就当国出馬、来札披見候、此表仕置如存分申付候、為如何此度無参陣候哉、不審候、仍獵燭到来、祝着候、恐ゝ謹言、

七月廿日

 氏直(花押)

富岡六郎四郎殿

→戦国遺文 後北条氏編2378「北条氏直書状写」(富岡家古文書)

天正10年に比定。

 当国出馬についていただいた書状を拝見しました。この方面の処置を存分に申し付けました。どうしてこの度は参陣がなかったのでしょうか。不審に思います。蝋燭が到来しました。祝着です。

一、此度滝川左近将監与於上州前橋合戦之刻、父子前登進敵ト戦大勢ヲ追崩、殊ニ首取候事、又無比類働一人当千也、此度勧賞、相州愛甲郡於奈良沢郷弐百貫文之所宛行者也、仍如件、

天正十年[壬午]

 発仙 奉之

七月廿三日

山口郷左衛門殿

同 弥太郎殿

→戦国遺文 後北条氏編2380「松田憲秀朱印状写」(新編武蔵国風土記稿高麗郡十)

 この度滝川左近将監と上野国前橋で合戦した際に、父子で前に登り進み敵と戦い大勢を追い崩し、とくに首級を取りましたこと。また、比類なき活躍は一騎当千でこの度表彰し相模国愛甲郡奈良沢郷において200貫文を宛て行なうものである。

史料を何度も見ているうち、最初の解釈の通りではないかも知れないと気づいた。

何方之押ニ候哉、

 まず氏政はここで質問している。「押」というのは部隊を繰り出す部分を指す。この質問と文末「乍次申候」から考えて、出撃地点の決定は氏邦が行なう可能性が高い。つまり、氏政はこの作戦で「お客さん的援軍」なのだと思われる。

昨日の所ならハ、

 既に前日攻撃している範囲を指している。前日とは異なる場所に繰り出す可能性があるということだ。

昨日の松山与上州衆あかり候高山と、

 同じく前日のことを指す。ここを私は「松山衆と上州衆が上がった」と解釈した。

A案:松山・上州衆が上がった高山と

と考えたのだが、松山も知名であり、高山と並立するとする読み方もある。

B案:松山と、上州の衆が上がった高山と、

 つまり、松山は説明なしだが、高山については「上州の衆が上がった」という説明が付記されているという読み方だ。こう解釈すると、続く文が自然に流れてくる。

其間往覆の道ニなわしろ共多候キ

 「その間」をA案で考慮すると、高山に呼応する場所が判らなくなる。走り書きのような書状なので、一先ず「敵の城」と仮定してみたが若干苦しい。その点B案ならば、松山と高山の間の往還を指すのは自明である。

 次に、松山は単に名称だけ呼び、高山は修辞をつけた要因について考える。氏政は「松山はよいが高山は説明を入れたい」と考えたのだろう。その理由として2つ考えられる。

C案:氏邦が近辺の地理に不案内で、氏政から説明が必要だった。
D案:氏政が近辺の地理に不案内で、氏邦に説明できるか不安だった。

 C案は、直接指揮下にある上州衆が赴いた地点を氏邦が把握していないのは不自然だ。どちらかといえばD案、氏政の方が不案内で、高山という地名に確信が持てず「上州の衆が上がった」と足すことで、誤認識の危険を避けたのだと思う。

 誤認識の忌避でいうなら、「松山」「高山」は固有の地名だと推測した方がよい。「松が多い山」、「小高い山」を記述した可能性も残るが、短文とはいえ戦術指示書で曖昧な地名を付すとは考えにくい。高山については上州衆が上がった地点だから具体的だが、それでも取り違える可能性は残される。ましてや、「松が多い山」などと言ってもどの山かは特定できない。

 後北条氏にとって自明の「松山」といえば埼玉県東松山市の松山城だが、1581(天正9)年以降で戦闘が行なわれた史料はないし、状況からいって考えにくい。

 また、高山城というと、群馬県藤岡市南西に大規模な山城として存在する。しかし、この拠点は後北条氏にとって天文末年の平井城攻めからの馴染みの城であるから氏政のうろ覚えと矛盾する。北方の榛名南西麓に「松山城」もあるものの、かなり距離があるし直接つながっている古道も見当たらない。この線は薄いだろう。

