当城江令供相越趣、無比類之処ニ、相州■■可走廻由、弥以感悦也、猶以不準自余■引立召使可申候、仍如件、

正月十五日

 氏真(花押)

四宮惣右衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編2249「今川氏真感状」(第七回錦糸町西武大古本市出品文書)

花押形より永禄12年に比定。

 当城へ共をして移ってきたのは比類がないことであるところに、相模国(へ使者を務める?)活躍するとのこと、ますますもって感悦である。なおもって他とは違って引き立てて使っていくだろう。

懸川此時ニ候、早々被相移彼国之模様聞届、如何様ニも早々可被成候、其方之一左右聞届可令出勢候、恐々謹言、

卯月廿八日

 氏政判

岡部和泉守殿

→戦国遺文 今川氏編2358「北条氏政書状写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編七)

永禄12年に比定。

 掛川はまさにこの時です。早々に移動してあの国の状況を調査して、可能な限り早くなさいますように。あなたの報告を聞いて出撃をするでしょう。

今度就錯乱、自最前当城為音信相越、殊山中方々走舞令忠節之条、甚以怡悦之至也、為其賞久野脇郷、為新知行所出置也、若雖有競望之輩、今度依忠節宛行上者、一切不可許容、守此旨、弥可抽奉公者也、依如件、

永禄十二[己巳]年 三月廿七日

上総介判

鈴木源六殿

→戦国遺文 今川氏編2326「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎所持文書)

この度の錯乱について、最前より当城が相模・越後に連絡をなし、特に山中に方々が奔走して忠節をなさいましたので、本当に嬉しい限りである。その恩賞として久野脇郷を、新知行として拠出する。もし競望のやからがあったとしても、この度の忠節によって宛て行なった上は、一切許容しない。この旨を守り、ますます奉公にぬきんでるように。

正月十八日於遊野地、敵壱人討捕由、誠高名之至候、氏真御本意之上、御感候様ニ可申立候、仍如件、

永禄十二年[己巳] 三月廿三日

 氏政(花押)

鈴木助一殿

[包紙ウハ書]「鈴木助一殿」

→戦国遺文 今川氏編2321「北条氏政感状写」(静嘉堂本集古文書タ)

 1月18日に遊野の地において、敵1人を討ち取ったとのこと。本当に高名の至りです。氏真がご本意の上は、ご感をいただけるように申し立てるでしょう。

『戦国遺文 今川氏編』の完結で、鳴海原合戦関係の史料は網羅できたと考えていたのだが……そういう矢先に新展開があった。

コメント欄にお邪魔したことのあるブログ『国家鮟鱇』さんでYOMIURI ONLINEの記事「信長の父「三河を支配」…中京大教授が新説」を知った。

『愛知県史 資料編14』所収の「菩提心院日覚書状」が論拠だという。そういえば年明けに刊行案内が来ていた。その際は「補遺だったら何れ図書館で見て押さえればいい」と甘く見ていた。

資料編14の発売は4月だったので、国会図書館・都立中央図書館で蔵書検索をかけたものの……ない。先日も弘中隆包の「遺言めいた書状」を探しに国会図書館に行ったものの、『大日本古文書 家わけ第二十二 益田家文書之三』がなかった。都立中央にはあるけれど、そこまで足を伸ばす余裕が今はない。

現在版元の愛知県県史編纂室へ購入申し込み中。中世補遺が230点、織豊補遺が330点あるそうなので、改めて精査したい。果たしてどんな文書と出会えるだろうか。

こういうことがあるから、史料道楽はやめられない。

昨十三夜、於薩埵山、敵夜懸之刻、敵壱人針宇文六与合討、高名感悦候、弥可竭粉骨者也、仍如件、

永禄十二年[己巳] 三月十四日

 (北条氏政花押)

多田新十郎とのへ

→戦国遺文 今川氏編2311「北条氏政感状」(多田文書)

 昨日13日夜、薩埵山において敵が夜襲してきた際に、敵1人針宇文六と相討ちとなり、高名に感悦しました。ますます粉骨を尽くすように。