どうやって伝わってきたかを考える。

最後に個人的な推論を述べておこうと思う。『相守文書』で考察したように、毛呂土佐守宛07号文書の存在は不自然な点がある。

01)文書の分布から、武蔵国入間郡の毛呂氏よりは、上野国邑楽郡佐貫の茂呂氏が適切

02)01と同様に、山内上杉家督・関東管領である憲房よりは、富岡氏・茂呂氏の上位である赤井氏(重秀・文六・刑部大輔 など)が適切

03)「無二」を伴わないことから、「相守」の前にある「椙山之陣以来」の存在は不自然であり、後世付加の可能性が高い

04)03と同様に、「謹言」も他文書に見られず後世付加の可能性が高い

05)発給者は「高基」「政氏」「晴氏」全ての可能性があるが、誰だったかは不明。「走廻之条、神妙之至」が同文言であることから、晴氏の09号文書に仮託しておく。

改変を想定するとして、どのような段階や意図を経たものかを検討してみよう。

Version_A

相守千代増丸走廻之条、神妙之至也、

天文十六年 九月五日

(足利晴氏花押)

茂呂因幡守とのへ

これが私の考える文書の原型だ。ベースとしている09号文書(富岡主税宛・足利晴氏書状)は、1547(天文16)年の年次が記載されている。赤井氏と富岡氏が関連すること、後の1552(天文21)年には、後北条政権下で茂呂氏が富岡氏を指揮下においていることから、確度は高いものと思う。

そして、この文書が上野茂呂氏から武蔵毛呂氏に渡ったのち、自家の文書とするために擦り消しが行なわれたのではないだろうか

Version_B

相守■■■走廻之条、神妙之至也、

■■■■■ 九月五日

(足利晴氏花押)

■呂■■守とのへ

更にその後、確実に自家のものとするべく異筆による書き足しが行なわれた。

Version_C

相守■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

VersionBとCが同一人物かどうかは不明だが、「相守」の対象人物はこの段階では特定できていなかったものと考えている。擦り消されたままで放置されたからこそ、現存文書に見られる混乱があったと想定しているからだ。

ここで、実際に残された下記の残存形態の方に視点を移してみる。山田吉令が書き留めた記録は2種類ある。

Version_Z

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

足利高基ノ由

花押

毛呂土佐守殿

註「■■文亀三年ト有」

Version_Y

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

現存する文書では、「相守」の対象が上杉憲房に固定され、その契機として「椙山之陣」が記載されている。「無二」を伴わないことから見て「椙山之陣以来」の後世追記は確実として、なぜ唐突に「椙山之陣」が登場するのかが判らない。

また、当初は入っていて擦り消された年次が、なぜ1503(文亀3)年になっているのか。興味を引くのが、Zが矛盾してしまっている点だ。文書の発給が文亀3年だとすると足利高基改名(1509(永正6)年)と合わないのだが……。その一方、文亀3年が「椙山之陣」(杉山役)発生年としているYでは矛盾が発生しないにも関わらず、発給者を「憲■」とぼやかしている。Y/Zともに年次の矛盾解消で混迷した気配がある。

ここでヒントとなるのは『吾妻鏡』。近世になって流布したこの書物には毛呂氏が出てくる。毛呂季光が、伊豆に流された頼朝の下人を助けたことを賞され、1193(建久4)年に所領を与えられている。そしてこの間に頼朝は「椙山之陣」を経験している。

1180(治承4)年8月24日。石橋山の合戦で破れた頼朝は「椙山」に退いて辛くも虎口を逃れる。椙山は相模西郡の湯河原の北方にあるが、伊豆国までの境界は2~3km。現代でも、湯河原・真鶴・熱海・函南を、神奈川と静岡どちらか混同している人間は多い。原文にある「椙山」という表記といい、伊豆国という記載といい、改変者が湯河原の椙山を意図した可能性は高いだろう。

挙兵前の頼朝に与しながらも、季光が石橋山に参戦した記録はない。そこで、無勢の頼朝と共に戦ったという勲功を偽装するために第2の改変者は以下のバリエーションを用いたのではないか。

Version_D

椙山之陣以来、相守■■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕鎌倉殿、豆州椙山役以有働癸亥賜書」

この改変者は、Version_Cまでを仕立てた人物とは別に存在すると思う。何故なら、年代の把握が出来ておらず、鎌倉初期の文書形式とは異なることに頓着していないからだ。第2の改変者は、鎌倉幕府草創期を意図して「椙山之陣以来」を追記する。また、註書きでは干支のみの「癸亥」に「賜書」したのだと残す。擦り消された人名に「武衛」を入れさせたかったのだろうが、頼朝を表わす言葉を限定しきれず摺り消しのまま残したように思う。ここの癸亥は、時期から考えて1203(建仁3)年が該当する。この年は頼家が危篤に陥ったことから比企能員の乱が誘発され頼家は9月7日に出家させられている。9月5日という日付は、頼家が最後に出した書状にしたいと目論んだのではないかと思われる(ということはこの日付自体この時点で改変されたとも考えられるが、その根拠はないため現時点ではこの点に言及しない)。

