当城堅固候、殊其地被相踏之由、無二忠信此時に候、弥々可有本意候条、朝比奈備中守委細可申候、恐々謹言、

十二月廿一日

氏真 御在判

大澤殿

中安彦次郎殿

→戦国遺文 今川氏編2213「今川氏真書状写」(大沢文書)

永禄11年に比定。

 当城を堅固にして、特にその地をお踏みになったとのこと。無二の忠信はこの時です。ますます本意があるべきですから、朝比奈備中守が詳しいことを申し上げます。

1589(天正17)年8月頃に行なわれた沼田領引き渡しでは、通説だと以下のように理解されている。

1.沼田城  真田氏から後北条氏へ羽柴方監視のもと引き渡した
2.名胡桃城 真田氏が保有したまま

そしてこの状態が11月の名胡桃問題で、

1.沼田城  後北条氏が保有したまま
2.名胡桃城 真田氏から後北条氏が奪う

となったとされる。だが、このことを説明した北条氏直書状写を細かく読むと、かなり様相が異なる仮説が成り立ちそうだ。

まずは原文の該当部分を見てみる。

名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、

これを私は、

[note]名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田がこちらへ渡していると申していますので紛争ではありませんが、[/note]

と解釈した。ここでは「既真田手前へ」を「既に真田がこちらへ」としている。しかし、『手前』が「こちら」とか「自分」を指す用法なのか、原文を読んでいるうちに不図、疑問に思った。そこで用語として『手前』がどのように使われていたかの実例をリストアップして検証した。

その結果、「手前」の直前に人称が使われている5つの文例では、「<人称>の<手前>」という用法であることが判った。

一間之内にて人ゝ之手前各別候者→1間のうちでそれぞれの作業範囲が別だと

於新太郎手前致討死候→新太郎の前で討ち死にしました

彼替従其方手前可出由御心得被成候→その替地をあなたの手元より拠出するべきだとしているとのこと

就拙者手前不罷成→私のやり繰りがまかりならなかった件で

殿様御手前相違申候ハぬやうニ→殿様のお手前相違のないように

 そうすると、「真田手前へ」も「真田が手前へ」ではなく「真田の手前へ」と読む可能性がある、というよりも、そちらの可能性の方が高いのではないか。

既真田手前へ相渡申候間→既に真田の手前へ渡していると申していますので

解釈を試みると上記のようになる。そこで、前後の文と合わせて解釈してみよう。

[note]名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田の手前(手元)へ渡していますので係争に及ぶものではありませんが、[/note]

つまり、名胡桃は沼田割譲の前に後北条氏が領有しており、割譲に当たって真田氏に渡したことなる。実は前々から、より明確な「当方」「此方」を使わず「手前」を用いていたのが疑問ではあった。謙譲の意があって「手前」を使ったのかと推測してみたが、ほぼ同時期に徳川家康に宛てた氏直書状写では「名胡桃努自当方不乗取候」と書いており「当方」を使っている。この点も、手前は「こちら」ではなく「手元」の意だという仮説を補強する。

この仮説に基づくと、文中にある不自然な2点もさらに解消する。

逆接「雖」の不可解

氏直が名胡桃について触れた文章は以下のように分解できる。逐次解釈を試みよう。

名胡桃之事、一切不存候

 名胡桃のこと、一切存じません
被城主中山書付、進之候

 城主とされる中山の書付、これを進めます

まずは重要な主張を先頭でシンプルに書いている。判りやすい。「城主とされる」とあることから、中山某は真田方だったと判る。書付を氏直が持っているということは、後北条方への寝返りがあったのかも知れない。

既真田手前へ相渡申候間

 すでに真田がこちらへ渡しておりますので
雖不及取合候

 取り合いに及ぶものではありませんが

通説だと「真田がこちらへすでに渡したのだから奪ったのではない」と解釈する。先述した家康への書状で「自当方不乗取候=こちらから乗っ取ったのではありません」とあることから、「既に真田方が明け渡した城を接収したので紛争ではない」という意図を読むことになる。

