『地震と噴火の日本史』岩波新書・伊藤和明著。噴火系と、津波型、内陸直下型で区分けして解説している。文はかなり平明で判りやすいので、入門書になるかと思う。

明応地震については殆ど触れておらず、どちらかというと、江戸期以降の確実な資料に基づいて説明している。富士山の記述はかなり興味深かった。我々の感覚だと富士は休火山だが、奈良時代から宝永に至るまで、噴煙たなびく活火山の時代のほうが長いということを改めて知った。江戸期にあった浅間山・富士山の噴火、そして内陸型地震では、山崩れで堰き止め湖ができ、それが決壊して大洪水を巻き起こしたことを繰り返し強調している。同じことが現代の河川に起きた際、どのようなことになるかは別途調べるしかないが、コンクリートで覆われた流路がどう変貌するかを防災上考慮する必要があるだろう。

津波でいうと、1703(元禄16)年11月23日の元禄地震では、房総に津波が来たという。安房郡和田町真浦が10.5メートルの波高で最高となる。船橋は2メートル。元禄段丘となって現われた隆起によって、房総南端の野島が地続きになった。館山駅もこの元禄段丘の上にあるそうだ。津波の章の最後は、2011年3月30日の今日読むと興味深い(本書刊行は2002年)。

いま岩手県田老町には、高さ10mあまり、総延長が1350mという巨大な防潮堤が築かれていて、町を津波から守っている。この防潮堤は、田老で波高14.6mを記録した明治三陸地震津波のあとに計画され、昭和三陸地震津波のあと着工、戦後に完成したもので、田老町のシンボルにもなっている。

しかし驚いたことに、いま田老町を訪れてみると、この巨大防潮堤の外側つまり海の側に、住宅や店舗などが立ち並んでいるのである。大津波が襲えば、瞬時に流出するであろうことはまちがいない。まさに、津波危険地域の土地利用のあり方が問われる景観となっているのである。過去の災害体験は、すでに風化してしまったのであろうか。

(118ページ)

 

いま東京および首都圏に住む大多数の市民は、関東大震災以後の長い静穏な時代に慣れすぎてしまってはいないだろうか。その意味でも、江戸地震直後の模様を記して『時風録』の次の一節は、現代への大きな教訓を秘めているように思えてならない。

「ここにおいて日頃遊惰驕逸の輩も、はじめて夢の覚めたる如く、太平の有難かりしをしりて、自ら大工、左官の手伝、あるははちもちなどして、衣は寒さを凌ぎ、食は飢を凌ぎ、家は風雨をしのぐにさえ足ればなど云あへるも、心のまことにかへれるにや、殊勝にも又哀れ也」

(199ページ)

このほかにも、統計的に見れば160年に一度直下型地震に襲われる京都を懸念している。前回揺れた1830(文政13)年以後、170年余り揺れていないという。

 

山田のをのゝゝ馳走、めをおどろかしつ。宗碩は此ついで尾張へこえ、長阿は北地の旅行やうゝゝ雪になるべくおどろかれて、此十六日におもひたちぬ。雲津川、阿野の津のあなた、当国牟楯のさかひにて、里のかよひもたえたるやうなり。あなたは関民部大輔、今は隠遁何似斎、こなたはたけより宮原七郎兵衛尉盛孝、阿野の津の八幡までいひあわせ、自身平尾の一宿まで山田をたち、平尾の一宿のあした夜をこめて出。たつの刻より雨しきりにふりて、みわたりのふなわたり塩たかくみち、風にあひて雲津川又洪水。乗物・人おほくそへられ送りとどけらる。此津、十余年以来荒野となりて、四・五千間の家、堂塔あとのみ。浅茅・よもぎが杣、まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり。折節雨風だにおそろし。送りの人は皆かへり、むかへの人はきたりあはずして、途をうしなひ、方をたがへたゝずみ侍る程に、ある知人きゝつけて、此あたりのあしがるをたのみ、窪田といふところ、二里送りとゝ゛けつ。其夜中に、関よりむかへ、乗物以下具して尋ねきたりぬ。今日の無為こそ不思議におぼえ侍れ。此所の一宿、おり湯などして、その夜のね覚に