その後、第4の改変者が登場。ここで再び、年代の比定が変わる。この改変者は花押が関東公方であろうと判断できる人物で、「鎌倉殿」を関東公方と考えたのだ思う。また、この癸亥は、室町期だと1503(文亀3)年・1563(永禄6)年のどちらかだ。伊豆国で戦闘があったとしていることから、永禄6年(足利義氏・北条氏政)よりも文亀3年(足利政氏・上杉顕定)を採用したはずだ。註の「椙山」を異字として「杉山」とし、古河公方・上杉氏と伊勢宗瑞・今川氏親との抗争を想定したのではないだろうか。

Version_E

椙山之陣以来、相守顕定走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

政氏(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕古河殿、豆州杉山役以有働癸亥賜書」

ところが、実際に残された文書では、「相守」の対象は「憲房」で、花押は「高基之由」としており、どちらも1世代後になっている。さらに、癸亥は「椙山之陣」発生年ではなく、文書の発給年に切り替わっている。

Version_Y

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

更なる改変があったのかも知れない。一つ考えられるのが、文亀4/永正元年の立河原合戦への参戦経験が毛呂氏に伝わっていたため、その前年の武功としたかった意図だ。ついで、発給者を古河公方にしたメインバージョンと、関東管領発給としたサブバージョンを用意した。2つ用意した理由は判らないが、下書きだったサブが偶然残ったのかも知れない。

そしてこの後改変がないことから、その固着契機を仕官時の証拠整理と見るならば、毛呂長敬を第4改変者に充てられるだろう。原文書はその際に失われたものと思う。

但し、下記目撃者の記憶から、07号文書は「足利高基朝臣感状」という認識で書状の複写版として保存されていたことが判る。であれば、2つのVersionは写し文書の中に書き込むなどの手法で並存していたのだろうか。この点は今後調べる上での課題となりそうだ。

資料一

足利高基朝臣感状

同 晴氏朝臣感状

北條氏政臣人馬■■

同書

毛呂仙千代知行書立

毛呂参三郎同

右は当郷伝来古文書口写し

毛呂郷長栄寺之納置もの也

嘉永七年甲寅年 若狭家臣

九月日 山田九太夫吉令

資料二

毛呂山田系譜 一冊

伝来古文書写 一袋

若狭家臣 山田九太夫納之

(中略)筆者は長栄寺が火災にあう前まだ毛呂氏の研究があまり進んでいない三十年程前同寺住職笠松師から北條氏政文書写し二通を経眼した事があった。此の文書は忠実と言うか詳細に写され文書の虫喰い部分もそのまた写されて虫喰いと書入れてあった事を記憶している。(『あゆみ第21号』毛呂山郷土史研究会・63ページ)

残された課題。

縷々書き立てた内容は、憶測の上に憶測を重ねて更に仮定していることから、多分に恣意的な観測である。とはいえ、茂呂氏宛て文書からどのような意図で改変されたかの道筋がつながりうることを示せたものと思う。この仮説が今後の議論を促進するものになれば幸甚である。

毛呂氏の軌跡を追ってみる。

可能な限り追ってみたところ、3つの系統が見つかった。□は小浜藩に近代まで残った川越山田系(家譜は■で示す)、○は近世初頭に小浜藩に入り後に追放された忠衛門系、△は出羽国松山藩に入り左沢領代官を勤めた善太夫系となっている。

■1596(慶長元)年 山田吉之が生まれる(山田家譜)
 1609(慶長14)年 酒井忠利が川越に大名として赴任
■1624(寛永元)年 山田吉之が酒井忠勝に出仕(山田家譜)
■1628(寛永05)年 *毛呂長兵衛死去(山田家譜)
 1634(寛永11)年 酒井忠勝が川越から小浜へ転封
□1636(寛永13)年 *毛呂長兵衛死去(榎本弥左衛門覚書)
○1637(寛永14)年 百五拾石 毛呂忠衛門(小浜藩分限帳)
○1640(寛永17)年 *毛呂長兵衛死去(川越行伝寺過去帳)・百五拾石 毛呂仁右衛門(小浜藩分限帳)
○1641(寛永18)年 御代官一同 無呂仁左衛門・高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門(小浜藩分限帳)
○1642(寛永19)年 毛呂仁右衛門追放・山田弥五右衛門出仕(酒井忠勝書状)
△1645(正保02)年 毛呂善太夫藤正が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)
 1647(正保04)年 左沢領が出羽松山藩領となる
□1653(承応02)年 *花厳院宗浄・毛呂長兵衛殿・辰年四月。承応二年三月、過去帳表具之紙は山田久兵衛造立す(川越行伝寺過去帳)
□1658(万治元)年 米拾五表二人扶持 山田九太夫(小浜藩分限帳)
○1665(寛文05)年 毛呂仁右衛門が『新木古庭村山改帳』『山検分帳』を提出(伊東家文書)
 1669(寛文09)年 仙石政勝が毛呂本郷・大八木村などを拝領 宝永6年からは仙石領(角川地名辞典)
△1675(延宝03)年 毛呂八郎兵衛季方が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)
□1680(延宝08)年 毛呂長敬が旗本として出仕(寛政譜)
 1696(元禄09)年 仙石政勝隠居
□1705(宝永02)年 大谷木季貞が旗本として出仕(寛政譜)
△1742(寛保02)年 毛呂八郎兵衛が生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)
○1748(寛延元)年 拾七俵三人扶持 毛呂英吉(小浜藩江戸分限帳)
■1758(宝暦08)年 *山田吉之曾孫毛呂武伝太が追放され断絶(1774(安永3)年小浜藩家臣由緒書)