だが、それだと「雖」は不要なのだ。むしろない方がすっきりする。もう少し読み進めてみる。この後に、上杉が知行替えだといって出撃したことや、そうなると沼田が危ういという判断をしたという氏直の推測がくる。

越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間

 越後衆が途中まで出撃し、信州川中島と知行替えだということなので
御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候

 ご糾明の上、沼田よりそれ以来加勢の由申しました

細かく見てみると、現代文でいうところの「」(かぎ括弧)内の文言で、発言者をわざと氏直は書いていないが恐らく猪俣邦憲だろう。

「御糾明」とあるのは、邦憲が氏直に上申したことを指すと思う。この後で構文が崩れてやや不明瞭になるが、沼田の邦憲から加勢に行きたいと打診があったのだろうか。さらに氏直の見解が続く。

越後之事ハ不成一代古敵

 越後のことは一代ならざる古敵です
彼表へ相移候ヘハ、一日も沼田安泰可在候哉

 あの方面に移るならば一日も沼田は安泰でいられましょうや

まあここまでは言い訳の羅列。「上杉が名胡桃に入ったら沼田は維持できない」と判断したと。問題はその後で、

乍去彼申所実否不知候

 さりながら、かの申すところ実否は知りません

上杉氏南下の情報が実在するかは知らない、と氏直。確証はないと自分で言っているのだ。証拠は中山書付だけだったのだろう。他の情報源から確認をとらず、一片の書付だけで前線に攻撃命令を出したということだ。

従家康モ、先段ニ承候間、尋キワメ為可申、即進候キ

 家康からも先段承りましたので、尋ね究めるため、すぐに進めていました
二三日中ニ、定而可申来候

 二三日中にきっと連絡があるでしょう

さらに衝撃的な記述が続く。家康にも確認を取っていなかったことが判る。外交上これはまずいように思うが、氏直は強気だ。

努ゝ非表裏候

 ゆめゆめ表裏ではありません

いやどうだろう、表裏(卑怯な振る舞い)じゃないかな。という思いはさておき。先に説明した逆接「雖」が、ここに来てさらに物騒になる。

[note]真田からこちらへ渡されたもので取り合いではありません。<<でも、>>危なそうだから自己判断で加勢しました。表裏ではありません。[/note]

個人的な感覚もあるかと思うが、釈明文でこの逆接は不要だ。「其故者=その訳は・なぜならば」辺りでつなぐのが普通だと思う。「則」や「然者」でもいいが、とにかく順接だろう。なぜ逆接を用いたのか……。

名胡桃検分の謎

しかも、氏直はこの後に奇妙なことを書いている。

ナクルミノ至時

 名胡桃の時には
百姓屋敷淵底、以前御下向之砌、可有御見分歟事 百姓屋敷の淵底、

以前御下向の際に御検分なさったでしょうか。ということ。

「至時」は用例が見つからないので一先ず「とき」としておく。「名胡桃のとき」というのは「以前御下向」と併記されていることから沼田割譲時を指すと思われる。この際に、冨田・津田の両氏が名胡桃の領地を詳細に調べたことを書いているのだろう。

割譲前後で名胡桃がずっと真田領ならば、何故検分が入ったのか。沼田と名胡桃が地続きであれば判らなくもないが、実際には利根川で分断されている。しかも、真田領の内容を冨田・津田が調べたことをこの局面で何故言い出したのかも判らない。

