今日6月28日は、旧暦5月25日に当たる。この日は氏真が天野景泰に宛てて、緊急事態を告げている(今川氏真書状)。
 天野景泰はどこかの城を守備していたようで、堅固に守ったことを賞されているから、臨戦体制にあったのではないか。彼は岩小屋城番を勤めた経緯があるので、奥三河の前線基地武節(豊田市武節町)ではないかと思う。どちらにせよ鳴海原からは直線距離で50キロメートル以上あるので、天野景泰が鳴海原合戦に直接の影響を与えたことはないと判断できる。
 すぐに出馬することを告げつつ、詳しくは三浦正俊が報告すると書いている。22日付けの松井山城守宛と同じ段取りなのだろう。
 合戦後6日の時点では、氏真は事態収拾のため三河国に出馬する予定だった。実際に三河まで行ったかは別途検証が必要だろうが、義元敗死後すぐの氏真政権は三河への軍事進出を重視していた点は改めて考慮すべきだと思う。

 6月25日は旧暦5月22日に当たる。この日、氏真側近の三浦正俊によって初めて鳴海原合戦が語られた(三浦正俊書状写)。ここでは「不慮の巡り合わせ」としてのみ記され、松井左衛門佐(宗信)が奮戦して行方不明になったと語られている。
 三浦正俊は、今川義元書状写によれば、まだ竜王丸と名乗っていた段階から氏真の守役筆頭であり、義元敗死直前の4月24日には丸子宿への伝馬規則確認書で氏真から確認担当者として名指しされている人物。
 この動きは突発的・私的なものではなく、2年前から始動している氏真政権が、この状況に正式対応を始めたと考えてよいだろう。正俊は「被思食御感候、就其被成御書候」と書いていることから、氏真がこれに先行して書状を発行していており、正俊が氏真書状を中継する際に添え状として本文書を書いたようだ。
 宛所の松井山城守は、左衛門佐の父貞宗であり、集められる人質として貞宗の妻(宗信妻の可能性もあり)が指名されている。
 義元・宗信ともにこの時点では死去しているが、今川方はまだ把握していないか、公にしていない。状況は混沌としている……。

 1560年の旧暦(宣命暦)5月19日は、新暦(グレゴリオ暦)で6月22日となる。ちょうど450年前のこの日、今川義元が尾張国鳴海原で敗死した。当日付けで合戦の模様を語った史料はない。その詳細は、この後最初の一報が発せられる日のエントリーに譲ることとしよう。
 ちなみに、これに先立つ6月11日は旧暦で5月8日に当たり、義元・氏真任官が下された日である。この任官を氏真は終生認めなかったという謎はあるものの、義元はこの日程を織り込んで尾張方面に出撃しようとしていたことは間違いないと思う。
 一方で、この年は空梅雨で、旧暦6月(新暦7月中旬)に入るまで日照りの様相を呈していた。とはいえ田植えの日限である半夏生は5月29日に迫っており、封鎖されたままの大高城を開放しなければ、敵方に対して大幅な妥協を強いられることとなる。この苦境を脱するための決意が義元の死につながっていたのではないか。
 以後、旧暦に合わせて織田・今川方の動きをタイムリーにエントリーする。旧暦の感覚がほぼなくなった現代ではこの確認作業も何らかの参考になると期待する。
※旧暦の設定は1560年に準ずる。2010年では旧暦5月19日が新暦6月30日になるなど、旧暦は閏月を含むために大きく日程がずれる。このため、1560(永禄3)年に合わせることとした。

(切紙)

芳札祝着候、まつゝゝ相州之儀、数年つゝかなきところに、馬をよせられ、剰小田原之地ことゝゝく放火のよし、前代未聞、申へきやうもこれなき名誉まてにて候、然者、馬をたてられ、此刻あいはたさるへきよし候へとも、各断而異見申につき、まつ帰陣のよし、尤にそんし候、去年已来長陣の事にて候へハ、国をゝさめ、たミをたすけらるゝ分別、文武二道とはゝかりなから存候、将又名のり氏あらためられ候て可然よし、諸人申につき、しん酌なからとうしんのよし、近比ゝゝ珍重候、さらにしん酌あるへき事にて候ハす候、ことに去ゝ年在京之折ふし、知恩寺をもつて進之候つる大樹御自筆之文、我等ニたいせられ候文言ニ候うへ、まして関東八州之職之事、公儀成下候時者、如何としてとかく巨難あるへき事候哉、たといその儀なく候とも、りうんにて候、しかれハつるかをかの若宮へ社参のよし、いよゝゝ武運長久のもといと、千秋万聲目出度候、つきニ、かいちんの事、とくうけ給候ハゝ、せめて一日路もむかひに可参候へ共、にわかニうけ給候まゝ、中途までまいり候、猶御けんさんの時、くハしく可申候、返ゝ今度之義、条ゝひるいなく候、京都いらいの首尾、ことゝゝくあひ候て、きとくまてにて候、うちやすにてもたまらさる事、無是非候、ことニはたもとしつはらい候へ共、その心さしもなきよし、さやうあるへく候、猶知恩寺可有演説候、返ゝゝ、氏あらためられ候事、珍重候、殊ニ藤氏の事に候へハ、我等まて大慶候、かしく、

(切封墨引)

上杉殿

 前嗣

→神奈川県史 資料編3「近衛前嗣書状」(上杉文書)

