この小文では、着到定という文書で怪しいと思ったものを検討している。文書の解釈は省いているが、リクエストがあれば別途載せてみようと思う。


0)「着到定」って何?

たとえばあなたが何かの手柄を立てて、後北条氏に家来として採用されたとしよう。この状態だとあなたは当主の「被官」と呼ばれる。暫くすると、あなたに「知行」が与えられる。これには土地の名前と金額(当時のお金の単位である「貫文」)が書かれている。たとえば、「阿佐ヶ谷、50貫500文」みたいに。場合によっては「蔵出」といって、現金で支給されることもある。

知行地があればそこに行って現地の百姓と相談し、土地を治めていく訳だけど、次に後北条氏から「着到定」が届く。これは、与えられた知行の金額への税金のようなもので「軍役」と呼ばれる。収入を使って、軍隊を編成しなければならない。「旗をこの寸法で何本用意しろ」とか「馬上の侍は馬鎧をつけろ」とか細かく決められているし、ものによっては特定の人名まで指定されている。この軍隊をつれて本隊に合流する際の出欠リストが「着到」で、これを定めたから「着到定」と呼ぶ。

さて戦争になると、今度は「陣触」が届く。前に送られた着到定に従って、指示された時間・場所に軍隊を着到させなければならない。戦ってまた手柄があれば「感状」が貰える。これは「あなたの戦いぶりに感じ入った」という証明書で、後々恩賞を増やして貰う際の参考資料になる。

恩賞が下されて知行が増えると「軍役」も増えるのでまた改めて着到定が来る。

これが後北条氏被官の基本的流れ。

1)着到定の内容

1581(天正9)年に太田源五郎と思われる人が出したものをサンプルにしてみる。

「改定着到之事
一本、大小旗持、具足・陳笠、金銀之間ニ而紋可出、皮笠何も同前
一本、指物、四方竪六尺・横四尺、持手具足・皮笠
一本、鑓二間之中柄、具足・皮笠、金銀之間相当ニ可推、但鑓之事也
一騎、馬上、具足・甲・手蓋・面肪・大立物、金銀何間も可推、馬鎧金
已上四人
右、前ゝ之着到之内、少ゝ相改定置者也、可致披見、毛頭無相違可致之、大途堅被仰付間、猶以不可致相違候、火急ニ用意、来廿を切而出来専一ニ候、仍如件」
辛巳七月八日/(朱印「印文未詳」)/内山弥右衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編2256「太田源五郎ヵ朱印状写」(内山文書文書)

題名があって、その後に4人分の武装内容が書かれる。本来はその手前に着到の根拠になる課税額が書かれるのだけど、これは改定版の着到定なので略されているようだ。

最初の人は、旗持ちで、具足と陣笠をつけるよう書かれている。金か銀で紋(識別用のマーク)を付けるように但し書きがあり、これは皮笠でも同様にしろということだ。

次に、指物持ち。指物は基本的に旗よりは小さい。ここでは寸法が明記されている。持ち手は具足と皮笠を着用させよとする。

3番目にやっと武器が登場。2間の「中柄」鑓で、装備は同じく具足・皮笠。金か銀で鑓に箔押しをしろとする。

最後に自分自身が登場し、馬上で「具足・甲・手蓋・面肪・大立物」を装備し、それぞれ金か銀で箔を押させ、馬には金属製の馬鎧もつけさせている。

この項目の後には、改めて一斉に着到定をすることになったことと、この着到定を違反することは許さないということ、今度の20日までに用意をしておけという注意書きが入る。

基本的なところはこんな感じ。

2)甲立物の寸法が記載された着到定

先ほどのサンプルと同じ年に北条氏光が出したとされる着到定をまず見てみよう。

「弐拾七貫弐百文、寺家鴨志田
此着到
一本、鑓二間之中柄、箔可推、持手具足・皮笠
一本、指物四方、寸法竪六尺五寸、横四尺弐寸、具足・皮笠
一騎、自分、甲・面肪、立物寸方五尺七分、上江成共、横江成共、後江成共、随意、必竟左右江之長可為此分、具足・手蓋・馬鎧、金紋随意
一人、歩者、具足・皮笠・手蓋・指物
以上四人
右、以前之着倒被改而遣候、自今以後厳蜜可務之候、仍如件」
天正九辛巳七月廿八日/差出人欠/大曽根飛騨守
戦北2259「北条氏光ヵ着到定書写」(大曽根俊雄氏所蔵文書)

これは、文言があっさりしている点、宛所が「殿」ではなく「江」である点からすでに疑問があるのだけど、甲の前立(立物)の寸法が5尺7分(1.5m)と長大なのも変な感じがする。文書では立物寸法の補足で「上にでも後ろにでも随意の設計でよい。最終的には左右の幅である」としているが、幅が1.5m以内なら、上方向と後ろ方向に延ばしてよいという。

伊達政宗や井伊直政の甲など、近世に伝わっているものは1メール以上の甲立物があるようだが、戦国期に実戦で投入されていたかは個人的に疑問。さらに、役高27.2貫文の大曽根飛騨が本当に着装したのか。そもそも他の着到では旗指物や鑓の寸法を記載しているが、甲立物は「必ずつけろ。ピカピカにしろ」ぐらいしか指示していない(戦北956/995/3985)。

「十壱貫五百四十四文、知行之辻
弐人、上下
鑓、壱本長柄
大立物
以上改而被仰付条ゝ
一、竹鑓御法度之事、付、はくおさる鑓御法度之事
一、二重して策紙可致之、長さ可為六寸七寸事
一、鑓持歩者にかわ笠きすへき事
一、道具廿より内之者ニ為持間敷事
一、無立物甲、雖軍法ニ候、由井衆不立者も有之、見合ニ打而可被捨、於来秋可致大立物事
右、着到知行役候処、毎陣令不足候、無是非候、来秋不足之儀ニ有之者、知行を可被召上、御断度ゝ重上、於来秋被指置間敷者也、仍如件」
寅六月十一日/(朱印「如意成就」)/来住野大炊助殿
戦国遺文後北条氏編0956「北条氏照朱印状写」(武州文書所収多摩郡徳兵衛所蔵文書)

「今度之御働■■■■甲立物無之付而者、可被為改易、如何ニもきらへやかにいたし、可走廻旨、被仰出者也、仍如件」
寅十一月廿一日/(朱印「如意成就」)/三沢衆
戦国遺文後北条氏編0995「北条氏照朱印状」(土方文書)

「(見せ消ち:さし物、地黒之しない)壱張、弓
以上
右、来御動可為盆前間、又ゝ可致支度、歩者まて黒きはをりおきせ、くろき物おかふらせへし、馬お能ゝこやすへき者也、仍如件
立物なき甲、法度候
六月七日/(朱印「翕邦把福」)/小河筑前守殿
戦国遺文後北条氏編3985「北条氏邦朱印状写」(諸州古文書十二)

3)もう一つの立物寸法

では氏光の大曾根丹波守宛着到は偽文書なのか。実は、甲立物の寸法について、これとほぼ同じ常見を記載している某着到写(板部岡能登守[康雄]宛・戦北3831)もある。

「板部岡能登守
百五拾七貫五百文、延沢
弐拾五貫文、用田
参拾八貫文、奈古谷
百六拾貫文、宮岱牛島
四拾弐貫五百文、御蔵出
以上四百弐拾三貫文
此着到
四本、小旗方寸竪一丈四尺八寸、横弐尺御前ニ有、御本指手具足皮笠
一本、指物四方竪六尺五寸、横四尺弐寸、武具道理
廿五本、鑓二間長柄何も箔可推、武具道理
二張、歩弓侍、射手ニ入精、見懸斗ハ可為相違、如形も致者専一ニ候、此仕立金頭金甲立物、寸法長四尺壱寸上へ成共横へ成共後へ成共何者様ニ成共随意、畢竟左右口之長可為此分指物風袋長五尺、横四尺弐寸、輪六尺弐寸五分、但シ色朱中ニ五寸之筋横ニ一筋
三挺、歩鉄炮侍、此仕立始中終右同理。(後欠)」
月日欠/差出人欠/宛所欠
戦国遺文後北条氏編3831「北条家ヵ着到定書写」(井上レン氏所蔵文書)