新解釈で再検討

ではここで、新たな仮説に沿って解釈を試みよう。後北条方だった名胡桃は、沼田と引き換えに真田方に渡す裁定が下り、冨田・津田が監視役として仕切ったという前提だ。

[note]
名胡桃のことは、一切知りません。城主とされる中山の書付を進呈します。

既に真田の手元へ渡していますので、取り合いに及ぶものではありません。

<<でも、>>

「越後衆が途中まで出撃しており、信濃国川中島と知行替えだと申したとのことです。ご糾明の上で加勢したい」と沼田からそれ以来連絡がありました。

越後のことは一代ではない古敵です。あの方面に移動したならば、沼田が一日でも安泰でいられましょうか。

とはいえその報告は実否を知りません。家康よりも先段承りましたので、徹底究明するべきだとのことで、すぐに進めていますから、二三日中にきっと報告があるでしょう。

間違っても裏表はありません。

名胡桃のとき、百姓屋敷の明細は以前下向なさった際に、お見分けあったでしょうか。ということ。
[/note]

「一旦は潔く渡したものを、強引に取り返す筈もない」というのが氏直の最初の論点になる。「雖=でも」と続けて、渡した相手は真田であって上杉ではないという根拠で「条件が違うなら取り返してもいいと判断した」と強弁する。そのすぐ後に、情報が不確かであることを認め、確認作業を依頼している。文面には出さなかったものの「事実誤認なら再び真田に渡す」という暗示として、以前真田方へ引き渡した際は「百姓屋敷淵底」まできちんと確認したと補記している。こう捉えていくと全体が自然に感じられる。

ちなみに、このすぐ後に「真田は中条の地をこちらに渡す際に嫌がらせをした」と書き立てたのも、「自分たちは正直に渡したのに」という憤りが誘発されたからではないか。

純粋に文言の読み込みでこの仮説を書いてみた。後北条方が名胡桃を手に入れたのはいつか、「加勢」は誰に対して行なったのかなど、更に疑問が出てきているので、引き続き機会をみて考えていきたい。

鳴海原合戦についてはほぼ考証が固まっているのだが、『戦国遺文 今川氏編』の刊行完了を待って結論を出そうと考えている。

いるのだが、全3巻の予定が終わらずに第4巻を1年以上待った。そしていよいよ今週末の4月25日に発売となった。版元の東京堂出版にいったところ内容が公開されていた。

永禄13年 2437号 ~慶長19年 2650号
今川氏真年未詳文書 2651号~2664号
補遺 2665号~2744号
索引(人名・地名)

補遺が79号あるのは素晴らしい。ちょっとしかないが氏真の年未詳文書も楽しみだ。ただ、その下に恐ろしい文字を見つけてしまった。

※第5巻(索引等収録巻)は2015年1月に刊行の予定です。

何というか、人気が高いために連載終了できない漫画のような展開だ。来年1月と書いてあるが、過去の経験上大体半年から1年遅れると思う。「索引等」というのも解せない。索引は第4巻に入っている。「等」とは何だろう。謎だ。

ちなみに私は、歴史関係の書籍は近所で贔屓にしている書店から必ず購入するようにしている。ジュンク堂本店かAmazonであれば金曜に入手も可能だと思うのだが、馴染みの本屋を応援する。時代遅れと言われても不便でも、そこだけは譲れない。『町の本屋さん』は絶対に必要なインフラだ。

などと言いつつ、配本されるまでの1週間は果てしなく長く感じられるのだが……。

森田善明氏の著(歴史新書y) 。

端的に述べてしまうと、史料を読む機会の少ない読者には危険な内容である。一次史料を使ってかなり踏み込んだ解析を行なっているのだが、あくまで相対的な仮説に過ぎない。

史実・真相・真実と書かれて「まあそんなこといってもそれは仮説だから」とか「その書状解釈違うかも。原典チェックしよう」と思うようなすれっからしの歴史好きならともかく、気軽に手に取った新書という形式から考えて、もっと素直な読者層もいるだろう。

いつの間にか本書の内容が既成事実として確定してしまわないように、老婆心ながら私の疑問点を記しておく。

「後北条氏が羽柴氏に外交的罠を仕掛けられて戦争に引きずり込まれた」というのがこの本の主張である。通説にあるように後北条氏の状況誤認識が原因ではなく、羽柴方の策略が滅亡の主要因だと説明している。

