態以使申候、如先日申候、松山普請、当月不致而■、秋末者敵方造意も可有之候間、不図存立候、三日之内当地を可打立候、涯分堅固ニ可致候条、可御心易候、并高松筋へ散動之事、藤田色ゝ令懇望間、一動申付可打散存候、御人数之事御大儀候共、御用意肝要候、就中去月下旬伊豆奥号御蔵嶋小嶋江、自筑紫薩摩船流寄候、破損無紛候間、荷物為取之、前後無之様ニ候間、分国中大社御修理之方ニ過半加之候、六所へも致寄進候、以日記岩本隼人申付進之候、神主本願ニ被相談、彼荷物をは別而可然人躰ニ被預置、一方之御修理ニ罷成候様ニ可被仰付候、次ニ雖軽徴候、唐物候間、唐紙百枚、竹布五端、進候、恐々謹言、

七月廿一日

氏康(花押)

謹上 真月斎

→神奈川県史 資料編3下「北条氏康書状」(浄法寺文書)

 気持ちを込めて申し上げます。先日申し上げたように、松山の普請は今月中に目処が立ちません。秋が終わるまでは敵の造意もあるでしょうから、図らずも完成するでしょう。3日以内にこの地を出発します。ずいぶんと堅固になりましたから、ご安心下さい。同時に高松方面へ(敵が?)出動している件は、藤田氏が色々と懇望しているところですから、ひとつ出撃させて撃破させるべきです。兵力確保は大変でしょうが、ご用意が肝要です。とりわけ先月下旬に伊豆奥郡の直轄領『小嶋』へ、筑紫・薩摩の船が漂着しました。破損していることは確実だったので、積荷を回収しましたが秩序も何もなかったので、領国中の大社(三島大社?)の修理に過半を投入、六所人者へも寄進してしまいました。日記をもって岩本隼人にこれを勧めるよう指示し、神主の本願に相談させ、あの荷物をことさら人躰しからざるに預け置き、もう一方の修理費になるよう命令しました。次に些少ではありますが、唐物としてあった唐紙百枚と竹布5反をお送りします。

着到定

一五拾九貫文 相州東郡 吉岡

此着到

一本 大小旗持、具足・皮笠、

一本 四方指物持、同理、

二本 鑓、二間之中柄、武具同理、

一騎 自身、甲大立物・具足・面防・手蓋、馬鎧金、

二人 歩者、具足・皮笠、

以上七人

一小田原於御蔵可請取衆

[五貫文 歩侍、甲立物・具足・手蓋

[弐貫四百文 二人扶持一本鑓 武庄左衛門尉

七貫四百文 二人同理 鈴木半右衛門

七貫四百文 二人同理 杉山惣次郎

七貫四百文 二人同理 大庭弥七郎

以上廿九貫六百文此内 廿貫文   給

九貫六百文 扶持八人分

以上

合拾五人 上下

此内

一本 小小旗 四郎左衛門

一本 指物  源十郎

六本 鑓 源四郎 平四郎 與五郎 三入 衛門四郎 藤二郎

一騎 馬上

四人 歩侍 清右衛門

二人 歩者 大郎五郎

以上拾五人

一此帳に書戴候寄手、或者闕落、或ハ令死去者、五日中令披露、一跡之様子下知次第可立之候、若号失念、五日を踏出相尋時令披露者、背掟条、寄子之跡他人ニ可申付候、其時公儀へ侘言不可付候事、

一御出馬より一日も遅罷立、一騎合有之者、則可披露候、若令用捨、御尋之上候者、背掟間、彼寄子可付他人候、公儀不可有相違事、

一武具仕置相背者有之者、其品ゝ何時も相註可披露事、

以上

右、改而着到如此相定候、武具等致様、委細ニ書記畢、各少も無相違可致之候、抑軍法者、国家安庄所也、背法度付而者、随罪科軽重、無用捨可被出条、兼而無誤様ニ覚悟専肝候、畢竟岡本前ニ可有之間、時ゝ刻ゝ寄子ニハ合助成、掟無異義可走廻儀、可為忠信候、仍定所如件、

元亀二年 辛未

七月廿八日

岡本八郎左衛門尉殿

→神奈川県史「北条家着到定書写」(北条家着到帳)

