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青ポイント
今川方
水色ポイント
武田方
緑ポイント
遠山・広瀬・鱸の各氏
黄色
帰属不明

1553(天文22)年

3月21日 今川義元は奥平定勝の諸権益を安堵する
9月4日 菅沼伊賀が返り忠したと今川義元に賞される

今川義元は北三河の奥平定勝の諸権益を安堵している。これは奥三河から反今川勢力を一掃する方針だったようで、9月4日には菅沼伊賀が主筋が年来敵方と同意していたと訴えて賞されている。

1554(天文23)年

9月2日 長坂虎房は天野安芸守に伊那郡制圧を伝え、遠山氏への仲介を依頼

信濃に侵攻した武田晴信は9月より前に南信濃を制圧する。晴信は目標を更に広げて、東美濃に割拠する遠山氏(岩村衆)を配下に組み込もうとする。この際に今川方の天野氏に遠山氏との仲介を依頼している。

1556(弘治2)年

この年 反今川方の菅沼定継が布里を攻撃、今川方の林左京進・菅沼三右衛門は撤収する
9月7~8日 小渡・明智で遠山・鱸・広瀬の3氏と今川方が交戦
冬(10~12月) 武田方が武節に派兵

離反は相次いだようで、寝返った菅沼定継が攻勢に出ている。年次は推定だが、この頃に遠山・鱸・広瀬の3氏連合軍と奥三河の小渡・明智で本格的な交戦。今川方との協調路線をとりたい武田方は、同年冬に武節へ兵を送る。この戦いは時間がかかったようで、翌年2月10日の木曽義昌返書でやっと武田方が明智・串原を制圧したことが判る。この返書では同時に、甲斐国中衆という武田方本隊が東美濃に侵攻していく様子が書かれている(年次は推定)。北三河の制圧を待ちかねたように出兵したものと思われる。

1557(弘治3)年

2月10日 この日までに武田方が明智・串原を制圧/本隊が木曽経由で東濃に侵攻

1558(弘治4/永禄元)年

2月26日 鱸日向の逆心に伴って寺部攻撃中の匂坂長能に、今川義元が作戦指示
4月24日 寺部救援の広瀬氏を今川方が撃退

今川方は鱸氏の寺部城はまだ落とせていなかった。途中で永禄となる翌年の1558(弘治4)年2月、長々と寺部攻囲を続ける匂坂長能に作戦指示が出されている。その後も攻囲は続き、4月24日に広瀬氏が寺部救援を試みるが今川方に撃退されている。

5月17日 遠山氏が岩小屋の後詰を行なうが、名倉舟渡橋の合戦で今川方が撃退する
8月20日 今川義元は天野小四郎に岩小屋在城の扶助を与える

連合軍の危機を見て遠山氏は奥三河への侵攻を行なう。5月には一気に南進して名倉舟渡橋にて今川方と交戦。すぐ近くには名倉奥平氏の本拠である寺脇城があり、作手奥平氏が助力したのかも知れない。この戦闘の内容は今川義元感状に詳しいが、「岩小屋江後詰之人数多之討捕」となっており、岩村衆は岩小屋城救援に来て名倉で合戦になったという。岩小屋に籠城している何者がおり、その後詰を送っているのだ(対する今川方は武節から南進したようだ)。岩小屋は長篠・犬居から武節に至るルートの結節点となっており、ここを押さえられると奥三河との連絡路がなくなる。この要衝が今川方から離反したことを受け、後詰として岩村衆が出張してきたのだろう。岩村衆を撃退したものの北方の守備に不安を抱いた義元は、岩小屋に天野安芸守を置く。8月20日に在城に関する援助が通達されているので、その前後に天野氏が岩小屋に赴任したものと思われる。

11月23日 陣中で連絡を受けた織田信長、秋山虎繁に大鷹の進呈を申し出る

遠山・鱸・広瀬の連合軍が窮した頃、11月23日には陣中にいる秋山虎繁に織田信長から書状が届く。友好的な内容で、当時貴重品だった大鷹を探して虎繁に渡したいという内容となっている。確証はないものの、東美濃の陣中にいたと思われる虎繁に書状を送るということは、まだ美濃斎藤氏との間で敵対関係があり、武田氏を利用したかったのかも知れない。

1559(永禄2)年

9月27日 武田晴信が木曽義昌に濃尾連合から高森(苗木城)を守るよう依頼。今川氏を引き合いに出す

武田晴信は木曽義昌に、尾張(織田氏)と井口(斎藤氏)から高森(苗木城)を守るように依頼を出している。岩村の有力支城である苗木を既に落としたにも関わらず、織田氏と斎藤氏が同盟を結んだことで一気に情勢が不利になったようだ。晴信は「高森を支えることは自分と親しい駿河のためになることだから」と畳み掛けている。

1560(永禄3)年

5月19日 菅沼久助が武節に籠城
6月16日 簗瀬九郎左衛門尉が某城を堅守。鱸兵庫助への言及あり
11月1日 八桑を今川方が攻撃

奥三河では11月1日に八桑を今川方が攻撃している。これが今川氏の積極攻勢としては最後の戦いになるようだ。今川方敗退後も武田氏は工作を続け、1562(永禄5)年までには遠山氏を組み込むことに成功する。1564(永禄7)年には飛騨国に制札を出すに至るが、濃尾平野に到達することはなかった。西進に当たって今川方が頼りにならなかった記憶は、1569(永禄12)年に駿河へ侵攻する要因の一つになった可能性がある。

 極端に異なる意味を持つ、扱いが難しい言葉。「紛争する」と「仲介する」という両方の意味が、ここにアップした文書内で出てくる。「紛争する」という場合は「取り合う」、「仲介する」という場合は「執り成す」として現代語につながるものと思われる。
 「取相」は「相」を「あい」と読み、「取合」と同じ言葉の別表記となる。

 一番微妙な例を挙げてみた。岡崎城の松平広忠が尾張と同盟したために無沙汰となったのか、尾張と岡崎が紛争となったために無沙汰となったのかは、この文書だけでは決めがたいものがある。何れにせよ、松平氏が織田氏と何らかの状態(同盟か交戦)に陥ったために今川方への納税が滞り、その知行地を差し押さえたのが長田喜八郎だった。それを義元が賞したというストーリーが描ける。


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拠点凡例:
紫=人質や年貢の集積を行なう政庁機能もある拠点
青=複数の文書に登場する地域的な拠点
水色=単一の文書に登場し「取立」の語を伴う臨時拠点

岡崎
今川・織田のどちらか不明。松平蔵人は織田方だが、氏康書状では「相押」となっている。
安城
織田備後によって即時陥落させられる。
上和田・作岡・太平
 この3城は、織田方が岡崎・医王山を分断するような位置取り。岡崎が織田方なら防衛意図、今川方なら封鎖意図。
医王山
今川方の拠点。松井氏が守備。
今橋・田原
反今川方の拠点となり医王山の背面を脅かす。