読了して改めて思ったが、日本ではこの作品がディケンズの代表作になっているのが不思議だ。解説の中野好夫も書いているが、後期作品の割には『ご都合主義』に凝り固まっている感じ。マダム・ドファルジュの最期しかり、クランチャーの悔悟しかり、そしてドルトル・マネットの退行しかり。これが『荒涼館』だったら、グチャグチャのままさらに混迷させる力技も見せてくれただろうに……と思う。
 ただ、カートンとお針子の静かなやり取りは読み応えがある。哀感と諦観が組み合わさって、身代わりとして死にゆく男と冤罪の少女が一対の偶像に昇華していく様子は圧巻。死刑執行の直前まで経験したドストエフスキーのような異様なリアリティは薄いものの、情景とストーリーを巧みに混ぜ込んでいる。ギロチンによる死刑執行に沸き立つ群衆からカートンとお針子を見ていたと思うと、あっという間に視点が切り替わって、二人だけの緊密な交感にフォーカスしたり。ペンが踊るように走っていて、このシーンは何度読んでも飽きることがない。もう少し大時代な筆致でなければ……と思ってしまうのだが、これは現代人の驕りかも知れない。

去月廿六日、於大給城北沢水手、被官石原藤二郎・蜂谷又一郎・加納甚三・松平彦一・小者藤若、敵三人討捕之云々、誠以神妙之至也、弥可励忠節者也、仍如件、

天文廿一年

六月三日

義元(花押)

松平甚太郎殿

→静岡県史「今川義元感状」

 先月26日、大給城北沢の水源地で、被官の石原藤二郎、蜂谷又一郎、加納甚三、松平彦一、小者の藤若が、敵3人を討ち取ったとのこと。誠にもって素晴らしいことである。ますます忠節に励むように。

去己酉年山口内蔵令同意、依可抽忠節造意現形、於尾州数ヶ所知行捨置馳来、其以来無足奉公、甚以忠節之至也、既安城陣之刻、以阿部大蔵、兄三左衛門尉跡職之内百貫文地、雖可出置之由申、一円彼跡職之知行可請取之由令遅延云云、然者、任安城陣之刻約束之旨、佐々木郷内伊奈分・又太郎分・東浦分・中切分参ヶ壱但除松平彦九郎相拘之分、藤野柳原、百貫文之分所宛行之也、縦雖有及異儀輩、不能許容、可知行之、弥可励忠節之状如件、

天文弐拾年

八月二日

治部大輔(花押)

松平三蔵殿

→静岡県史「今川義元判物」

 去る己酉年(1549(天文18)年)に山口内蔵を同意させ、忠節にぬきんでていることが判った。尾張国での領地数ヶ所を捨ててこちらに来て以来無償で奉公し、とても忠節の至りだった。安城での戦闘時、兄の三左衛門尉の相続地の内100貫文を与えられたものの、一円の相続が遅延していると阿部大蔵より聞いた。安城陣の際の約束の旨に任せ、佐々木郷の内伊奈分・又太郎分・東浦分・中切分1/3、但し松平彦九郎の所領は除く。藤野柳原。以上の100貫文を与える。たとえ異義を申し立てる者があっても許容しない。これを知行するように。いよいよ忠節に励むこと。

於去年高橋衆任兼約之旨、佐久間九郎左衛門切候、依其忠節、竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々、抽粉骨之上者、永不可有相違者也、仍如件、

天文十九

十一月十三日

治部大輔 在判

天野孫七郎殿

→静岡県史「今川義元判物写」

 去年高橋衆と交わした約束により、佐久間九郎左衛門を切りました。その時の忠節により、竹千代の大浜領のうち、藤井隼人の名田から5000疋(50貫文)を拠出するとのこと。ぬきんでた活躍をした上は、末永く相違ありません。

今度佐久間切候事、無比類候、然者兼約之事ニ候得者、藤井隼人名田之内を以為五拾貫文出置候、於末代不可有相違候、仍如件、

天文十八

十月廿七日

安部大蔵 在判

石河右近将監 在判

天野孫七郎殿

→静岡県史「石河右近将監・安部定吉連署状写」

この度佐久間を切ったことは比類のないことです。よって兼ねて約束していたように、藤井隼人の名田の内から50貫文拠出します。末代に至るまで相違はありません。

※「佐久間切候事」は意味不明なので暫定的に「切ったこと」と訳している。

北丹進退之事、越相一味申上者、有御赦免、可被懸御意候、此儀其方頼入存候、委細源三申入候、恐々謹言、

卯月廿七日

氏康

山吉孫次郎殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状写」

 北丹(北条丹後守)の進退ですが、越後と相模が同盟を結んだ上は、御赦免いただけるように決裁を願い出ていただけますか。このことはあなたにお願いいたします。詳細は源三(北条氏照)が申し入れます。