その根拠の1つに、羽柴秀吉が1589(天正17)年10月10日に戦争の準備をしたという事柄を挙げている。名胡桃城略取と北条氏政上洛遅延の問題が発生するのは11月以降なので、10月10日の秀吉の動きは、北条氏直がどう行動しようと開戦することの表われだとする。

10月10日の根拠として2つの文書を掲げているが、今回はその真偽を検討しない。なので、一先ず「真」として考える。また確かに、4月以降に羽柴方が東国の国衆に上洛を呼びかけることもなくなっている。その理由は以下のように説明される。

それはすでに「北条家討伐」が決まったからなのである。つまり、近々秀吉が、北条討伐のために関東に出向くことになるので、「関東や奥羽の諸大名を引見するのはそのときにしよう」となったのだ。

しかし、この動員は後北条氏を滅亡させるためだと断定できるだろうか。羽柴方が北関東の国衆への上洛要請を打ち切った1589(天正17)年4月は、後北条氏の臣従が明確になった時期でもある。ならばむしろ、東日本最大の大名が臣従してきたことをうまく使って、上洛を拒んでいる他の東国大名・国衆の服属を現地で進めようとした、という仮説も充分成り立つと思う。特に伊達政宗は怪しい動きをしているので、関東から東北にかけて本格的な軍勢を指揮して乗り込む必要があったのではないか。その足がかりとして後北条氏を使おうとした。

関東攻めの準備をしていた根拠とされる10月10日の長束正家宛の兵粮調達命令では、「小田原近辺の港へ船を送れ」と秀吉は書いている。だが、小田原周辺に良港はないのに、輸送船をなぜ相模灘に回漕させるのだろう。後北条氏との本格的な戦闘に入るのであれば、初動でいきなり伊豆半島を越えようとはしないだろう。相模灘が難所であることを見越して、早目に小田原へ物資を集積しようとしたのは、小田原で氏直の上に君臨し、ここで東国諸大名の出仕を受けようとしたように見える。

そもそも、本書が主張する策謀は目的が私には判らない。小田原開城後の知行替えで不服を言った織田信雄を軽々と改易したように、秀吉は圧倒的な政治力・軍事力を持っている。是が非でも攻める覚悟があるのに、『氏直が約束を守ってしまうかも知れない』ような微妙な条件を設定しなければならないのだろうか。佐野房綱や妙印尼辺りのカードを切った方が手っ取り早かったろうにと思う。

このほかにも色々と解釈に不自然な部分があるので、気づいた点をざっと記してみる。

まず、『家忠日記』の解釈。

相模(北条家)が真田の城を一つ取ったので、加勢に行く(155ページ)

と記述している。原文も書内に掲示されている。

さかみより信州真田城を一つとり候間、手たしにまいり候(163~164ページ)

疑問なのが「より」を「が」としている点。また、「手たし」を「加勢」としている点もおかしい。私が解釈するならば、

信州真田が相模より城を一つ取りましたので、手出しに行きました。

となる(現代語風に主格を先頭に移動した)。城を奪ったのは真田氏であると解釈した方が自然だろう。更に、「手たし」が「加勢」を意味するという例は見たことがない(逆に、本書内で引用されている氏直書状では「加勢」がそのまま出てくる)。「合力」ならば「加勢」の言い換えになるだろうけれど。「手たし=手出」は侵攻・攻撃の意ではないか。つまり、家忠が書き留めた内容は、真田が後北条の城を奪ったので後北条が反撃した、ということだ。事実がどうかはともかく、家忠が聞いた風聞はこうだったのだろう。

次いで、名胡桃城を奪われたと真田信幸が徳川家康に報告した書状のこと。

来書披見した。しからば、名胡桃のことはわかった。ついては、そちらの様子は京都の両使(富田一白・津田盛月)がよく存じているので、そのほうから両人へ使者を送って報告するがよかろう。それはそうと、菱喰(ヒシの実を食べるカモ科の冬鳥)一〇が届き、うれしく思っている。なお、くわしくは榊原康政が述べよう。

