幸便之間令啓候、抑路次無相違御上洛之由伝承、令安堵候、御在国中者、毎物無風流之式、失面目候、雖然、無等閑申承候儀、于今ゝゝ難忘、御残存計候、就中、京都様子如何、 御上洛御催候哉、実説不聞候、便ニ具可記給候、委曲記来便候、恐々謹言、

氏康(花押)

驢庵 几下

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏康書状(切紙)」(服部玄三氏所蔵文書)

1566(永禄9)年に比定。

 幸便があったのでご連絡します。道中間違いもなく上洛なさったことを伺い、安堵しました。こちらに在国の間は、どうにも風流がなく、面目を失いました。とはいえ、懇意にして下さるとのこと、今も忘れがたく、お名残り惜しいばかりです。とりわけ、京都の様子はどうでしょう。(将軍)御上洛はなさったのでしょうか。事実情報が聞こえてきません。書状に細かく書いて下さい。詳細は次の便りに記します。

先日の書評『空白の桶狭間』で触れた、1560(永禄3)年5月19日に氏真が義元に同陣したかの検証を行なってみる。

基本的な情報はこのサイト内の鳴海原合戦時系列による。こちらをご参照のほど。

  • 05月06日、氏真は神原三郎左衛門に文書を発行している。
  • 05月19日、鳴海原合戦で義元討ち死に。
  • 05月22日、三浦内匠助が松井山城守に合戦で義元戦死を告げる。但し左衛門佐の生死は不明とする。
  • 05月25日、氏真が天野安芸守に「今度不慮之儀出来」と告げる。
  • 06月03日、松平元康が三河国内で禁制を発す。
  • 08月16日、朝比奈親徳が三河国在陣。義元討ち死にの際、負傷して戦線から離れていたことを証言。

年次不記載ではあるが、恐らく1560(永禄3)年の4月12日に義元は水野十郎左衛門に尾張出陣を告げているが、その後は動きが判らない。氏真は5月の7~21日の記録がない。ということで、直接的な史料では氏真が尾張に同陣したかは不明としか言いようがない。

それでは、状況証拠ではあるが、氏真が沓掛まで来ていれば納得できる要件を考えてみる。田島・大村両氏が沓掛で文書を失い、それを氏真が補償した件だ。今川当主である氏真が沓掛に持ち込んだと考えた方が自然だし、氏真の逃亡によって沓掛が自落、文書喪失となったなら本人が補償するのは当然である。鳴海城にいる岡部元信への撤退指示も沓掛なら出しやすいだろう。

一方、不可解になる点もある。合戦翌日の20日払暁に岡崎を出発したとして、松井山城守宛の書状作成日の22日日没までに駿府までの138キロメートルを移動する必要がある。1日12時間ずつで3日だと36時間。時速4キロメートルなので馬での移動なら問題はない。ところが、3日の強行軍で疲労困憊している筈の氏真は、5月19日を境にして発給文書が爆発的に増えている。それまでは遠慮がちだったのが嘘のように活発に動いており、氏真周辺が鳴海原合戦の事後を見込んで準備していたかの印象すら受ける。

義元戦死の僅か3日後には対応策を打っている点を考えると、氏真本人が合戦に立ち会い、駿府に戻ってすぐに書状を作ったとは考えがたい。22日の三浦内匠助の書状を見ると、義元戦死は認めている一方で松井宗信は生死不明とし、情報がバラバラに入ってきて混乱している状況も窺われる。25日の氏真書状では、自分がすぐに出馬するだろうと書いている(再出馬ではない)。また、8月16日の朝比奈親徳書状でも氏真が登場しないことから、鳴海原まで氏真が同陣した可能性はかなり低いと思われる。

その後の今川氏は、鳴海原合戦の戦後処理を契機として、知行の宛行や家督継承の承認、訴訟対応へも絡んでいく。太原崇孚を中心とした重臣合議の義元体制から、代表者が側近を介して独裁していく氏真体制へのシフトが急速に進んだと思われる。

翌年閏03月にまで及ぶ長尾景虎の関東席捲では、同盟先の後北条氏に大量の援軍を送った。これも独裁体制がある程度機能していたからこそなし得た即応であろう。

この改革が失敗に終わったのは、04月12日に三河国岡崎城番を勤めていたと思われる松平元康が起こした謀叛が原因だと考える。これを起爆剤として、合議から外された重臣たちとの距離が微妙になり始めた。以後氏真政権は迷走を繰り返していく。

