文豪チャールズ・ディケンズは1812年2月7日にイギリスの軍港ポーツマスで誕生した。今日はその200回目の記念日なので、少し語ってみる。

彼は分冊形式で安く販売される連載小説の名手だった。英国史上初の大衆作家であり、勃興する中流階級の旗頭でもあった。その一方でブルジョワジーの効率主義に基づいた貧困層切り捨てにも強く反対し、救貧院の非人道措置に異を唱え世論を動かした。返す筆で上流階級の偽善と退廃振りを切って捨ててもいる。筆を執れば無敵の人であった。

その半面、演劇が大好きだが俳優にはなれず、雑誌を立ち上げたけど何度も失敗している。後に妻と別居し愛人を作ったり、不肖の息子に悩まされたり、金の為に朗読会もやった。その一環で渡米した折はアメリカを扱き下ろしてもいる。喧嘩早くもあり、生涯の友はジョン・フォスターぐらい。それすら危うい時期もあったという。個人として見るなら駄目人間に近いかも知れない。

海外でのディケンズ評というと、古臭い人物描写とご都合主義、そして薄汚れた貧者を登場させてのお涙頂戴が定番だ。だがそれは初期作品に目立つ要素で、後期作品群では近代小説顔負けの複雑な構造になっている。

特に、『リトル・ドリット』と『荒涼館』は長大な物語の中に幾重にも伏線や象徴、皮肉が織り込まれドストエフスキ一の『カラマーゾフの兄弟』に匹敵する破壊力がある。『リトル・ドリット』では富と貧困の相対的な反転が繰り返され、終末に至ってもハッピーエンドはない。それでも登場人物たちは魅力を失わず、矛盾した立体的な性格にリアリティを持たせている。「巷によくいる人物」のカリカチュアではなく、生身の複雑な人格を精緻に描いているのである。悪人が意外に小さな悩みにうじうじしたり、時に優しさを発揮しながらも身勝手な施しをしたりと、100年以上昔の小説のキャラクタとは思えぬ程の現代人振りを見せる。

日本で紹介されているのは『クリスマス・キャロル』ばかりなのが常々悲しいのだが、彼の本領を試みに読むのであれば、岩波文庫の『ディケンズ短篇集』をお薦めしたい。ディケンズ翻訳で定評のある小池滋氏の訳もあるし、内容もそれなりに濃い。図書館などで手軽に入手可能だと思うので、機会があればぜひご一読を。

ロジャー・ライダーフッドという悪役が登場する。この人物は最初の章から完全な小悪党として出てきているが、何とも捕らえどころないキャラクターに思える。物語が始まる前に彼は収監されている。どうも強盗殺人をしたらしい、という設定だが、本人が頑強に否定するため服役したにも関わらず「らしい」が消えない印象になっている。

この男が本当にそこまでの悪人なのかという疑問は、話が進展するにつれて強まる。やっていることは密告や窃盗といったレベル。自分を真面目な人間だと韜晦する定型的な台詞回しからしても、どことなくユーモラスにすら描かれる。ブラッドストンのような近代的殺人者と比べると、どうしても狂言回しの中世的悪党に見えてくる。

だが、ライダーフッドのような悪人こそが極めて現代的な悪人だという定義も可能である。

  1. 自分で自分に暗示をかけている
  2. 1であることを薄々判って利用している
  3. 弱者から金をたかり、仲間の信義を売っても良心が痛まない
 3については少々複雑なシステムが使われているように思う。1の自己暗示でライダーフッドは「自分はとにかく虐げられている。この程度の権利はある」という鬱憤を用いており、退嬰的な自己肯定の基本部分にしている。21世紀の現代日本でいうところの「(自分に合わせてくれない)社会が悪い」がそれに近い。
 全てを他者のせいにして自分は飄々としている、という点でライダーフッドは救いようのない悪人だと描いているのかも知れない。実際、死と再生がテーマの本作で、蘇生しながら人格が変われなかったのはライダーフッドのみである。

ディケンズの小説はどの作品も我が家のように寛げる空間だ。ページをめくると馴染みの顔ぶれがいつも迎えてくれる。世情が騒がしい昨今、どうしても読みたくなって気に入りの3作品からこれを選んだ。