<中略>

まるでこの件にはかかわりたくない、とでもいいたげな態度を示していたのだ。(167ページ)

と解釈している。だが、私の解釈は異なる。

書状拝見しました。ということで、名胡桃のことはその意を把握しました。そういうことなら、あなたの状況は京都の両使者も知っていますので、すぐ両人にあなたの使者を送ります。きっと披露してくれるでしょう。そしてまたヒシクイ10羽が来ました。嬉しいことです。さらに榊原式部大輔が申し上げるでしょう。

「則彼両人迄其方使者差上候」を、著者は勘違いしている。その主張する解釈をとるならば、後半は「自其方使者可差上候=其の方より使者差し上ぐべく候」となるはずだ。「可」がないのは、既に家康が信幸からの使者を独断で京へ送ったからだろう。その後で信幸に事情を説明したのがこの書状だと思う。また、本書の説明文では、ことさら贈答品の礼を書いて、家康が話を逸らしているかのような印象を与える文章構造になっている。これは、一般読者に対する誤誘導になりかねない。この時代は、切迫した状況でも贈答品の礼はきっちり書くものである点は指摘しておく。

本書はまた、事件以前から名胡桃城は後北条方だったと結論づけているが、この解釈にも疑問がある。

氏直は、「すでに真田が手前へ渡したものなので、奪い合う必要もない」といっている。要するに、北条家は、「沼田城といっしょに名胡桃城も譲渡された」と認識していたのである。(178ページ)

これは冨田左近将監・津田隼人正宛て氏直書状にある「既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候」から推測しているのだが、事件発生時に真田方の城主中山某が後北条氏へ渡したという従来の解釈でも矛盾はない。

氏直は同文書内で、上杉氏が「信州川中嶋ト知行替」として出動したことを訴えており、そうなったら沼田城が危ういので「加勢」した、としている。真田氏と上杉氏の間であれば、川中島と名胡桃との知行替えは想定可能であり、名胡桃城主の中山が上記知行替えを理由に後北条方に帰属した際の証拠が「中山書付」と考えれば文脈上問題がない。

森田氏の主張のように名胡桃が事件前から後北条方だとすると、川中島との知行替えとは何だったのか不明になってしまう。このことについて同書では以下のように曖昧な推測しか提示できていない。

「信濃の川中島と知行替えだと申して越後衆が出勢してきた」というのも、上杉家が川中島の軍勢を右のいずれかのルートで吾妻郡に派遣したものと想像できる。(182~183ページ)

※高村注:「右のいずれかのルート」は、川中島から嬬恋・草津を経て吾妻郡に抜ける経路を指す。

川中島と知行替えとなったのはどこだったのか。この点が判らないと本書の仮説は成り立たないだろう。

また、198ページで北条氏規の11月晦日の書状を1589(天正17)年に比定しているのも疑問だ。下山治久氏の『戦国時代年表後北条氏編』と黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史)』はどちらも、この文書を前年の天正16年に比定している。これは文中で足利のことが触れられている点を考慮してのことだろう。長尾顕長はこの当時後北条氏から離反して攻撃されていた(翌年2月20日には降伏が確認される)。天正16年だとすると、その前の8月に上洛した氏規が引き続き徳川家を通じて交渉を継続している時期でもあって、彼が家康との外交を担っているのも自然である。

ちなみにこの文書を1589(天正17)年としているのは『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで』(平山優・著)と小田原市史であるが、それが定説となっているかは疑問(どちらも「足利」への言及はない)。

※本書末尾の参考文献では『戦国時代年表後北条氏編』も『小田原合戦と北条氏』も含まれておらず、この点疑問に思った。どちらも非常に重要な書籍であると私は考えている。何か理由があるのだろうか。

氏直が家康に対して事情を陳弁した書状についても、本書は解釈を誤っている。

「上洛遅延のこと御状にありましたが、約束を違えた覚えはありません。十二月上洛の予定を一月、二月に移したというのならば、そうともいえましょうが」(194ページ)