景虎向新田出陣之由、従方ゝ註進同然候、早ゝ可有動用意候、今一註進之様子、能ゝ聞届、為先衆五日之内、必立可申候、為其以飛脚申候、恐々謹言、

壬八月廿九日

氏政(花押)

「源三殿」

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政書状」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

1566(永禄9)年に比定。

 景虎が新田に向かって出陣したそうで、方々から同じ報告が届いています。早々に用意して出動して下さい。今一度、報告書の内容を詳しく聞いて、先陣を5日の内に編成し、必ず出発させるように。そのために飛脚を使って連絡しています。

今度於成田表合戦之刻、敵討捕、殊被鑓疵、粉骨之至、神妙候、其表弥以可抽忠勤者也、仍如件、

永禄九年丙寅八月廿三日

氏政

浜野弥六郎殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政感状写」(武家雲箋)

 この度の成田方面の合戦の際に、敵を討ち取り、槍傷を負いました。粉骨の至りで神妙です。その方面でいよいよ忠勤にぬきん出るように。

■序■

後北条・今川・武田女系閨閥図

種徳寺殿の正体について検討していく中で、改めて後北条代々の当主正室が気になってきた。あくまで暫定のものだが、後北条年表と家臣団人名辞典から閨閥のつながりを表にしてみた。私の仮説も織り込んでいるのでご注意を。主な暫定仮説は以下の3つ。

栖徳寺殿

北条宗哲が大森氏との縁が深い。久野の総世寺は大森氏開基であり、箱根別当前任者は大森氏(海実)である。故に大森氏出身の女性であると仮定している。

養珠院殿

以前の記事で堀越公方足利政知の娘で、茶々丸の同母妹が京に送られていたものが氏綱に嫁したと仮定している。

鳳翔院殿

姑の瑞渓院殿と同日死去していることから、近しい間柄だったと判る。出自が出てこないのは身分が低かったためという見方もできるが、院号付きの戒名が明確に伝わっている点が不可解。
一旦話は代わって、皆川広照室は、掛川籠城で客死した中御門宣綱の娘である。従来は北条氏政が猶子にして嫁がせたと言われていたが、徳川家康の元にいたという説が有力になっている。よくよく考えてみるならば、氏康没後に武田と再同盟した段階で、今川家中は殆ど徳川家に行っている。だから、家康の元にいたという説明の方が妥当性がある。では何故氏政が出てくるのかを考えているうちに、宣綱の娘はもう1人おり、それが鳳翔院殿ではないかという仮説が思い浮かんだ。皆川広照室は1590(天正18)年4月8日に自害しており、同年6月12日にあったと思われる鳳翔院殿自害との関連性も窺わせる。
縁を取り持ったのは瑞渓院殿だろう。武田からの嫁である黄梅院殿を離縁した後、瑞渓院殿はこの娘を氏政の継室に据えようとした。瑞渓院殿の母の実家であり姉も嫁いだ中御門だから血筋は最適だ。

■第1世代■

 ~桃源院殿(北川殿)の視点から~

後北条・今川・武田の閨閥図は、通称『北川殿』と呼ばれる桃源院殿から始まる。彼女の出自は備中伊勢家である。その本家である京の伊勢家と駿河今川家との取次をしていた伊勢盛定は、娘を今川義忠と添わせた。その9年後に義忠は戦死してしまう。残された息子を守るため、彼女はあらゆるコネクションを使って人脈を作っていく。

まずは弟の盛時を駿河に呼び、その娘を今川家重臣の三浦氏員に嫁がせた。次いで息子の嫁選びである。家督継承年齢で苦労した割には、氏親の婚姻年齢は高い。32歳という高齢まで結婚を引っ張ったのは、桃源院殿がじっくりと選んだからではないか。もっと穿った見方をすると、彼女は夫の早死にという偶発事故で政治の実権を持てた。これと同じチャンスを嫁に与えるためには、氏親の結婚をなるべく遅らせたほうがよい。頼りない嫁を早く貰うより、こちらを選んだのは自らの実体験に基づく確信があったからだろう。

この嫁選びのためかは不明だが、桃源院殿の長女(栄保・竜津寺殿)は京の三条実望に嫁いでいる。この系譜については後述する。

やがて中御門宣胤の娘が氏親に嫁ぐ。後に寿桂尼を名乗る瑞光院殿で、桃源院殿の忠実な後継者としてその地位を固め始める。実の兄の娘を、今川家最大の実力者朝比奈泰能に娶わせている。ちなみに、彼女の母は甘露寺朝子といい、『親長卿記』で有名な実務官僚甘露寺親長の娘である。

