三河国渥美郡七根内小嶋村一ケ所、并綱次・高信両人仁宛行知行、遠州小池村之内五拾貫文之事、付 於彼両郷陣夫弐人之事、

右、彼小嶋村之事者、為切符弐拾貫文之改替、所被宛行也、然者去辛亥年増分令出来、都合五拾貫文令所務之云々、縦収務以下雖為過上、年来抽軍忠之条、一円為知行被宛行之旨、先判形為明鏡之間永不可有相違、次棟別諸役之事、如前々免許之、兼又彼浦船之事、櫓手役等雖為惣国次、注進之時者、不論夜中令奉公之、不准自余条之条、彼地一円為不入免許之旨先印判雖有之、去年五月十九日合戦之砌、於沓掛令失却之旨申候条、任其儀如先規所令免除也、守此旨弥可抽軍功之状如件、

永禄四辛酉年

閏三月十日

氏真

大村弥右兵衛殿

→静岡県史(御家中諸士先祖書)

 三河国渥美郡七根のうち小嶋村、並びに綱次と高信の2人に宛行なわれた知行、遠江国小池村のうち50貫文について(2村に付属する陣夫2人分も含む)。
 小嶋村については、切符20貫文と代替して宛行なうものである。1551(天文20)年に増分が計上されているので、都合50貫文を徴税させているという。たとえ収税額以下が過上であっても、年来軍功にぬきんでているので、一円の知行をなし宛行なわれるとの旨、先の判形が明確であるので、末永く相違ないように。
 次に棟別・諸役について、前々のようにこれを免許とする。兼ねて又、あの浦船のこと、櫓手役などは領国全てに賦課されているものではあるが、報告業務がある際は夜中であっても奉公させており、他と比べられないのであの地一円を不入免許の旨、先の印判があるとはいえ、去る年5月19日の合戦の際、沓掛で紛失したとの申告があった。それを受けて先の決めた地所の免除を行なうものである。いよいよ軍功を抜きんでたものにするように。

23.5:350:223:0:0:okehazama:center:1:1:桶狭間合戦要図:

『1/25000地図』(国土地理院)・『今川義元』(小和田哲男)・『豊明市史』(豊明市)より作成。赤い点が織田方拠点・青い点が今川方拠点。セナ薮は、口承による瀬名氏俊陣地跡。桶狭間山と呼ばれる丘陵はその北東(標高64.7m)。二村山は豊明市最高地点(標高71.8m)で鎌倉街道の難所。沓掛はこの難所を越えるために沓を用意していたことから名づけられたという。

 戦国時代は飢饉と略奪が凄まじかった。連続して襲い来る天災と飢饉の中で、生き残るためには無能な指導者を排除するしかなかった。それが下克上の真実の姿だ。
 既存の停滞した世上を打破するためにとか、理想的な国家の在りようを探求してとか、そういう悠長な時代ではない。明治維新とは決定的に違うことを念頭に置きたい。
 そうした中で台頭してきた戦国大名には、以下の条件が求められていた。

  1. 大規模な治水・灌漑を行ない農業を振興する
  2. 荘園制を解体し、独立した農民を取り立てる
  3. 交通網を整備し、商業を振興する
  4. 近隣の農地を襲い、略奪によって領民を富ます
  5. 領民を軍事的に保護する

 それぞれの戦国大名は、試行錯誤しながら独自の権力を築いていった。それゆえに、江戸期の均一化された大名像は全く当てはまらない。そこには、地域ごとで全く異なる権力として成長している大名の姿がある。
 この辺りのことは『雑兵たちの戦場』(藤木久志)や『戦国大名の危機管理』(黒田基樹)に詳しい。一読をお奨めする。

 サイトの趣旨は歴史研究、ディケンズは関係ない。ただ、「文豪ディケンズを扱ったBlogがない!」のが癪に障るので記事にしている。
[w]チャールズ・ディケンズ[/w]
 とはいえ、私が語れるのは全くもってミーハーな事柄だけ。ざっくばらんに、ディケンズの小説は面白いことが伝えられれば上出来だと考えている。
 そもそも、私がディケンズの世界と本格的に触れ合ったのは大学時代だ。本格推理小説一辺倒だったが、ブラウン神父シリーズを書いたチェスタトンが「ディケンズ大好きらしい」と知った。そして、ちょうどちくま文庫から刊行中だった『荒涼館』を読み始める。当時は若気の至りで「ディケンズなんて推理小説としてはちょろい」と高を括っていたのだが……見事にはまった。以来、座右の書となっている。
 ディケンズと言えば『クリスマス・キャロル』と『二都物語』。後はせいぜい『オリバー・ツイスト』と『大いなる遺産』が知られる程度。どれも名作であることは否定しないが、私にとっての代表作は『荒涼館』と『リトル・ドリット』、『我らの共通の友』(ただし『ドンビー父子』と『ハードタイムズ』は未読)。ディケンズはもっと広く読まれてよい作家だと信じてやまない。
 今回の記事をきっかけに、ディケンズの作品を再度読み直す旅に出ようと思う。作品の順序は適当で……。

 戦国史上かなり華々しい戦でありながら、実は何も判っていないのが『桶狭間合戦』だと考えている。
 川越夜戦や川中島、厳島、関が原などなど、戦国合戦は近年科学的なアプローチや史料精査によって劇的に解釈が進歩した。その一方で、『信長公記』という良質史料がある故に桶狭間合戦の実像は矛盾に満ちたものになっているのではないだろうか。

  • 総大将今川義元は何故討たれたのか?
  • 実際の戦場はどこだったのか?
  • 何故この合戦が行なわれたのか?

 この辺の謎を、極力同時代の史料を用いて解明したい。その際に、『信長公記』による記述は一切織り込まず、最終的な成果が出た段階で比較する。
 無謀な試みではあるが、挑戦してみるだけの価値はあるかと思う。一昨年より備忘録として運用していたWikiのデータを注意深く移行するところから始めることとする。