上洛遅延之由、被露御状候、無曲存候、当月之儀、正、二月にも相移候者尤候歟

この原文を私は以下のように解釈した。

上洛遅延のことを披露したお手紙。つまらないことです。当月のこと、1月・2月にも移せばよいものではありませんか。

「無曲」は「つまらない・面白くない」という意味で使われる。これを「約束を違えた覚えはない」とする根拠はない。「相移候者尤候歟」は、「相移」が「移す」で「候者=そうらえば」は「であれば・ならば」、「尤」は現代語でいう「ごもっとも」と同じでよいだろう。「歟」は疑問形を表わす。ここで懸案となるのが「尤」の扱いで、この部分だけさらに抽出して意味を出すと以下のように違いが出る。

  • 高村解釈:1月でも2月でも移してしまうのが「尤」なことだ
  • 森田氏解釈:1月や2月に移したとしたら上洛遅延と言われるのも「尤」なことだ。

どちらも文脈上可能な解釈ではあるが、陳弁という状況を考えるとどうだろう。「上洛が遅れたじゃないか、12月に来ると言っただろう」と怒っている相手がいて、その仲介者に向かって「2月」をわざわざ言及するだろうか。森田氏の解釈に従うならば「そもそも約束は1月だった」と真っ先に言うのではないか。

更に補足すると、「~というのならば」としているのに原文には仮定を示す「若」がない点、「歟」を「が」としているがその実例はない点からも、著者の解釈は不自然である。

加えて氏直が弁明した冨田左近将監・津田隼人正宛て書状の全貌を正しく開示していない。氏直は「安心して上洛できない」という点を書状の初めに強く訴え、家康の折には秀吉は人質を出したのにと引き合いに出して地位向上を狙っている。家康宛書状でも、安心して上洛させてほしいと強く訴えている。氏直の弁明2文書は極めて重要なので、全文を詳細に検討し掲載すべきではないだろうか。

もう1点見逃せないのが、佐々成政が羽柴秀吉に攻められた際の記述。

信雄をとおしておこなわれた和睦交渉は、「誓紙も人質も受け取っていない」という、ほとんどいいがかりに近い、手続き上の不備を理由に退けられたのである。(205ページ)

これはさすがに解釈・仮説の問題ではないと思う。難航した相越同盟の紆余曲折を考えると、起請文・人質は外交上重要な要素だろう。軍事力で圧倒的な優位にある秀吉に対して、何も提出せずに「攻めないでほしい」と依頼するのは、むしろ成政の方が無茶に思える。この点も、古文書を直接見る機会のない読者に誤解を植えつけることになるだろう。

ここに挙げた部分に関連しない記述では、猪俣邦憲の実像をきちんと描いたり、徳川家との同盟関係を判り易くなぞったりしており、史料を丁寧に解釈している。ただ、冒頭で既に述べたことだが、今回細かく取り上げた恣意的解釈、考え違いが論旨の基点をぶれさせ、結果として史料を省みない強引な後北条擁護論になっている。

名胡桃城の問題は、更に考えるところがあるので、この後に詳細に検討してみる。

就両国之不和、今度御出馬之処ニ、早々出仕被申候、必進退相当之望可申上候、可相調候、猶帯金可申越候、恐々謹言、

十二月七日

 信君(花押)

惣左街門殿

助兵衛尉殿

六郎左衛門尉殿

清三郎殿

兵衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2199「穴山信君書状」(芝川町・佐野家文書)

永禄11年に比定。

両国の不和について、この度ご出馬したところ、早々出仕なさいました。必ずや進退に相当する望みを申し上げるよう、調整をいたしましょう。さらに帯金が申し越します。

[印文「幸菊」ヵ]れうしよさゝまの郷かミかうち村の内ニをひて、ほうそうゐんれう壱貫八百文地の事

右、龍雲寺殿ゐんはんの旨ニまかせて領掌也、小庵再興、れうん寺まつ寺として、しゆりつとめ、以下たいまんなきうへハ、けん地そうふんのさたなく、代官のいろひをちやうしし、なかく院務たるへき事、相違あるへからさるなり、仍如件、