「金頭金甲立物、寸法長四尺壱寸上へ成共横へ成共後へ成共何者様ニ成共随意、畢竟左右口之長可為此分」と、寸法が4尺1寸(1.2m)でちょっと小振り。だが、この装備は弓侍・鉄炮侍のもの。大曾根丹波守自身の立物を指定したさっきの文書よりも、むしろ違和感は大きい。2人の弓侍と3人の鉄炮侍がそれぞれこの長大な立物をつけていたという。

※弓と鉄炮の侍が持つ指物は風袋で「長五尺、横四尺弐寸、輪六尺弐寸五分」(1.5×1.3m、直径1.9m)。「風袋」はこの文書でしか見られない。ここも疑問。

同時に、この康雄宛着到定が奇妙なのは、弓侍の部分だけ記述が細かく、更には「射手ニ入精、見懸斗ハ可為相違、如形も致者専一ニ候=射手は訓練させよ。見せ掛けだけではいけない。形のようにできるのが大切だ」としているところ。後北条氏は他の文書で一貫して「とにかく見かけを良くしろ」しか書いていないため、違和感が猛烈にある。

※駄目押しでもう1点不審なのは、これだけくどく立物を書き立てたのに、他の着到で弓侍に書かれている「可付うつほ」がないこと。

総じていうなら、この康雄宛着到定は、弓術に思い入れのある後世改変者が、弓侍の項目を書き換えてしまったように感じる。先の氏光着到定との関連性も高いことから、職業的に文書改竄を行なっていた者が両文書に関わったのかも知れない。

4)板部岡康雄宛で、別の角度から見て奇妙な文書が……

「井上レン氏所蔵文書」には他に板部岡右衛門[康雄]宛て(戦北1130)があるが、こちらも真贋に注意が必要だ。1569(永禄12)年の干支が入った北条氏政判物で、12月23日付け。掛川への出征で万一死亡したら妻女の面倒は必ず見るという悲壮な内容なのだが、前日付の清水新七郎の文書(戦北1129)とほぼ同文なのが気になる(小田原市史では何故か共に23日付け)。

〇清水宛
「今度懸川へ相移、於竭粉骨者、罷帰上、進進之儀涯分可引立候、万一遂討死歟、又者海上不計以難風令越度共、一跡之事、速申付、妻女之儀、聊も無別条可加扶助候、此条至寄子・被官・中間等迄、可為同筋目間、可為申聞者也、仍而如件」
極月廿二日/氏政(花押)/清水新七郎殿
戦国遺文後北条氏編1129「北条氏政判物写」(古証文五)

〇板部岡宛
「今度懸川相移、於竭粉骨者、罷帰上、進退之儀涯分可引立候、万一遂討死歟、又ハ海上不計以難風令越度とも、一跡之事、速ニ申付、妻女之儀、無別条可加扶助候、此条至寄子・被官・中間迄、可為同筋目間、可為申聞者也、仍而如件」
戊辰極月廿三日/氏政(花押)/板部岡右衛門殿
戦国遺文後北条氏編1130「北条氏政判物写」(井上レン氏所蔵文書)

この話に突っ込んでいく前に、高橋郷左衛門が貰った同様の遺族補償を見てみよう。

〇永禄4年に上杉が大反攻した際の決死の使者
「氏康(花押)
今度大事使申付候、涯分無相違可走廻候、然者、一廉可加扶助候、若於路次、身命致無曲候者、子を可引立候、仍状如件」
酉壬三月十三日/氏政(花押)/高橋郷左衛門尉殿
戦国遺文後北条氏編0691「北条氏康加判同氏政判物」(東京都目黒区・高橋健二所蔵)

〇永禄12年に武田が駿河乱入した際の決死の使者
「今度致使処に、万一令没身儀有之者、実子源七郎ニ、一跡之儀無相違可出置者也、仍如件」
正月十三日/氏政(花押)/高橋郷左衛門尉殿」
戦国遺文後北条氏編1141「北条氏政判物」(高橋健二郎氏所蔵文書)

郷左衛門は2通この補償文書を貰っているのだが、永禄4年と同12年では記載内容が異なる。これは実子の源七郎の成長に合わせて変えたのだろう。

となると、板部岡康雄と清水新七郎が全く同じ後継者状況だったと考えなければならない。その確率よりも、既存の文書をどちらかが模写した可能性の方が高いような感じもする。ここから疑問が始まる。

5)遠江担当者に実は康雄はいない

「遠候(州?)之儀大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候」と、遠江への部隊派遣は清水新七郎と大藤式部丞だけが赴くように、という氏政の厳命がある(12月18日・戦北1123)。どちらかが既存の文書を模写したとするなら、それは康雄である確率が飛躍的に高まる。

大藤は掛川での活躍を氏真に賞されているし(1月5日・戦今2357)、新七郎は氏政から2174貫文という莫大な給地を受けている(5月3日・戦北1233)。また新七郎は「懸川相移、城内堅固ニ持固、百余日被被籠城」と氏政から感謝されており、掛川に籠城していたことは確実だ(5月23日・戦北1228)。

〇遠江は大藤と清水だけが担当せよ命令
「遠候之儀、大藤・清水両人ニ任候、其外之衆一騎一人も出ニ付而者可申越候、検使可為布施佐渡守、此掟妄ニ付而者可為曲事候、恐々謹言」
十二月十八日/氏政(花押)/清水太郎左衛門殿・布施佐渡守殿・大藤式部丞殿・杉山周防守殿
戦国遺文後北条氏編1123「北条氏政書状写」(小沼氏所蔵文書)

〇氏真が大藤の活躍を誉めたもの
「今度不慮之儀就出来、其城江被相移、走廻之段怡悦候、備之儀、氏康・氏政へ申入候間、馳走肝要ニ候、猶附口上候、恐々謹言」
正月五日/氏真(花押)/大藤式部殿
戦国遺文今川氏編2230「今川氏真書状」(大藤文書)

〇氏政が清水に大規模な知行を与えたもの
「感状之知行書立之事
千八百七拾四貫文、葛山領佐野郷
弐百貫文、ゝ、葛山堀内分
百貫文、ゝ、清五郷
以上
弐千百七拾四貫文
此内、
千貫文 先日感状之地
千七拾四貫文、一騎合百六騎、但、壱人拾貫文積
百貫文、歩鉄炮廿人
右、以今度之忠功如此申付候条、父上上野守走廻間者別様ニ致立、其方一旗ニ而可取、以恩賞之地致立人数、可及作謀者也、仍而状如件」
永禄十二己巳壬五月三日/氏政公御有印綬有/清水新七郎殿
戦国遺文後北条氏編1233「北条氏政判物写」(高崎市清水文書)

〇氏政が清水の掛川籠城を誉めたもの
「就駿軍鉾楯、氏真至于懸河地退出、因茲駿遠両国悉敵対之割、抛身命、任下知凌海陸之難所、数百里無相違懸川相移、城内堅固ニ持固、百余日被被籠城、終氏真并御前御帰国候、誠以忠信無頭、高名之至、無比類候、仍太刀一腰并五万之地遣之候、仍状如件」
永禄十二年己巳五月廿三日/氏政(花押)/清水新七郎殿
戦国遺文後北条氏編1228「北条氏政判物写」(古証文五)

大藤・清水の活躍に比べ、この流れの中での康雄の事績はあの遺族補償しかない。故に、この文書の信憑性はかなり慎重に検討するべきだと思う。

1562(永禄5)年に葛西城を乗っ取ったとされる本田正家について、戦国遺文の文書を中心に同時代史料から追ってみる。文の前の引用部分は抜粋なので、全文はこの記事後半をご参照のこと。

<1562(永禄5)年>

●3月21日

「今度忠節致様」
「於江戸筋一所、足立ニて二ヶ所可遣候」
「於当方走廻見届付者、如何程も可任望候」
→戦北748「北条氏康判物」

「各同心者共、此方へ馳来上、於何之地も、郡代非分儀申懸処、罪科事、背在之間敷候、殊更太田指南上ハ、聊横合義、不可有之候、心安存可走廻者也、仍如件」
→戦北749「北条氏康判物」