出典は大雑把な略年表ではあるが調べたことを下に書き留める。

山田家譜は余り当てにならないように思う。そもそも日蓮宗の山田氏は松山の上田氏重臣であって、毛呂よりは上田を名乗りたがるのでは、と思ってみた。では何故、川越の山田氏が「本姓は毛呂」にこだわるのか。

そう疑問を持って年表を見てみよう。面白いのは、寛永19年。川越で被官となった毛呂忠衛門の息子、仁右衛門は出世を重ねて小浜藩で代官に取り立てられる。が、この年追放されてしまう。入れ替わりに入ってきたのが、山田弥五右衛門。この山田家は後北条出身と語るが、「天正17年に相模国の八王子城に篭城」と言っている辺りはかなり怪しい。ちなみにこの系統は毛呂氏を名乗っていない。小浜藩には川越で仕官した者が多かったので、「八王子篭城」は一種のブランドだったのかも知れない。

山田吉令の先祖である山田九太夫が仕官するのはこの追放劇の16年後。毛呂氏を名乗るのはさらに100年後であるため、新入りであるが故に由来を強化するため僭称を画策したのだと思われる。

毛呂仁右衛門については、追放の23年後にひょっこりと姿を現わす。葉山から東にいった木古庭山村で山林の調査を行なっていた。この人は行政官としては無能ではなかったように思う。酒井忠勝が追放を命じたのは、代官仁右衛門が土地の都合も考えず徴税したことが原因だが、他ならぬ忠勝はその前年に「年貢が少ないからちゃんと徴税するように」と厳命を下している。察するに、江戸詰めとなって在地掌握ができない主君によってスケープゴートにされたのではないか。そして、毛呂仁右衛門は武蔵毛呂山の毛呂氏ではなかったようにも思う。確証はないのだが、この頃、後に庄内支藩松山藩の毛呂氏の祖となる善太夫が江戸に生まれている。まだ毛呂・大八木氏が旗本となる前なので、代官職を求めて放浪していた仁右衛門が江戸で求職中に善太夫を成したのではないか。そして、今度は左沢代官として陸奥の地に旅立っていったと。

旗本となった毛呂・大八木氏が何故仕官したかというと、毛呂山が天領から仙石政勝所領になったのが契機だと思われる。その後彼らは江戸に詰めて明治を迎えることから、代官志向の仁右衛門系統とは異なるように感じられる。

最大の謎は、忌日が3つある毛呂長兵衛だが、手習いを受けていた榎本弥左衛門の証言から経済的困苦にあった点、それを父母に隠していた点を勘案すると、武家として落魄した上野国の佐貫茂呂氏の系統を髣髴とさせる。また、同時期に川越にいてこちらはうまく小浜藩に入れた毛呂忠衛門・仁右衛門と同族であった可能性も高いだろう。忌日がぶれたのは小浜藩への仕官の5年前に山田久兵衛が回向を手向け、更に山田家が系図で1628(寛永5)年にまで遡らせたためだ。

山田久兵衛が毛呂長兵衛の名跡を何らかの理由で利用したと思われるが、ここから先は手がかりがない。参考までに、小浜市史に記載された毛呂・山田氏の記録を記す。

安永三年小浜藩家臣由緒書

 本国備中松山 生国若狭、寛永十九年被召出。安永三年迄百三十三年
当午二拾二歳 山田甚内
一先祖者相州小田原北条之家臣毛呂土佐守義可与申候。天正十七年相州八王子ニ而討死仕、二男刀太郎与申候致浪人罷在、其子長兵衛与申、其子弥五介与申堀尾帯刀様江知行弐百石ニ而罷出、其子弥五右衛門与申堀尾家御断絶ニ付浪人仕、備中松山江引込罷在候。
初代 山田弥五右衛門盛重
一忠勝様御代、寛永十九年被召出知行百三拾石被下置、御国中江州敦賀川除普請奉行。忠直様御代、寛文二年三方郡気山村之川除普請場ニ而病死。

寛永19年の忠勝覚書9月18日に山田弥五右衛門に屋敷を与えた記述あり。

本国武蔵生国三河、寛永四年別当被仰付。安永三年迄六十八年
当午五十六歳 山田半助
一曽祖父山田藤兵衛吉之儀、忠利様御代、寛永元年於川越被召出御宛行七石弐人扶持、其後度ゝ御加増被下置候。忠勝様御代、寛永十五年新知五拾石。忠直様御代、寛文二年五拾石御加増都合百石、同十一年隠居忰九太夫部屋住ニ而被下置。名道無与改、天和二年病死。忰九太夫吉久儀藤兵衛惣領ニ而忠勝様御代、慶安二年被召出御切米拾五俵二人扶持、其後五俵宛両度御加増都合弐拾五俵弐人扶持。忠直様御代、寛文十一年家督無相違百石。忠隆様御代、貞享三年隠居忰定右衛門部屋住ニ而被下置候御切米拾五俵為隠居料被下置。忠音様御代、享保六年病死。九太夫惣領定右衛門家督相続仕候処、定右衛門孫毛呂武伝太代ニ至、忠與様御代、宝暦八年永之御暇被下置家断絶仕候。

