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今川義元、菅沼定俊の布里撤退の軍功により知行を宛行なう

去年菅沼十郎兵衛尉・同八右衛門尉帰参之刻、林左京進・菅沼三右衛門布里江打入之処、以敵猛勢相勤之旨、夜中令告知人数無相違引取之段、忠節也、因茲菅沼孫大夫給之内、塩瀬内下方六貫文、大豆弐斗、陣夫一人、任去年之判形、永所宛行之、為一所領掌了、至于後年於増分出来者、可令所務、弥可抽忠節者也、仍如件、

弘治三年 九月五日

治部大輔 御判

菅沼左衛門次郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(浅羽本系図)

 去る年菅沼十郎兵衛尉と同姓八右衛門尉が帰参した際、林左京進・菅沼三右衛門が布里を攻撃したところ、敵が強襲をもって臨むことを夜中に通報し、軍勢を相違なく撤収させたことは忠節である。このことから、菅沼孫大夫給より塩瀬内の下方6貫文・大豆2斗・陣夫1人を、去る年の判形の通り永く宛行なう。一所として掌握すること。後年に至り増分が出来たら、徴税せよ。ますます忠節にぬきんでるように。

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