これってよくよく読むと、本田が敵方から寝返る予定だったんじゃないかと思える。江戸筋で1か所と足立で2か所と書いている知行は「可遣=つかわすだろう」となっている。戦北749の方も、諸書では「本田は太田康資の寄子だった」としているが、原文は「後北条に寝返ったら太田指南の保護下にあるから安心できる」という保証であって、太田康資が寄親であるとは限らない。

「それぞれの同心の者も、こちらに馳せて来るのだから、どの地の郡代も異議は唱えない。特に太田が指南するのだから、横合いは僅かでも許さないだろう。安心して活躍してほしい」

何れも氏康の花押が据えられている。この時の当主は氏政だが、隠居氏康の独断で寝返りの褒賞が決められたように思う。

●3月22日

「葛西要害以忍乗取上申付者、為御褒美可被下知行方事」
「一ヶ所、曲金」
「二ヶ所、両小松川」
「一ヶ所、金町」「
「代物五百貫文は同類衆中江可出事」
→戦北750「北条氏康判物」

相変わらず氏康の花押だけで「氏康(花押)」ではなく花押のみという略式な書状。この段階でも交渉は続いていて、恐らく本田から「具体的な知行地を教えて」という要望が出されて応じたものと思われる。「指示したのだからご褒美として知行を下されるだろう」としていて、まだ本田は作戦を実行していないようだ。

この3年前に完成した所領役帳で確認すると、遠山丹波守が深く関わっていることが窺えた。

葛西郡(給人は全て江戸衆)
金曲   遠山丹波守 150貫文
東小松川 遠山丹波守 45貫文
西小松川 太田大膳亮 15.3貫文
金町半分 荻野    17貫文
     豹徳軒   34.8貫文

●4月16日

「一ヶ所、葛西、金町」
「一ヶ所、同、曲金」
「一ヶ所、同、両小松川」
「一ヶ所、江戸廻飯倉」
「現物五百貫文、衆中」
→戦北759「北条氏政判物」

ここでようやく当主の氏政が出てきて、知行候補として飯倉が足されている。役帳で飯倉を見ると、3名が知行している。

飯倉之内前引   御馬廻衆・大草左近大夫 39.78貫文
飯倉内桜田善福寺  江戸衆・島津孫三郎  38.15貫文
飯倉之内      江戸衆・飯倉弾正忠  2.87貫文

このうち大草左近大夫(康盛)は、氏康死去後に隠居する程の氏康派で、ここでも氏康の意向が微妙に入り込んでいる気配がある。

●4月30日
「去廿四日、青戸之地乗取候砌、敵一人討捕候」
→戦北765「北条氏政感状」(吉田文書)

この文書で、4月24日に青戸にある葛西城が乗っ取られたことが判る。次に取り上げる8月12日の文書では「去春忠節」とあることから1~3月の春の間に作戦は決行されたと思っていた。4月下旬は夏だが、ここは現代の感覚と異なる表記なのかも知れない。

●8月12日

「去春忠節ニ付而金町郷被下候之処、自小金兎角横合申候歟、是ハ可為一旦之儀候、此上者無相違可致入部者也、仍如件」
→戦北774「北条家朱印状」

ここからは後北条家の当主印である虎朱印状が出てくる。「小金(高城氏)から、金町の知行について異議が唱えられたのだろうか?」と疑問文があって、本田から後北条氏へ、高城氏の入部妨害を訴え出たのだと思われる。ただそれに対する指示が奇妙。「これは暫定的な措置です。この上は相違なく入部なさって下さい」として、言い訳というより言い抜けを指示しているように見える。また、奏者がいない点、これまで一貫して「本田とのへ」だった宛所が「本田殿」といきなり厚礼になっている点から考え、氏康が独断で発給したイレギュラーな印判状の可能性が高いのでは、と思う。

●8月26日

「於足立郡知行義可被下由、御約諾雖在之、越谷・舎人被下与ハ御留書ニ無之候」
「然者雖両郷大郷候、重而一忠信致之付者、速可被下候」
(虎朱印)遠山左衛門奉
→戦北783「北条家朱印状」

その後もこの案件は氏政と本田の間でこじれ続けたようで、「足立郡において知行を下されるとのお約束があるが、越谷・舎人を下さるとは御留書にはない」としている。御留書は氏康が手元に置いた備忘録のようなものか。本田は、越谷・舎人を与えられる筈だと抗議したようだ。どちらも大郷だから、更なる活躍によって与えるかどうかを決めるという建前的な回答。こちらは奏者もいて「本田とのへ」であることから氏政の正式ルートだろう。

越谷については情報が見当たらなかったが、舎人は戦北から本田には与えられていないことが判った。

舎人郷   永禄8年に太田氏資が宮城四郎兵衛に与える
舎人中之村 元亀4年宮城四郎兵衛着到内記載・20貫文
舎人本村  元亀4年宮城四郎兵衛着到内記載・60貫文

●8月29日

「飯倉郷左近私領卅九貫文」
「此外内所務卅貫文」
「公方領卅貫文」
(虎朱印)石巻勘解由左衛門尉奉
→戦北784「北条家朱印状」

恐らくこれが最終的な落着点だろう。飯倉で大草康盛の私領39貫文が拠出されている。「内所務」「公方領」は内容が判らない(書籍によっては内所務を検地外所領、公方領を後北条氏直轄領とする)。

<1563(永禄6)年>

●8月12日
「先年葛西忠節之時被下候御判形両通、可被成御披見候、可致持参候、仍如件」
(虎朱印)山角奉
→戦北825「北条家朱印状」

翌年、知行について本田がまた抗議したようだ。だったらその時の御判形両通を見てやるから持ってこいという流れになっている。文書は「亥年」とあるから永禄6年比定でよいと思うが、「葛西忠節之時」が「先年」としているのが気になる。「去年・昨年」と書くのが通例だと思うので、殊更過去形にしたかったのか、もしくは比定年として1575(天正3)年が正しいのか。現段階では判断できない。

この文書からは「本田殿」となっていて、被官としての地位は確定したと思われれる。

<1569(永禄12)年>

●閏5月20日

「父本田一跡無相違可致相続、為幼少間、今来両年伯父甚十郎ニ手代申付候、自未年一跡請取而可致陣役候、若其内伯父甚十郎非分致之ニ付而者、可捧目安者也、仍如件」
(虎朱印)山角刑部左衛門尉奉
→戦北1251「北条家朱印状」

時は流れて、葛西での活躍をした本田がなくなり、息子が幼少だったので「来年いっぱいまでは伯父甚十郎が手代になれ」と指示した上で家督を継承させた。宛所は「本田熊寿殿」となっていて、完全に武家被官となっている。この後、本田熊寿は無事家督を継いで、近世は旗本となった。

——————————-データ編

●原文一覧(戦国遺文後北条氏編)

1562(永禄5)年

3月21日

今度忠節致様、無紋就馳来者、於江戸筋一所、足立ニて二ヶ所可遣候、但、於当方走廻見届付者、如何程も可任望候、仍状如件、
三月廿一日/(北条氏康花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0748「北条氏康判物」

各同心者共、此方へ馳来上、於何之地も、郡代非分儀申懸処、罪科事、背在之間敷候、殊更太田指南上ハ、聊横合義、不可有之候、心安存可走廻者也、仍如件、
三月廿一日/(北条氏康花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0749「北条氏康判物」

3月22日

葛西要害以忍乗取上申付者、為御褒美可被下知行方事。一ヶ所、曲金。二ヶ所、両小松川。一ヶ所、金町。以上。一、代物五百貫文、同類衆中江可出事。以上。右、彼地可乗取事、頼被思召候、此上ハ不惜身命、可抽忠節者也、仍状如件、
永禄五年三月廿二日/氏康(花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0750「北条氏康判物」

4月16日

知行方。一ヶ所、葛西、金町。一ヶ所、同、曲金。一ヶ所、同、両小松川。一ヶ所、江戸廻飯倉。以上。一、現物五百貫文、衆中。以上。右、葛西地一力ニ乗取、至于指上申者、無相違可被下候、仍状如件、
永禄五年卯月十六日/(北条氏政花押)/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0759「北条氏政判物」