(計数部分省略)
一、この帳面に記載した寄手で、逃亡か死亡した者があれば、5日までに明らかにして下さい。補充は指示があり次第行なうように。もし忘れて5日を過ぎ調査の結果明らかになったなら、掟に背いたこととして寄子の跡は他の人間に申し付けます。そうなった場合に公儀(後北条氏)への陳情も受け付けません。
一、御出馬より1日でも遅れて出立する一騎合がいれば明らかにして下さい。容赦させた結果、調査で明らかになった場合、掟に背いたのでその寄子は他の人間に申しつけます。公儀も相違はないでしょう。
一、武具の準備に背く者がないように。その品々は常にリストにして明らかにしておくこと。
以上
右は改めて着到としてこのように定めます。武具などを備えるよう詳細に記載しました。各項目いささかの相違もないように。そもそも軍法は国家の安危を決めるものです。法度の違反については、罪科の軽重に従って容赦なく執行します。誤りのないように覚悟することが肝要です。畢竟岡本は前にあったので、時々刻々寄子に助成して、掟に異議なく奔走して忠信をなして下さい。

来調儀火急に付て、氏政より之使、一昨日夜に入来りつき候、様躰者、明後日十九小田原を可被打出分ニ候、市川之船橋をハ、高城請取、はやゝ最中かけ候、如此之上、少も無油断支度専一候、日限之事者、両日まへに、可被仰出候、其故者、氏政中山邊江着陣之上ニ、此方出馬之日限、不時に被申越候之間、前長ニ其地へも被仰出かたく候、爰元分別尤候、たゝゝゝ夜を継日、一三昧支度之儀此時候、将亦、先日かき残し候衆之書立、のほせ被申候、此内はとり者、去夏之陣ニおいて乗馬を失候、石毛孫次郎者、於野牧あやまちを仕由候、石毛五郎三郎・神保帯刀・岡野惣右衛門をハ、御留主ニ被指置候、此外之者共、如此被為組候、

一林紀八郎 一騎

 

 三谷とのもの助―

一あひる甚五郎 ― 一騎

 長沢源二郎  ―

 

 布瀬藤ゑもん ―

一向後七郎左衛門― 一騎

 はたの源二郎 ―

 鈴木與三郎  ―

 

神保帯刀ハ、野馬を見せられへきため、岡野惣衛門ハ御用をたさせられへきために、さしをかれ候、雖然、御長陣ニも候ハゝ、此両人をも、其外のこさせられ候仁をも、御陣へたてさせられへく候間、たゝいまより此ことハり肝要たるへく候、以上、

七月十七日

(千葉胤富花押)

海上蔵人殿

石毛大和入道殿

→神奈川県史「千葉胤富判物」(原文書)

 この度は火急の要請とのことで、氏政からの使者が一昨日の夜になって来ました。その内容は、明後日の19日に小田原から出撃するとのことでした。市川の船橋を高城氏が請け取り、早急に架けるということで、この状態ですから少しの油断もなく支度に専念すべきです。期日は両日前に仰せになります。何故なら、氏政が中山の近辺に着陣した上でこちらに出馬の日程をすぐ通達してくるので、『前長』はその地への通達が難しく、こちらの判断が大切で、ひたすら夜に日を継いで支度に集中するのはまさにこの時です。その一方、先日書いておいた部隊編成書を届けます。この内で『はとり』は、去る夏の陣で馬を失っています。石毛孫次郎は野牧で『あやまち』をしたそうです。石毛五郎三郎・神保帯刀・岡野惣右衛門は、留守部隊に控えさせます。この他の者たちはこのように組ませて下さい。
(計数部分省略)
 神保帯刀は野馬を視察するため、岡野惣衛門は御用を果たすために控えさせます。そうはいっても、長陣になった場合はこの2人とその他残された面々も陣に加えるようになりますので、今からこの段取りを行なっておくのが肝要でしょう。

今度興国寺へ敵忍入、数百人本城江取入候之処、其方自身打太刀、敵於仕庭五拾余人被討捕、城内堅固、前代未聞之仕合、戦功無比類、誠感入計候、此度本意之上、進退可引立候、仍刀一秋広、久所持之間、進之候状如件、

元亀二年 辛未

正月十二日

氏政(花押)

垪和伊予守殿

→神奈川県史「北条氏政感状写」(垪和氏古文書)

