この日、7月30日(旧暦だと6月27日)をもって、5月19日から続いていた氏真の活動記録が一旦途切れる。

 氏真は熊野大社に「於尾州不慮之儀出来、因茲遠路来書祝着候」(尾張国で不慮の事件が起きました。このことで遠路書状をいただいて嬉しく思います)と書き送っている。
熊野大社にも義元敗死の報が届いており、問い合わせがあったのかも知れない。そうだとすると、6月10日に佐久間信盛が伊勢内宮からの問い合わせに応えた書状と似たようなシチュエーションになる。

 この後氏真が合戦に関係した文書を発行するのは7月28日のこととなり、かなり間が空く。その間も西三河では戦闘状態にあったものと思われるが、消息は余り明らかではない。

 暫く旧暦に合わせて書き記してきた1560(永禄3)年の情報も、ここで中断しようと思う。旱魃の後の冷夏、降りしきる長雨の東海。敗戦からの建て直しに躍起の今川、岡崎で胎動を始めた徳川、美濃に目を向けつつある織田、何故か氏真の疑心を解こうとしている武田。そして越後では関東への大規模出兵が準備されつつある。

旧暦6月23日(7月26日)、武田晴信は穴山信友に書状を書き起こした。
そこでは「対氏真無等閑趣被申述、同氏真同意被聞届候者、早々御帰国簡要候」、つまり、氏真に対して粗略な扱いはしないと申し述べて、氏真が納得したので早々に帰国してほしい、という内容だ。既に駿府へ長逗留していることをねぎらってもいるので、晴信が信友に氏真説得を指示していたのだろう。
義元敗死から既に1ヶ月以上が経過している。信友が駿府にいたからこそ、晴信は岡部元信の近況なども知りえたのだと思うが、それにしてもこの長期間にわたる説得工作は何だったのかが気になる。

奇妙な密談書状もあるが、これが1560(永禄3)年から4年にかけてあったのだとすると、晴信は徳川独立を裏で援助していたことになる。あくまで確証のない話だが……。

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カテゴリ・文字コード・リンク変更処理に関しては一通り検証を終えたつもりだが、 何分急遽変更したので漏れがあることは大いに予想される。適宜ご指摘・ご助言を賜れれば幸甚である。

 7月19日(旧暦6月16日)は、氏真が簗瀬九郎左衛門尉に感状を発行している。
 「今度当城堅固爾相踏、殊於両度遂一戦」と書いていることから当城がどこか不明だが、2度にわたって戦闘があった点が6月12日の鵜殿十郎三郎宛感状と同じことから、簗瀬九郎左衛門尉は大高に籠城していたものと思われる。鵜殿宛感状には「大高口」とあり、城より広い範囲を示すと思われる。鵜殿隊は城外で戦闘したのだろう。
 城を守る簗瀬隊も直接戦闘を行なっていることから、大高城を巡って規模の大きい合戦があったと推測できる。
 同感状で「家中者共敵地へ於相退者彼跡職知行」とあることから、簗瀬の家中で敵方へ出奔した者が複数存在したことも判る。

7月16日は旧暦6月13日。この日、空梅雨から一転、長雨が10月まで降り続く冷夏となる。これ以降は、暑苦しい日照りの風景ではなく、一日中雨に降り込められる情景に切り替わることとなる。
この日「抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間」「そもそもこの度不慮の巡り合わせによって利を失い、大方敗北。更には大高・沓掛が開城したところ、あなたは鳴海の地をしばらく堅守した上で、氏真からの命令書に従って撤退しましたので…」と、武田晴信が岡部元信に書き送っている。この前々日ぐらいに元信が駿府へ到着したのかも知れない。「大略敗北」というのは外交辞令で、手痛い敗北だったと思われる。
前年から兵員・兵糧の補給時に戦闘があった大高はともかく、戦闘状態にあったとは考えにくい沓掛まで落城している。その一方で、地理的には尾張内に深く入り込んだ鳴海が堅守されているのは奇妙な感じを受ける。義元が「鳴海原」で戦死したという書状もあるので、近辺で戦闘があった筈なのだが……。
「鳴海原」が具体的にどの地点を指すのかは不明だが、沓掛から鳴海を目指して鎌倉街道を進み、平地に出た辺りではないかと推測している。「粟飯の原」の古称を持つ相原郷であれば、鳴海城は義元の前方となり影響を受けない。潰走する兵に巻き込まれた沓掛、更には、元々守備に難のあった大高も自己判断で放棄されたとすると筋道が合うように考えている。
相原郷にある浄蓮寺は、六田1丁目にあった光泉坊が元だという。この坊は今川家臣の本多慶念が、1560(永禄3)年以降に作ったものだとのこと。六田1丁目からの移転理由が洪水だというので地図を確認したところ、六条ポンプ所がある氾濫地帯にあった。また、中島砦と伝承される位置にも近い。