ディケンズが完結させた長編としてはこの『Our mutual friend』が最後になる(『エドウィン・ドルードの謎』は未完のため)。最初の長編『ピクウィック』ではまだ異物として扱われていたブルジョワジーだが、その台頭は最早既成事実となっていて、物語では彼らが多数活躍する。モチーフは拝金主義の否定。そしてもう1つは仮死と蘇生による価値観の再生だ。

テムズ川のボートに乗る父と娘を描くスピーディな描写で物語は始まる。このオープニングは極めて近代的に感じる。説明的な文章も入りつつも、基本的には登場人物の動作や表情によって内面を伝えてくる。初期の作品は中世的な間延びを見せていたのだから、最末期に至るまで文体を模索していたディケンズの凄みが判る。

小説のメタファーは上で上げた川(再生の場)で、折々で登場する。川で生活していた娘のリジー・ヘクサムは、ある事情から川を離れる。そこに待っていたのは川とは違う開けた人間関係だった。友もいれば敵もいる雑多な環境にいきなり放り込まれたと思うのだが、ここはさほど深く描かれていない。それよりも、リジーによって怠惰な人生から目覚めかけているユージン・レイバーンへの説明の方が多い。

前回読んだ時よりも印象に残ったのが、障害を持った少女ジェニーの奇妙な歌。リジーと一緒にいたロンドンの狭い屋上空間。ここを天国になぞらえ、階下に退散する小悪党に向かって「戻ってきて、死になさいね」と繰り返し歌う。この小説のメタファーを考えると、作者に一番近い位置にいる代弁者は彼女かも知れない。

もう一つのメタファーである塵芥の山(拝金の場)の主人公も、本来のあるじジョン・ハーマンではなく、許婚のベラ・ウィルファーになっている。まあ普通に考えれば物語として奇矯なのだが、先ずはお手並み拝見。

 醜悪な殺人を描いた、ある意味著名なパート。ディケンズがこの殺人部分を晩年に何度も朗読のモチーフに選んでいる。個人的には、ドストエフスキーの「悪霊」はこの件に着想を得たように思う。ただ、仲間内の殺人が冷酷なものであったにせよ、窃盗団全体がこの殺人に動揺したり崩壊したりするのは微妙ではないかと疑問を持った。そんなお人よしで窃盗団をやってられるのか……と。とはいえ、この作品は当時の大衆に大いに受けた訳だから、我々から見て奇妙に映る状況でも、当時は違和感なく溶け合っていたものと理解せねばなるまい。
 実はこの殺人劇はサイクスの悪夢だった、という展開だとカフカっぽい分析になる。ただ、サイクスの精神が崩壊していく様を描いた象徴劇であるならば現代人にとっては判りやすいのかも知れない。
 オリバーの幼馴染ディックを延命させず、幸福感溢れるエンディングにピリっと緊張感を取り混ぜたのはさすが。バンブルの恐妻家ぶりで笑いをとった若きディケンズは、この前年キャサリンと結婚している。何か思うところがあったのか注意しながら読んだが、余り得るところはなかった。まだ読みの深さが足りないかも知れない。

 4読目になる。この作品は『クリスマス・キャロル』の次に有名な作品で、映画化・アニメ化も何度かされている。しかも、ディケンズにしては短い作品となるために、ストーリーも割合忠実に映像化可能だ。
 前回読んでから5年ほど経過しているが、改めて自分の読み方が変わっていたことに気づいた。当時のイギリスには救貧院という生活保護施設が存在していた。産業革命によって世界最大の経済国家に成り上がろうとしていたイギリスは、急激な社会的変化に対応できず零落した人々を、この救貧院に収容し非人道的な扱いをしていた。この作品の訴求点はここにあり、前読までは私も義憤に駆られていた。ところが、前半を読み終えた段階では、義憤とまではいかないでいる。自分でも不思議だ。
 居丈高で何も考えていない役人や、救済金に群がる小悪党には怒りを感じるものの、ディケンズの筆致が少し青臭く感じてしまう。「震えている貧者にも実は裏があるんだよな」と思ってしまうのだ。私自身、変な経験を積み過ぎたのかも知れない。
 物語の冒頭で、行き倒れて救貧院に運ばれた若い女が男児を出産して死ぬ。この男児が適当につけられた名前が『オリバー・ツイスト』となる。オリバーは救貧院から葬儀屋に徒弟で出され、ここで騒動を起こして出奔する。その後ロンドンに出て盗賊団に入る。スリの現場で立ち尽くしてしまったところを逮捕されるが、人情味溢れるその被害者に保護されて幸せを手に入れた……ところが、使いに出たオリバーは昔の仲間に連れ去られ、今度は強盗のため他人の屋敷に忍び込むことに。そして家人が発砲、オリバーは致命傷を負う。
 ここまで、オリバーと作者の主観を除いて簡潔に筋を追ってみたが、こうやって見ると「小心で不運なゴロツキ」にしか見えない。勿論ディケンズはオリバーの純真な心を擁護して描写しているし、オリバー自身も精一杯運命に抵抗する。しかし、やはり世間が結果だけを見るならば彼はゴロツキに過ぎない。
 ここが、今回私がディケンズの筆致に乗り切れないでいる要因なのかも知れない。裏に何やら陰謀が見え隠れしているのだが、伏線が微弱で効いていないし。