一方、桃源院殿は甥の北条氏綱の婚姻にも介入したように見える。私の推測が正しければ、正親町三条家に引き取られた足利義澄の妹が氏綱前室の養珠院殿となる。この正親町三条家は前述の栄保が嫁いでおり、桃源院殿が関与できた。『北条殿』という称号を実兄の家に与えるために、養珠院殿を下向させたのは桃源院殿である可能性が高いように思う。ところがその養珠院殿が亡くなってしまう。彼女の死後の供養を方々で行った氏綱だが、その一方で喪が明ける前に後妻を娶る。現任の太政大臣近衛尚通の娘であるが、どうも30歳を大きく上回った形式的な婚姻だった可能性が高い。何故それを急いだかというのは、その2年後に亡くなることになる桃源院殿の焦りだったと考えると腑に落ちる。甥の正妻の地位を空けたままでは死ぬに死ねないと思っていたのか。

付表


1467(応仁元)年 桃源院殿(北川殿)今川家に嫁す
1476(文明08)年 今川義忠戦死
1505(永正02)年 瑞光院殿(寿桂尼)今川家に嫁す
1517(永正14)年 瑞雲院殿(大井の方)武田家に嫁す
1527(大永07)年 養珠院殿死去・近衛尚通娘(北の藤)後北条家に嫁す
1529(享禄02)年 桃源院殿死去


1535(天文04)年 瑞渓院殿後北条家に嫁す
1536(天文05)年 5~6月花蔵の乱・7月円光院殿(三条の方)武田家に嫁す
1537(天文06)年 定恵院殿今川家に嫁す


1541(天文10)年 信虎が武田家より追放され今川家に滞在
1550(天文19)年 定恵院殿死去
1552(天文21)年 瑞雲院殿死去
1568(永禄11)年 瑞光院殿死去・今川家滅亡
1570(元亀元)年 円光院殿死去


今度長尾輝虎出張ニ付而、臼井之城楯籠、竭粉骨走廻候、就中、去廿三及大責処、相拘堅固、敵五千余人手負死人仕出、翌日敗北、誠以忠信高名之至、無比類候、仍太刀一腰作[長光]、遣候、恐々謹言、

卯月十二日

氏政(花押)

松田肥後守とのへ

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政感状(切紙)」(東京国立博物館所蔵)

1566(永禄9)年に比定。宛所は後筆。

 この度長尾輝虎が出征したことについて。臼井に籠城して粉骨を尽くして活躍した。特に去る23日の総攻撃を受けたところ、堅固に守備して敵5,000余人の死傷者を出し翌日敗北させた。本当に忠信・高名の至りで比類がありません。太刀1腰(長光作)を差し上げます。

今度臼井之城、竭粉骨走廻、殊蒙疵、敵一人討捕候、高名之至、感悦候、自今以後、弥可抽忠義状如件、

卯月十二日

(氏政花押)

蔭山新四郎殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政感状写」(相州文書 足柄上郡利右衛門所蔵)

1566(永禄9)年に比定。

 この度臼井の城で粉骨を尽くし活躍しました。特に負傷して敵1名を討ち取りました。高名の至りで感悦しました。これからもいよいよ忠義にぬきん出るように。

現代語と異なり、古文書の『我等』は単数の一人称「私」を表わす。

石田三成が「於我等満足此事候」と言った時、満足したのは三成自身のみである。現代語に釣られてついつい「われら=私達」と読みがちになる。

もう1つ「我々」という言い回しもある。これは「われわれ=私達」だろうか。いくつか調べてみたが、単数と明確に限定できる例は1つだけだった。

知行方之儀、如先代為不入進候、於公私之内も別而頼母敷思召候間、可被守立事、専一候、我ゝ若輩ニ候之間、如此候、粉骨尽就走廻者、弥ゝ可引立候、為後日仍如件

上記は、吉良氏朝が家臣の江戸彦九郎に免税を与える代わりに活躍を期待した文書。ここで「我ゝ若輩ニ候之間」とある。「私達が若輩なので」では明らかに変で、氏朝が「私が若輩なので」と解釈した方が正しい。