 7月15日(旧暦6月12日)に、氏真が鵜殿十郎三郎に感状を発行している。
 その内容は「去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時」となっていて、前年11月のことと併せて、5月大高口での戦功を賞している。ここに義元が登場しないことから、大高口での合戦が義元敗死と関連していないことが判る。関連するのであれば、松井宗信・平野輝以・尾上彦太郎らのように「天沢寺殿御討死之刻」という表記が入る筈だ。
 ここに至ってようやく、大高関係の感状が出てくるようになったのだろう。具体的にいうと、義元隊(恐らく本隊)を構成していた人員の安否確認、鳴海城からの駐屯部隊撤退確認がとれたので、大高方面部隊(支隊?)への論功行賞が始まったと推測できる。

 7月13日、この日は旧暦で6月10日に当たる。この日に至ってようやく、織田方が合戦に関わっていたのではないかという史料が出てくる。
 佐久間信盛が「今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候、可有御推量候」と伊勢内宮の御師に書き送っている。内宮は6月10日以前で既に問い合わせをしていたことが判る。
 既に書状が飛び交っていた今川方と比べるとのんびりした印象があるが、直接戦闘に関係がないものだったせいかも知れない。実際、氏真が熊野に送った書状は更に後の日付となっている。

 7月11日は、旧暦でいうと6月8日となる。この日、義元が敗死した合戦に関わった岡部元信に宛てて、氏真が判物を発給している(今川氏真判物写)。
 大高、沓掛が捨てられる中で、鳴海城を堅固に守ったと氏真は手離しで絶賛している。「このままでは通用がないので下知によって部隊を全員撤収させた」と書いているので、その前に氏真は状況を把握しており、鳴海城に撤退命令を下していることとなる。
 ここまで来ると合戦の状況も明らかになっているようだが、まだ混乱も見られるようだ。元信が、刈谷の水野藤九郎を計略によって討ち取ったという誤報も混じっている(検証a19:岡部元信の刈谷攻撃はあったか)。可及的速やかに手段を講じていると思われる氏真政権でも、いまだ真相は把握しきれていない様子が伺える。
 鳴海・大高・沓掛が全て落ちた一方で、岩崎方面・常滑方面の所在は不明だ。どちらもこの3城と直接運命をともにしたのではなさそうである。

 伊達政宗に1,000通を超える自筆の書状があったというのは初耳だった。その中から印象的なものをえり抜いて紹介しているのが『伊達政宗の手紙』(佐藤憲一著・洋泉社MC新書)である。
 著者は仙台市博物館長だった人物で、政宗の書状に関しては第一人者。文献の持ち味は実物にあるとの考えから、現代文・原文のほかに、書状の写真も掲出している。原文と現代文が併記されている点から、かなり勉強になった。
 紹介している書状の筆頭は片倉景綱に当てた「自分の子供を殺すと聞いたが、とにかく思いとどまってくれ」というプライベートなもので、「堅苦しい古文書」という先入観を払拭したいという著者の気遣いが感じられる。このほかにも、死んだ部下のことをその父親に告げられず苦しむ文面、異国で書いた母への手紙、息子を過保護にしたと反省する書状などなど、一人の人間としてもがく姿を、文書の解説を通して明快に描いている。
 しかし1,000通も自筆というのは物凄いことだと思う。そういえば、北条氏照が片倉景綱に「おたくの殿様からうちの殿様に書状が来たのはいいけど、添え状がないのはどうかと思う」と苦情を送っていた。手紙魔政宗の面目躍如というところか。
 新書にしてはお高い1,800円だが、その価値は充分にあると思う。

 7月6日は旧暦6月3日となる。この日、徳川家康(松平元康)が禁制を発している(松平元康禁制写)。
 崇福寺は岡崎と西尾(吉良)との間にあり、この地点で今川方部隊が駐屯、もしくは交戦とすると、岡崎か西尾が反今川方となっていた可能性が出てくる。また、禁制を発行できたことから、この時点で徳川家康は岡崎にいたと思われる。

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