寛永十四年分限帳
百五拾石 毛呂忠衛門

寛永十七年分限帳
百五拾石 毛呂仁右衛門

寛永十八年分限帳
御代官一同 無呂仁左衛門
高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門

万治元年分限帳(この分限帳は元治2年に山田吉令が写したもの)
五拾石弐人扶持 山田藤兵衛
御扶持方衆
拾五人扶持 山田宗久
米拾五表二人扶持 山田九太夫
同拾五表右同断 山田次兵衛
弐人扶持 山田万五郎

寛延元年江戸分限帳
拾七俵三人扶持 毛呂英吉

『椙山之陣』を嵐山町の杉山とする根拠は、竹井英文氏と斎藤慎一氏が言及している。

■千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文)

「毛呂氏が本拠とする武蔵毛呂郷の地理的位置、高基と憲房と毛呂氏が連携して戦争を行っていること、先述したように憲房が主に武蔵と上野で戦争を行っていることを念頭に「椙山」という地名を探すと、それは佐藤氏の比定通り、杉山城が存在する埼玉県嵐山町と考えられる」(91ページ)

■中世東国の領域と城館(斉藤慎一)

「冒頭の「椙山之陣」について、『戦国遺文』では埼玉県嵐山町の注を付している。上杉憲房・足利高基・毛呂氏の三者の地理的状況を考えれば、同所に比定されるのは必然的と思われる。」(251ページ)

本当にそうだろうか。武蔵国に他の候補はあるのに、どちらの論文にもそれらを検討・除外したという記述はない。改めて考えてみたい。

『角川書店地名辞典』から候補地を列挙してみる。

A)埼玉県本庄市杉山

利根川と烏川の合流地点にあり、平井城の憲房が鉢形城にいた顕実と家督を争った際に憲房が陣を張ったと想定できる。

ここにある日輪寺は元応年間創建と伝わっており、当時杉山という地名が存在していた可能性も高い。また、連歌師宗長は『東路のつと』で、1510(永正7)年に鉢形から長井まで道案内した者の名を「杉山」と書いている。日没前に宿所に辿り着けなかった宗長は、恐らく杉山の案内で道を引き返してようやく宿を探し当てた。この杉山某は本庄市杉山の住人だったのではないか。

具体的には、古河公方と上杉氏が最初に戦った際に上杉方陣地として用いられた五十子陣の北方にあることから考えて、1511(永正8)年から翌年にかけて、平井城の憲房が鉢形城の顕実と争った際に使用したと想定できる。顕実が新田近辺に出撃する予定があったことは政氏書状で確認できる。与同する足利長尾氏・横瀬氏の渡河地点を確保しつつ、和解に尽力する扇谷朝良の拠点川越から距離を置くとなるとこの候補地は有力だろう。

B)神奈川県横浜市西区

地名辞典に掲載されているのは昭和3~41年の町名だが、名前の由来である杉山神社は多摩川右岸(横浜市・川崎市・町田市)に多数存在しており、町田市三輪には「椙山之陣」と同字の「椙山神社」が現存する。1510(永正7)年に権現山で上田氏が蜂起し、山内・扇谷の上杉氏が連携してこれを攻めた際に、山内方の後方陣地として機能した可能性がある。

但し憲房自身は権現山合戦を「上田一戦」と書いている(「発知山城入道宛書状」駿河台大学論叢41号13)。何れかの杉山神社に本陣を据えていたと伝聞した高基が「椙山之陣」と記す可能性は捨てきれないものの、この点から候補地としては難しいように思う。

ちなみに、町田市三輪の椙山神社の近くには、後に北条氏照が言及した沢山城跡があり、式内論社(延喜式に載った杉山神社はどれか判らなくなっているため「論社」と呼ばれる候補がいくつかある)3つ(茅ヶ崎ノ杉山神社・中川ノ杉山神社・吉田ノ杉山神社)が集中する中心部には、茅ヶ崎城が存在する。

C)御殿峠(八王子市片倉町・町田市相原町)

1569(永禄12)年に北条氏照が言及した「杉山峠山」。多摩郡から相模国当麻宿に抜ける鎌倉街道があり、滝山城攻囲を切り上げた武田晴信は杉山峠を越えて小田原に向かった。殿丸という高台や屋敷跡地の伝承もあり、陣所として機能した形跡もある。「御殿峠」という名称になったのは明治以降だということで、比定地としては問題ない。

山内・扇谷の両上杉氏が争った長享の乱では、山内氏が相模に何度も侵入している。1488(長享2)年の実蒔原合戦、1496(明応5)年の西郡一変、1504(永正元)年の立河原合戦から椚田奪還、実田攻めという流れから考えると、川越を攻めつつ、三田・大石といった有力家臣の勢力がある多摩郡から相模国へ転進したのが山内氏の戦略であったのだろう。さらに、1510(永正7)年には5月以前に椚田が1日だけ自落しており、7月の権現山合戦との関連性も考えられる。相模国西部から伊勢宗瑞が来ることを考慮すると、前線部隊を権現山に送りつつ、憲房自身は杉山峠にいて伊勢氏を牽制していた可能性がある。

D)杉山(嵐山町)

場所から考えて、1488(長享2)年の須賀谷原合戦との関連が高いように思う。しかし、6月の須賀谷原合戦の直後の11月、扇谷方に高見原まで攻め込まれていること、1494(明応3)年にも同じく高見原まで扇谷定正が侵攻していることから、ここに陣を置く局面があったかは不明。