では、現代語で言う複数の一人称「私達」はどう表記されるのだろうか。

抑駿州此方間之義

「そもそも、駿河国とこちらの間のことは……」

今度当方安危砌候条

「この度はこちらの存在に関わることなので……」

大坂へ遣候当方之使者

「大阪へ送りましたこちらの使者……」

上記のように「私達」というよりは「こちら」に近いような言葉(此方・当方)が使われていた。ちなみに「我方」は、たまたまなのか当サイト内で1件もヒットしなかった。

では「等」自体が現代語と違う用法なのだろうか。

其外被拘来山林等、如年来永不可有相違

「そのほか所持しておられた山林など、年来のように末永く相違のないように……」

上記から考えて、「等=など」で現代語と同じだ。三人称の場合はどうか。具体的には「彼等」「彼者」の2通りがある。意外にも「彼等」の例は少なく3つのみ。

若於彼等同心相放者別人可入替

「もしその(=かの)同心が解職されるならば、別の者を入れ替えるように……」

彼等依妄言、御上洛相滞

「彼の妄言によりご上洛が滞り……」

彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候

「彼が連れていった者たちは守るべき権益のない者です……」

 何れも、単数である。「彼者」は例が多いのだが、単数の意味しかない。念のため1例を挙げておく。

日比彼者屋敷之由、此方江条々申筋目有

「日ごろあの者の屋敷だったとのことで、こちらへ逐次言ってきた筋目があり……」

 三人称で複数の場合「者共」がつくようだ。

東美濃遠山人数少ゝ立置候、彼者共帰陣候而、申鳴分如此候、必定歟

「東美濃の遠山氏が少しの軍を派遣しており、彼らが帰還して話している内容だそうですから、確実かも知れません……」

 現代人から見ると、人称の単数・複数が見分けづらいものだが、注意して解釈していきたいと思う。

大関弥七郎方飛脚被差下候条、令啓達候、先日景勝、天徳寺使者ニ御返事之通、近ゝ可有御上洛之由相聞候、於我等満足此事候、并御為可然候、若御上候儀、北条方承候而、可差止為計策、至足利号出勢、其元へ可相働旨、内ゝ令沙汰、御上を可相支調略可有之候哉、其内北条骨肉之仁を差上、公儀可相勤事治定候、縦其表へ之動必定にて、一旦御分領雖被及御迷惑候、有御上洛公儀相済候者、結句御仕合可然存候、彼方之調儀風説ニ被驚、御上延引之間ニ北条陸奥守被罷上、種ゝ被申掠者、既御為不可然候歟、菟角一刻も被急御上国奉待候、御進上物等何之御御造作無用候、被抛万事、先御上専一存候、於此方御用等、為我等可申付候、可御心安候、恐惶謹言、

三月十一日

三成(花押)

宇都宮弥三郎殿

  参人々御中

→小田原市史 資料編 原始・古代・中世Ⅰ「石田三成書状写」(宇都宮氏家蔵文書下)

1589(天正17)年に比定。

 大関弥七郎(親憲)へ飛脚を下らせますので、ご連絡します。先日(上杉)景勝・天徳寺(佐野綱房)の使者へのお返事では、近々ご上洛なさるとのこと。私にとって満足とはこのことです。同時にあなたのお為にもなるでしょう。もしご上洛なさるなら、北条のことは承って、策を講じて差し止めます。足利に来て出陣したとして、あなたに攻撃してきた旨を内々に報告させ、御上(羽柴秀吉)が宇都宮方の支援となるよう謀りましょうか。そのうちに北条が身内の人間を上洛させ、公儀(羽柴政権)に出仕することとなります。たとえその方面での攻撃があって一旦は領地が困ったとになったしても、ご上洛して出仕が済んだら、結局はよい方向に落ち着くでしょう。そちらの計略や風説に驚いてご上洛を延引している間に、北条陸奥守(氏照)が京に上り色々と讒言したら、もうお為にはなれないでしょう。とにかく一刻も早く上られて『国』でお待ち下さい。ご進上の物品など何の準備も要りません。全てをなげうって、まず上ることが専一に思います。こちらに来れば御用などは私に申し付けて下さい。ご安心下さいますよう。

急度申届候、仍一昨廿三、攻臼井敵数千人手負死人出来、註進状為御披見進之候、如此者敗北必定候、一日も早ゝ御陣寄専一候、従城中之使如口上者、手負死人故、房州衆■井陣者悉明、廿三之晩景越衆少ゝ相移之由申候、以爰可有御校量候、委細安伊可申候、恐々謹言、

三月廿五日

氏政(花押)

武田殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政書状写」(諸州古文書十四)

1566(永禄9)年に比定。安伊は安西伊賀守。

 取り急ぎ申し届けます。一昨日の23日、臼井を攻めた敵数千人に死傷者が出ました。報告書をお見せするため添付します。この分では敗北は決定的です。1日も早く陣を寄せることに専念して下さい。城中からの使者によると、死傷者が出たので房州衆の酒井陣はことごとく空いてしまい、23日の晩に越後衆が少し移ってきたとのことです。これによってご推察下さい。詳細は安西伊賀守に申しています。