 おもひたつ老こそうらみすゝ゛か山ゆくすゑいかにならんとすらん

→宗長日記 「1522(大永2)年・山田より亀山へ」

 山田の各々がもてなして、目を驚かせた。宗碩はこの後に尾張へ行き、私は、北陸への旅が雪になると驚いて、この16日に思い立った。雲津川と安濃津のあちら、この国と紛争の境界になって、民間人の通行も絶えているようだった。あちらは関民部大輔で、今は隠遁して何似斎。こちらは多気から宮原七郎兵衛尉盛孝が安濃津の八幡まで申し合わせて、平尾の宿までと山田を発って、一泊したのち夜明け前に出立。辰刻(午前8時頃)から雨がしきりに降って、舟の渡し場に潮が高く満ち、強風で雲津川もまた洪水。乗物と人を多く添えられて送り届けられた。この津は、十余年来荒野になって、4~5,000軒の家、堂や塔の跡のみ。寂しい荒地で、鶏や犬も見えず、カラスの鳴き声も稀であった。折りしも風雨が凄まじかった。送ってくれた人は皆帰ったのに迎えの人に巡り会えずに道を見失い。方角を間違えて立ち尽くしていたところ、ある知人が聞きつけて近辺の足軽に頼んで窪田というところまで2里送り届けてくれた。その夜半に、関からの迎えが乗物なども伴って尋ねてきた。今日無事だったことを不思議に思う。この宿で居り湯などを使ってその夜の寝覚めに(和歌略)

(九月)廿五日[戊午]、晴陰、(中略)伝聞、去月○[大]地震之日、伊勢・参河・駿河・伊豆、大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、数千人没命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也、

→愛知県史 資料編10「後法興院記」

 9月25日。伝え聞くところによると、去る月の大地震の日、伊勢・三河・駿河・伊豆に大波が打ち寄せ、海辺の20~30町(2~3km)の民家を全て水没させ、数千人が落命、その他、牛馬などはその数も判らなかったという。前代未聞のことである。

同八月廿五日[己丑]、辰刻、大地震ニ高塩満来而、(中略)他国ヲ聞ニ三河片浜、遠江柿基・小河ト申在所者、一向人境共亡ト申、(後略)

→愛知県史 資料編10「皇代記」

8月25日、辰刻(午前8時)、大地震と高潮が満ち来たりて(中略)他国の状況を聞くに、三河国片浜・遠江国柿基・駿河国小川という在所は人里が全て亡んだという。

[note]このほかに、「龍渓院年代記」「定光寺年代記」「大唐日本王代年代記」にも同様の記事がある。[/note]

『中世の巨大地震 』(歴史文化ライブラリー・矢田 俊文著)を読了。1498(明応7)年の地震が比較的詳しく書かれている。が、中世の震災は殆ど史料がないことが確認できただけだった。貞観の大地震はさておき、書状がある程度出てくる明応年間でも厳しいようだ。今日の公家が日記に載せているものの、これらの史料は交際用の備忘録という性格もあり、必要最小限の表現に留まることが多い。

判ったことをとりあえず覚書。

  1. 京での揺れは激しかったものの、被害はなかった模様
  2. 奈良は興福寺の地蔵堂が崩落した程度
  3. 伊勢の大塩村は津波で塩田が破壊され、家屋180軒のうち100軒が流された
  4. 伊勢の安濃津は津波で壊滅。阿漕浦という河川と海に挟まれた場所に位置
  5. 同じく安濃津、1522(大永2)年に連歌師宗長が訪れた際は無人の廃墟だった
  6. 駿河の小川湊は津波で壊滅し別の場所に復興(河川と海に挟まれた立地)
  7. 遠江の元島遺跡(見附宿の南)では液状化。潟湖に位置
  8. 浜名湖と遠州灘に挟まれた場所にあった橋本は地震と津波で壊滅(河川と海・湖に挟まれた立地)
  9. 浜名川の流路が変わり、浜名湖が汽水湖となる
  10. 紀伊の和歌川の流路が変わる(津波が原因か)

このほかに、遠江国掛塚湊も津波で被害を受けたようだ。また、安濃津はその後場所を移して現在の津市の位置に復興する。旧来の場所では、宝永地震後にようやく居住が見られる。

中世の文献にはかなり制約が多い。近世も後半になるとようやく個人の克明な記録が見られるようになる。地震に関する著作はまだまだ読みはじめなので、とりあえず他を読み進めようと思う。

まだ地名辞典も調べていない状況だが、ネットを調べて判ったことを覚書。

件の発電所ができる前は、塩田だったそうだ。その前は陸軍が1940(昭和15)年に突貫で作った磐城飛行場。さらにその前は起伏の緩やかな松山だったという。これは発電所南の展望台にある石碑に書いてあると下記にて記述あり。

空港探索

ここで紹介されているが、1947(昭和22)年当時に米軍が空撮した画像がある。

航空写真

※国土変遷アーカイブは現在休止中の模様。

写真上部が今回の津波でほぼ壊滅した請戸港。中央やや下にある白いエリアが塩田だった頃の地所。詳しい高低差は判らないが、これを見た限りでは津波の被害が大きそうな地形だと思える。

