其方相抱なくるミの城へ、今度北条境目者共令手遣、物主討果、彼用害北条方江法之之旨候、此比氏政可致出仕由、最前依御請申、縦雖有表裏、其段不被相搆、先被差越御上使、沼田城被渡遣、其外知行以下被相究之処、右動無是非次第候、此上北条於出仕申も、彼なくるミへ取懸討果候者共於不令成敗者、北条赦免之儀、不可在之候、得其意、境目諸城共、来春迄人数入置、堅固可申付候、自然其面人数入候者、小笠原・河中嶋江も申遣候、注進候て召寄彼徒党等、可懸留置候、誠対天下、抜公事表裏仕、重ゝ不相届動於在之者、何之所成共、境目者共一騎懸ニ被仰付、自身被出御馬、悪逆人等可被為刎首儀、案之中被思召候間、心易可存知候、右之境目、又ハ家中者共ニ此書中相見、可成競候、北条一札之旨於相違者、其方儀、本知事不及申、新知等可被仰付候、委曲浅野弾正少弼・石田治部少輔可申候也、
十一月廿一日[秀吉朱印]
真田安房守とのへ

→小田原市史 中世I 732「豊臣秀吉朱印状」(長野市真田宝物館所蔵・真田文書)

天正17年に比定。

 あなたが保持する名胡桃の城へ、この度北条の境目の者が出てきて物主を討ち果たした。あの要害は北条方へ乗っ取られたということです。この頃に氏政が出仕するだろうとのことを以前から申し出ていたので、たとえ裏切りがあったとしてもそのことは構わないと、先にご上使を沼田城に派遣し、その他知行以下を細かく調べたところです。それが右の働きをして是非もない次第です。この上で北条が出仕しても、あの名胡桃を攻撃して討ち果たした者たちを成敗しないことには、北条を赦免することはありません。その意図を得て、境目の諸城へ来春まで部隊を入れて置き、堅固に申し付けるでしょう。万が一そちら方面に部隊を配置するなら、小笠原・川中島へも指示します。報告して、あなたの郎党を召し寄せて留め置いて下さい。本当に天下に対し、不正と裏切りをしでかし、重ね重ね不届きな働きがありました。ですから、どの場所であっても境目の者たちは一騎懸けを命じられ、自身お馬を出され、悪逆人らの首をはねようとのこと。案の中のお考えなので、ご安心下さい。右の境目、または家中の者たちにこの書面を見せて、競わせて下さい。北条が書面において違うなら、あなたのことは、本知行は言うに及ばず、新知行などもお出しになるでしょう。詳しくは浅野弾正少弼・石田治部少輔が申します。

出銭之書出
壱貫八百四十八文
右、御隠居様就御上洛、出銭被仰付候、来晦日を切而可調、此日限相違付而者、可為越度、永楽・黄金・麻、此三様之内成次第可調、仍如件、
丑 十月十四日[朱印「楼欝」]
高瀬紀伊守殿

→小田原市史 中世I 729「北条氏忠朱印状」(神奈川県立公文書館所蔵・山崎文書)

天正17年に比定。

 出銭の書き出し。1貫840文。右は、ご隠居様のご上洛について、出銭を指示されました。来る晦日までに調達するように。この日限に相違があったら落ち度とするだろう。永楽銭・黄金・麻、この3種類のうちできるだけ調達するように。

条々
一、兵粮奉行長束大蔵大夫、并小奉行十七人被仰付事、
一、年内従代官方弐拾万石請取之、来春早ゝ船ニ而駿州江尻・清水江令運送、蔵を立入置、惣軍勢江可相渡事、
一、黄金壱万枚請取、勢州・尾州・三州・駿州ニ而八木買調、小田原近辺舟着江可届置事、
附、馬弐万疋之飼料調置、無滞可令下行事、
右、可相守此旨者也、仍如件、
天正拾七年十月十日
 秀吉

→小田原市史 中世I 728「豊臣秀吉条書写」(東京大学史料編纂所所蔵・碩田叢史十四)