4月30日

去廿四日、青戸之地乗取候砌、敵一人討捕候、神妙ニ候、向後弥可走廻者也、仍如件、
壬戌卯月晦日/(北条氏政花押)/興津右近との■
戦国遺文後北条氏編0765「北条氏政感状」(吉田文書)

8月12日

去春忠節ニ付而金町郷被下候之処、自小金兎角横合申候歟、是ハ可為一旦之儀候、此上者無相違可致入部者也、仍如件、
壬戌八月十二日/(虎朱印)/本田殿
戦国遺文後北条氏編0774「北条家朱印状」

8月26日

於足立郡知行義可被下由、御約諾雖在之、越谷・舎人被下与ハ御留書ニ無之候、然者雖両郷大郷候、重而一忠信致之付者、速可被下候、涯分不惜身命可走廻者也、仍如件、
戌八月廿六日/(虎朱印)遠山左衛門奉/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0783「北条家朱印状」

8月29日

飯倉郷左近私領卅九貫文、此外内所務卅貫文、公方領卅貫文、以上九拾九貫文、此分請取可申者也、仍如件、
戌八月廿九日/(虎朱印)石巻勘解由左衛門尉奉/本田とのへ
戦国遺文後北条氏編0784「北条家朱印状」

1563(永禄6)年

8月12日

先年葛西忠節之時被下候御判形両通、可被成御披見候、可致持参候、仍如件、
亥八月十二日/(虎朱印)山角奉/本田殿
戦国遺文後北条氏編0825「北条家朱印状」

1569(永禄12)年

閏5月20日

父本田一跡無相違可致相続、為幼少間、今来両年伯父甚十郎ニ手代申付候、自未年一跡請取而可致陣役候、若其内伯父甚十郎非分致之ニ付而者、可捧目安者也、仍如件、
永禄十二年己巳壬五月廿日/(虎朱印)山角刑部左衛門尉奉/本田熊寿殿
戦国遺文後北条氏編1251「北条家朱印状」

●戦国遺文後北条氏編地名索引

金曲 項目なし
金町 1-249/252/256、4-37/42
両小松川 1-249/252
飯倉 1-252/259、2-189
舎人郷 1-258、2-8
舎人中之村 2-210
舎人本村 2-210

●武蔵田園簿 関係地の生産高

曲金 468.956石
曲金新田 355.171
金町 1499.993
西小松川 1438.474
東小松川 1855.254
飯倉 149.76

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●参考1:永禄3年比定で、野田氏が葛西筋での活躍を指示されている

幸便間、令啓候、於御当地無二被遂忠信、被尽粉骨段、御高名之至、誠以不及是非次第候、然者、早ゝ可出馬候処、両総相調子細依有之、令遅ゝ候、此上ハ急度致出陣、葛西筋儀、涯分可走廻候、条ゝ義板橋申含候処、路次不自由故、于今江城逗留、無曲候、恐々謹言、
卯月十五日/氏康(花押)/野田殿
戦国遺文後北条氏編0626「北条氏康書状写」(野田家文書)

●参考2:永禄7年比定で、太田康資が葛西を包囲する敵陣に移って寝返る

葛西へ敵動ニ付而、新六郎敵陣へ移由候、家中儀一段無心元候、寄子・加世者事不及申、中間・小者迄相改、葛西へ不紛入様可申付候、若又其地江敵動候者、為始両人悉妻子を孫二郎ニ相渡、中城江入候て、可走廻候、先忠此時候、恐々謹言、
正月朔日/氏康(花押)/太田次郎左衛門尉殿・恒岡弾正忠殿
戦国遺文後北条氏編0835「北条氏康書状写」(楓軒文書纂五十三)

□付論:本田氏出自について

『後北条氏家臣団人名辞典』によると以下のような記述。

千葉忠常の五代目の本田左衛門尉親幹の孫信濃守親恒が頼朝に仕え、のちに島津忠久に属し数代島津氏に仕え、のち将監親正の時に北条氏康に仕えた。戦国期は親正、正勝、正家、正次と続く。子孫は野田市在。

『戦国遺文今川氏編』で一貫して「本田」として登場するのは水運と関係の深い縫殿助で、天文頃に活躍が見られることから、葛西乗っ取りに助力した本田氏はこの支族かも知れない。通字「正」が同一ではある。

●戦国遺文今川氏編人名索引

本田正忠(縫殿助)2-20/98/132/153
本田(伊奈)2-228/285、3-97

●参考3:天文17年比定で三河伊奈などに知行を貰っている本田氏がいる。

参河国知行分之事。一所、伊奈。一所、前芝湊并湊役、東西南北傍示如前々。一所、渡津・平井村船役。以上。右、年来任令為知行之旨、所宛行之也、此上於抽忠節者、重可加扶助者也、仍如件、
天文十七二月十五日/義元(花押影)/本田縫殿助殿
戦国遺文今川氏編0863「今川義元判物写」(摩訶耶寺文書)

●参考4:天文22年に奥平監物丞に知行を与えた際、「佐脇郷野院本田縫殿助為急帯之条、以去年雪斎異見」とあって知行の痕跡が残る。

一、知行分本知之事者、不入之儀領掌訖、新知分者可為如前々事、一、親類・被官・百姓以下、私之訴訟企越訴事、堅令停止之、但敵内通法度之外儀就有之者、可及越訴事、一、被官・百姓依有不儀、加成敗之処、或其子、或其好之人、以新儀地之被官仁罷出之上、至于当座被相頼主人、其輩拘置、彼諸職可支配之由、雖有申懸族、一向不可許容、并自前々知行之内乍令居住、於有無沙汰之儀者、相拘名職・屋敷共可召放事、一、雖為他之被官、百姓職就相勤者、百姓役可申付事、一、惣知行野山浜院、如先規可支配事、付、佐脇郷野院本田縫殿助為急帯之条、以去年雪斎異見、為中分之上者、如彼異見可申付事、一、神領・寺領之事、定勝於納得之上者、可及判形事、一、入国以前、定勝并被官・百姓等借銭・借米之事、或敵同意、或於構不儀輩者、万一有訴訟之子細雖令還住、不可令返弁事、右条々、領掌永不可有相違也、仍如件、
天文廿二年三月廿一日/治部大輔判/奥平監物丞殿

戦国遺文今川氏編1141「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

慶長三年戊戌八月十八日、太閤様御他界、其前兼御遺言秀頼十五歳成候迄、家康輝元一年代り大坂に被相詰仕置き御頼候、其外諸大名も一年代はり相詰候様にとの儀、秀頼江無沙汰仕間敷旨、各起請文仕候得之由、諸大名不残上巻に起請文致、此時家康公明年中大坂御詰に成る、景勝越後より奥州江国替仕候に付、三年在京御免に候然共、諸大名誓紙景勝一人不被致候、景勝登誓紙可有旨、家康公被仰越候得共、景勝返事、三年在京御免にて罷登申間敷候返事に付、家康公より再三被仰遣候得共、兎角得心不仕候て荒々敷返事故、家康公御立腹、我等迎に可参との御事にて江戸へ御下り被成、諸大名景勝むほん仕候とて追々関東江下り被申候、家康公御先手被遊候何も宇津宮迄御出陣被成候処に、上方にて石田治部少輔むほん企候に付、家康公ハ私成仕置ふとゝき成儀にて御坐候とて、毛利殿御上り候て大坂御番被成候得と、安国寺を使に遣し、早速輝元大坂へ上り被申候、此旨宇津宮江聞へ家康公被仰様々、景勝を致退治候後上方江打向可申候、各大坂に妻子在之間、是より早々上方へ御上り候得と被仰付候、其時福島左衛門太夫被申候ハ、私義治部少輔と一味仕候筋目無御坐候、大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにてハ無御坐候、たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間捨候と申候て、惣領刑部是江召れ候間家康公へ人志ちに進候、是より上方へ御先手可仕候、上方にて御人数・兵粮之義、私太閤様より十万石御代官所預七年分之米尾州に納置候間三十万石程と御用可罷立候、景勝義ハ先御捨置、上方江御出馬御尤に奉存候と被申候、左衛門太夫様々申候故、細川越中守殿・池田三左衛門殿・浅野紀伊守殿・田中筑後殿・堀尾信濃守殿、其外諸大名家康公御味方可仕と被申候共、家康公上方江之御出馬跡より御登り可被成との義に付、井伊兵部殿御名代に御登せ被遊候