 地理的な面から考慮すると、松山と高山のセットをどこかで見つける必要がありそうだ。

去七日甲州至于■■子、氏直打詰候、敵新府之要害をかた取、切所当前

[懸紙]「[墨引]大藤式部丞殿 自小田原[墨引]」

[竪切紙]遠候之仕合竭粉骨由、聞届候、誠心知好感悦候、向後大切之模様候条、委細幻庵へ以書付申候、遂分別専一候、謹言、

八月十八日

 氏政(花押)

大藤式部丞殿

→戦国遺文 後北条氏編2396「北条氏政書状」(大藤文書)

天正10年に比定。

 遠州の作戦でご活躍なさったとのこと、伺いました。本当に心地よく感じ入りました。今後重要な事柄がありますから、詳しくは宗哲に書付で伝えています。的確な判断をすることが専一です。

去七日甲州至于■■子、氏直打詰候、敵新府之要害をかた取、切所当前打向候間、当日無一戦候、定而被立越人数可有直覧候条、不能具候、 一、此度者当家之是非迄候、於彼表無勝利者、滅亡之外有間敷候、過塩味間敷候、 一、当日ニ可戦無之間、可為対陳歟与勘弁候条、分国中為男者をかり集、五七日之内遂出馬、甲州へ可打入候、只今之陣庭与甲府之間卅里之内候、よりのかぬ対陣ニ候者、氏政出馬物裏之行を以、敵敗北更無疑候、 一、数代之因此時候、自身用捨ニ候者、調次第人数、氏政手本へも可被立越候、大手へも纔之出勢之由候、畢境奇麗武具も入間敷候、調次第待入候、但中村作倉衆を同道申可来候間、彼御人数与一同尤候、若此時如例式大方ニ於御取成者無申候、過去未来可被遂勘弁事専一候、恐ゝ謹言、

八月十七日

 氏政(花押)

原式部大夫殿

→戦国遺文 後北条氏編2395「北条氏政書状」(佐野正司氏所蔵文書)

天正10年に比定。

 去る7日に甲斐国の若神子に至り、氏直が行き詰りました。敵は新府の要害を拠点にして有利な地形で対峙しているので、この日も戦闘はありませんでした。きっと派遣した部隊からの報告をご覧になっていると思いますので、詳しくは申しません。一、この度は当家の存亡がかかっています。あの方面で勝利できなければ、滅亡するほかないでしょう。余り考え込まないように。一、この日戦闘がなかったので対陣するよりないかと鑑みて、分国から男子全てを駆り集め、数日の内に出馬します。甲斐国へ侵攻すれば、現在の陣地と甲府は30里以内で互いに退けぬ睨み合いですから、氏政の出馬が背面からの挟撃となって、敵の敗北は更に疑うまでもありません。一、数代にわたる恩顧を返すのはこの時です。ご自身で徴発して員数が揃ったら、氏政の手元にお送り下さい。大手にも少しは派遣して下さい。最終的には美しい武具など要りません。揃い次第お待ちしています。但し、中村・佐倉衆を同行させるならば、部隊は1つにまとめておくのがもっともです。もし「いつものように大方へ取り成し」などと考えているなら申さぬことです。過去・未来にわたって熟考することが専一です。

前回の問題提起で、以下の謎を出してみた。

1)文中で氏政から偏諱を受けようとしているのは誰か?

2)氏政に書付を送った斎藤とは誰か?

3)この文書はどこで書かれたのか?

4)この文書はいつ書かれたのか?