竹井氏・斎藤氏の論文では、長享の乱後を想定している。『勝山記』『石川忠総留書』から両上杉氏に抗争があり、その際に『椙山之陣』が置かれたという考えだ。しかしこの時期の扇谷氏は東進する北条氏綱への対策に奔走しており、勢力も弱くなっている。憲房が嵐山杉山に陣を置くほどの軍事的緊張があったとは考えがたい。

むしろ、氏綱に川越を奪われた1535(天文4)年8月以降の方が自然である。川越奪回を狙う扇谷方の拠点として両上杉氏が共同構築したのであれば、現在残っているという技巧を凝らした縄張りも首肯し得るだろう。但しそうなると『椙山之陣』文書に登場する人物がつながらない。足利高基は同年6月に死去、上杉憲房に至ってはその10年前に亡くなっている。また、毛呂土佐守は1524(大永4)年以前に氏綱方に変わっている。

※黒田基樹氏比定では1511(永正8)年となっている、「釜形陣以来」という表現のある憲房書状がある。文中に「可諄も同意候き」とあることから顕定生前のものとされているようだが、「釜形」を嵐山町鎌形と考えると1524(大永4)年の毛呂城争奪に関係していると思われる。この点は別記事で何れ検討したい。

上記をまとめると、Cの杉山峠は長享の乱を通じて可能性があり、また権現山合戦時でも想定が可能である。ここが第1候補といえる。Aの本庄杉山は憲房・顕実係争時にしか比定できないが、利根川渡河地点との関連性を考慮すると充分可能性はある。Bの杉山神社群は比定地が曖昧で絞りきれない点と憲房が「上田一戦」と表現している点が弱い。今後新情報が出た際には考慮すべきかも知れないが、現時点では明確な候補地にはなり得ない。Dの嵐山杉山については、完全に否定するところではないものの解釈が最も苦しいと言わざるを得ない。

ちなみに近世の『武蔵田園簿』に出てくる「杉山村」は、本庄市と嵐山町の2つのみである。

『椙山之陣』関係地一覧

1)高基が発給したのはいつか。

代々の古河公方が発給してきた文書には「相守」をキーワードにしたものがいくつか残されていることを確認した。

では『椙山之陣』07号文書の発給はいつか。発給者の足利高基の状況を確認してみよう。

高基の初名は高氏だが、07号は「高基」名義である。高氏名義文書の終見は1508(永正5)年、高基の没年は1535(天文4)年なので、この間であることは確実だ。

そして、文中に出てくる上杉憲房の養父である顕定は政氏と高基の和解に奔走した人なので、顕定が生きている間に、顕実を蔑ろにするようなこの書状が発されたとは考えづらい。そうなると始点は1510(永正7)年6月以降となる。

 1516(永正13)年には高基の家督相続が確定していることから、終点はここかも知れない。もっと絞るならば、憲房が関東管領となっていない期間、もう1人の養子である顕実(政氏の弟で反高基派)を鉢形から追い出した1512(永正9)年6月までとする考え方もできるだろう。

憲房・顕実の係争時の発給と考えると、毛呂土佐守にわざわざ高基が『相守文書』を出した要因も判り易い。高基元服後で山内上杉氏が割れたのはこの時だけだからだ。憲房派には横瀬・足利長尾が、顕実派には惣社長尾・成田がいる。三田・大石といった武蔵西部の国衆の去就は明らかになっていないが、顕実の鉢形城が3日も持たずに開城していることから、憲房派となった可能性は非常に高いと考えられる。

『椙山之陣』07号文書の日付は9月なので、6月に顕定が戦死し憲房が越後と上野、武蔵を駆け回っていた永正7年はちょっと考えづらいように思う。実際、8月3日憲房書状では、権現山合戦に部隊を派遣したという記述と、未だに沼田付近で長尾景春と対陣していることが述べられている。同様に、6月には鉢形が自落している永正9年も疑問だ。高基に追認されなくても憲房の政権は確定しているのだから。

上記を受けてこの論では1511(永正8)年9月の「椙山之陣」文書が発給されたと仮定してみる。時に、古河にいる政氏が49歳、関宿で対抗している高基は26歳。高基派についた憲房は44歳だから、高基とは親子ほどの年齢差がある。47歳と推測される扇谷の朝良が政氏と憲房の間にいる形だ。ちなみに、長尾景春は67歳、伊勢宗瑞は55歳(新説)で伊勢氏綱は24歳。長尾為景は21歳、武田信虎は17歳で今川氏親は38歳。

まとめると、以下のようになる。

■老年:長尾景春・伊勢宗瑞
■壮年:足利政氏・扇谷朝良・山内憲房
■中年:今川氏親
■若年:足利高基・伊勢氏綱・長尾為景・武田信虎

さて、この時の憲房の状況を考えてみよう。自らも越後に同陣した顕定の敗死後、仇敵長尾為景に便乗するように長尾景春・伊勢宗瑞がちょっかいをかけてきた。中でも権現山で上田蔵人を蜂起させた宗瑞は手強く、扇谷朝良と共同で素早く鎮圧して被害を最小限に留めているものの、一歩間違えれば相模・武蔵を失う可能性もあった。

悪戦苦闘の日々の中で、何もしていない顕実が管領となっている。そんなところに高基から声がかかる。典型的な自派工作だが、憲房にとっては渡りに船だ。気脈の通じた者を列挙して『相守文書』を発給してもらい、政氏=顕実派の切り崩しを始めた。朝良が「顕実・憲房間事、是又色ゝ様ゝ雖令教訓候、為事不成」と嘆いていることから考えても、顕実と憲房の係争は朝良の仲裁を受けながら一定期間継続していた可能性が高い。

2)「椙山之陣」はいつ起きた?