 この度興国寺城へ敵が忍び込み、数百人が本城に突入したところ、あなたは自身が白兵戦を行ない、敵を50人以上討ち取り、城内を堅固に守りました。前代未聞の戦いで、戦功は比類がありません。本当に感じ入るばかりです。本意の上は、処遇を引き上げます。よって久しく所持していた秋広の太刀を1腰進呈します。

於三河国牛久保領之充行知行分之事

一所 賀茂山田方三拾弐貫文 附夫壱人

一所 八幡本所四拾弐貫文 附夫壱人

一所 長草八貫文 附夫弐人

一所 萩原方散田地拾八貫文

以上百貫文

右、父雅楽助先年牧野民部丞雖企逆心令内談に、八太夫不同意罷退之段、為忠節之条、永所充行也、向後千疋之程者、余慶可所務之、其外之過上者可進納之旨、任先判畢者、専此旨可抽忠功之状如件、

永禄参 庚申年

十月八日

氏真印

岩瀬小次郎殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(士林泝洄)

 右の件、父の雅楽助が先年牧野民部丞が『逆心』を企て内談したところ、八太夫は同意せず退いたことは忠節をなすものである。今後1000疋程の所領を給付する。余慶としてこれを治めるように。その他の余剰分を納付することは先の承認の通り。この旨をもっぱら守り忠功にぬきんでるように。

房州衆五六百騎ニて、市川ニ陣取、岩付へ兵粮送候、然ニねたん問答ニて、于今指〓(扌+慮)候、此時打而取所由、江戸衆・高城以下数度申越間、明日五日自当地具足ニて、腰兵粮乗馬ニ付、各懸候、然者必ゝ明日昼以前ニ当地へ可打着候、兵粮無調候者、当地ニて可借候、自元三日用意ニ候間、陣夫一人も不召連候、人数馳着次第、馬上ニて鑓を持、必ゝ明日五日昼以前、可打着候、一戦儀定間、中間・小者なり共、達者之者共不残可召連候、土屋・大見衆へ此分堅可申遣候、恐々謹言、

正月四日

氏康(花押)

秩父殿

西原殿

→神奈川県史「北条氏康書状」(西原文書)

1564(永禄7)年に比定。

 房州衆が5~600騎で市川に駐屯し、岩槻へ兵糧を送ろうとしています。ところが価格交渉で問答があり、現在協議中です。この時に出撃して撃破すべきだと、江戸衆と高城氏が数回連絡してきましたので、明日5日に当地より、具足・腰兵糧と乗馬でそれぞれ出撃します。ですから絶対に明日の昼以前には当地に到着して下さい。兵糧がない者は当地にて貸し出します。元より3日予定ですから、陣夫は不要です。人数が馳せ着き次第、馬上で槍を持ち、絶対に明日5日の昼以前に到着して下さい。戦闘は必至ですから、中間・小者であっても健康な者は残らず召集して下さい。土屋・大見衆へもこのことは堅く申し送りして下さい。