<後略 以下、池田輝政と交互に先陣として移動しつつ清州に達し岐阜城を攻略するくだりに至る>

 

井伊谷の幼主である次郎法師について以前考察したが、同様のことがその10年以上前に岡崎で起きていた。

1556(弘治2)年に大仙寺の寺領が脅かされた事件である。まず時系列で見ていく。

最初に現われたのは今川家当主の義元が発行した判物である。

先行する判形があったが紛失したとのことで重ねて判形を出す。後々に至り、あの紛失した判形が出てきて、譲り状があると虚偽の申請をする者があるならば、取り調べて成敗を加えるものである。

 と書かれており、紛失した判形を改竄して不当な申し出をする者がいることを前提としている。その3日後には元服したばかりと思われる松平元信(家康)がほぼ同文の判物を出している。

前の寄進状を出そうとする者は、盗人とするだろう。

この中でも「前之寄進状出し候ハん者ハ、可為盗人候」と、不穏な文言が含まれている。そしてこの判物に花押はなく、印が据えられている。この印については後述する。

 元信と同日、「しんさう」という人物(恐らく女性)がより生々しい形で告発をする。解釈文を引用しよう。

 返す返すも大仙寺のこと、道幹にも今の三郎にも、私は仕えて来ました。この寺は私の寺ですから、どこであろうとも口出しすることはなりません。
 大仙寺寄進状ですが、前にお出ししたものを誰かに盗まれてしまったと、そのように申してきました。重ねて三郎(元信)が寄進状をお出しします。印判のことは、まだ誰ともこのようなことをしていなかったので、私の押判を押してお出しします。どんな時もこのようなことに判を押す場合は、この寄進状に似せてお出しすることでしょう。前の盗まれた物にも3文字の判はありません。前の寄進状を出す者は盗人でしょう。そのために、私から一筆差し上げました。

 この書状には花押も印もない。それなのに「われゝゝかおしはんをおしてまいらせ候=私の押判を押してお出しします」と書いているのは、元信の判物に押された印が「しんそう」のものだからである。それは以下の書状・寄進状で過去使われていた。

 「たいよ」宛ての寄進状には1542(天文11)年9月20日の日付がある。現在となっては印文は未詳だが、「しんさう」いわく3文字ではないものだったのだろう。これは家康が生まれる直前で、まだ広忠が健在の頃。男系が一旦途絶える前に、彼女は黒印状を発給していた。

 これらの史料から、状況を整理してみる。

 この事件を積極的に解決しようとしたのは「しんさう」で間違いない。文章を見ても怒りが伝わってくる。そこで彼女は義元に訴えて今川家から寄進状を兼ねて寺領を保護する判物を出してもらった。

 しかし、3文字だという偽の印の存在を大仙寺から聞いていたため、元信にも同文の判物を発行させ、その印として自身のものを流用した。更に駄目押しで状況を細かく伝えた書状を送った。

 これだけのことができるのは、この時駿府にいたからだと思われる。また、義元に紋切り型ではなく今回の事情に即した改変を加えさせていることから、発言力もある程度もっていたのだろう。

 このように、一門の長老がいて幼い後継者を輔弼できた点は、井伊谷とは様相が異なっている。今川義元や朝比奈泰能、太原崇孚も色々介入して当地を助けてはいたが、彼らだけではやはり混乱しただろうと思う。偽印まで横行して混乱していた状況が放置されたなら、後に松平元康が自立するのは難しかったのではないだろうか。

 『細江町史資料編4』に所収されている『井伊家伝記』の説明は以下。

最近、龍潭寺へ合併された中川の大藤寺に所蔵されていた文書で、祖山和尚が当時の古記録や言い伝えを基に、井伊家の由緒を正徳五年八月十五日に書き上げた草校で、上下二巻を合本してある。大藤寺境内は、井伊直親が住み、直政が生まれた処で、後に直親の菩提を弔う寺になった。

 1715(正徳5)年というと、井伊家が井伊谷を追われてから146年経っている。なぜこのタイミングだったかは、前述した『一八世紀前半遠州井伊谷における由緒の形成について』に事情が描かれている。1711(正徳元)年に『井之出入』という争論が発生した。井伊谷にある龍潭寺と正楽寺の間で、井伊氏始祖の伝承を持つ井戸の修理担当を奪い合った。

 この当時、井伊谷周辺を支配していたのは近藤氏で、5家(井伊谷・気賀・金指・大谷・花平)に分かれているものの一族総石高は1万石を超える大身の旗本である。正楽寺が当初井戸を管理しており、それは近藤氏が承認している。しかし戦国期に井戸を管理していた龍潭寺が現状を認めず、寺社奉行に訴えた。最終的には、井伊氏指示のもと龍潭寺が井戸を管理することが確定し、以後は井伊家当主が龍潭寺に参詣するなど、緊密な関係を築くこととなった。

 訴訟当時の彦根・与板の両井伊氏は龍潭寺の伝承に興味がなかったが、訴訟が進むにつれ段々と始祖伝承を共有していったという夏目氏の指摘から、龍潭寺側もその熱意に対応して『井伊家伝記』をしつらえたと見られる。

 しかしその記述は、同時代史料とは大きく矛盾する構成になっている。なぜか今川氏真が井伊家当主を付け狙うようになり、家老の小野但馬が讒言を繰り返している。そして最大の齟齬が次郎法師の存在だろう。

「備中次郎と申名は、井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ井伊家惣領に生れ候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非南渓和尚御付被成候名なり」

 次郎が井伊家の伝統的な仮名なのは正しいが、受領が備中というのは疑問。少なくとも直政の父は信濃守を称していた痕跡がある。僧俗の名を兼ねるために『法師』を付けたというのは、聞いたことがない。

幼名 実名
次郎法師 赤松政則
小法師 菅沼貞吉
吉法師 織田信長
三法師 織田秀信
塩法師 大友義鎮
彦法師 鍋島直茂
千法師 吉川興経
長法師 竜造寺隆信

 Webで検索しただけなので厳密ではないが、他大名のどの法師も基本的に男児の幼名として扱われている。彼らとの明確な差異がない限り「次郎法師という名前は女性も名乗れる」とは判断できない(そもそも、1715年という後世史料しか根拠がない状態では次郎法師・直虎が女性という説は首肯できない)。

 そして「次郎法師は成人した女性」という設定にしてしまったために、『井伊家伝記』は迷走を繰り返す。直政が嫡流ではなくなってしまったり、その女性の周辺の継承候補者を除外(殺したり、国外逃亡させたり)しなくてはならなくなってしまった。

 少し踏み込んで当時の状況を考えてみよう。既に見たように、井伊氏が谷を出た時の状況は余り体裁のいいものではなかった。一方で、谷のすぐ南にいた堀江城の大沢氏は徳川方を相手に一歩も引かず、今川氏真の許可を得た上で降伏した。その後は吉良・今川・武田・畠山と同じく高家として高い格式を持った旗本になった。そして井伊谷は実質大名クラスの実力を持つ近藤氏が支配している。

 親藩筆頭で大老格である井伊家中が祖先の武功を誇る際に、大沢氏と近藤氏は非常に厄介な存在となる。『井伊家伝記』ではこの2家との直接比較を避けつつ、上位権力者である今川氏からの執拗な当主殺害と、当主が女性だったという言い訳を付け、自尊心を保とうとした試みではないだろうか。

 遠江国の国衆である井伊氏については、永禄年間は今川方に付いていることが確認できる。しかし、その後1582(天正10)年に徳川家康側近として井伊直政が現われるまでの事蹟は伝わっていない。今川方として井伊谷で最後に活動していたのは次郎法師だが、この人物については伝承が多く、同時代史料のみの手堅い推論が見当たらなかった。そこで、この人物を検討してみる。