 ことのついでに、DVDも観てみた。映像になったのでストーリーを端折っているのは仕方ないとして、全体はよくできている。主演のデイヴィッド役が、物語の最後でものすごくディケンズに似てきたのが感動的。「なるほどそれでこの役者にしたのか」と得心するほどの出来栄え。左利きだったので、当初は「何でこの役者?」と疑問に思っていた(少年時代は右利き設定だったので)。
 メル先生もトラドルズも出てこないのと、ペゴティとディックがイメージより豊満過ぎなのが気がかりだったけど……。少年時代=ダニエル・ラドクリフのパートが長い。トラドルズが、泣くと髑髏の絵を書き散らすのは、ディックの筆写シーンにちょっとだけ織り込まれていた。伯母さんのロバ戦争は映像で見ると卑近に映るのは何だろうか。
 マードストンとジュリア・ミルズは、イメージそのままだった。マードストンが悪役ながらそれなりに傷ついたりする印象も映像化できていたのが素晴らしかった。ジュリアはちょい役で5秒も出ていなかった。原作を読んでいる人間だけが「なるほど、恋愛おたくっぽい」と頷ける仕掛けの模様。
 アグニスは地味なだけで、やはり映像と文章だと、言動が主となる人物描写は厳しい。ユライアも同様で、かなりの尺をとって描写しているものの、カマっぽいだけだし。
 不可解に思ったのは、スティアフォースがローザに恋愛感情を持っているという点。原作のスティアフォースはもっと複雑な人格で、ローザに甘えているような反発しているような、それでいて手玉にとっているような微妙な関係を持っていた。ここがどうも納得いかない。

 いよいよ大団円となる最終巻だが、ちょっとご都合主義が目立つ。ミコーバー一家・ペゴティ一家をオーストラリア移民でハッピーにしてしまうのが強引だし、ユライア・ヒープとモティマーを珍妙な監獄に入れて披露しているのも微妙に違和感がある。とってつけた結末もまたディケンズの特徴ではあるのだが、それにしても手を抜きすぎているようだ。
 あえて意味を深くとって考える意義がありそうなのは、デイヴィッドとユライアの相似性。主人公である好漢デイヴィッドと陰湿な悪党ユライアは、正反対に位置するキャラクターと思われる。ところが、この二人は推理小説でいうところの『一人二役』のような補完関係をなしているのだ。
 第52章「爆発」では、ウィックフィールド家に関連するメンバーはほぼ全てがユライアに対峙する。大人しいアグニスや、ユライアの母親までがユライアを追い詰める側に回る。情報面からはミコーバー、法的処置はトラドルズ、感情表現はベッチー伯母、ユライアの母が「皆に謝れ」との泣き落とし、という具合だ。
 ところが、ユライアとの関係が最も悪い筈のデイヴィッドが一切発言をしていない。他の人間に任せたまま、無反応である。ユライアが攻撃するのはデイヴィッドだけなのに、自身は何の感想も漏らさず叙述に徹している不自然な描写が続く。ユライアが多弁であればあるほど、デイヴィッドは寡黙になっていく。デイヴィッドが反ユライアの盟主であるのは全員が理解しているにも関わらず、デイヴィッドは不可解な沈潜を維持しているのだ。
 これは作者のディケンズも理解しているようで、判る読者には判るように書いている気配がある。その他の場面でも、ユライアとデイヴィッドに葛藤がある場合、必ず2人っきりのシチュエーションになるのである。これは作者が仕組まないと実現できないプロットだ。
 カフカ・ドストエフスキーを経験した現代読者であれば、「ユライア・デイヴィッドは同一人物の2面性をキャラクター化したもの」と看破することは容易い。「人に取り入れる成り上がり」の明るい側面をデイヴィッド・暗い闇をヒープが担ったのだとすると、この小説はまた違った読み方を誘うことになる。
 詳細な検討が必要かも知れないが、デイヴィッドがドーラに夢中になると同時にヒープがアグニスを狙い始める筋立てもこの説を補強すると思われる。
 デイヴィッド主観で考えると、大人に成り切れない妻が自立する様子を描いたのが、ドーラの死とアグニスとの再婚になる。アグニス主観で考えると、成り上がるために悪も辞さなかった夫が周囲の吊るし上げで正気に返る様子がヒープの自滅劇となるだろう。成長を拒否する妻の人格ドーラ・社会的悪を内包した夫の人格ヒープは淘汰され、最終的な夫婦関係の形成がなされるという筋立てになる。
 その経過を描いたものが『デイヴィッド・コパフィールド』という読み方の可能性は非常に魅力的に見える。