諸足軽衆
一 大藤式部丞
 七拾九貫七百文 中郡 北波多野
  此外 五拾五貫五百文 寺山なこの木 横野新兵衛ニ被下
 五拾貫文 三浦 松輪
  以上 百弐拾九貫七百文
一 加藤四郎左衛門
 卅三貫五百文 西郡飯田 円応寺分
一 大形
 百貫四百三拾文 国府 癸卯検地辻
  此外 弐拾貫文 黒岩村 御料所ニ罷成
 拾貫文 御蔵出 此内三貫文引銭
 以上
一 玉井帯刀左衛門
 百五拾弐貫六百三拾文 中郡 豊田郷
一 当麻三人衆
 百弐拾五貫文 東郡 当麻
一 大谷彦次郎
 四拾八貫四百三拾弐文 東郡 川奈
 九拾五貫文 西郡 一色
 以上 百四拾三貫四百三拾弐文
一 近藤隼人佑
 四拾貫文 西郡 新屋分
 五拾四貫文 御蔵出 此内拾五貫文引銭
  此内 四貫文 葛原村 興津殿へ被遣替ニ被下
 以上
一 有滝母 ニ被下
 拾貫九百六拾文 江戸 安方分
一 清田
 廿七貫四百六拾八文 諏訪分
一 伊波
 卅一貫七百卅文 西郡 杉崎分
 四拾三貫弐百十八文 同 千津島内之 浦分
 五拾貫文 中郡 幾沢
 四拾五貫七百文 同所 癸卯増
 三拾九貫六百文 中郡 富田小柳
 百五拾弐貫文 同所 癸卯増
 以上 三百六拾弐貫二百四十八文
一 多米新左衛門
 拾五貫二百七十文 西郡 正福寺分
 八拾八貫四十四文 久良岐郡 青木
 四拾五貫文 松山筋 石橋 卯検見
  以上 百四拾八貫三百十四文
  此外
 卅六貫五百文  松山本郷内 多米寄子衆ニ被下 但給田分
一 富島
 八拾九貫八十二文 西郡 久富
 五拾貫文 東郡 吉田郷
 九拾四貫文 同 倉田之内
         河越筋 石田
   以上 弐百卅三貫八十二文 但石田辻 重而以上ニ可加
  此外
 廿三貫五百文 松山本郷内 寄子衆ニ被下 但給田
一 富島彦左衛門
 廿九貫五百二十五文 小堤 卯検地辻
一 深井
 六拾七貫六十八文 中郡 平間郷
 弐貫文 入東 仙波内 八本木卯検見
  以上六拾九貫六拾八文
一 荒川
 六拾四貫七百四十八文 三浦 佐竹方
 四拾六貫六百七十五文 同 蘆名
  以上 百拾一貫四百弐拾三文
  此外
 卅五貫文 御蔵出 河越給之内にて被下
  以上
一 磯彦七郎
 五拾貫文 伊豆奥 椎原郷
  以上
一 足軽衆
 三百三拾五貫文 中郡 岡崎給田
  此内 百九拾一貫文 大藤衆 六十七人分 一人三貫文宛
   此外十貫文 加藤寄子分 公方へ上
 百五貫文 伊波衆 卅五人分
 卅六貫文 狩野介衆 十二人分
 三貫文 深井衆 一人
 以上 三百卅五貫文
   此外 三十貫文 公方へ上 桑原同心衆ニ被下
 合 二千弐百六拾貫七百八十文

親父式部丞、去年於遠州毎日之働、寒天之時分劬労更難尽紙面候、為存命者、自今以後、弥可令入魂候処、没命無是非候、以此好向後其方も偏当方荷担、可為本望候、仍馬介二走金進之候、恐々謹言、
追而不例無本復候之間、不能直判候、意外候、
六月廿一日
信玄(朱印)
大藤与七殿

→戦国遺文 後北条氏編・補遺「武田晴信書状」(大藤文書)

※1572(元亀3)年と比定。

 父親の式部丞ですが、去年遠江国で毎日の出動を行ない、寒い中の苦労は文章には尽くせないものでした。存命であれば以後いよいよ親密にしたいと考えていましたが、亡くなられて是非もなくなりました。この誼をもって今後あなたも当方に荷担いただければ本望です。よって馬鎧の『走金』を進呈します。
 追伸:病気が本復していないので、不本意ですが直接花押できせん。

其地無事之由肝要候、仍去廿一夜、出伏兵塩荷通用之者、数多討捕之由、因茲敵往復相留段、誠馳走無是非趣、相州へも可申届候、弥無由断被申付専一候、各へ異見尤候、恐々謹言、

六月廿五日

氏真(花押)

大藤式部少輔殿

→神奈川県史「今川氏真書状」(大藤文書)

 その地の無事が大切です。去る21日の夜、伏兵を出して塩荷を運ぶ者を多数討ち取ったそうで、このことから敵の往復を遮断したのは、本当に是非もないことで、相模国へも連絡しておきます。ますます油断なく申し付けに専念し、各自に指示することが尤もです。

今度不慮之儀就出来、其城■被相移、走廻之段怡悦候、備之儀、氏康・氏政へ申入候間、馳走肝要ニ候、猶附口上候、恐々謹言、

正月五日

氏真(花押)

大藤式部殿

→神奈川県史「今川氏真書状」(大藤文書)

 この度不慮の出来事が起きました。その城に移動して、奔走してくれて喜んでいます。守備の事は、氏康と氏政へ伝えておきますので、馳走が肝要です。更に口上があります。

1569(永禄12)年に比定。