 井伊次郎が初出するのは、1564(永禄7)年の年貢割付だ。

井伊次郎法師、祝田年貢の納付先を指定する

 この文書で「次郎」という言葉は出てこないが、文書名が「井伊次郎法師年貢割付」となっているため挙げてみた。裏の貼紙で「永禄七年甲子七月六日割付 万千世様御証文」とあり、後筆ではあるが次郎法師が直政であると示している(万千代は井伊直政の幼名)。直政は永禄4年の生年が伝わっている。もし直政であればこの時に万千代から次郎法師へと改名したこととなる。但し元服はしていないだろう。元服前に活動する例としては、ほぼ同時代・同地域の菅沼小法師がいるため、万千代が次郎法師である解釈は妥当だろう。

 ここでは井伊谷の南部にある祝田120貫文の納付先が書かれている。井伊一門が25貫文、家臣の小野源一郎が15貫文でその同族の小野但馬が3貫文となっている。小野家では受領名を名乗る但馬が上位だと思われるが、ここで小禄となっているのは、祝田では源一郎の知行が多かったということだろう。

 小野氏はこの後の文書でも井伊被官として登場する。『井伊氏と家老小野一族』(井村修)によると、龍潭寺に小野七郎左衛門古隆の建立した小野玄蕃朝直の笠塔婆が残されているという。

正面 永禄三庚申
 永定院心臾威安居士
五月十九日
俗名小野玄蕃
裏面 玄蕃五代孫 井伊兵部小輔
家臣 小野七郎左衛門造立

 小野七郎左衛門は正徳年間(1711~16)に出てくる人物なので、かなり後世の人間である。『一八世紀前半遠州井伊谷における由緒の形成について』(夏目琢史・一橋大学機関リポジトリ)によると、与板藩家老であった七郎左衛門は井伊谷にかなり詳しく、能動的に龍潭寺に関わろうとしている。小野玄蕃という人物が鳴海原(桶狭間)で戦死したことはある程度信用してよいように考えられる。そうなると、直政の父と思われる人物も永禄3年5月に戦死し、その翌年に産まれた直政が3歳になるのを待って文書発給を始めたという推測が引き続いて得られるだろう。

 ついで現われるのが1565(永禄8)年9月15日。龍潭寺への寄進状で、「次郎法師」と名乗って印文未詳の黒印を押している。

井伊次郎法師、龍潭寺寄進地を確定する

 この文書名として「井伊直虎置文」とあるが、単なる寄進状を置文としている点から考えて「次郎法師=直虎」という信憑性は低い。「道鑑討死之後」「信濃守為菩提所建立」という文があるが、この人物が直政の父親かも知れない。

 この後、永禄9年に今川氏主導で遠江国で徳政が行なわれる。井伊谷ではこの年に文書が残されていないが、翌年には影響が出始める。

今川氏真、瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする

 井伊次郎は出てこないが、後に関係するため挙げておく。日付は永禄10年10月13日。これから何度も出されることになる、瀬戸方久の買収地保証書の初出である。

 瀬戸方久は井伊谷の瀬戸に住んでいた商人と思われ、何とかして前年の徳政を覆そうとしていたのだろう。今川氏真に直接判物を出してもらっている。しかし、氏真が書いたのは「信濃守代々令忠節之旨申之条」であって、徳政回避の文言はない。そもそもこの文書は宛て先を欠いており、方久が偽って次郎法師名で土地保証を得て、証文だけ改修した可能性が高いように見える。であれば、「信濃守の代々忠節に免じて」という文も納得がいく。解釈に慎重さが求められる文書だろう。

 それと並行して、極秘で匂坂直興が動いている。小野但馬とともに駿府で訴訟活動していることを、井伊谷の祝田禰宜にその年の12月に報告している。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政が認可されるとの状況を伝える

 「調整に時間がかかり、年を越してしまうだろう」と述べているが、買収地の確保を目指す瀬戸方久とは相反する活動である。

 この書状を出した匂坂左近直興もよく判らない。井伊谷関連でしか登場しない人物で、「直」の通字を名乗っているということから、井伊氏と関係があるように見える。幼児の直政に取って代わることはなかったので、今川氏の指示で直政同心につけられた匂坂一族としてとりあえず考えておく。

 その翌年と思われる6月30日「匂坂直興書状」で次郎法師が言及される。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える

解釈文を詳しく見てみる。

 あの一件を色々と越後殿へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

 あの一件というのは、年末から訴えている徳政推進だろう。越後殿は不明。直興が、恐らく駿府へ直訴しようとした祝田禰宜に対して、言い分があるなら次郎殿から関口氏経に報告するのが筋で、そう計らうように小野但馬へ自分からも言っておくとしている。現地は次郎殿を飛び越して案件を上げようとしていたのを、直興が懸命に押し留めている形だ。瀬戸方久への氏真文書で仄見えた構図がはっきりと姿を現わす。事の是非よりも、組織の指揮系統をとにかく重視しなければならないほど、次郎法師の統治能力は低迷している。補助役の小野但馬が機能しているようにも見えない。また、半年経っても進まない訴訟に祝田禰宜が相当苛立っている様子も伺われる。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政執行に当たり礼物を出すことを要求する

 「徳政之事すまし候」という吉報が祝田禰宜に出されたのは8月3日。直興は、関口氏経が対応するとしている。その際に色々と経費がかかることを伝えているのがメインだが、銭主=商人が暫く難渋するだろうとか、陣銭は商人とは関係ないとか書いているため、徳政を推進する側に直興・祝田禰宜がいたと判る。特に直興は「この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう」とまで書いている。直興はここまで深く関わっていたのだ。

 翌日付で関口氏経から約束どおり判物が出される。宛て先は「井次」。

 寅年=永禄9年に徳政が行なわれた筈なのに、井伊一門の主水佑が私意で免除し、祝田・都田で施行されていなかったことを指摘し、商人の思惑は考慮せず徳政を実行せよと命じている。

 前日の直興書状でも触れられていたが、同様の判物が井伊氏の一門・家臣に宛てて出されている。念を入れたということか。

 これで一件落着かと思いきや、9月14日に氏真から方久に徳政免除が出されるという、とんでもないことが起きる。氏真の言い分は、前回のような曖昧なものではなくなっており、明らかに徳政回避の言質を与えている。

今川氏真、瀬戸方久に、井伊谷で買い取った土地を保証する

去る丙寅年に谷全体で徳政のことで訴訟があったとはいえ、方久が買い取った分は次郎法師家老の誓紙、井伊主水佑の一筆で明瞭であるから、今まで買い取った名職・永地は、証文の通りに末永く相違がないように。ということでこの度新城を築造しているので、根小屋・蔵の建設を負担するので商売の税は免除する。

 新城の築造費用を全て方久に負わせる一方で、徳政からは除外するという方針。これまでに奮闘してきた匂坂直興の努力が水泡に帰した瞬間だ。しかし、これに反発したのが関口氏経で、何と氏真に反する判物を11月19日に出している。

関口氏経・井伊次郎法師、祝田禰宜・百姓に、徳政の実効を保証する

祝田郷の徳政のこと。去る寅年に御判形によってご命令になったとはいえ、銭主が抗議して今も落着しない。本百姓が訴訟してきたので、先の御判形のとおりに許容しない。

 今川政権の末期症状とでも言おうか。今川家当主が保証した徳政免除を今川一門の重臣が否定している。この時、氏経は証文の実効性を上げるためか「次郎直虎」と連署している。これまで「次郎」「次郎法師」としか呼ばれていなかった人物に、いきなり実名が付けられた形だ。

 但し、この実名と花押は氏経による偽造だろう。『静岡県史 資料編』ではこの時の花押を紹介しているが、直虎の花押は歴代井伊氏、さらには直政のものと比べて全く形状が異なる上、複雑で大きな形状をしており違和感があり過ぎる。「直虎」という実名は、「寅年の徳政」に絡んだことに引っ掛けたか。