 物語のテンポが一気に上がってくる第3巻は、エミリーの駆け落ちから幕を開ける。幼馴染の漁師ハムとの結婚を控えた彼女は、その寸前にスティアフォースと逃亡してしまう。上昇志向のあるエミリーは、家族に愛着を持ちながらもチャンスに賭けたのだ。デイヴィッドは残された家族の悲嘆を見てスティアフォースとの決別を感じるものの、彼との思い出や影響は捨て切れないというチグハグな感情を抱く。この辺りは後期作品の重厚さにつながっているくだり。
 この小説には、女性の願望がよく描かれている。デイヴィッドの最初の妻ドーラは、彼の母とかなり似た要素を持っており、成熟を拒否し、結婚してもなお世故に長けることなく死去してしまう。彼女たちの欲望は「生涯少女のままいたいのに」というところだろう。前述のエミリーには分不相応の淑女(変身)願望があり、スティアフォースに横恋慕するローザ・ダートル、ドーラとデイヴィッドの幼い恋を煽り立てるジューリア・ミルズたちには、恋愛という概念に振りまわれた女の情念が見られる。スティアフォースの母、ヒープの母、アニー・ストロングの母、ベッチー・トロットウッドには、その強過ぎる母性によって迸る征服欲が見られる。
 改めて読み直してみると、驚くほど女性たちが元気な作品である。アグニスとペゴティが完成された女性像をトレースして若干退屈な存在だが、前期諸作に比べるとちょっぴりではあるが陰影が施されており、少しは深読みができる仕掛けだ。
 3巻の中でいよいよユライア・ヒープの暗躍が始まるが、ドーラの父スペンローの怪死、アニーの密通疑惑など、どう考えても巨大な伏線と思われるエピソードが「実は伏線ではなかった」というディケンズにありがちな終わり方をしそうで恐ろしい。多少は緻密な作りの後期作品ならありえないのだが……。これも中期作品を読む上での楽しみと考えてみよう。

