ここまでで、通説とは逆に直秀こそが調儀の主役だったことを検証してきた。では、北条氏直と松田直秀、垪和豊繁の秘密交渉を暴いた松田の「弟」とは何者なのか。いくつか候補がいる。内応していたのは直秀だとして、その「弟」と考えて検討すると候補者は3名。
- 松田康郷:50歳。盛秀弟の康定次男。大雑把にいうと「弟の家柄」である。
- 松田政晴:40歳代? 憲秀次男。但し1581(天正9)年以降史料から消える。
- 松田直長:28歳。康郷の兄康長の嫡男。直秀の又従兄弟。
直秀の年齢は不明だが、氏直から偏諱をもらっているから、氏直が元服する1577(天正5)年3月以降の元服ではある。直長は永禄5年生まれなので、氏直偏諱では最も早い組に当たる。直秀の元服が遅れた可能性もあるので、ここでは暫定で20代後半~30代前半と考えておく。
康郷は直秀より年長であることから弟とは考えづらい。羽柴方からすれば「叔父」ぐらいに受け取ると思われるので除外。康郷の嫡男定勝(孫太郎・六郎左衛門、母は山角紀伊守某の女)が寛政譜にあり、1645(正保2)年8月11日に87歳で卒したという。逆算すると天正18年に32歳となるが、なぜか後北条関係の文書に名が出てこない。名も少し違和感があるため、今回の候補者から外している。旗本として大奥奉行になった人物なので、何か理由があって雌伏していたのかも知れない。ここは要検討。
憲秀次男の政晴は筆頭候補なのだが、武田家への寝返り後に姿を消している(翌年に武田家が滅亡)。助命されていれば、出家状態で松田家にいた可能性は高い。偏諱から見ても、政晴は氏政、直秀は氏直と関係が深く、氏直の無断開城を氏政に訴えたのが政晴という図式は納得がいく。しかし、後に考察するように年齢から見て直秀の弟とは思えないため除外。助命後の政晴が赦免され名を変えて直秀となった可能性は残されているが、そうであっても本人になってしまうため「弟」ではない。
直長は28歳で、直秀の又従兄弟ではあるものの「弟格」にはなるだろう。父康長の率いた兵は山中城で失っているから余力はなかったはずで、本家の直秀に陣借していた可能性が高く、その動向を見知っていただろう。
直長の心情を考えると、兵力差から到底勝てぬと判っていながら最前線に立って死んだ父がいて、その一方で、堂々と開城交渉をするでもなく、秘密裏に工作している氏直・直秀がいる。父の壮絶な死を茶番の前座にしないためには、告発は当然の流れだったのだろう。
ちなみに、直秀の親類には、津久井の内藤直行もいる。憲秀の娘が内藤綱秀に嫁して直行を産んでいるから、直秀から見れば甥に当たる。直行は小田原開城後に直秀と行を供にし、氏直の高野山に同行したのち、羽柴秀次、前田利家に仕えている。心情的に告発したとは考えにくいので除外した。
一方の直長はどうかというと、完全に別行動をとっていた。1595(文禄4)年に徳川家康旗本となり父の知行である相模国荻野郷を給されている。後北条時代の本領が安堵されたのは珍しく、父の奮戦と自身の内応阻止が評価されたのではないかと思う。
「松田家の歴史」というサイトの中には、直秀の弟に秀也という人物が系図にありました。
コメントありがとうございます。
ご指摘いただいたサイトは私も拝見しておりました。係累については、恐らく近世の系図をもとにしていると思われます。同時代史料のみで考えると、松田憲秀の子は政晴と直秀だけとなります。私の検証はこの観点から行なっていますので、ご理解いただければと思います。