閨閥を調べていて、氏政室が謎に思えて来た。死没の経緯が不明だし、戒名が2つある。

黄梅院殿春林宗芳大禅定門

黄梅院殿智栄鳳瑞尼

上が後北条氏に伝わるもので、下は実家の武田氏の伝であるという。晴信正室の子で氏政正室でもあった女性の戒名として下の名は少し格が低い気がする。それを実家が付ける理由とは何だろう。

「鳳瑞」はそれなりだが「尼」のみで終わっている。院号も最初はなかった可能性もある。

「智栄」は「ちえ」で実名かも知れない。「武田智栄」または「武田智栄子」であったかも知れない。

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氏康の母とされる養珠院殿は北条宗哲の書状に登場する。永禄9年と比定されている、嫁入りする娘に送ったものに「座頭と親しくするものではない。養珠院様の頃はそんな事はありえなかった」と書いていた。私は、この記述に引っかかりを覚える。
この書状内では、続いて『こいつはOK、あいつはNG』と、座頭の扱いを個別に名指しで指示している。だから、座頭との交流自体に問題があったのではない。では何故養珠院を引き合いに出したのか。永禄9年だと、養珠院殿が亡くなってから、丸々40年経過している。素直に考えると、座頭に事寄せて、養珠院殿死後まともな正室がいなかったという批判を暗に含んでいるように読める。
この時、当主氏政の正室は黄梅院殿。宗哲は武田晴信長女を揶揄したのか。いや、それは少し可能が低い。23歳の彼女がけしからぬ行動をするのなら、その姑である瑞渓院殿の管理不行届となる筈だ。今川氏親の長女は氏康正室となって30年、貫禄は充分だから、宗哲が想定したのはこの姑だろう。
とすると、宗哲にとって瑞渓院殿が我慢ならなかったからではないか。宗哲は瑞渓院殿が多くの人間と交じる事、即ち政治に介入する姿勢に危機感を持っていたが、直接の批判は避けたかったので、座頭を避けた養珠院殿に範を求めた。襖の向こうに倹しく引っ込んでいる養珠院殿の正統性を教え諭す事で、娘を政争遠ざけようとしたのかも知れない。
深読みかも知れないが、とりあえず記しておく。

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氏綱継室の近衛氏について考えてみた。『北条早雲とそのー族』で、彼女の弟の年齢から、嫁した際に30歳をとうに越していたとして、多分に形式上の婚姻だったと指適している。前回も触れたが、氏綱が晴氏の外戚となるために家格向上目的で迎えたと私は考えているので、この説は納得できる。
更に考えを進めるならば、戒名が伝わっていないことから、彼女は小田原に下向していない可能性もあると思う。前掲書には近衛氏のものと伝わる墓が紹介されているが、氏政継室という言い伝えからして不審である。

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氏康の母は養珠院殿でほぼ確定と見てよいだろう。同母の兄弟としては、山木大方が最有力だと思う。今川貞世の系譜である堀越六郎と結婚しているし、役帳で養珠院寺領となっている伊豆国山木を領している。

古河公方の足利晴氏に嫁した芳春院殿も有力だ。氏綱継室の近衛氏によって箔をつけられたとはいえ、側室の所生で晴氏室となれる可能性は低い。

女子でいうと、北条綱成室と葛山氏元室は婚家から考えて側室の子かも知れない。太田資高室と吉良頼康室は微妙なところだと思う。

男子は為昌と氏尭がいるが、為昌は家臣朝倉氏の娘と結婚、氏尭は室が不明である事から側室の子ではないか。
為昌は「昌」を共有する大道寺盛昌の娘が母だった可能性がある。盛昌は鎌倉代官であり、その後に鎌倉を中心とする玉縄・小机領を支配した関係性の高さも推測根拠となりうる。その流れで綱成室も盛昌の娘という考えも浮かぶ。孫の為昌が若死にした後、その姉の婿である綱成に跡目が巡って来たのではないか。河越で盛昌と綱成は繋がっている。
為昌跡目がなかったことから、氏尭の母は為昌とも異なっていたように見える。寧ろ北条宗哲との繋がりが目立つから、大森氏系の血が考えられる。氏尭の子という説もある氏忠が新城を持ち場にした辺りも大森氏との縁を想起させる。もしそうなら、葛山氏元に嫁いだ「ちよ」は氏尭と同母かも知れない。

以上をまとめると、

正室 養珠院殿の子  氏康・山木大方・芳春院殿
側室 大道寺氏の子  北条綱成室・為昌
側室 大森氏の子    氏尭・葛山氏元室
母は不明          吉良頼康室・太田資高室