請戸は相馬藩の主要港だったというので、津波の近世記録が残されているかも知れない。請戸にも城があったそうで、

城郭放浪記

で紹介されている。また、郷土史の観点から請戸を描いている記事もある。ここで富永氏が出てくるのが興味深い。

今日の一句一首

請戸のくさ野神社の『浮渡神祠』から、請戸の古称が浮渡だったと推測している記事が二葉町サイトにあった。

……どうも話が迂回し始めたようなので、この件はここらで一旦留めておこうと思う。

 

2011年3月11日に発生した『東日本大震災』の死者数が増え続けている。過去の災害と比較してその要因を探ることができれば、今後の犠牲者は抑えられるかも知れない。そう思い至り、調査カテゴリに加えることにした。

一つ気になっているのが、週刊誌・テレビ・新聞、それにインターネットのニュースサイトで書き立てられているのは「1,000年に一度の予測不能な災害」という文言だ。

1,000年という単位が出てくるのは、869(貞観1元)年の震災を画期としているからだろう。この地震については文献史の範囲を超えており、今後の考古学検証にかかってくる。文献史が使い物になるのは近世以降、頑張って室町後期からだと思う。最も遡れるのは1498(明応7)年の震災ではないか。であれば、1498~2011の513年で文献を列挙してみるのもいいかも知れない。

だが、地震に関しては私の知識がまだまだ足りない。史料の下読みの手前、地震史についての一般知識習得から始める必要がありそうだ。少しずつでも進めていこう。

3月11日、東北を激震が襲った。その後凄まじい津波が東北太平洋岸を襲い、犠牲者は万を優に超えるという(3月15日現在)。同時に福島第一原子力発電所のメルトダウン、火力発電の修復もままならず、東京でも節電が叫ばれるようになった。

その一方で、現職都知事の「地震は天罰」発言に衝撃を受けた。『天罰』とはまた、破廉恥な言い様である。人間として他人の存在をここまで切り捨てられるのだろうか。巻き込まれた被災者が『天罰を与えられてしかるべき人間』だったと主張するなら、その根拠を示すべきだろう。判っているだけで1万数千人分、各個に記述しなければならない。示せないのに発言したのなら、公職を今すぐ退くべきだと思う。発言撤回・謝罪で済む話ではない。

都民も同じエゴイズムを発揮していると感じられた。被災者がパンで食べつないでいる状況は報道されている。ところが、都内で買い占められたのはパンとカップ麺、乾電池である。また、ガソリンが不足していることは判っているだろうに「電車が混んでいるから」と自動車・バイクに乗り、給油制限があると文句を言う。眼前の物資がそのまま東北へ行く訳ではないが、買い占めで物価を吊り上げて何のメリットがあるのだろうか。被災者が困っているテレビ映像を見ながら、パンをほおばり、3時間程度の計画停電のために乾電池を蓄積し、自動車通勤することで優越感を味わいたいとでも言うのか。被災者は、火を使った調理ができないためにパンを食べているのだ。本来なら暖かい食事がとりたい筈だ。そして無期限の停電の中、乾電池も不足している。ガソリンだって発電機には必須なのだ。

私は震災時都心におり、帰宅困難者となった。賃貸住宅ではあるものの、自宅に帰るまでは不安でいっぱいだった。トン単位で溜め込んだ書棚が崩れていると想定し、暗澹たる気持ちになったものだ。ところが、翌朝帰宅したら書棚は無事だった。余震の連続で緊張しっぱなしだった反動もあり、座り込んでしまった。たかが書棚で、これである。家を失い、家族・同僚を亡くした被災者の気持ちは、量る由もない。懸命に生きる被災者、各国から来た救助隊、自衛隊・消防などの公職者、皆々の健闘を最大限応援したい。

米・餅・乾電池・ガスコンロなどを買い貯めた東京都民は、東北被災者に愧じぬ行動をとるべきだ。当然、物資は個別に寄付するものと思う。でなければ、何の故をもって首都市民を名乗れるのか理解不能である。被災者に比べるならば、我々に何の不便があるというのか。

歴史研究・ディケンズとは関係がないが、特に一筆記す。

Tポイントを使った緊急募金

ヤフーポイントを使った緊急募金

上記は普段眠っているであろうポイントを利用した義捐金の募集となる。

1991年に刊行された、中公新書・高橋崇著の1冊である。今でこそ厳密な史料第一主義の新書も増えてきたが、当時としては異色なほど史料にこだわっていた。安倍氏と清原氏という東北在地勢力と、関東・東海の武士団を率いた源頼義・義家父子の関わりを詳細に叙述している本格派だ。

一般には、前九年と後三年は源氏が関東に基盤を作る画期だと見られている。2度の戦闘で活躍した源氏がその後の飛躍の準備をしたという。ところが、源頼義と義家は、朝廷の職権を巧みに用いて安倍・清原氏の内紛に付け込んだという可能性が高いとする。史料を読み込むと、合戦の主体ですらなく、単にセールストークで利権を確保しようとした事実が浮かび上がってくる。

