代の没年齢を列記してみる。

範国 89歳(病死)
範氏 49歳(病死)
泰範 79歳(病死)
範政 69歳(病死)
範忠 53歳(病死)
義忠 40歳(戦死)
氏親 55歳(病死)
氏輝 23歳(不明)

家系図は当主として持っていたと思うが、最も意識したのは父の氏親だろう。満年齢で享年55歳だが、最晩年は病臥していた。曽祖父の範忠の没年齢を考えると、大体53歳頃が自らの想定寿命だと考えた可能性はある。

だとすると自分が元気なのもあと10年。ある程度の年齢になるとあっという間に過ぎる時間である。三河に独自政権を扶植するために急激な方針転換を図る必要に駆られたという仮説も成り立つと思う。

さて。政治状況の考察としては一旦切り上げて、地勢的な要因の考察に入る。鳴海城が落ちなかった謎、毎月19日に補給戦を行なっていた謎、刈谷城の謎などなど、細かく考えると際限がないので、考えをまとめつつラフデザインを検討したい。

史料漁りは完了した。本当はもっとほしいところだが、ないものはないので今仮説をまとめている。とはいえかなり複雑な構造になりそうだし、要点も多岐にわたるため、覚書を縷々記していこうと思う。

まず最初に、私のこの仮説では太田牛一や小瀬甫庵の『信長記』は一切考慮しない。1564(永禄7)年生まれの小瀬は同時代の人物とはいえない。また、1527(大永7)年生まれの太田は永禄3年に33歳ではあるが、鳴海原合戦については黙して語っていない(いわゆる『桶狭間』の記された「首巻」は自筆原稿が見つかっておらず作者は不詳)。太田が初期に祐筆をつとめた丹羽長秀の父親は水野和泉守被官だった可能性が高く、状況はよく把握していたと思うのだが……。

何れにせよ、当時の関係者が記した書簡などの一次史料で仮説を構築していく。これはこのサイトを始めた時からの方針だ。

では私は何を調べようとしているのか。長らく調査を重ねてきて自分でも模糊とした部分はあるため、改めて挙げてみよう。

主題は1560(永禄3)年5月19日に尾張国鳴海原にて戦死した今川義元。義元自身は戦国大名であって当主とはいえ戦闘に参加する可能性はあり、戦死すること自体は謎ではない。

一般的には、兵数の多い今川方がなぜ敗れたのかという議論を行なっているようだ。だが、義元の戦死を取り巻く局地的な兵数については史料がない。どんなに圧倒的な兵数を保有していても、的確に戦場に展開できなければ意味をなさない。少なくとも、総大将を喪失するという大敗北になったということから、今川方は兵数が劣っていたとみなすべきだろう。

「今川方は織田方より兵数が多い」という前提は、両家の勢力範囲から動員数を推測して戦場に当てはめているから成り立つ。しかし、近代の国民国家による徴兵制度のような動員が行なえたとは思えない。たしかに勢力範囲の広い大名は被官数も多いから動員可能数は大きいだろうが、あくまで可能性の範囲である。

シンプルに考えるならば「兵数が判らないなら、負けた方が少なかった」と考えた方が合理的となる。

総大将が戦死した今川義忠・武田元繁・宇都宮尚綱・陶晴賢・佐野宗綱といった例を見ても、強引な政策(外交・体裁)を重視し、戦況が不利になったのを立て直そうとして総大将が前線に出て戦死している。唯一の例外が、竜造寺隆信。島津に正面突破されて乱戦中に死んでいる(とはいえ沖田畷合戦前に行なった粛清によって求心力を失っていた点は大きく、やはり大局的に見て他者と同様に感じられる)。

これらの例を見ると、何れも我の強い専制的な大将に見える。しかし義元はそういうタイプではない。

こうしたことから最初に疑問に思ったのは、今川義元はなぜ尾張で死んだのか、という点だ。同時代の武田晴信・北条氏康・上杉輝虎たちと比べても、義元はほとんど出陣した形跡がない。前者の3名は明らかに陣中と思われる書状がいくつも見つかるが、義元については皆無である。今川家を見ても義忠・氏親・氏輝と割合親征した率が高いように見えるのだが、義元・氏真は出陣しなくなる(これも謎だが今は措く)。こうした傾向の義元が、紛争中の尾張東部で戦死したというのは解せない。上杉輝虎や武田勝頼であれば納得し易いのだが。

義元がわざわざ前線に出たのは、伊勢遷宮の経費負担の案件と、三河守任官が絡んでいるように考えている。前述した5名も外交・体裁を重視し、現場を軽視したため破綻したことを考えて、このことを詳しく検証したい。

ついで第2の疑問となったのが、義元と氏真の関係だ。息子氏真への家督継承は、弘治末年から永禄元年にかけて迷走している。ところが、義元戦死直後に氏真は大量の文書を発給して家督継承を既成事実としている。この直前まで、氏真の書状数は少なく、義元も数も減っている。このことを考えればよいか。そして、当主の継承か微妙なこの時期に尾張まで義元が出て行った理由は何か。ここは、甲相駿三国同盟の後継者問題が大きな要因だと考えている。さらに甲斐武田氏との関係でいうと、この時期武田氏は織田氏と急接近している。この原因として、美濃の斎藤氏が朝倉・織田・武田と断交して独自路線を選んだ経緯があるが、今川氏が武田氏との協調を考えるならば、尾張の織田氏と何らかの妥協点を見出す必要が出てきて、軍事的進出と譲歩によってある程度織田氏を屈服させるプランが考えられたのではないか。また、この作戦に同意できなかった氏真側は、尾張侵攻を冷ややかな目で見ていたように感じられる。だからこそ、義元戦死後に大量の文書を発給した、すなわち、義元の失敗を見越した、というか願っていた部分があるように思える。

最後の疑問は、なぜ鳴海城は陥落しないのか、という難題である。鳴海原合戦において、織田氏に対しての最前線は鳴海城である。だが、大高城は何度も後詰が言及されているし、沓掛城は合戦後に自落した(大高城も自落)。ところが鳴海城は後詰も自落もない。

地形的に見ても、北方の成海神社とはほとんど地続きで備えは甘く、城域も狭い。この鳴海城が義元敗死後も維持され、氏真の撤退命令を受けて整然と開城した。なぜ落ちないのか。感状がない点から、そもそも攻められてすらいないと思われる。付随して、毎月19日に大高後詰を行なった謎、刈谷城陥落の誤報がなぜ発生したかの謎、沓掛城で重要文書を失った被官たちの謎についても検討したい。

愛知県に購入を申し込んでいた『愛知県史資料編14』が手元に入った。7月上旬には段取りはついていたのだが、諸事慌しく大幅に遅れてしまった。

内容をざっと見たところ、『戦国遺文 今川氏編』にもなかった氏真感状や、緒川・刈谷に言及した義元書状などがあって参考になった。「これは」という史料は随時アップしていく予定。

主な目的だった「菩提心院日覚書状」は長文なので、信秀に言及した部分のみの抜粋を上げようと考えている。軽く読んだ限りでは、三河国の情報源は鵜殿氏のようだ。鵜殿氏が帰依していた蒲郡の長存寺は、この書状が伝来した越後国本成寺(法華宗陣門流)の末寺であるから、その関係だろう。

未だ図書館にも出回っていないものなので、確認したいことがあれば気軽にお尋ねを。