椙山陣考-6 伝来時の改変経緯を推測
どうやって伝わってきたかを考える。 最後に個人的な推論を述べておこうと思う。『相守文書』で考察したように、毛呂土佐守宛07号文書の存在は不自然な点がある。 01)文書の分布から、武蔵国入間郡の毛呂氏よりは、上野国邑楽郡佐 …
どうやって伝わってきたかを考える。 最後に個人的な推論を述べておこうと思う。『相守文書』で考察したように、毛呂土佐守宛07号文書の存在は不自然な点がある。 01)文書の分布から、武蔵国入間郡の毛呂氏よりは、上野国邑楽郡佐 …
毛呂氏の軌跡を追ってみる。 可能な限り追ってみたところ、3つの系統が見つかった。□は小浜藩に近代まで残った川越山田系(家譜は■で示す)、○は近世初頭に小浜藩に入り後に追放された忠衛門系、△は出羽国松山藩に入り左沢領代官を …
『椙山之陣』を嵐山町の杉山とする根拠は、竹井英文氏と斎藤慎一氏が言及している。 ■千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文) 「毛呂氏が本拠とする武蔵毛呂郷の地理的位置、高基と憲房と …
1)高基が発給したのはいつか。 代々の古河公方が発給してきた文書には「相守」をキーワードにしたものがいくつか残されていることを確認した。 では『椙山之陣』07号文書の発給はいつか。発給者の足利高基の状況を確認してみよう。 …
「椙山之陣」文書は、当初見慣れない書式だった。 私は今川・後北条の文書は少しばかり読んでいるが、古河公方については義氏のものを何通か解釈しただけである。それにつけても、懸案の文書は少し短過ぎて異常に感じられる。 椙山之陣 …
発端は埼玉県嵐山町の杉山城跡 『杉山城問題』と言われる、歴史学上の解釈の議論がある。埼玉県嵐山町杉山に遺構が存在する杉山城に関して、発掘された陶磁器の年代測定にて1450~1525年頃という見解が出されたことに端を発し …
同十弐年亥 一、拾壱才之時。毛呂長兵衛と申牢人へ、手ならいニ参候。并ニうたいをならい申ニ、うたいそこない候へばはづかしき也。此師匠手前成兼候間、父母ニかくし、薪を自身はこび、かうりよく仕候へば、内義、茶の湯木をもらい候と …
彼てんちう事、たれ人承候とも、其方へふんとく申上、ゆめゝゝふさたあるましく候、恐ゝ謹言、 三月廿九日 茂呂右衛門佐(花押) そうとめねいの助殿 →戦国遺文 後北条氏編4232「茂呂某書状写」(井伊文書) あの『てんち …
如蒙仰、其以後者御無音罷過候、慮外之様ニ可思召処、令宣来候、仍有御用板倉之猟師共ニ白鳥之儀被仰付候哉、御肝要ニ存候、然ニ我等押申候由、彼者共申上候歟、 愛宕八幡〓(大+廾)為如何、御領所へ我等左様ニ慮外可申候歟、一円偽之 …
去廿日於皆川表合戦之刻、其方息太郎討捕敵、誠心地好候、殊ニ初陣之由、感悦不少候、恐ゝ謹言、 八月十日 氏政判 毛呂土佐守殿 →戦国遺文 後北条氏編3863「北条氏政書状写」(新編武蔵国風土記稿入間郡十七) 去る20日 …