本書から話は飛躍するが、蝦夷征伐の過程で朝廷は東北地方から多数の捕虜を収奪し、貢納物の徴発期間として城・柵を多数設置している。そして、その尖兵として関東武士が着目され、利用されてきた。だがその関東武士が精強だったかというと、疑問符がつく。奈良時代の関東は未開の地であり、百済からの亡命者と流刑者、没落貴族が、東北の捕虜を使役したというのが実態に近いだろう。平将門・藤原秀郷らについても、個人的な武勇譚でしか語られていない。そこに軍事的な強みは見られない。その関東武士を初めて組織化したのが源頼朝である。ここでバイアスがかかり、関東武士はその祖である頼義・義家との関係を強調し、前九年・後三年での奉公を広めたのだと思う。

関西・関東という国内2大地域が歴史の主観となることが殆どだが、それを敢えて外し、当事者である東北からの史観を入れた意味で本書は貴重である。歴史は、京・鎌倉・江戸からだけ語られるものではない。

後三年の役が結局朝廷に認められず、利権につながらないことが判ると、義家は清原武衡・家衡の首級を路傍に打ち捨てて京に帰る。葬ることもないその姿に、武家源氏の裏の顔が仄見える。

後北条氏、布施佐渡守に蒲原城番での部隊召集を指示する

北条氏邦、野上の足軽衆に出動を命ずる

御館の乱を扱った書籍の刊行が相次いだのと、今川義元最期の次に1561(永禄4)年の憲政南進を扱おうと考えているため、上杉輝虎の関東管領継承を調べている。そこでよく目にするのが「上杉謙信(輝虎)は京公方、関東公方を敬っていた」という記述である。しかしそれは真実の姿だろうか。この前提によって、輝虎に逆らう勢力は「旧秩序を敬わない」と推論されている点が気になっていた。

史料に即して細かい検証を行なうのはこれから行なうとして、一般に知られている事績とその裏事情を列挙してみよう。

  1. 2度も上洛して足利義輝に奉仕した。
  2. 関東管領に就き復古体制を敷こうとした。
  3. 村上氏など信濃から亡命した反武田勢力を保護した。

1については、守護代の家格しか持たない輝虎が、守護権力を進展させた武田氏に対抗するための措置である。義輝は三好氏と対決してくれることを期待して便宜を図ったが、実際の貢献は行なっていない。むしろ、輝虎に過度な期待を寄せた義輝は三好氏を刺激した挙句殺されてしまう。輝虎は旧来の権力を上手に使って自己の権力強化を成したに過ぎない。

2も同様である。藤木久志氏著作で知られることとなったが、越後から関東への出兵は口減らしと略奪が主目的だった。略奪の中でも人身収奪の苛烈さは他氏を抜いている。また、義輝から得た権限は当初「関東管領憲政を補佐する」というものだったが、いつの間にか「輝虎が憲政の養子となって関東管領を継ぐ」という奇抜なものに変わっていた。越後上杉氏ならともかく、その配下の守護代、しかも、越後上杉房能、関東管領上杉顕定の2人を殺した長尾為景の次男が継ぐのは驚愕の目で見られただろう。憲政は37歳で輝虎は30歳、年齢差はさほどないし、憲政には子があった一方で輝虎は妻帯すらしていない。よしんば憲政が関東管領から引退したがったとしても、為景が擁立した越後守護上杉定実が健在である。この不自然な継承が成田氏・大石氏・藤田氏らの離脱を招いたように思う。

3については、確かに村上義清を保護している。しかしそれは他氏でも行なわれていた戦略で、追放された旧主を保護して橋頭堡とする例は多い。また、村上義清自体はほぼ一代で成り上がった下克上の人物であり、守護代ですらないのに北信濃を席巻している。普通に考えれば、彼に政治的利用価値があったから引き取ったのだろう。

伝統に殉じようとしたとか、義の武将とか、そのような思い入れは輝虎の実像から遠ざかるばかりではないか。一国守護だった今川・武田、外来者として未知のシステムを持ち込んだ後北条・里見と比べると、輝虎は斎藤利政・三好長慶・陶晴賢・織田信長に近い。いわゆる、守護代を踏み台にした急速なステップアップ組だ。彼らは時代を先取りした革命・破壊・急進をもって語られることが多い(個人的には、守護よりは革新、外来者よりは保守と見ている)。府中長尾氏は守護代ということもあるし、輝虎を彼らのグループとして考えみてもいいのではないかと思う。史料が揃ってきたこともあり、そろそろいいタイミングかと。