発給が永正8年9月だったとすると、「椙山之陣」が発生したのはいつだろうか。竹井氏の論文で、山田氏家譜内に「椙山之陣」は1503(文亀3)年との注記がある旨報告されている。その他の記載内容から竹井氏はこの注記は考証に耐えないとしているが、日付に関しては正しく伝わっている可能性も捨てきれないと思う。

実は、その翌年である文亀4年は途中で改元して永正元年となってその11月に立河原合戦が起こる。これに毛呂土佐守入道が関わったのは確実なので、一概に退けるべきではないだろう。この頃は山内・扇谷が係争する長享の乱の末期に当たり、伊勢宗瑞を媒介して今川氏親の援軍を活用した扇谷朝良が暫定的に優位に立っている(その直後に越後勢を引き入れた山内顕定が巻き返す)。

宗長の手記によると、この立河原合戦の直前まで山内・扇谷両軍は膠着状態にあった。そこへ急遽伊勢・今川・朝比奈・福島の扇谷への援軍が稲毛枡形山へ集結。後退する敵を追って一晩野営し、翌朝から戦闘、最後に山内方が立川に退却して一連の戦闘は終了している。

つまり、枡形山からどこかへ向けて連合軍は進撃しており、立川は山内方が最終的に逃げ込んだ場所になる。「立河原」と呼ばれたのは、多摩川を立川へ渡河する山内方を追撃した戦闘が最も大規模だったために名づけられたのだと考えられる。山内方の退却路としては関戸からのルートも充分考えられるが、その年12月に椚田要害を山内方が奪回していることから考えると、杉山峠から片倉城(椚田要害)で奇襲を受けて日野経由で立川へ落ちて行ったという解釈も有力だろう。山内方は、西多摩の有力被官である大石・三田氏の支援のもと、長享の乱初期から相模への侵入を度々行なっていたと思われ、そのルートを退却していったとも受け取れる。

各人員の年齢を並べると、1503(文亀3)年は、政氏41歳、高基18歳。憲房は36歳で朝良は39歳。長尾景春は59歳、伊勢宗瑞は47歳(新説)で伊勢氏綱は16歳、今川氏親は30歳。

 あくまでも、文書が正文であるという前提だが、1503(文亀3)年に発生したのが武相国境の「椙山之陣」で、高基から土佐守に発給されたのが1511(永正8)年と考察してみた。

「椙山之陣」文書は、当初見慣れない書式だった。

私は今川・後北条の文書は少しばかり読んでいるが、古河公方については義氏のものを何通か解釈しただけである。それにつけても、懸案の文書は少し短過ぎて異常に感じられる。

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

足利高基ノ由

花押

毛呂土佐守殿

そこで、「相守」をキーワードに諸史料を当たったところ、『椙山之陣』文書は、古河公方が代々発給していた一定のテンプレートに添った文書であることが判った。

『相守文書一覧』

文書自体の意味を考えると、古河公方から陪臣(家臣の家臣)に出されている点から、宇都宮成綱・小山成長らの統制力を増すために出されたように見える。

「相守」という言葉は『相守文書』以外の2文書でも使われており、物理的な守備・護衛ではなく、忠義を守るような意味合いと指摘できるだろう。

足利高基、某に、徳誕蔵主の死去を伝え因幡守を守って忠信に励むよう伝える

徳誕蔵主死去、無是非候、然者、相守因幡守、無二励忠信候

上杉顕定、長尾景春に、久下信濃守の伊勢参拝道中を保障するよう、伊勢宗瑞への仲介を依頼する

久下信濃守事、累年相守当方、忠節異于他候

「以来」の用法にこだわってみると……。

古河公方が陪臣に向けて直臣への忠義を認めるという文書の意味合いから考えて、「以来」はその陪臣が忠義を行なった由緒を示すものとなる。つまり、毛呂土佐守は「椙山之陣」からずっと憲房に忠義を尽くしていたのだから、その契機は遡るほど評価が高いことになる。

「以来」という語の使い方を見ても、今川氏親書状では9年遡った例がある。

今川氏親、本間宗季の軍忠状を認定する

御入国以来忠節仕条々、一座生御城江信州一国罷立相攻候処

この文書の発給は1510(永正7)年、遠江国蔵王城を信濃国衆が攻めたのは1501(文亀元)年頃。少なくとも、後の項目で挙げられた立河原合戦が1504(永正元)年であることは確実なので6年以上遡っていることは確実である。「以来」の契機がどこまで遡れるかは特定できないので、椙山之陣発生時期は憲房初陣まで範囲に入るだろう。

また、『椙山之陣』は憲房の指揮下に入った契機であることしか示さないので、この陣に憲房が存在しなくてもよい。究極を言えば、憲房も毛呂土佐守も別の場所にいたのだが、契機としては『椙山之陣』があったという理解も成り立つ。とはいえ忠義を称える文面から、土佐守はこの陣にいたと考える方が自然だと考えている。高基に関して言えば、この陣で憲房と没交渉、もしくは敵対していたとしても問題はない。発給時点で憲房と協調関係にあればよい。

以上から、高基が発給した年と、『椙山之陣』が発生した年は別個に存在することを検討しなければならない。勿論、両者が同年であるという比定も可能だ。年比定については項を改めて検討する。

