去々年以来、別而走廻、於在々所々忠節異于他之由、長尾新六注進、感入候、国本意候上、有勇様ニ可相計候、恐々謹言、
十月十七日
憲房
発知六郎右衛門殿
→駿河台大学論叢第41号 6「発知三郎右衛門宛感状写」(歴代古案三)
1509(永正6)年に比定。
一昨年以来、特別に活躍し、あちこちで忠節をなしたのは他者と異なると長尾新六が報告してきて、感じ入りました。国が本意となった上は、勇みとなるように計らいましょう。
去々年以来、別而走廻、於在々所々忠節異于他之由、長尾新六注進、感入候、国本意候上、有勇様ニ可相計候、恐々謹言、
十月十七日
憲房
発知六郎右衛門殿
→駿河台大学論叢第41号 6「発知三郎右衛門宛感状写」(歴代古案三)
1509(永正6)年に比定。
一昨年以来、特別に活躍し、あちこちで忠節をなしたのは他者と異なると長尾新六が報告してきて、感じ入りました。国が本意となった上は、勇みとなるように計らいましょう。
徳誕蔵主死去、無是非候、然者、相守因幡守、無二励忠信候、■節■之者共江加意見候者、可為簡要候、巨細安西右京亮可申遣候、謹言、
閏十一月廿一日
(高基花押)
[宛所欠]
→戦国遺文 古河公方編544「足利高基書状写」(常総文書一)
大永5年に比定。
徳誕蔵主の死去。是非なきことです。ということで、因幡守を守り、ひたすら忠信に励み、(忠節のある)者たちへ意見を加えることが肝要でしょう。詳しくは安西右京亮が申し遣わすでしょう。
対当方代々忠儀之上、殊釜形陣以来、別而被捽忠信条、感入候、可諄も同意候き、然間一所可相計由候処、慮外之進退之上、無其曲、雖然非可失其筋目候之間、任本願寺意見、雖少地候、小美野之内古山分并善徳寺分事、先可被相抱候、巨細三富新衛門尉与倉賀野中務少輔可相届候、恐々謹言、
二月一日
憲房判
鏑木兵部少輔殿
→駿河台大学論叢第41号 12「鏑木兵部少輔宛書状写」(御府内備考続編二)
1511(永正8)年に比定。
当方に対して代々忠義の上、特に鎌形の陣以来、特別に功績を挙げて忠信で感じ入りました。可諄も同意していたことで、いつか一所を渡すことを考えていたところ、慮外の成り行きとなってその実行はなく、その筋目を失うべきではないので、本願寺の意見に任せて小さな土地ではありますが、小美野のうちで古山分・善徳寺分のこと、まず保有して下さい。詳しくは三富新衛門尉と倉賀野中務少輔が届けるでしょう。
「[封紙ウハ書]江木戸豊後守とのへ」
相守久幹、今度走廻之条、神妙之至、感思召状如件、
永禄三年十二月廿九日
(義氏花押)
江木戸豊後守とのへ
→戦国遺文 古河公方編858「足利義氏感状」(榎戸克弥氏所蔵文書)
久幹を守り、この度活躍したのは神妙の至りと感じ思し召したのはこの通りである。
相守千代増丸走廻之条、神妙之至也、
天文十六年十二月廿八日
(足利晴氏花押)
富岡主税とのへ
→戦国遺文 古河公方編654「足利晴氏感状」(群馬県立歴史博物館所蔵富岡家古文書)
千代増丸を守って奔走したのは、神妙の至りである。
相守刑部太輔、無二忠信之由聞召之条、神妙也、弥可存其旨之状如件、
永正九年十月晦日
(政氏花押)
富岡玄蕃允殿
→戦国遺文 古河公方編371「足利政氏感状」(群馬県立博物館所蔵富岡家古文書)
刑部大輔を守り、無二の忠信であることをお聞きになりました。神妙です。ますますそのように考えるように。
相守成勝、走廻候条、神妙之至也、
十二月三日
(政氏花押)
長江左京亮殿へ
→戦国遺文 古河公方編485「足利政氏感状写」(栃木県庁採集文書六)
成勝を守り、活躍しているのは神妙です。
就古河落居、其砌早ゝ馳参走廻之条、忠信之至、感思召候、謹言、
霜月十三日
[古河公方晴氏御判也]在判
太田豊後守殿
→戦国遺文 古河公方編676「足利晴氏感状写」(感状写)
天文23年に比定。
古河落城について、その際早々に馳せ参じて奔走しました。忠信の至りで感じ思し召されました。
相守成長、存忠信之条、神妙候也、
十一月廿三日
(政氏花押)
栃木大炊助とのへ
→戦国遺文 古河公方編484「足利政氏感状写」(新編会津風土記六)
成長を守り、忠信に思っているのは神妙です。
無二相守梅犬丸、致専公儀之忠節候者、可為神妙候也、
三月廿九日
(成氏花押)
島津隼人佐とのへ
→戦国遺文 古河公方編224「足利成氏書状」(早稲田大学図書館所蔵下野島津文書)
ひたすらに梅犬丸を守り、公儀の忠節を専らにすれば、神妙でありましょう。