去秋不入斎為指上候以来様子、無心元候条、近日以客僧可申述旨候処ニ、不入所ヨリ去月十一日之書状昨十三到来、乍■■自其元京都江御使節指副、別而御馳走之義共申越候、殊年中可為御上洛候哉、弥当国之義、可然之様ニ御執成任入申候、会津間之義者、先立以墨付為申登候、条ゝ一点世間ニ不可有其隠候条、重而不及申述候、何辺憑入申候、会之義、自兼日執成之族可有之候間、不慮之表裏難計候、不可過御塩味、是次北条氏直江御入魂之上、沼田・我妻之地可被付置之由、風聞之処ニ、于今北条疑心之由其聞候、時宜如何、御床布候、書余期後音候、恐ゝ謹言、
極月十四日
 政宗(花押)
羽柴筑前守殿

→神奈川県史 資料編9419「伊達政宗書状」(島田耕作氏所蔵文書)

天正16年に比定。「難」は異体字〓[匚+口]

 去る秋に不入斎(遠藤基信か)を差し上らせて以来の状況ですが、不安に思っていますので、近日客僧を使って申し上げようと思っていたところに、不入斎より去る月11日の書状が昨日13日に到来しました。あなたから今日へご使節を指し添えて、特別に奔走いただくことを申し出ていただきました。特に、年内にご上洛するのでしょうか。当国のことはますます、しかるべきようにお取り成しをお願いします。会津の間のことは、まずはお墨付きをもらって上洛します。条々の1点は世間にその隠れがあってはなりませんので、重ねてご説明するには及びません。どうぞお願いします。会津のことは、兼ねてより取り成すといっている者がおりますので、思いがけない裏切りも計りがたいのです。ご考慮が過ぎるということはありません。これに次いで、北条氏直へご昵懇になった上、沼田・吾妻の地を与えられるだろうとのこと、風聞があるところに、今になって北条が疑心を抱いているということが聞こえてきました。どうなっていますか。気になっています。書き残したことは後の便を期します。

御出陣之由風聞、依之以使申達候、具御返答可為本望候、仍腹巻一領[惣毛紺]、甲一刎[同毛]、進之候、猶令附與月斎口上候、恐ゝ謹言、
正月十七日
 氏直(花押)
伊達殿

→神奈川県史 資料編9564「北条氏直書状」(伊達文書)

天正18年に比定。

 御出陣との風聞で、これによって使者を送って申し上げます。詳しくご返答いただければ本望です。さて腹巻1領(総毛紺)、兜1刎(同色)を進呈します。さらに付け加えて月斎(田村月斎か)が口上を申します。

節々音問祝着候、如露先書候徳一色落居、元来堅固之地利ニ候之間、不及普請、本城三枝土佐守二三之曲輪、朝比奈駿河守・同名筑前守在城、去十五日清水之津江移陣築地利、岡部豊前守以下海賊衆差置、今日納馬候、佐久郡衆者其表之備ニ候之条、昨日帰国、先以可御心易候、抑八十日在滞、敵城五ケ所責落候之処、小田原衆一騎一人不萌、誠弱兵不可過狭量候、恐々謹言、
二月廿二日
 信玄(花押)
高山大和守殿

→戦国遺文 今川氏編2445「武田晴信書状」(群馬県・高山吉重氏所蔵文書)

永禄13年に比定。

 折々にご連絡をいただき祝着です。先の手紙でお書きしましたように、徳一色が陥落しました。元々堅固な地形だったので普請に及ばず、本城に三枝土佐守、2~3の曲輪に朝比奈駿河守・筑前守が在城しました。去る15日に清水の津へ陣を移して地利を築き、岡部豊前守以下の海賊衆に差し置き、今日馬を納めました。佐久郡の衆はその方面の防備をしていますから、昨日帰国しました。まずはご安心下さい。そもそも80日滞在し、敵の城5箇所を攻め落としたところ、小田原衆は1騎・1人も見えず、本当に弱兵で狭量であることはこれ以上ありません。

[懸紙ウワ書]「伊達左京大夫殿 人々御中
  施薬院 全宗」
其以後者無差儀候之条、致無音候処、道有罷下間令啓上候、京都弥属静謐、九州諸大名在洛候、東国之儀も無事罷成、北条美濃守今度被上洛、御礼被申上候、然者貴殿之儀、其許御隙もあき候ハゝ、不計御上洛奉待候、道有可有相談候条、令省略候、恐惶謹言、
九月十三日
 全宗(花押)
伊達左京大夫殿 人々御中

→小田原市史 中世I 721「全宗書状」(仙台市博物館所蔵・伊達家文書)

天正16年に比定。

 それ以後は指したることもなかったので、ご無沙汰しておりましたところ、道有が下るということでご連絡をいただきました。京都がますます静謐になり、九州の諸大名は上洛しています。東国のことも開戦とならず、北条氏規がこの度上洛なさり、お礼を申し上げられます。ということで貴殿のこと、そちらで時間が取れれば、図らずのご上洛をお待ちいたしております。道有がご説明しますので、省略いたします。

尚ゝ、勅作薫物十貝・照布一端令進之候、表祝儀計候、
御札殊臘燭一折、御懇情祝着仕候、随而従切流斎尊書并両種拝受候、忝存候、可然様御取成奉憑候、不計御上洛待入候、猶笠越可被申展候条、令省略候、恐惶謹言、
二月廿五日
 全宗(花押)
北条美濃守殿 御返報

→小田原市史 中世I 710「全宗書状」(韮山町・堀江文書)

