要検討じゃないけど検討してみた件
この小文では、着到定という文書で怪しいと思ったものを検討している。文書の解釈は省いているが、リクエストがあれば別途載せてみようと思う。 0)「着到定」って何? たとえばあなたが何かの手柄を立てて、後北条氏に家来として採用 …
この小文では、着到定という文書で怪しいと思ったものを検討している。文書の解釈は省いているが、リクエストがあれば別途載せてみようと思う。 0)「着到定」って何? たとえばあなたが何かの手柄を立てて、後北条氏に家来として採用 …
1562(永禄5)年に葛西城を乗っ取ったとされる本田正家について、戦国遺文の文書を中心に同時代史料から追ってみる。文の前の引用部分は抜粋なので、全文はこの記事後半をご参照のこと。 <1562(永禄5)年> ●3月21日 …
慶長三年戊戌八月十八日、太閤様御他界、其前兼御遺言秀頼十五歳成候迄、家康輝元一年代り大坂に被相詰仕置き御頼候、其外諸大名も一年代はり相詰候様にとの儀、秀頼江無沙汰仕間敷旨、各起請文仕候得之由、諸大名不残上巻に起請文致、此 …
井伊谷の幼主である次郎法師について以前考察したが、同様のことがその10年以上前に岡崎で起きていた。 1556(弘治2)年に大仙寺の寺領が脅かされた事件である。まず時系列で見ていく。 6月21日今川義元、三河国大仙寺の寺領 …
『細江町史資料編4』に所収されている『井伊家伝記』の説明は以下。 最近、龍潭寺へ合併された中川の大藤寺に所蔵されていた文書で、祖山和尚が当時の古記録や言い伝えを基に、井伊家の由緒を正徳五年八月十五日に書き上げた草校で、 …
遠江国の国衆である井伊氏については、永禄年間は今川方に付いていることが確認できる。しかし、その後1582(天正10)年に徳川家康側近として井伊直政が現われるまでの事蹟は伝わっていない。今川方として井伊谷で最後に活動して …
今川家中に佐竹氏がいたので、ちょっとまとめてみた。初出は、今川義元が戦死する直前。掛川にある朝比奈備中守家の菩提寺常安寺のこと。 1560(永禄3)年5月2日 朝比奈泰朝は、佐竹丹波入道宛に、丹波入道の塔頭昌吉斎を乗安 …
今川氏真、武田義信が嫡男をもうけられなかったことから三国同盟が崩壊に向かったことを検討してきた。このことは徳川信康にも該当すると余談で取り上げたが、実は北条氏直も同じ問題を抱えていたようだ。 北条氏直は1583(天正11 …
『謎とき 東北の関ヶ原』(光文社新書・2014年刊)にて、著者の渡邊大門氏が以下のように書いている。 大名の書状中においては、使者などを略称で表記するのは自然なことである。しかし、兼続が相手方の人物に対して、略称を用いる …
『歴史街道』2014年9月号39ページにおいて、新発見されたという『斎藤利三宛長宗我部元親書状』の大意が掲載されていた。この文書は、本能寺の変直前に長宗我部元親が織田信長に従っていた根拠という触れ込みで報道されている。 …