 ここで『後北条家臣団人名辞典』を当たると、2は意外と簡単に出てくる。天正年間で活躍が見られ、活動範囲が北武蔵から上野、氏邦の配下として出てくる斎藤摂津守定盛と断定してよいと思う。

 また4だが、文中に「苗代」が出てくる事から、苗代踏み付け作戦は田植えの下限である半夏生からその30日前と考えてよいと思う。大体ではあるが、4月15日~5月15日。戦場で田植えに入れないことを想定すると、ぎりぎり6月上旬も入るかも知れない。

 ここに、氏政が隠居して截流斎を名乗ったのが1580(天正8)年8月19日である点、1590(天正18)年はずっと小田原に籠もっていた点を合わせると、天正9~17年の4~5月と絞れる。また、天正10年は武田氏が滅亡して上野国には滝川一益が駐屯、氏邦ですら出仕していた点も考えると、天正10年も除いてよいだろう。氏規上洛から引きこもっていたとされる天正17年も除外したい気持ちはあるが、慎重を期して残しておく。

 このうち、氏政が確実に出陣している天正9年と12年を中心に検討を進めていこうと思う。

[竪切紙]彼者つけ口上、いさいきゝとゝけ候、こゝもと、御ちんのうちハ、ゆふまた[しん]人しちをとられへく候あひた、いたしそこなわれて候てハ如何存候、こゝもと御馬ひけ候ハゝ、まやはし衆ハ、大小かけをち申へく候間、其方ものをは、いかやうにもひきとめ、いかやうにも一つの御ちうしん、もつともニ候、われゝゝ事ハ、みのわさいちやうニ候、また其方屋敷ニハ、斎藤つのかミ同心田口しかとさしをき候、ゆふちよの事をは、かのものこたへ申されへく候、かならすゝゝこゝもと御馬をきまり候をきゝとゝけ、そこもとゆたんのところを見あわせ、一てたてあるへく候、そうちやしゆニせちもちうしん申きもあるへく候、かのものなとひきそへ、しかるへく候事、もつともに候、この返事したい、ちきやうかたの御しうもんいたし申へく候間、そんふんたていさいかきたてたまハるへく候、まちいり候、以上、
二月廿八日
 氏邦(花押)
宇下 参
「五大力〓[草冠+并]
  参   安」(元は懸紙のウハ書きか)
→「北条氏邦書状」(大阪城天守閣所蔵宇津木文書)
1583(天正11)年に比定。

 あの者が言った内容は詳しく聞き届けました。こちらの御陣のうちでは、由良信濃守(成繁)が人質をとられるようなので、(そちらも人質を)出し損ねてはいかがなものかと思います。ここで御馬を引くようでは、厩橋衆は身分の大小を問わず逐電してしまうでしょうから、彼らを何としても引きとめるべく、なりふり構わぬ忠信を見せるのがよいでしょう。我々の方は、箕輪におります。また、あなたの屋敷には、斎藤摂津守(定盛)の同心である田口を確実に駐留させました。『ゆふちよ=結千代?』のことはその者がお知らせするでしょう。必ずやこちらの作戦決定を聞き届けて、あなたも油断なさらず作戦行動するのがよいでしょう。総社衆に『せちも』注進=報告があるでしょう。あの者たちを添えて、整然と行動なさるのが、もっともなことです。この返事があり次第、知行の決裁を出したいので、お考えのことを詳しくお書きになって下さい。お待ちしています。

安房守所江之注進状、令披見候、誠ニ戦功不浅次第、難述筆紙候、軈而以使可申候条、不具候、恐ゝ謹言、

五月二日

氏政(花押)

宇津木下総守殿

→「北条氏政書状」(大阪城天守閣所蔵宇津木文書)

1581(天正9)年に比定(花押より)。

安房守(氏邦)のところへの報告書、拝見しました。本当に戦功は浅からぬ次第で、筆紙に尽くしがたいところです。すぐに使者を派遣して申し上げますので、詳しくは申しません。

このサイトでも度々紹介した鴨川氏の『武田信玄と勝頼』では、1通の複雑な書状を巡る謎を追う中で、古文書の基本的な機能を語る手法を使っている。それにあやかる訳ではないが、先日後北条氏での究極の難文書と思えるものに出会った。その際に検討した事を備忘しておこうと思う。

北条氏政、北条氏邦に、字を進ずること等を伝える

この書状はメモに近く、非常に短いものである。全文引用してみる。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、

 以上

「(ウワ書)房  截」

宛先と差出人は簡単に判る。「ウワ書」=「上書き」とあるのは、書状にかけられていた紙を指す。つまり、房=安房守=北条氏邦に宛てて、截=截流斎=氏政が書いた短信だろう。