 中盤の若干中だるみというか、伏線をゆるゆる張っているような感じの2巻目。表面上物凄く好人物のスティアフォースが絶好調で2面性を発揮している(1読して結果を知っているので尚更感じるのだろうけど)。そして、デイヴィッドは熱烈な恋に落ち、ヤーマスに迫る危機を見過ごしてしまうところも2読目ゆえにしっかり伏線を確認できた。この頃のディケンズは、後期作品程ではないが筆致が冴えつつある。
 またまた人物評だが、アグネスを巡る敵役にユライア・ヒープという小悪党が登場する。睫毛がない爬虫類的な要望で、いつも自己卑下して生きている男。私は、おべっかと増長の入り混じったような嫌味な態度を指して『卑下慢』ということを、この本で初めて知った。典型的な悪役として設定されており、海外のロックバンドでこの名前をとったグループがいることを知った際、ちょっとびっくりした。そういえばアメリカの奇術師に『デイヴィッド・カッパーフィールド』というのがいるが、彼の名前がディケンズのこの小説からとられたことは日本では知られていないような気がする。
 閑話休題。このヒープは姑息な手段で成り上がっていくのだが、大伯母に援助されて法律の仕事を目指しているデイヴィッドに対して猛烈な対抗心を燃やしている。ヒープはその雇い主の娘であるアグネスを狙っているのだが、アグネスはデイヴィッドだけを信用しているという三角関係(デイヴィッドはニュートラル)。この恋模様のためもあるのだが、デイヴィッドに付きまとっている理由はヒープが直接語る。引用してみよう。
————————————
ユライアは叫んだ。「私みたいな、こんな賤しい者の胸に、初めて、大きな望みの火をともして下さったのは、あなたなんですからねえ。しかも、それを憶えていて下さったとは! いや、もう!—-すみませんが、もう一杯、コーヒーをいただけますでしょうかしら?」
 その火を点じたという一句を、彼は、特に力を込めて言い、同時に、ちらと私の顔を見たのだったが、そこに、何か、私を、ハッとさせるものがあった。いわば一瞬、強い光が、パッと彼の全身を照らし出したとでもいった感じだった。妙に改まった調子になって言った、コーヒーの催促を思い出し、例によって、髯剃り用のポットから注いでやったが、なぜか、注ぐ手はぶるぶる震え、これは、この男、とても敵わぬ。いったい、この次は、何を言い出すつもりなのか、それもわからない、激しい不安に、突然、襲われた。しかも、それをまた、相手は、ちゃんと、見抜いているように思えて仕方がない。
————————————-『デイヴィッド・コパーフィールド』(新潮文庫・中野好夫訳)
 つまり、野心を持ったのはその昔デイヴィッドが言葉をかけたためだとヒープは告白するのだ。これを、デイビッドへの揺さぶりととるか、真情の吐露と見るかは読者次第だが、ディケンズとしては両方をちらつかせているように思う。
 この後、デイヴィッドの乳母だったペゴティの夫バーキスの死によって第2巻は終わる。何もかもが中途半端であるものの、デイヴィッドを取り巻く人間模様は急展開への伏線を張り終え、彼の幼年期と少年期が終わりつつあることを暗示している。

 第2読目となる。この作品はディケンズの前期と後期を画するもので、彼の自叙伝的な内容となっている。主人公デイビッドをダニエル・ラドクリフが演じたDVDが、ラドクリフ主演の映画『ハリー・ポッター』に便乗して日本で発売されていた(勿論入手済み)。文庫で4巻に及ぶ長編小説を2時間にまとめるのは非常に困難なのだが、割合にうまくまとめられていた。
 
 それにしても、第1巻を読了するのに相当骨を折った……。苦労人ディケンズの自伝的小説と呼ばれるだけあって、主人公が相当の苦難に遭う。だが、両親を次々に失ったり、継父とその妹にいびり出されたりと、ディケンズ本人でもここまで苦労はしていなかったような苦難ぶり。ディケンズの父がモデルといわれるミコーバーの描写が秀逸であるのは20年前の第1読と変わらないのだが、コパフィールド少年の苦労を読むとひたすら身につまされるのには参った。恐らく、負っている経験の広さ・深さが20年前とは異なり、辛いのだと思う。中でも、スティアフォース少年がメル先生を侮辱するくだりが最も堪えた。
 経緯はこうである。継父によって寄宿学校に追いやられたデイビッドは、出迎えに来たメルという教師によって救貧院へと案内される。そこにはメルの母と友人がいた。デイビッドはそこで食事をもらって休憩し、助けてもらう。当時の救貧院は差別の対象となっており、メルは母のことを勤務先に隠していた。そこでデイビッドにも口止めをするのだが、彼は崇拝するスティアフォース少年に伝えてしまう。スティアフォースは典型的なお坊ちゃん。才能はあるのだが怠惰で、酷薄。周囲の人間は彼を礼賛するが、チラホラと裏の性格が示される。
 スティアフォースはある日、メルを侮辱して校長に救貧院の一件を告発し、学校から追い出してしまう。結局このエピソードは、主人公の忘恩・無配慮・臆病さを示しているのだが、自らのこととして振り返ると、これまでの己が行状がフラッシュバックして、捲るページの重さといったらない。
 というようなことの繰り返しで、読了が異様に遅れた。第2巻以降はもう少し気楽に読めるのかも知れないが……。