 条々。一、兵糧奉行は長束大蔵大夫と小奉行17人が仰せ付けられること。一、年内に代官の方より20万石を受け取り、来春早々に船にて駿河国江尻・清水へ運送し、蔵を建てて入れ置き、全軍に渡すであろうこと。一、黄金1万枚を受け取り、伊勢国・尾張国・三河国・駿河国にて米を購入し、小田原近辺の船着場へ届けておくこと。付則、馬2万疋の飼料を調達しておき、滞りなく『下行』させること。右は、この旨を守るように。

条々
一、来春関東陣軍役之事、
一、五畿内半役、中国四人役之事、
一、北国六人半役之事、
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃七人役之事、
右、任軍役書付之者、来三月令出陣、小田原北条滅亡、可有忠勤者也、仍如件、
天正十七年丑十月十日
 秀吉

→小田原市史 中世I 727「豊臣秀吉条書写」(東京大学史料編纂所所蔵・碩田叢史十四)「天正十七年、相州小田原陣触、山中吉内聞書写之」と注記あり。碩田叢史、後藤碩田が、主に豊後国に関係する史料を書写・編集した文書集。本巻では、以下の二点及び七八四号史料を採録したが、何れも文言等に検討の余地がある。

 条々。一、来春の関東陣、軍役のこと。一、五畿内は半役、中国は4人役のこと。一、北国は6人半役のこと。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃は7人役のこと。右は、軍役書付の通りに、来る3月に出陣します。小田原北条の滅亡、忠勤するように。

[懸紙ウワ書]「真田伊豆守殿」
今度関東八州出羽陸奥面ゝ分領、為可被立堺目等、津田隼人正・冨田左近将監、為御上使被差下候、為案内者可同道、然者従其地沼田迄、伝馬六十疋・人足弐百人申付、上下共可送付、路次宿以下馳走肝要候也、
七月十日[秀吉朱印]
真田源三郎とのへ

→小田原市史 中世I 725「豊臣秀吉朱印状」(長野市真田宝物館所蔵・真田文書)

天正17年に比定。

 この度関東八州・出羽・陸奥の面々の分国に境界などを立てられるべく、津田隼人正・冨田左近将監がご上使として派遣されました。案内者として同道して下さい。ということでその地より沼田まで、伝馬60疋・人足200人を申し付けます。上下ともに送りつけるよう、道中・宿泊以下で奔走することが大切です。

 覚
一、従京都御当方年内可為御上洛旨、御使始終之様子、雖無御得心候、此度条ゝ御使者江御返答之間、依彼御挨拶、御隠居来冬中必可為御発足事、
一、自諸手御上洛之出勢并出銭、又御国之御仕置、諸色兼日可被成置意趣条ゝ之事、
 已上
六月廿二日
 松左(花押)
 同尾(花押)
万喜 参

→小田原市史 中世I 724「松田直秀・同憲秀連署覚書写」(安得虎子十)

天正17年に比定。

 覚書。一、京都よりご当方に年内上洛するようにとの趣旨、ご使者の全体の状況はお心得がないとはいえ、この度の条項はご使者へご返答なさいましたので、その挨拶に行くためご隠居が来る冬中に必ずご出発されること。一、諸手よりのご上洛用人員・銭、またお国のご処置、諸々の事柄は兼ねて決めておいた趣旨で取り扱うようにとのこと。

[懸紙ウワ書]「伊達左京大夫殿 人々御中
  施薬院 全宗」
其以後者無差儀候之条、致無音候処、道有罷下間令啓上候、京都弥属静謐、九州諸大名在洛候、東国之儀も無事罷成、北条美濃守今度被上洛、御礼被申上候、然者貴殿之儀、其許御隙もあき候ハゝ、不計御上洛奉待候、道有可有相談候条、令省略候、恐惶謹言、
九月十三日
 全宗(花押)
伊達左京大夫殿 人々御中

→小田原市史 中世I 721「全宗書状」(仙台市博物館所蔵・伊達家文書)

天正16年に比定。

 それ以後は指したることもなかったので、ご無沙汰しておりましたところ、道有が下るということでご連絡をいただきました。京都がますます静謐になり、九州の諸大名は上洛しています。東国のことも開戦とならず、北条氏規がこの度上洛なさり、お礼を申し上げられます。ということで貴殿のこと、そちらで時間が取れれば、図らずのご上洛をお待ちいたしております。道有がご説明しますので、省略いたします。