去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌、弟甚尉最前ニ入鑓、粉骨無比類之処、当鉄炮令討死、因茲各重合鑓、遂粉骨之間、即敵令敗北之条、甚以忠節之至也、彼者事者、去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城へ相退砌も、既尽粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間、彼此以忠功令感悦者也、仍如件、

永禄元年

四月廿六日

義元(花押)

足立右馬助殿

→戦国史研究 52号「今川義元感状」

 去る24日の寺部に出撃した際、寺部の援軍として出動した広瀬の部隊に馳せ向かったところ、岡崎と上野の部隊が一戦に及び、弟の甚尉は真っ先に槍を入れた。粉骨は比類がなかったが鉄砲に当たって討ち死にした。これにより各部隊が槍を合わせ粉骨を遂げたおかげで敵を敗北させた。はなはだもって忠節の至りである。彼は去る辰年(1556(弘治2)年)に上野が味方に属した際、勝正(右馬助?)と同じく岡崎より上野城に退いた折も、既に粉骨を尽くした上、あの城が赦免になるように調整した。かれこれの忠功は感悦するものである。

如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、

十七年

三月十一日

氏康 在判

織田弾正忠殿

御返報

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状案写」

お手紙のように、近年は遠路もあって書状が滞っておりました。丁寧にご連絡いただいて嬉しく思います。三河国のことですが、駿河国に相談もなく、去年あの国に向けて軍を進め、安城城をすぐに陥落させたとのこと。いつものご戦功、素晴らしいことです。ことに岡崎城をその国より押さえていることで、駿河国にも今橋で本意を遂げられ、それ以後、その国では万事の支配が相違してしまったのでしょうか。このことで、あの国に詰められたと承りました。無理もないことです。特に駿河国とこちらの関係でお尋ねいただきました。近年和平を結びましたが、あの国から疑心が止むことがなく困惑しております。清須から御使者とお手紙を頂戴したこと、かたじけなく思います。とにかくお礼を申し上げます。詳しいことは御使者よりご説明があることでしょう。

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖遂一和候、自彼国疑心無止候、委細者、御使可申入候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、

天文十七

三月十一日

氏康 在判

織田弾正忠殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状案写」

 お手紙拝見しました。本望の至りです。近年は遠路もあって書状も滞っておりましたが、本意ではありません。駿河国(今川氏)と我々とのことをお尋ねでしたが、先年和平を結んだとはいえ、あの国からの疑心は止みません。詳しくは御使者にお伝えしましたので省かせていただきます。お心に添いますように。

参河国奥郡野田郷一円代官職之事、散田共ニ、

一就長沢在城、惣員数之内弐百五十貫文、為給恩可引取之事

 付、此内五十貫文与五右衛門尉ニ宛行之、

一為不入申付上者、諸課役并吉田之原普請人足等停止之、長沢之城中普請無油断可申付、彼地百姓等并他被官以下、対代官於存譴意者、遂糾明理非落着之上可令改易之事

一親類・同心等構述懐就付他者、如法度給分等召放、別人江長能可申付之事

右、三州吉田以来田原本意之上迄、異于他励粉骨之条、忠功之至也、然上長沢在城所申付也、根小屋・あき屋敷等長能被官等可置之、并竹木諸普請之具人足等、如前々長沢郷中■可申付、但彼城就上表者、野田代官職共可令上表也、弥可抽奉公之状如件、

天文二十年

七月四日

治部大輔判

匂坂六右衛門尉殿

→静岡県史「今川義元判物写」

 三河国奥郡野田郷一円の代官職について(散田含む)。長沢城駐屯について、総計250貫文を給地として引き取るように。このうち50貫文は与五右衛門尉に給付すること。不入権のある者は諸作業と吉田之原普請は免除する。長沢城中の普請は油断なく行なうこと。在地の百姓・被官で代官に反抗する者があれば、事の詳細を検討して処分するように。親類・同心で反抗する者は法律に照らし合わせて解雇し、別人を長能が任命すること。このことは、三河国吉田以来、田原で本意を遂げるまで、他と異なり活躍に励み忠功の至りである。そこで長沢への駐屯を命じる。城下町・空き家などに長能の被官を置くこと。建築材や作業夫は以前から長沢郷に申し付けている。但しあの城の上表する場合は野田代官職と一緒に上表すること。ますます奉公に励むように。