敬白 起請文
一、其方御父子之儀、於 殿下御前悪様申なし、佞人之覚悟を構へ、御分国中毛頭不相望事、
一、今月中、以兄弟衆京都へ御礼可被申上事、
一、出仕之儀、於無納得者、家康娘返給事、
右条ゝ、存曲折、令違犯者、
梵天帝釈四大天王、惣日本国中六十余州大小神祇、別伊豆箱根両所権現・三嶋大明神、八幡大菩薩・天満大自在天神、部類眷属神罰冥罰蒙者也、仍起請文如件、
天正十六年 五月廿一日
家康(花押)
北条左京大夫殿
北条相摸守殿
→小田原市史 中世I 713「徳川家康起請文」(島根県平田市・鰐淵寺文書)
起請文。一、あなたたち父子のこと、殿下の御前で悪くいうことはありません。佞人の心をもってあなたのご分国を望むようなことは毛頭ないこと。一、今月中に兄弟衆を京へお礼に上らせること。一、出仕のこと、納得がないのなら家康の娘を返すべきであること。右の条々に曲折があり違反するならば、梵天帝釈四大天王、惣日本国中六十余州大小神祇、別伊豆箱根両所権現・三嶋大明神、八幡大菩薩・天満大自在天神、部類眷属の神罰・冥罰を受けるものです。
起請文
尚ゝ、勅作薫物十貝・照布一端令進之候、表祝儀計候、
御札殊臘燭一折、御懇情祝着仕候、随而従切流斎尊書并両種拝受候、忝存候、可然様御取成奉憑候、不計御上洛待入候、猶笠越可被申展候条、令省略候、恐惶謹言、
二月廿五日
全宗(花押)
北条美濃守殿 御返報
→小田原市史 中世I 710「全宗書状」(韮山町・堀江文書)
天正16年、もしくは17年に比定。
ご書状、特に蝋燭1折は、親しいお気持ちで祝着に思います。それに従って截流斎(氏政)より尊書と両種を拝受しました。かたじけないと思います。しかるべくお取り成しをお頼みいたします。図らずのご上洛をお待ちしております。さらに笠原康明がご説明するでしょうから、省かせていただきます。
追記:勅作の薫き物10貝・照布1反をお送りします。形ばかりの祝儀です。
書状
薬院へ以使申入候、御心得御取成可給候、又薬院御女中かたへ終不申入候、是者こなたへ少御好も候、此度申入候間、是又能ゝ御取成頼入候、委者鈴七ニ申含候条、不能具候、恐ゝ謹言、
七月四日
氏規判
「 自大坂
北美入道
浄泉斎 御宿所」
→戦国遺文 後北条氏編4346「北条氏規書状写」(古簡雑纂六)
薬院へ使者を送って申し入れました。お心得をお取り成しいただけますでしょうか。また、薬院の奥様にはついに申し入れませんでした。これはこちらへ少しの誼もありました。この度申し入れましたので、これまた、よくよくお取り成しを頼み込んでいます。詳しくは『鈴七』に申し含めていますので、詳しくは申しません。
書状写
中郡白根表ニ京勢地衆集居所打散、敵一人討捕、走廻至、忠信感悦候、弥可抽粉骨候、小田原へ申立、可遣 御感状候、当時往行就不自由ニ、先自判を出之者也、仍如件、
天正十八年[庚寅] 四月十七日
大和守(花押)
御検使 大藤長門守(花押)
井上源三郎殿
→戦国遺文 後北条氏編3714「内藤綱秀感状写」(新編相模国風土記稿津久井縣十)
中郡白根方面に京勢地衆が集まっていたところ撃退し、敵1人を討ち取り、活躍の至りで忠信は感悦しました。ますます粉骨にぬきんでますように。小田原へ申請してご感状をいただくところですが、今は往復が不自由なので、まず私の証書を出しておくものです。
感状写
[懸紙上書]「大藤與七殿 自小田原」
四日之註進状披見、喜瀬川表遠候を出、敵討捕候、心地好仕合肝要候、高名之者ニ感状遣候、謹言、
三月六日
氏直(花押)
大藤與七殿
→戦国遺文 後北条氏編3672「北条氏直書状」(大藤文書)
天正18年に比定。
4日の報告書を拝見しました。黄瀬川方面に偵察を出し、敵を討ち取りました。心地よい成果で重要なことです。高名を挙げた者に感状を出します。
書状
同名与八郎下地を捨候歟、然者、彼拘如前ゝ致、一人相拘可然候、若及莵角ともからあらハ、早ゝ可註進候、速ニ預之候、為後日出一札候、謹言、
拾二月廿三日[印文未詳]
鈴木七郎殿
→戦国遺文 後北条氏編4984「某印判状」(鈴木弘氏所蔵文書)
同じ名字の与八郎が下地を捨てたのでしょうか。ということで、あの所有を以前のようにするならば、1人で所有するのがよいでしょう。もし苦情を言う者がいれば、早々に報告して下さい。すぐにこれを預かります。後日のため一筆お出しします。
朱印状