天正16年、もしくは17年に比定。

 ご書状、特に蝋燭1折は、親しいお気持ちで祝着に思います。それに従って截流斎(氏政)より尊書と両種を拝受しました。かたじけないと思います。しかるべくお取り成しをお頼みいたします。図らずのご上洛をお待ちしております。さらに笠原康明がご説明するでしょうから、省かせていただきます。
 追記:勅作の薫き物10貝・照布1反をお送りします。形ばかりの祝儀です。

[懸紙上書]「大藤與七殿 自小田原」
四日之註進状披見、喜瀬川表遠候を出、敵討捕候、心地好仕合肝要候、高名之者ニ感状遣候、謹言、
三月六日
 氏直(花押)
大藤與七殿

→戦国遺文 後北条氏編3672「北条氏直書状」(大藤文書)

天正18年に比定。

 4日の報告書を拝見しました。黄瀬川方面に偵察を出し、敵を討ち取りました。心地よい成果で重要なことです。高名を挙げた者に感状を出します。

至息誾千代譲状之趣、銘々令披見、以袖判申候、殊当城置物等、堅固被申与候次第、乍案中感心候、親類・家中衆被申諌、向後其堺弥静謐之調儀肝要候、猶重々可申候、恐々謹言、
六月十八日
 義統(花押)
 宗麟(朱印)
麟白軒

→北九州戦国史史料集下巻801「大友義統・宗麟連署書状」(大友宗麟資料集・立花文書)

天正3年に比定。

 子息誾千代への譲状の内容、一つ一つ披見し、袖判を記します。特にこの城の備品などを手堅く言及している次第は、思った通りですが感心しました。親類・家中衆が諌言して、今後もこの境界をますます静謐に調整することが大切です。さらに重ねて申しましょう。

立花城家督之事、道雪於無男子者鎮連兄弟之内、以分別可被申与之由承候、尤肝要候、連々如申候、当城之事、其堺覚候之条、倍堅固之格護、不及申候、然者向後、右之内一人登城之儀可為若輩候歟、成人之間者、鎮連同前令在城勤番可然之段、兼日能々御入魂専一候、此由至鎮連モ以状申候、可被得其意候、恐々謹言、
五月十日
 義統(花押)
 宗麟(朱印)
戸次伯耆入道殿

→北九州戦国史史料集下巻797「大友義統・宗麟連署書状」(大友宗麟資料集・立花文書)

天正3年に比定。

 立花城の家督のこと。道雪に男子がないので鎮連兄弟のうちから、検討して決めるだろうとのこと聞きました。ごもっともで大切なことです。いつも申しているように、この城のことは、その境界は注視しているところですから、倍して手堅く覚悟することは申すまでもありません。ということで今後は、右のうち1人が登城するとして、若輩ということでしょうか。成人までの間は鎮連が同行して在城し番を勤めるのは当然ですから、兼ねてからよくよくご昵懇となるのが専ら大切です。このことを鎮連にも書状で申します。その意を得ますように。

何比御帰候哉、我ゝ者、與風罷帰候、其時分迄者、御帰之沙汰不承候キ、先日者、自小田原御札、殊船之 御印判調候而、我等迄満足ニ候、態是又御札、殊ニ初物給候、則致賞味候、然者御世上強敷候而、咲止ニ候、我ゝ罷帰砌者、以之外之様ニ候つる、近日者如何候哉、静ニ候、乍去自京都津田・富田と申人、于今沼津ニ有之由申候、石巻方をハ城中ニ小者一人ニ而指置、莵ニ角ニ是非者、来春と存候、此度以御使如去年証人之義、各ヘ被 仰付候間、其趣一両日已前申届候、御使衆へも具ニ申分候、併御国なミ人次之所、無了簡候、扨又籠城之支度、早ゝ可有之候、万吉重而可申候、恐々謹言、
極月十八日
 上野 康英(花押)
高橋丹波守殿 参

→戦国遺文後北条氏編3578「清水康英書状」(高橋文書)

天正17年に比定。花押後筆の可能性あり。

 いつ頃お帰りになりましたか。私達はふと思い立って帰りました。その頃まだお帰りになるとは聞いておりませんでした。先日は小田原よりお手紙をいただき、特に船のご印判をご用意いただいて、私も満足でした。わざわざこれまたお手紙で初物をいただきました。すぐに賞味いたしました。ということでご世情が不穏になってきて、残念なことです。私達が帰る際には、もってのほかの状況でした。近頃はいかがでしょうか、静かなものです。ではありますが、津田・富田という人が京より沼津に今来たといいます。石巻方を城中に小者1人で差し置いています。とにもかくにも、是非は来春と思われます。今回は去年と同じように、使者を送って人質を集められますので、その旨を一両日以前に申し届けます。お使いの衆へも詳しく説明をします。そしてご分国一斉に全ての人とのことで、了見がありません。さて、また籠城の準備を早々にお願いします。色々とまた申します。

いつくしまおもての事、もうきすいりやう候、こなた心中とうせんに候、しせんよきちうしんもあるへく候やとまち入、いかかに候、なをたんこの守申へく、かしく、
十月三日
 よし長(花押)
おこう まいるへく候

→豊前市史「大内義長書状」(西郷文書)

1555(天文24)年に比定。

 厳島方面のこと、蒙気推量したあなたの気持ちは当然のことです。万が一でも良い報告があるかも知れないでしょうから、お待ちになってはいかがでしょうか。さらに丹後守が申すでしょう。