三河国の大給城に拠点を置いた大給松平氏が、今川氏にどのように扱われていたかを史料から考察する。まず、永正期に伊勢宗瑞指揮下、信濃国小笠原氏と共同で行なった遠江・三河遠征に関係するものを挙げる。
A:1516(永正13)年8月5日 今川氏親書状写
奥平貞昌に、上野城への通路確保として細川に城を用意することを提案
細川は後に大給松平氏が関与する。遠江国から奥三河を経由して矢作川流域確保を考えると、細川の拠点確保は重要だったと思われる。
B:1552(天文21)年6月3日 今川義元感状
松平甚太郎が5月26日、大給城北沢の水源地で敵を討ち取ったことを賞す
C:1556(弘治2)年2月29日 今川義元感状
今川義元、天野小四郎が1555(弘治元)年9月14日に大給・山中筋で平五屋敷攻撃で活躍したことを賞す
大給城が今川方かの判別は難しいものの、今川方が係争に関与している。また、松平甚太郎が今川方であったことから松平一族の関与も判明する。1556(弘治2)年以前の少なくとも6年間は、大給城は政情が不安定だったようだ。天野氏敗退時に、松井宗信が救援した記述(氏真書状)があるため、激しい実戦もあったようだ。
D:1557(弘治3)年?7月22日 由比光綱・朝比奈親徳連署状
朝比奈親徳と由比光綱、良知善に駿府の状況を知らせる。親乗が吉田の人質である息子を奪還するのではないかと警告する
E:1557(弘治3)年?8月9日 松平親乗書状
松平和泉守、田嶋新左衛門尉に情報を与えて指示を下す。吉田の竹千代への心遣いに感謝し、訴訟の進展を伝える。
1557(弘治3)年の7月から8月にかけて、大給城主として松平親乗が登場する。彼は吉田に息子を人質として預けて、裁判のため駿府に滞在する。留守中の城内は、良知善左衛門指揮下の田嶋新左衛門が仕切っている。建前上で新左衛門は親乗に伺いを立てているものの、実際は占領に近かったのではないか。というのは、別書状で由比光綱・朝比奈親徳は親乗離反を疑っており、監視の目は細かく行き届いていた。
以上より、大給松平親乗は自身・子息・城をとられた状態で、留守も今川氏家臣に委ねなければならない状況にあった。
但し、「和泉方も軈而可被罷上候」(親乗もすぐにそちらに向かわれるでしょう)という文言もあり、親乗が大給城にいれば戦闘力が上がるという面は今川氏も完全に否定できなかったようである。大給城は依然として安定しておらず、本音では否定したい親乗の影響力に期待するという矛盾した状況にあった。
[…] 検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合 検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合 […]