ゑいろく十一年つちのへたつ

霜月十一日

峯臾院

→戦国遺文 今川氏編2194「早川殿朱印状」(島田市川根町笹間・下岡埜谷氏所蔵峰叟院文書)

 料所である笹間の郷、上河内村の内において、峰叟院領1貫800文の地のこと。右は、龍雲寺殿印判の趣旨に添って統治せよ。小庵の再興は、龍雲寺末寺として修理に努め、以下怠慢がない上は、検地で増分しても徴税措置はしない。代官の搾取を取りやめさせ、末永く院務となることは、相違があってはならない。

近世(江戸時代)のドラマで現代人はよく知っているかも知れない。任侠で仁義を切る台詞に「手前、生国は相模でござんす……」というものがある。また、商人が自称として「手前ども」という。

では、具体的に戦国期の人々は「手前」をどう使っていたのか。

現時点で「手前」を含む文書は13例。それぞれの意味から5つのグループに分けてみた。

●手近(対象に近い空間)
必ゝ手前計之備候者→手近な備えばかりを優先するならば
一間之内にて人ゝ之手前各別候者→1間のうちでそれぞれの作業範囲が別だと
猶以手前堅固之備→さらに手元を堅固に備え
於新太郎手前致討死候→新太郎の前で討ち死にしました
上意於御手前数度被及御一戦候→上意にてお手前で数度合戦に及び
或年貢を百姓ニ不為計而手前にて相計→あるいは年貢を百姓に計量させず手元で量り

●手元(懐具合)
彼替従其方手前可出由御心得被成候→その替地をあなたの手元より拠出するべきだとしているとのこと
就拙者手前不罷成→私のやり繰りがまかりならなかった件で
但当乱令味方者共、手前之儀者→但しこの反乱で味方した者たちの手元は

●身の回り(目先のこと)
手前之事候間→身の回りことに追われ
此度感状可遣候へ共、手前取乱間→この度感状を出そうと思いましたが、身の回りが取り乱した状態なので

●立場への配慮(~の手前・現代語に近い)
殿様御手前相違申候ハぬやうニ→殿様のお手前相違のないように

●第一人称(近世よく用いられる、謙譲を交えた自称か)
既真田手前へ相渡申候間→既に真田がこちらへ渡していると申していますので

●「手」を略したと思われる例(ほぼ資金拠出に関連)
倉賀野淡路守前より可請取之
都筑前より可出
藤源左衛門代前より可請取之者也
駿州衆各守氏真前

 最も多いのが、手近(対象に近い空間)となる。また、身の回り(目先のこと)もほぼ同じ意味である。合わせて8例。次に手元(懐具合)は3例。現代語では「手元不如意」という言い方で生き残っている。現代語でよく用いられるのは「~の手前」という立場への配慮という意味だろう。この時代では稀な用例だったのか、1点しか検出できていない。

 第一人称の「手前」は1例だが、『既真田手前へ相渡申候間』も、よくよく考えてみると「手近な」という意味で通るような気もする。そこでさらに、『時代別国語大辞典 室町時代編』(以下時代別辞典)で「手前」を引いてみると以下のようになっていた。