兄から弟に宛てた気軽な通信だったと推測すると、文頭の挨拶がないのも納得できる。「字のことは承知した」というのは、誰かへの偏諱を氏政が了解したということで、それを斡旋した氏邦に返答したのだろう。「これを進めます」と続くので、「氏」か「政」の字を、氏邦が推す誰かに与えるのだと判る。まず最初の謎は、この偏諱受領者は誰かということになる。

そして、ここでいきなり話題が変わる。「また、夜前に斎藤からの書付を見たよ」とある。書付というのは箇条書きになった短い報告書。ということは、氏政が書いているのはその夜から翌日夕方までの間だと考えられる。翌日の夜になってしまうと「昨日の夜前に見たよ」となるからだ。で、その感想は「心地よく専要です」と。この言い回し「心地よく」も「専要」も彼らはよく使う。「専要」は謎だ。「専一=優先順位が高いから専らこれ1つにせよ」と、「肝要=肝心で重要」がミックスされた表現……なのだろうと思う。

「心地よい」と「肝心で重要だ」をくっつけて使うのはさすがにこの文書だけだが、それだけに気安い表現では「いいね、大事だよ」といった使用になるのかと思う。ここで第2の謎。「斎藤」が誰か。割合見かける苗字で特定は難しい。

先に進もう。

次の文は「また、どこから攻撃するの?」と、ここで更に話題変更。思いつくままに書き散らしているような感じを受ける。更に次の文で「いいこと思いついたよ」という内容になるため、これが書きたくていきなり話題を変えたのだと判る。「昨日と同じ場所なら、昨日松山衆と上州衆が登った『高山』と『其=敵城』の間を往復する道に……」とまくし立てる。「昨日」が重複しているのが口語に近く生々しい。で、氏政はその道に苗代がいっぱいあったので「うちはを入こね」ようぜ、と弟に持ちかけている。興奮し過ぎたのか仮名書きになったため「うちは」が何か不明だが、邪悪な意図は感じられる。敵にとって大切な苗代を踏みにじってやろう+相手からよく見える場所でこれ見よがしにやろう、という感じだと思う。提案の最後が「由=よし」となっているが、これは伝聞の「よし」ではなく「知る由もない」で使われる方法の「よし」だろう。ここでこの書状の舞台が少し姿を見せる。『高山』が抽象的な地形を指すのか、具体的な地名を指すのかは不明だが、松山衆と上州衆が同陣し氏邦が登場していることから、武蔵北部から上野近辺が戦場ではないかと推測できる。それ以上の特定は難しく、場所がどこかということが第3の謎となる。

その後に畳み掛けるように「尤候=よいです」と自画自賛した後で「ついでながら申します」と急に謙遜する。それまでは「この作戦凄いだろ」だったのが奇妙な感じだが、氏政はよくこういう書き方をする。

よくよく考えてみると、戦国の関東に覇を唱えた後北条氏の大御所とその弟が仕掛けようとしている作戦が「相手の見えるところで農地を踏み荒らす」である。何だか近所のおじさん達が小競り合いしているような感じだ。ここから、武者めくという事というエントリを導き出してみた。戦国大名はたまにしか本気で戦っていなかったという仮説だ。

この文書、最後に日付が書かれていない。だから、日時の特定が実に難しい。これが第4の、最大の謎だ。

この時代の文書は月日しか書かれていない事が多い。12月26日などと書かれていた場合に、それが何年かを比定する作業が必要になる(年次比定)。年が書かれた史料を軸にして、月日でつなげて流れを作る。だから新しく史料が見つかるとドミノ倒しで多数の文書=事象が組み替えられる場合がある。月日がないので、この書状では足がかりが全くない。

では仮説は一切出てこないかというと「何となくこうじゃないか」というものは浮かんでくる。それを次回展開してみよう。

足柄当番之事

一、役者者、従已前如定来、番帳を御覧被相定尤候事、

一、諸法度此已前ニ不可替歟、番帳を御覧有勘弁、御仕置尤候事、

一、改而山之法度を申付候、猪鼻ニ一枚、小足柄ニ一枚有之、彼文言能ゝ有披見、手堅可有■知候、然者彼板ニ自先番付置人之交名之紙取之、其方衆之内紙ニ札を書、被張付尤候、