 実名に寅・虎が付く者は寅年生まれであることが多いようで、酉年生まれと伝わる直政には相応しくないように感じられる。1554(天文23)年の寅年生まれだと1568(永禄11)年に14歳なので、元服して直虎を名乗っても違和感がないが、そのような人物はいない。やはり「直虎」の実在性はかなり低いのではないか。露見したら謀叛にも近い行為だが、今川政権の中心部は混乱を極めていて、それを見越した偽造だったのかも知れない。

 国衆に対して徳政を指導できなくなっている今川氏にもはや猶予は残されておらず、この文書を最後に井伊谷において井伊・今川が現われることはなくなる。

12月12日に徳川家康は菅沼二郎衛門・近藤石見守・鈴木三郎太夫に起請文を与えて遠江先導を依頼。次の舞台が幕を開けた。

徳川家康、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時に、井伊谷侵攻に当たり知行を拠出することを約す
徳川家康、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時に、遠江国の知行を与える

 今川家中に佐竹氏がいたので、ちょっとまとめてみた。初出は、今川義元が戦死する直前。掛川にある朝比奈備中守家の菩提寺常安寺のこと。

1560(永禄3)年5月2日
朝比奈泰朝は、佐竹丹波入道宛に、丹波入道の塔頭昌吉斎を乗安寺の末寺とし、その寺領として田地3段を寄進すること、昌吉斎が乗安寺と離別の際は土地を返却することを伝える。<戦今1510>
※以下、「戦今」は「戦国遺文今川氏編」を指す。

 ここで佐竹丹波入道は、昌吉斎を常安寺の塔頭としてそこに寄進している。ここから、朝比奈泰朝に仕えていたことが判る。

 次に登場するのはその翌年。今度は駿河の蒲原城に関連して出てくる。

1561(永禄4)年9月3日
今川氏真は、佐竹雅楽助宛に、佐竹又七郎が困窮して90貫文で売却した知行・跡職の買取を認める。また、被官や蒲原城の根小屋・堀・築地の修繕費用、段銭も扶助するとする。これを受けて又七郎の娘の縁談を進めるよう指示し、相違があれば買い返すよう伝える。「又七郎の合力である伝十郎に拠出した土地は、高貞(雅楽助か?)が買い取ったので無沙汰があれば召し放て。又七郎が十年間に方々で借金してまで無足の奉公を勤めたのは忠節だから、検地で増分があっても報告してそのまま収入とするように」と付け足す。<戦今1739>

 蒲原城といえば、永禄11年に武田晴信が襲撃した際に氏真が出陣しあっという間に崩壊したことで有名だが、ここの城番は相当にきつい業務だったらしい。

1551(天文20)年8月28日
今川義元は、由比左衛門宛に、蒲原在城の見返りに70貫文の負債を取り消す。<戦今1034>

 要衝の地だから、物入りでもあったのだろう。由比左衛門も佐竹又七郎も困窮に追い込まれている。ただ、200~300貫文の扶助が出た三河の城番と比べると小規模に思える。

 又七郎とちょっと関わりがあるかも知れないので、以下も挙げておく。

1539(天文8)年7月10日
今川義元は、小嶋又八郎宛に、去る8日に蒲原城防衛で活躍したことを賞し、江尻五日市のうち『よしそへ』という田地を与える。<戦今629・631>

 その他蒲原城について調べてみたが、永禄4年に佐竹雅楽助に預けられて以降史料がないので、氏真没落の時の城番が誰だったかは判らない。ただ、それを示唆する文書がある。

1569(永禄12)年4月18日
武田晴信は、万沢遠江守宛に、由比今宿60貫文(朝比奈備中守分)と若宮40貫文(佐竹分)を与える。但し若宮のうち5貫文は蒲原本免ということで差し引いている。<戦今2349>

 ここでいう「若宮」は蒲原に現在も残る和歌宮神社だろう。恐らくここが「蒲原根小屋」だったと思われる。佐竹雅楽助は今川方のまま没落したのだろう。また、朝比奈泰朝所領の由比今宿とセットになっている点から考えて、丹波入道と同じく、朝比奈備中守家の被官だったという可能性も高い。色々替わった蒲原城番だが、途中で朝比奈千代増が担当している時期もある。

 この佐竹氏のその後の消息は判らない。氏真と共に後北条家に行ったのか、後に旗本として残る朝比奈泰勝の家中に留まったのか、または断絶したのか。そもそもどこから来たかも不明なままだ。美濃にいた幕府奉公衆の佐竹氏が流れ着いた可能性もあるものの、今は未詳としか言えない。

今川氏真、武田義信が嫡男をもうけられなかったことから三国同盟が崩壊に向かったことを検討してきた。このことは徳川信康にも該当すると余談で取り上げたが、実は北条氏直も同じ問題を抱えていたようだ。

北条氏直は1583(天正11)年に21歳で徳川家康の次女良正院殿(督姫・おふう)を娶るが、2人の娘しか得られなかった。家督自体は成婚前の天正7年に譲られていたため氏真・義信・信康のような家督回避を受けることはなかったものの、徳川家の娘を正室にした以上はかなりの重責を感じていたものと思われる。

この世代では後北条の家督継承者は少なく、先代氏政の弟である氏照・氏邦に息子はおらず、三郎景虎は嫡男道満丸とともに既に戦死している。僅かに氏規が助五郎・勘十郎の男子をもうけていた。当主の氏直の弟、氏房・直重・直定に男子はない。

この状況を受けてか、氏規嫡男の助五郎は天正17年11月10日に氏直から「氏」の一字書出を受けて養子となったと『後北条氏家臣団人名辞典』は記述している。一字書出は養子縁組を意味しないので、家臣団辞典は後年に氏盛が氏直遺領を相続したことを意識して書いてしまったのかも知れない。何れにせよ、12歳の助五郎は氏盛と名乗って元服を遂げた。

この時、婚姻後6年の氏直は27歳になっており、氏政を始めとする周囲は氏盛を氏直娘と婚姻させて相続させることを検討していたのではないか。氏規は家康と親しく、良正院殿が産んだ娘と従兄弟婚させることに困難はない。

氏盛の母は玉縄の北条綱成の娘である高源院殿。綱成の正室は氏綱の娘であるから後北条の血筋としても問題ない。実は玉縄北条氏も氏勝に男子がなく、氏盛の1歳年長である繁広が兄氏勝の養子に入っていたという。

氏直ら兄弟がまだ若く可能性はあったにせよ、後北条氏は基本的に短命なため氏盛と繁広に期待は集中しただろう。天正18年に滅亡してしまうことから印象は薄いが、実はこのような背景があったことは今後心に留めておこうと思う。

『謎とき 東北の関ヶ原』(光文社新書・2014年刊)にて、著者の渡邊大門氏が以下のように書いている。

大名の書状中においては、使者などを略称で表記するのは自然なことである。しかし、兼続が相手方の人物に対して、略称を用いるのは極めて不自然であろう。(同書120ページ)

 これは、『直江状』の中で直江兼続が「増右・大刑少出頭之由」と記した点を不自然だと指摘している流れで述べられている。渡邊氏が何を典拠としてこの判断を下したのかは明らかにされていないが、実はこういう表現は普通に使われている。

「北条氏規書状写」

 北条家の一門である北条氏規は、同盟している徳川家の家臣である朝比奈泰勝を指して「朝弥」と表記している。この宛先は同じく徳川家家臣の酒井忠次である。氏規の場合は、自身の最初の正室が泰勝の大叔父泰以の娘だという伝承もあって、微妙に身内表現なのかも知れない。ただ、もう1例がある。

「大石芳綱書状」

 差出人の大石芳綱は山内上杉氏の家臣。宛先の山吉豊守は越後長尾氏家臣で、書状が書かれた当時は上杉輝虎が両家を統合していたため、両者は同一大名の家臣といえる。この中では、遠山康光を「遠左」と3回呼んでいる。ちなみに、関係者が以下のように表記されている点も興味深い。

北条氏康 御本城様
北条氏政 氏政
北条綱成 左衛門尉大夫
北条氏邦 新太郎殿
北条三郎 三郎殿
松田憲秀 松田

山吉豊守 山孫
上杉輝虎 輝虎

武田晴信 信玄

 文書に直接当たった訳ではないが、宛名先であっても自家でも大名を実名で呼び捨てにする例は複数あり、殊更卑下している様子はない。この感覚は現代人と大きく異なるため、敬意を持っている相手でも略称を用いることに違和感を持たず、真摯に史料に向き合っていくべきではないかと思う。