 お手紙祝着です。まずまず、相模国のことは、数年平穏だった土地に攻め入り、あまつさえ小田原の地をことごとく放火されたとのこと。前代未聞で、言葉にならない名誉です。ということで、馬を立てられて、この際決着を付けるべきだとなりましたが、それぞれが強く意見を言ったので、まずは帰陣とのこと。ごもっともに思います。去年以来の長陣のことですから、国を治めて民を助けられる分別は文武両道と、憚りながら思います。そしてまた、名乗りと氏を改められてはと諸人が言うので、遠慮しながらお受けになったとのこと、近頃では珍しく貴重なことです。遠慮なさるようなことではありません。特に一昨年在京の折に、知恩寺をもって進呈した将軍ご自筆の書状、私に対しての文言である上に、ましてや関東八州の職のことを公儀が指示したのですから、どうして巨難がありましょうか。たとえそうでなくとも、理運ということです。ということで鶴岡の若宮へ参拝とのこと、いよいよ武運長久の元で、千秋万歳おめでとうございます。次に、開陣のこと。早くに伺っていれば、せめて1日分でもそちらに迎えに行きましたが、急にお聞きしたので、中途まで参ります。さらにご見参の時に詳しく申しましょう。返す返すもこの度のこと、一つ一つが比類のないことです。京都以来の首尾が悉く合致して、奇跡のようです。氏康にしても堪らないだろうことは是非もありません。特に旗本に殿軍を命じても、その志もないとのことで、そのようになるものでしょう。さらに知恩寺が申します。返す返すも、氏を改められたことは、珍しく貴重なことです。殊に藤氏のことですから、私も大慶に思います。

 1561(永禄4)年での記述が不足していたため、織田方禁制と氏真感状を追記した。特に織田方禁制3件は尾張を中心に広範に及ぶもので、注目が必要だろう。
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 表題の通り、これまで集めた史料を元に大幅に加筆を行なった。1543(天文12)年から1567(永禄10)年までの史料を集め、三河を巡る織田・今川氏とその関係者の動向を中心に列記してある。
 その史料の大半は今川氏の関係者によるものだが、これは恣意的に選別したのではなく、織田氏関係の史料が手元になかったことによる。典拠は歴史記事の出典にあるが、この他にご存知の向きがあれば是非情報をお寄せいただきたい。
 なお、時系列の見直しで、検証a21:小豆坂合戦の趨勢内の記事を改変した。大村弥三郎が田原を攻撃していたのは1547(天文16)年までであり、義元感状で「至于当年二ヶ年詰陣、昼夜用心敵城不虞之働」としているのは別の拠点であり、恐らく医王山砦だと考えられるためである。

[印分「如律令」]

当手軍勢甲乙人乱暴狼藉之事、堅令停止之訖、若於違犯之輩、可処厳科者也、仍如件、

天文十五[丙午]

 六月十五日

長興寺

龍門寺

伝法寺

→「今川義元朱印状」(田原市大久保・長興寺文書)

 当方の軍勢・軍属が暴行することは、堅く停止している。もし違反する輩は厳しく罰するであろう。

(今川義元花押)
禁制

一 軍勢甲乙人等濫妨狼籍之事

一 寺内山林竹木截取事

一 軍勢寺中陣取并号見物出入之事

 右、於背此旨輩者、速可加成敗者也、仍如件、

天文十二年十月十五日

小松原山

 東観音寺

→「今川義元禁制」(豊橋市小松原町・東観音寺文書)

 一、軍勢と軍属などが暴行すること。
 一、寺内の山林・竹木を伐採すること。
 一、軍勢が寺の中に陣取ったり、見物するといって出入りすること。
 右に背く輩は速やかに成敗を加えるものである。

今度三州今橋之城小口取寄之時、了念寺へ可相移之由成下知候之処、不及異儀■前馳合堅固相踏之旨、忠功之至感悦也、今月十■日辰剋、同城外構乗崩之刻、不暁ニ宿城江乗入、自身■粉骨、殊同名親類被官以下蒙疵、頸七討捕之条、各別紙遺感状也、誠以度々軍功神妙之至也、弥可抽忠勲之状如件、

十一月廿五日

義元(花押)

天野安芸守殿

→愛知県史 資料編10「今川義元感状」(天野文書)

1546(天文15)年に比定。

 この度三河国今橋の城虎口に攻め寄せた際、了念寺へ移動するよう指示が下り、異議を唱えず前線に出て手堅く踏み止まった旨は忠功の至りで感悦である。今月15日04時に同城の外郭を突破する際も、払暁前に宿城へ乗り入れて自ら骨を折り、特に同姓・親類・被官皆が負傷しつつ、首級7つを討ち取ったことは、それぞれ別紙で感状として発行している。度々の軍功は本当に神妙の至りである。ますます忠勲にぬきんでるように。

(封紙ウワ書)
「松井左近尉とのへ」
(端書)
「(切封墨引)」

今度甚二郎逆心之儀訴出之旨、忠節之至也、然者松平甚大郎為同心可令奉公也、仍如件、

十二月十一日

義元(花押)

松井左近尉とのへ

→愛知県史 資料編10「今川義元判物」(観泉寺文書)

1551(天文20)年に比定。

 この度甚二郎が逆心を構えたことを訴え出た旨は、忠節の至りである。ということで、松平甚太郎の同心として奉公するように。