とにかく例外が多すぎる。

そして、表中で目に付くのが07号とした『椙山之陣』文書の例外ぶりである。まず利根川右岸の、しかも山内上杉氏を媒介にしているのは異様である。赤井氏・冨岡氏との関連から考慮すると、後に後北条氏方として登場し佐貫(赤井氏旧領)を拠点として冨岡氏と連携している茂呂因幡守宛と考えるのが自然に思う。原文書が武蔵毛呂氏に渡り、近世になって宛所が書き換えられたのではないか。

その改変に伴って、「無二」を伴わない文頭である「椙山之陣以来」と、文末の「謹言」が書き加えられたとするならば、07号文書の原型はようやく、一連の相守文書と親和性が確保できる。改変の可能性を示唆するのが竹井氏論文である。

■千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文)

 注書き内

「なお、「家譜覚書」に[史料1]と同文で「憲 花押」とある史料があることも知った。そこには、「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」と注があり、[史料1]に「■■文亀三年ト有」と注があるのは、このことを指すと思われる。しかし、その根拠は不明確で、注の内容も事実関係として全く合わない。内容的にも足利高基書状とみて間違いないと思われる。」(101ページ)

確かに指摘通りで、1503(文亀3)年当時の山内家当主は顕定であって憲房・憲寛は該当しない。また、伊豆国に「杉山」という地名があったかは判らない。但し、1496(明応5)年に相模西郡に山内方が侵攻したという顕定書状、矢野憲信が顕定の指示で駿河国御厨に在陣したという顕定書状はあるので、伊豆国での紛争に憲房が参加した可能性はわずかにある(1503年だと憲房は36歳前後)。

それはさておき、このような写しの存在は07号文書への改変が試みられたという証左である。他の『相守文書』との文言的乖離と合わせてこの点は強く指摘したい。

発端は埼玉県嵐山町の杉山城跡

 『杉山城問題』と言われる、歴史学上の解釈の議論がある。埼玉県嵐山町杉山に遺構が存在する杉山城に関して、発掘された陶磁器の年代測定にて1450~1525年頃という見解が出されたことに端を発している。その見解が出るまでは、縄張り構成から城郭研究者が天文末年以降の後北条氏築城と唱えていた。このため、発掘調査の結果と齟齬が発生した。同時に、継続して発展・拡張されたものではなく1度使った後は放棄されたとの見解が発掘者から出てきた。こうなると、「じゃあどちらなのか?」的な議論になってくる。

 その後『戦国遺文古河公方編』が、毛呂土佐守宛・足利高基書状写の「椙山之陣」を嵐山町杉山に比定した。このために「発掘調査と文書が適合した」とする主張が出てきた。書状写内の足利高基・上杉憲房の活躍時期から、後北条氏が進出する前に杉山城が存在したというのである。

 この主張をしているのは、『千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」』(竹井英文氏)と『中世東国の領域と城館』(斎藤慎一氏)の2論文である。

 この問題の詳細については、静岡のお城というサイトの「お城の研究」>「最新の研究動向紹介」に判りやすくまとめられている。私の稚拙で駆け足な説明では心もとないので、興味を持った方は是非ご参照を。

『杉山城問題』の論点を短くすると以下のようになる。

[note]城郭研究:後北条氏がその城郭技術を用いて築造した高度な設計と定義
発掘結果:後北条氏が川越を領有する1537(天文6)年以前と指摘
文献研究:「椙山之陣」=嵐山杉山城と比定し、山内上杉氏関与と指摘[/note]
[warning]私は研究史に疎いのでちょっと胡乱だが、研究として先行したのは縄張りを現地に行って調べて回る城郭研究だと思っている。年代測定の技法・発掘状況を考えると考古学的研究は最近のものだろう。そして、文献研究についても自治体史を中心とする文書の編年列挙・釈文化が本格化したのは80年代以降だと思うので、実は新参としての側面がある。であれば、先行する城郭研究は後進に否定されたことになり、ここに、この懸案が純粋論理で展開できていないように見える素地が隠されているような気もする。[/warning]

文書をちょっと調べてみた

 縄張り論や遺物論への知識はないが、古文書であれば私にも少し判る。その書状写を読んでみた。

足利高基、毛呂土佐守が上杉憲房を守って活躍したことを賞す

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

足利高基ノ由

花押

毛呂土佐守殿

非常に短い。一読すると「『椙山之陣』からずっと毛呂土佐守が上杉憲房を守備したと、足利高基が誉めた」という内容だ。文中で登場する上杉憲房の生没年は1467(応仁元)年~1525(大永5)年。1450~1525年という発掘調査結果と合致している。なるほどと思いつつ、少し疑問が出てきた。

1)この文書は正しいものか?

写しというよりは家譜内に記されただけの文書であることから、綿密な検討が必要だろう。毛呂氏の諸系図には一次史料で判っている人物が入っていない(三河守・季長・左衛門丞)。特に三田氏から毛呂幻世の養子に入ったことが確実な季長は、永正年間に元服しており、今回の文書とほぼ同時期に活躍した人物だ(武蔵三田氏 論集・戦国大名と国衆4/黒田基樹)。毛呂氏にとっても中世末期の最重要人物だが、何故か系図には存在しない(毛呂山町史料集第3集)。

その一方で、旗本として近世中期に仕官した毛呂長敬・大谷木季貞は出てくる。となるとこれらの系図は長敬・季貞の仕官用に作成された可能性が高く、戦国期以前の信頼性には問題があると思う。『毛呂山田系譜』では永和~応永年の人物と、1567(永禄10)年卒の義春で官途を『因幡守』としていることから、上野国佐貫の別系統『茂呂』氏から文書を買い取った可能性もあるだろう。

2)文書の解釈は正しいのか?