という仮説になる。今後また考えていきたい。

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年の瀬も押し迫り、また狂躁の時節が到来した。これより如月の中頃まで生業が喧しくなる。記事も史料アップも暫時滞るだろう。だからという訳ではないが、少しくは思いつくままの書付を散らしてみようと考えた。文献の裏付けもなく脈絡も怪しいものだが、日頃浮かんで消えていく着想を綴っていければ何かに繋がるかも知れないという下心もある。

細録を付ける理由として、携帯端末(Android)+漢字手入力(mazec)で歴史記事を作る効用の実験をしてみたいという事がある。現代語に最適化された文字入力では、単漢字変換が主になる。「治部」と書きたい場合、「じ」と「ぶ」で変換するが、それぞれ変換候補が多いので、私は「おさむ」と「ぶい」とー旦入れて「部位」の「位」を消している。これはフルキーボードでも手間なので、1Oキーやフリックでは諦めていた。何より、文学入力のために思考を切り替えてしまうと、戻ってくるのが難儀だった。mazecなら直接「治部大輔」と書くだけでよい。iPhoneのタッチインタフェースには納得がいかなかったが、これならメリットが感じられる。

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年来無足ニ而令奉公之間、新田領石原郷之内貮拾貫文被下候、弥厳密ニ可走廻者也、仍如件、
天正十五年[丁亥]八月二日[虎朱印]海保新左衛門 奉之
岡本越前守殿
→群馬県史 「北条家朱印状写」(安得虎子)

 何年も無足で奉公しているので、新田領石原郷のうち20貫文を下されます。ますますきっちりと活躍なさいますように。

猪能所へ注進状披見候、助太郎相挊付而、去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火、人馬貮百余討捕、首打捨五十余之内、鼻験八、其外分捕等ゝ紙面見得候、誠心地好面ゝ挊之所無比類次第候、則小田原へ注進状令進上候、弥境目無油断儀簡要存候、委曲猶猪能所へ申遣候、恐々謹言、

五月七日

氏邦判

阿久沢能登守殿

→群馬県史 「北条氏邦書状写」(勢多郡目黒文書)

 猪俣能登守への報告を見ました。助太郎の功績については、去る3日の沼田東谷での押し替えで、砦へいきなり攻め懸けて撃退し全てを焼き尽くし、人馬200余を討ち取りました。首級は打ち捨てにし、『鼻験』を8つとその他略奪した物品は紙面で見ました。本当に心地よい面々で、功績は比類がない状況です。すぐに小田原へ報告書を送りましょう。境目の油断がないことがますます大事だと思います。詳しくは猪俣能登守に申し伝えてあります。

日本史を調べる人向けの電子サービスがないものかと、少しネットを徘徊してみた。


ジャパンナレッジ

吉川弘文館の『国史大辞典WEB版』が入っている。クレジット課金で月額2,100円で膨大な量の辞典検索ができる(歴史以外の辞書が多い)。


JLogos

角川地名辞典が入っている。キャリア公式サイトで月額315円。その他は人文系の辞書が多い。


どちらも膨大な情報量を誇る辞典だが、結局は2次史料でしかない。

たとえば、著名な日記類ですら出版されていない現代の既存流通に風穴を開ける意味で『実隆公記』と『家忠日記』をBlogとして構成してみたらどうだろうと考えてみた。

そして、コメントのような形で注釈を共有できる形で公開してみたら、と思う。本文・注釈ともに閲覧はフリーだが、注釈を書き入れるには登録が必要にしておく。こうすれば、冷やかしや悪質な書き込みは防げるだろう。

東国系なら『快元僧都記』『高白斎記』『勝山記(妙法寺記)』辺りも必須。『親元日記』や『親長卿記』、『大乗院寺社雑事記』とか『言継卿記』もあるし、『兼見卿記』に『上井覚兼日記』、『晴豊公記』もほしいところ。こうやって考えると、基礎的な日記史料が現代の出版市況でいかにおざなりにされてきたか判る。

ただ問題としては、どの日記も結構分量がかさむことだ。『実隆公記』も『 大乗院寺社雑事記』も、在野が道楽でこなせる文字量ではない。将来的にOCRの精度が向上したら検討できるかも知れないが、現状では不可能に近い。……ということで大言壮語はやめ、これからもチクチクと古文書入力を行なっていく所存。

注進状披見、仍去十九、従館林古海へ相動候処、追崩敵数多討捕之由、誠心地好仕合候、弥無油断可相稼候、将又佐竹様ゝ悃望之間、令赦免、今日為除候、謹言、

七月廿三日

氏直(花押)

大藤式部丞殿

→群馬県史 「北条氏直感状」(東京都大藤文書)

1584(天正12)年に比定。

 報告書を見ました。去る19日に館林より古海へ移動したところ、敵を追い崩して多数を討ち取られたとのこと、本当に心地よい具合です。ますます油断なく功績を挙げられますよう。そしてまた佐竹が色々と懇望しているので赦免して、今日撤退させます。