北条氏康、京の医師半井驢庵に、洛中の様子を問う
幸便之間令啓候、抑路次無相違御上洛之由伝承、令安堵候、御在国中者、毎物無風流之式、失面目候、雖然、無等閑申承候儀、于今ゝゝ難忘、御残存計候、就中、京都様子如何、 御上洛御催候哉、実説不聞候、便ニ具可記給候、委曲記来便候、 …
幸便之間令啓候、抑路次無相違御上洛之由伝承、令安堵候、御在国中者、毎物無風流之式、失面目候、雖然、無等閑申承候儀、于今ゝゝ難忘、御残存計候、就中、京都様子如何、 御上洛御催候哉、実説不聞候、便ニ具可記給候、委曲記来便候、 …
先日の書評『空白の桶狭間』で触れた、1560(永禄3)年5月19日に氏真が義元に同陣したかの検証を行なってみる。 基本的な情報はこのサイト内の鳴海原合戦時系列による。こちらをご参照のほど。 05月06日、氏真は神原三郎左 …
景虎向新田出陣之由、従方ゝ註進同然候、早ゝ可有動用意候、今一註進之様子、能ゝ聞届、為先衆五日之内、必立可申候、為其以飛脚申候、恐々謹言、 壬八月廿九日 氏政(花押) 「源三殿」 →小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏 …
今度於成田表合戦之刻、敵討捕、殊被鑓疵、粉骨之至、神妙候、其表弥以可抽忠勤者也、仍如件、 永禄九年丙寅八月廿三日 氏政 浜野弥六郎殿 →小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政感状写」(武家雲箋) この度の成田方面の …
■序■ 後北条・今川・武田女系閨閥図 種徳寺殿の正体について検討していく中で、改めて後北条代々の当主正室が気になってきた。あくまで暫定のものだが、後北条年表と家臣団人名辞典から閨閥のつながりを表にしてみた。私の仮説も織り …
今度長尾輝虎出張ニ付而、臼井之城楯籠、竭粉骨走廻候、就中、去廿三及大責処、相拘堅固、敵五千余人手負死人仕出、翌日敗北、誠以忠信高名之至、無比類候、仍太刀一腰作[長光]、遣候、恐々謹言、 卯月十二日 氏政(花押) 松田肥後 …
今度臼井之城、竭粉骨走廻、殊蒙疵、敵一人討捕候、高名之至、感悦候、自今以後、弥可抽忠義状如件、 卯月十二日 (氏政花押) 蔭山新四郎殿 →小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政感状写」(相州文書 足柄上郡利右衛門所蔵 …
現代語と異なり、古文書の『我等』は単数の一人称「私」を表わす。 石田三成が「於我等満足此事候」と言った時、満足したのは三成自身のみである。現代語に釣られてついつい「われら=私達」と読みがちになる。 もう1つ「我々」という …
大関弥七郎方飛脚被差下候条、令啓達候、先日景勝、天徳寺使者ニ御返事之通、近ゝ可有御上洛之由相聞候、於我等満足此事候、并御為可然候、若御上候儀、北条方承候而、可差止為計策、至足利号出勢、其元へ可相働旨、内ゝ令沙汰、御上を可 …
急度申届候、仍一昨廿三、攻臼井敵数千人手負死人出来、註進状為御披見進之候、如此者敗北必定候、一日も早ゝ御陣寄専一候、従城中之使如口上者、手負死人故、房州衆■井陣者悉明、廿三之晩景越衆少ゝ相移之由申候、以爰可有御校量候、委 …