まず、「以来」という語の扱いが気になっている。竹井氏・斎藤氏の杉山嵐山説では、「椙山之陣」発生時と高基発給時を近い日取りで考えているようだ。しかし、他の文書を見る限り「以来」は結構遡れる表現である。また、「相守」については物理的な守備・警護を意味していないことが歴代古河公方文書で判った。1と合わせて次回検討してみる。

3)土地の比定は嵐山のみか?

「杉山」は、高山・松山などとともに、割合普遍的に存在している地名ではないだろうか。地名辞典を見ても他の候補は存在した。そこで、それぞれを列記して検討する。

などと書き立ててはいるが、日曜史家ゆえに認識違いや知識不足、論の齟齬も多いと思う。自説に拘泥するものではないので、お気づきの点は随時コメントをいただきたい。

同十弐年亥

一、拾壱才之時。毛呂長兵衛と申牢人へ、手ならいニ参候。并ニうたいをならい申ニ、うたいそこない候へばはづかしき也。此師匠手前成兼候間、父母ニかくし、薪を自身はこび、かうりよく仕候へば、内義、茶の湯木をもらい候と慶也。余り嬉しがり、ちやうぎニのせられ候ヘば、心之中ニて腹たち申也。

同十三年子

一、拾弐才之時。春中、右長兵衛殿御遠行、ほつけ宗ニて法名けらくいんさうじやうと申候。則手本之うらに書付、ゑかう申。年寄たる時、物語ニ可仕と存候て、覚書仕候事、此時より心がけ申候。同年ニ養寿院ノ脇りやう千慶院ニて、又手ならい仕候。

「榎本弥左衛門覚書」P23

 寛永12年亥年。一、11歳の時。毛呂長兵衛と申す浪人へ手習いに参りました。同時に謡を習いましたが、歌い損ないまして恥ずかしいことでした。この師匠は家計が苦しかったので、父母に隠して薪を自身で運び、合力したところ、内々で茶の湯の木をもらったと喜んでいました。余りに嬉しがっているので、計略に乗せられたのにと心中腹を立てたものです。

 寛永13年子年。一、12歳の時。春の間に、右の長兵衛殿が亡くなった。法華宗で法名を「けらくいんさうじやう」と言いました。すぐに手本の裏に書き付け、回向申しました。年をとった時に物語に使おうと思って覚書をしたのは、この時から心がけたことです。同年に養寿院の脇寮千慶院にて、また手習いをしました。

彼てんちう事、たれ人承候とも、其方へふんとく申上、ゆめゝゝふさたあるましく候、恐ゝ謹言、

三月廿九日

 茂呂右衛門佐(花押)

そうとめねいの助殿

→戦国遺文 後北条氏編4232「茂呂某書状写」(井伊文書)

 あの『てんちう』のこと。誰かが承ったといっても、あなたへ『ふんとく』申し上げ、ゆめゆめ無沙汰がありませんように。

如蒙仰、其以後者御無音罷過候、慮外之様ニ可思召処、令宣来候、仍有御用板倉之猟師共ニ白鳥之儀被仰付候哉、御肝要ニ存候、然ニ我等押申候由、彼者共申上候歟、 愛宕八幡〓(大+廾)為如何、御領所へ我等左様ニ慮外可申候歟、一円偽之義共ニ候、扨又愚領之内ニ而者、我等者猟を仕候間、他領之者ニ者、不為致之候、喩目安を以申上候共、此外申処無之候、貴辺得御指南上者、〓(己+十)竟可然様ニ 御大途へも被御申上、■過分候、委曲令期後音之時候、恐ゝ謹言、

茂又 康秀(花押)

極月十五日

垪伯 御報

→戦国遺文 後北条氏編4576「茂呂康秀書状」(茂木文書)

 仰せのように、それ以後はご連絡もなく過ごしておりました。慮外のようにお思いでしょうところ、お伝えをいただきました。さて御用があり、板倉の猟師どもに白鳥のことを仰せ付けられたのでしょうか。ご肝要に思います。しかるに私が妨害したとのこと、あの者どもが申し上げたのでしょうか。愛宕八幡、いかなるため、御領所へ私がさように慮外を申すでしょうか。一円偽りのことです。そしてまた私の領地のうちでは、私は猟をしますから、他領の者にはこれを致しません。たとえ目安で申し上げようとも、このほかに申すところはありません。貴辺のご指南を得た上は、結局しかるべきように、御大途にも申し上げられ過分なことです。詳しくは後の連絡を期します。

去廿日於皆川表合戦之刻、其方息太郎討捕敵、誠心地好候、殊ニ初陣之由、感悦不少候、恐ゝ謹言、

八月十日

 氏政判

毛呂土佐守殿

→戦国遺文 後北条氏編3863「北条氏政書状写」(新編武蔵国風土記稿入間郡十七)

 去る20日皆川方面において合戦した際、あなたの子息太郎が敵を討ち取り、誠に心地よいことです。特に初陣とのこと。感悦は少なからぬものです。