不図思いついたことがあり、大変興味を持って頭の中で思考を進めていったのだが、これが予想外に惚れ惚れとする美しい仮説に育っていった。何れは1次史料と引き合わせて検証する必要があるだろうが、従来の私の史観を大きく変更する内容だけに既存の思考方向を改める必要がある。

ひとまずこの状況を整理し、自分の中で決着をつけるためにサイトの更新を一時的に休止する。秋には再開できるのではないかと考えているが、こればかりは判らない。

どのような仮説かというと、「武士は武装商人だった」のではないかというものだ。過去の学校教育の成果では、武士は農民が武装したものという理解が主題だったと記憶している。私はここから発展させて、大規模な土木工事・建築を行なえる農民が武装化して武士になり、中央から来た受領貴族と融合したと基本的に理解していた。しかし、「武将」ではなく「武商」だったと仮定することで多くの根本的な疑問が解けることに衝撃を覚えている。

  1. 戦国大名・国衆は、なぜ寄進を繰り返し行なうのか?
  2. 大名は町場(商工)に関わる課税がゆるいのはなぜか?
  3. 河川と街道の確保に執念を持つのはなぜ?
  4. 武器は自分たちで作っていたのか?
  5. 意外に破産者の多い被官の存在は何を示すのか?

これまでいくつか私が行なってきた史料解釈についても影響があると思われ、論旨を切り替えるためには色々と思考実験と演繹の再構築が欠かせないだろう。

サイト自体を止める訳ではないので、既存記事などでご意見がある場合はお気軽にコメントを。また、Contactリンクから直接メッセージを送れるので、細かいご連絡はそちらで。

彼書立之御人数十八人之分へ、為改替以新地如前々員数可出之筈、大肥与申合候上者、聊不可有相違、如此候也、仍如件、

三月十九

 松蔵 家康(花押)

牟呂兵庫助殿

千賀与五兵衛殿

同衆中

→戦国遺文 今川氏編2032「松平家康判物」(江崎祐八氏所蔵文書)

永禄8年に比定。

 あの書き立ての方々18名の分へ、代替となる新地をもって員数を出す手はずを、大原肥前守と申し合わせた上は、些かの相違もあってはならず、この通りにして下さい。

吉田城中取替兵粮之事

  合参百俵者、

右、此内二百俵者、鵜殿休庵・大原弥左衛門、相残百俵者、隠岐越前守立合相調、城中入候間忠節至也、然者此返弁之番者、於望之地可申付者也、仍如件、

永禄八[乙丑]年 二月三日

牧野右馬之允殿

同名山城守殿

野瀬丹波守殿

岩瀬和泉守殿

真木越中守殿

同 善兵衛殿

→戦国遺文 今川氏編2027「今川氏真朱印状写」(国立公文書館所蔵牛窪記)

 吉田城中で取り替えた兵糧のこと。都合300俵。右は、この内200俵は鵜殿休庵・大原弥左衛門、残る100俵は隠岐越前守が立ち会って調達し、城中へ搬入したのは忠節の至りである。ということで、この返済の番は、希望する所領を申し付けるだろう。

『「城取り」の軍事学』(西股総生・学研)を読んで興味を持ったので、伊豆国鎌田城について検討してみたい。本書は現在の城郭論の到達点を判りやすく要約しており、また実地に基づいた考証は書架から離れない私のような文献中毒にはとても参考になる内容だ。ただ、「不本意な城」(238ページ)という部分は些か強引である。甲斐国栃穴御前山城が、周辺に間道しか持たず、道志山塊と桂川に挟まれて集落もない場所に存在していることを指摘して、なぜこのような場所に精巧な縄張りの城があるのかと疑義を述べている。

守るべきものなど、最初から何もなかったのだ。つまり、われわれが「なぜこのような場所に城があるのだろう」と考えるように、その地域に攻め込んできた軍勢にも「なんで、こんな所に城があるのだ」と思わせるような城だったのではないか、ということだ。これは屁理屈だろうか?

と書いている。その論拠として、本城に連動して側面支援する機能を挙げつつ、侵攻者に不利な部隊運用を強制させる配置であろうとしている。だが、そうだろうか。近代の国民国家による大規模な戦争ならともかく、散発的で小規模な戦国期の城が「相手を混乱させるため」だけに城を築いたりするのだろうか……。

栃穴御前山と同じ謎の城として挙げられている伊豆国鎌田城に関しても「伊東の町から中伊豆に抜けるルートとしては冷川峠越えがあるが、鎌田城は、このルートからも伊東の町からも外れた場所にあって、周囲には集落もない」とし、そんな場所に枡形虎口や重ね馬出という極めて技巧的な縄張りが配されているのを「謎」としている。

西股氏は集落・街道・農耕地にこだわって城のあり方を考えている。それは問題ないのだが、実はもう1つ重要な要素があることを忘れているのではないだろうか。それは、森林資源だ。化石燃料のない時代であるから、木材は燃料(炊事から製鉄、製陶など)のほか、建築資材であり照明素材であり、武器の原料でもあった。陸送と石油エネルギーに慣れ切った現代では林業は防災的な位置取りでしかないが、山から切り出した材木を川下りさせて遠隔地に運ぶ事業はとても重要なものだったと考えられる。

『軍需物資から見た戦国合戦』(盛本昌広・洋泉社新書y)にその記述がある。

 北条氏は天正年間後半に伊豆国桑原郷(静岡県函南町)の百姓に狩野山や伊東山に入り、大野・仁杉氏の指示に従って材木を受け取り、伊東(静岡県伊東市)まで運ぶことを何度も命じている (79ページ)

同書の別箇所で指摘しているが、使用地が西伊豆の君沢郡であっても、陸路冷川峠を越えるのではなく、伊豆半島を周回して西伊豆に運んでいた。つまり、天城(狩野)山と、その北にあると思われる伊東山から切り出された材木は、伊東大川の上流で筏に組まれて河口部に下り、一旦伊東湊に集積されるのが決まりだったようだ。

このことから、鎌田城の位置取りが判る。主要ルートである冷川峠や港湾施設ではなく、森林資源の搬出ルートを防衛する意図を持っていたのだろう。従来は食料と人的資源を侵略者が狙うだろうという説明が多かったが、森林資源を奪い尽くしてさっさと引き上げる可能性も高い。伊東大川の上流部に位置する鎌田城は、天城山系資源の防衛地点としてはうってつけだ。また、桂川が鶴川と合流する直前に築かれた栃穴御前山城も、この見地から見ると不思議ではなくなる。

同様に占地意図が不明と西股氏が指摘している、秩父の千馬山城・釜無川の白山城・高遠の的場城・八王子の浄福寺城についても、何れも森林資源と無関係ではない立地である点を踏まえて再考する必要があると考えている。