【てまへ】

<名詞>

1 その人の手の届く範囲にあるすぐ前のところの意で、他ならぬその人自身の、もと、ところであること、また、その人自身が当面する状況や事情を問題としていう。

2 特に、その人自身の内内の経済状態を取上げていう。

3 その人自身の裁量でなされるところ。また、あることが、その人自身の自由裁量にあることをいう。

4 特に、茶道で、その人が親しく茶を点ててふるまうこと。転じて、茶の点て方、その作法、をいう。

<代名詞>

1 自分のほうの意でややへりくだっていう一人称。わたくしども。

2 対等、あるいは、目下に対して、親しみをこめていう二人称。

 念のため「前」も引いてみたところ、意味の3番目にあった項目が、「手前」の名詞1・3と似ていることに気づいた。

【まへ】

3 その人の目の及ぶところ、自らの立場で責任を果たしうる領域・立場、の意を表わす。

 つまり、対象者の能動範囲という具体的な空間指定、対象者の組織内立場・建前という抽象的な帰属指定については、「手前」でも「前」でも構わないという仮説が成り立つ。

 さらに進んで、邦訳日葡辞典を直接引いてみた。

【Temaye】

ある人に属していること。または、関係していること。または、人のなす仕事。

 ここでは、時代別辞典にある代名詞の意味が入っていない。たまたま書き漏らしたか、人称代名詞として用いられるのが稀だったかだろう。日葡辞典は戦国期そのままの様相を伝えているだろうから、やはり個人的に人称があったかは疑問に感じる。

 そこで、次回改めて『既真田手前へ相渡申候間』が「人称代名詞でなければどうか?」を検証してみようと思う。

過書銭之儀、当■殊外上之由申条、三人前急度可納所、塩荷被留候条、只今まて上候荷物之儀可納所、為其小者秋若遣者也、仍如件、

永禄十年卯

[印文「萬歳」Ⅲ型]八月十七日

鈴木若狭守■

武藤新左衛門尉殿

芹澤玄蕃允殿

→戦国遺文今川氏編2141「葛山氏元朱印状」(御殿場市萩原・芹沢文書)

 過所銭のこと。この(月?)は殊の外上ることが多いと申請がありましたので、三人の分を急ぎ納めるように。塩荷が留められているので、現時点での上り荷物の件を納めるように。そのために秋若を派遣する。

飛札令披閲候、氏政上洛延引之儀、内証被申聞、喜悦之至ニ候、秀吉心底難量候上者、於氏政可為隔意候歟、猶期後慶時候、恐ゝ頓首、

十二月八日

氏直(花押)

前田源六郎殿 御宿所

→小田原市史1985「北条氏直書状写」(古文状)

1589(天正17)年に比定。

急ぎのお手紙拝見しました。氏政上洛延引のこと、内密で聞かせていただき、喜ばしい至りです。秀吉の心底は量りがたい上は、氏政において隔意があったのでしょうか。さらなる続報を期待しています。

雖思慮不浅、馳愚札候、抑駿・甲・相更不離御間ニ候処、無意趣茂、以国競望之一理、今般自甲駿州へ乱入候、然ニ当方江之表向者、駿・越申合、信玄滅亡之企被取成候、此処慥承届之間、此度及手切之由、自甲被申越候、然則貴国へ内通故歟、今川殿御滅亡無是非候、如此之上者、無二当方御一味所仰、氏康父子心中雖不存知候、駿・甲両国如此成来候上者、何歟も不入候之条、愚存申達候、願ハ御同意、可被散累年之御鬱憤事、此節ニ候、恐々謹言、

十二月十九日

平氏照(花押)

[奥部切断]

→戦国遺文 今川氏編2208「北条氏照書状」(志賀槇太郎氏所蔵文書)

永禄11年に比定。

 考えなしという訳ではありませんが、愚かな手紙を送ります。そもそも、駿河・甲斐・相模はさらに離れることのないご関係だったところ、特別な理由もなく、国を奪いたいという理由で今般甲斐より駿河へ乱入しました。そして、こちらへの表向きとしては「駿河が越後と申し合わせ、信玄滅亡の企てを取り成されました。ここに確かに聞き届けたため、この度の手切れに及んだ」とのことを甲斐より通達してきました。そうならば貴国へ内通したためでしょうか。今川殿のご滅亡は是非もないことです。このようになった上は、とにかくこちらへお味方するとの仰せになるところ、氏康父子の心中は知りがたいとはいえ、駿河・甲斐の両国がこのようになった上は、何かが割って入ることもないでしょうから、私の一存で申し上げます。願わくばご同意を。累年の鬱憤をお晴らしになられるのはこの時です。