検証b09:「一騎合」は何人構成か
後北条氏、布施佐渡守に蒲原城番での部隊召集を指示する 北条氏邦、野上の足軽衆に出動を命ずる
後北条氏、布施佐渡守に蒲原城番での部隊召集を指示する 北条氏邦、野上の足軽衆に出動を命ずる
一般に『兵農分離』とは、農民を徴兵して増強していた兵員状況を変更して、専業の兵士のみで兵員を構成した行為を指す。よく言われるのが、兵農分離を率先して行なったのは織田信長であり、この改革によって織田方の戦力は増強された。そ …
「本着到 百九十三人也」 1561(永禄4)年に大藤与七が率いた総数は514人。このうちで与七直轄の人数が193人である。 「北条家定書」 1590(天正18)年。この定書では80人を長浜に配備している。残りが240人で …
史料の検討から大藤隊が約500名で構成されていたと確定した。とはいえ、軍記や講談、一部書状内での内容から「戦国の軍隊は千~万単位で機能していた」という概念から考えると、精鋭の足軽衆が500名というのは少な過ぎると思われ …
通説を採用した歴史解説でよく書かれているのが「合戦時に参集した人数の大半は農民を中心にした非戦闘員」という記述である。その根拠が判らなかったので、1561(永禄4)年の大藤隊を調べる際も同時代史料で検討する。 正規兵 …
越後方と激戦を繰り広げた大藤隊の兵員数を検証する。 年未詳の『役帳』における諸足軽衆の役高を表にまとめた。 氏名 役高(貫文) 規定の人数 1人辺りの貫文 実際の人数 1人辺りの貫文 大藤式部丞 320.7 193 …
大藤隊が参戦する前に、既に越後軍は小田原近くまで達していた模様である。1561(永禄4)年時の文書から以下の事柄が判る。 3月3日 越後衆が当麻宿に着陣していると報告(氏照書状) 3月10日 小畑源太郎が籠城戦で活躍し …
同時代の一次史料だと、今川方の兵数を明確に記載した書状は見つけられていない。参考として、地域と大名は異なるが史料が多数残る後北条氏の場合を取り上げる。特に参考となるのは、戦闘専門の集団と思われる大藤氏だ。この足軽集団は …