『歴史街道』2014年9月号39ページにおいて、新発見されたという『斎藤利三宛長宗我部元親書状』の大意が掲載されていた。この文書は、本能寺の変直前に長宗我部元親が織田信長に従っていた根拠という触れ込みで報道されている。

この記事での解釈は歴史作家の桐野作人氏によるものだが、管見の限りでは他例が見当たらない独自の解釈をされていた。私自身はこの文書は改竄された写しであると想定しており、その視座から内容を検討してみる。

※現物については林原美術館にて概要と画像が紹介されており、テキストデータ化されたものはtonmanaangler氏のサイト『国家鮟鱇』の記事「長宗我部元親書状(斎藤利三宛)修正版」を参照した。

私が違和感を感じた部分について、原文の下に読み下し、そして桐野氏解釈を並べてみよう。

原文:追而令啓候、
読下:追って啓せしめそうろう
解釈:書状拝見しました。

「書状拝見」だとするならば原文は「貴札忝致拝見」もしくは「来翰披閲」となる筈なので、この解釈は成立し得ない。「追ってご連絡させていただきます」とするのが妥当だ(ただそれでも、先行する書状について言及していないのが不審だ)。

そもそも桐野氏はこれを本文文頭としているが、「追而」で始まる表現は見たことがない。内容も元親の心情が語られているだけの補足文であり、書状の文頭とは思えない(後半に条書を伴う場合、最初に、相互の通信状態の確認や、発信者の近況を語るものが多い)。いきなり箇条書きで始まる書状例も複数あるので、無理に本文としなくてよいから、これは追而書の一種であるか、後世挿入された文と見た方が自然だ。ちなみに、追而書でも「令啓」と続ける例は管見では存在しない。

原文:今度御請、兎角于今致延引候段、更非他事候、進物無了簡付而遅怠、
読下:このたびのお請け、とかく今に至り延引そうろう段、さらに他事にあらずしてそうろう、進物に了簡なくて遅怠、
解釈:今度、(信長の朱印状の趣旨を)お請けすることが延引したことは他意はありません。進物は考えが及ばず遅怠しました。

「他事にあらず」の内容が「進物に了簡なくて」を指す点は、両文が直接つながっていることから間違いない。延引と進物不備が別文になるのであれば、「加之」や「将又」を入れて区別すると思われるためだ。進物不備を形ばかりの理由にした白々しい外交文言であると私は考えた。

原文:此上にも 上意無御別儀段堅固候者、御礼者可申上候、
読下:この上にも上意ご別儀なき段堅固にそうらえば、お礼は申し上げそうろう
解釈:このうえは、(信長公の)上意に逆意はない(元親の)気持ちは固いので、お礼は申し上げます。

「別儀」が丁寧語になっていることから、別儀がないのは上意であって元親の気持ちではない。この「御礼」は割譲合意の挨拶を指すと思われ、前項の「御請」と同じ意味だろう。「織田信長の意思が変わらないのであれば合意の挨拶をするだろう」という文脈だと思われる。

余談ながら、武田攻めを指すと想定されている条項が唐突で曖昧な点はとても気になっている。

原文:東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候
読下:東州が平均に属したてまつったの砌、お馬・貴所の帰陣をもって同心そうろう
解釈:東国(武田勝頼領)を平定なされた時節、信長公と貴方がご帰陣なされたので味方します。

「東州」を平定して「御帰陣」したのをもって「同心候」とあるが、であれば、「御成敗候ヘハとて無了簡候」(殺されようと了承しかねる)と、断固たる決意で大西・海部の保持を表明していた前項と齟齬が生じてしまう。実は、ここが書状の解釈を判りにくくしている。この条項を除外すると文意が鮮明になるため、ここは後世書き加えられた可能性が高いと考えている。前述『国家鮟鱇』での原文をベースにした解釈の復元案を挙げてみる。

○復元案(後世挿入と想定した部分は打ち消し線で表示)

[追而書]なお、頼辰へ残らず申し達したので内々の書状には及びませんが、心底の通り、粗々ではこのようになります。お計らいがないなどありませんように。

追ってお知らせします。私の身上のこと、いつも気にかけていただいて、いつまでもご配慮下さり、なかなかに全てを書き尽くせません。

一、この度の受諾、とかく今にいたるまで延引していることは、更に他事がある訳ではありません。進物で了簡もなく怠けていました。既に早くも時節・都合を延期していますから、この上は贈るには及ばないことでしょうか。但し、来る秋に重宝(調法)をもって申し上げれば、お目にかなうこともあるのだろうかと、その覚悟をしております。

一、一宮を始めとして、夷山城、畑山城、牛岐の内の仁宇、南方は残らず明け渡します。御朱印に応じたこのような次第をもって先ずご披露いただきたく、いかがでしょうか。これでもご披露はなり難いと頼辰も仰せになるので、いよいよ考えに残すところがなくなります。つまるところ、『時が来た』ということでしょうか。そして多年粉骨にぬきんでたのは、真意では毛頭ありませんのに、思いもかけぬご指示を受けたことは、了簡に及びません。

一、この上にも、上意は変わらないとの事が堅固でしたら、お礼申し上げましょう。どのような事態になろうとも、海部・大西の両城は保持しなければ叶いません。これは阿波・讃岐と競り合うためでは絶対ありません。ただ当国の門としてこの2城を保持しなければ叶わないのです。それでご成敗なさろうと了簡に及びません。

一、『東州』をご平定の際に、御馬があなたのところへ御帰陣なさるのをもって同心しました。

一、何事も何事も頼辰と話し合って下さい。ご分別が肝要です。万慶は後の連絡を期します。

後世挿入が事実であるとして、その動機は憶測するしかないが、「了簡に及ばぬ」と繰り返す、元親のやや挑発的な言辞を和らげ、長宗我部氏が根底では恭順していたと誘導したかったように見える。

などと色々書いたが、私は長宗我部元親の文書を殆ど見ていないため、合っているかは怪しい。もしかしたら元親はこのような表現をするかも知れない。2015年には今回発見された文書を含む研究成果が吉川弘文館から刊行されるとのことなので、詳しくはその内容を待ちたい。

※「追而令啓候」で始まる書状の本文について、その例を知らないと記したが、以下の例が見つかったので補記しておく。

追って申し候。京都の儀、先途竜蔵坊下国の砌か、しからざれば、態と脚力をもって申せしめべきのところ、林平右より具に注進の由に候。殊更先書に申すごとく、時に方々の注進を合わせ、此方より飛脚を差し登せ申すに、少しあい替わる様に候。諸侯の衆あい果てられ候様体、三好方へ出でられ候衆、変わるがわるに注し下し候条、承り合わせ申し入れべきと存じ候ところ、結句御使僧に預かり候。本意に背き存じ候。

[note]直江実綱宛の朝倉景連書状(読み下し)『戦国のコミュニケーション』(山田邦明・吉川弘文館)126ページ「添えられた追伸」[/note]

これは、足利義輝横死の状況を上杉輝虎に質問された朝倉景連が、使僧に渡した表向きの書状とは別に、同じ日付で発行したものだ。公には書けなかった情報や、親上杉派としての自身の活躍を記している。また、この書状を預かったのは景連側の人間だったようで、追伸とはいいながら、伝達経路は別立てである。

もしこの例が「斎藤利三宛の長宗我部元親書状」に援用されるならば、斎藤利三宛の表向き書状が同時に用意されていたのは確実といえるだろう。裏向き書状のみが石谷家に伝来したのは表向きしか渡さなかったためか。

それでもやはり私は気になってしまう。景連書状のように表・裏がセットで残らなかったのは何故か。そして、景連は追伸書状で「ただ、いまは(輝虎様へ)御披露なさらないでください。長い目でおとりなしいただければと思っています」(上記書・129ページ)と、実綱に輝虎への伝達方法を明記している。これが元親書状には見られないのはどういう訳か。