濃州上洛依遅延、重而其方差越候、一刻も早く被上候様可申事肝要候、此方逗留中上洛候ヘ者、仕合可然候間、其通能ゝ可申、若於相延者、先可帰国候、委細日限待入候也、
七月十四日
 御書判
朝比奈弥太郎とのへ

→小田原市史 中世I 716「徳川家康書状写」(書上古文書六)

天正16年に比定。

 美濃守(氏規)の上洛が遅延し、重ねてあなたを送ってきました。一刻も早く上洛することが大切です。こちらへ逗留中に上洛してくれれば都合が良いので、その通りによくよく申すように。もし延期されるならば、先に帰国するでしょう。詳しい日限をお待ちしています。

一、先年織田信長へ御使可遣候時分、惣国へ分銭懸り候、我ゝ手前へも黄金三枚あたり候、則家中ヘ可申付候へ共、手まへの以失墜大途へ納候、諸人之手前勿論知行役ニかけ候事、
一、先年土肥之御普請かゝり候、我ゝ手前を以可致ほとを被申付候、永楽百余貫・兵粮五百つ■仕候、其上何共不成候間、家中へ申付、少之所為出候、其外宮之前御門番匠手ま人具へかけ候て、永楽七十六貫文入目候キ、其内卅五貫文、我ゝ手前より出前候、是も自分を以致候、其上至唯今もあなたこなたの破損内ゝ御印判参候へ共、手まへの分銭を以今日まて致候間、当年も破損普請■はや永楽拾五貫文仕候、先日参苻之時分、すなはかり五千駄、大栄寺之まへへ付候、是も家中之者ハ知るましく候事、
一、此度京都御一所ニ成、家康以御取持美濃守上洛候、其分銭弐万貫入由候、此方手前へも、定而三百貫も四百貫も可懸候、如何共可致様無之候間、知行役・扶持役之随分限可為出候、其上十ケ年以来請郷へ、号扶持銭棟別赦免候、当年加様之方迄も、前ゝ之役半分可為致候、左候へ者、永楽銭五拾銭可出候事、
一、此さし引候ヘ者、我人為指失墜ニも無之候間、六月廿七八両日ニ、此分銭調、於御番所黒沢・八木・石井・奥、此者へ可渡候事、
右条ゝ、自分同心見分可有其調、黄金・出物・わた此三様を以、可為調次第者也、仍如件、
子[印文未詳]
秩父孫二郎殿
六月七日
同心■中

→小田原市史 中世I 715「北条氏邦朱印状写」(武州文書十八)

天正16年に比定。

 一、先年織田信長へご使者を派遣した時分、惣国へ負担金が課されました。私たちの元へも黄金3枚が課せられました。すぐに家中へ指示しようと思いましたが、私の手持ちで大途へ納めました。他の家では勿論、知行役として課されました。一、先年土肥のご普請にかかった際、私たちに『ほと』をするよう指示が来ました。永楽銭100余貫文・兵糧500ずつです。その上どうにもならなかったので、家中へ指示し、少しだけ出させました。そのほか、宮の前ご門の番匠の手間賃として永楽銭76貫文入金しました。そのうちの35貫文は私たちの負担で拠出しました。これも私の手持ちで済ませました。その上、現在に至ってもあちらこちらの破損などで内々のご印判が来ていますけれども、私の分銭で今日までの間は払っています。ですから当年も破損普請は早くも永楽銭15貫文にもなります。先日小田原に行った時、砂秤5,000駄を大栄寺の前へ付けました。これも家中の者は知らないことでしょう。一、この度京都とご一所になり、家康のお取り持ちをもって美濃守が上洛します。その分銭2万貫文が必要だということです。こちらの分担としてきっと300貫文も400貫文も懸けられるでしょう。どうやっても捻出するようにとのことですから、知行役・扶持役から相当量を拠出しなければなりません。この10年来『請郷』へ、扶持銭として棟別を免除しました。今年はこのような郷でも、前々と役を半分にします。そうやって、永楽銭50貫文を出せるだろうこと。一、この差し引きではありますが、私たちは指したる損失にもなりませんので、6月27、28の両日にこの分銭を調達して、ご番所の黒沢・八木・石井・奥に渡して下さい。右の条々は、あなた自身と同心で調査して調え、黄金・出物・木綿の3種類で調達なさるように。