  付、彼奉行可致誓詞案文渡進事、

一、城外役所庭、此度左衛門大夫千人之手間を以申付候普請、何程ニ出来候、明鏡ニ見届、被致絵図、彼絵図ニかくゝゝと書付、左大帰路ニ被相渡、此方へ可給候、

一、小足柄・猪鼻口共ニ門外へ不出、大手・法経寺口計、草木取可出候、

  付、彼草木取、毎朝手判を以被出、彼手判を以帰路をも被改専一候、此番衆肝要之所候、有分別者を可被置候、依田衆可指加、

一、法経寺口木草取〓(片+旁)〓(人冠+小)者、山迄をハ可被為取、一足も山をおりさかり、田畠を不可踏、山者此方之山、田畠者他領と有覚悟、自然田へおり候者をハ、即時ニ可有生害、況河を越、向ニ行者をハ、不及糺明、可有生害、

一、自然草木取なと、御厨之者と假初ニも不取逢様ニ可有下知儀、肝要候、

一、雖記右、猶小足柄・猪鼻両口之山留専一肝要之所ニ候[を]剪払、結句従小足柄関庭之方へ道を付候所、已前見届候、吉原之陣庭ニ目付を被置、自然無届者見出搦候様ニ、可有仕置候、

一、猪鼻と足柄之間、地蔵堂之上之丸山、此間草木を取而見得候間、先度我ゝ帰路ニ、玉縄之関を直ニ召出、為剪塞候キ、猶此所堅下知候て、一切ニ自地蔵堂足柄之かたへ、かりニも人不入様ニ専一ニ候、是者猪鼻之城ニ指置者ニ、厳可有下知候、

一、諸曲輪はた板ニすへき分を以、申付候、今度之番普請者、大概彼木運、又はた板ニ可有之歟、大工前糺明候て、一方充可申付間、五日之内自是急度可申■■、

一、安藤曲輪、彼地見舞之砌之陣所と定、悉陣所を破たいらめて置候、二ケ所之矢倉ニ番衆を被指置、陣屋作を可被為待候、但夜中之番衆ハ、如何程可被入置も尤候事、

一、陣屋門・矢倉已下之破損者、先段淵底見届候、当番之不足ニハ無之候、有分別請取渡可被成候、

一、人馬之糞水手際を払、在城衆・番衆共ニ結構ニ為致尤候、此一ケ条をハ厳御断可然候、縦一日・二日番者延候共、妄ニして不可被請取候、

一、此度者六百之着到を以、可有御移候、

  付、仕懸之普請共候間、馬廻衆をハ先当地ニ置、普請を可被付候、相番之事候間、何時成共可指遣候、

 已上

右、定所如件、

壬午[虎朱印]五月八日

右衛門在殿

→戦国遺文 後北条氏編2336「北条家定書」(神原武勇氏所蔵文書)

壬午は天正10年。2箇所の紙継目裏にそれぞれ「調」朱印あり。

足柄当番のこと。

一、担当者は従来決めていたように、番帳をご覧になって決めるのがもっともなこと。一、諸規則はこの以前から替えてはならなかったでしょうか。番帳をご覧になって検討なさって確定するのがもっともなこと。

一、改めて山の規則を指示します。猪鼻に1枚、小足柄に1枚があります。あの文言をよくよく見て手堅くご指示下さい。ということであの板に前任者が貼った一覧一覧を取って、あなたの衆の一覧を書き、貼り付けられるのがもっともなこと。付則。あの奉行に誓詞を出させるべく案文を渡すこと。

一、城外の役所内でこの度左衛門大夫1,000人分の工数で普請を申し付けています。どの程度進んだか明確に確認して、絵図面を作成、その絵図面に逐次詳細を記載して、左衛門大夫が帰る際にお渡しいただき、こちらへお送り下さい。

一、小足柄・猪鼻口は共に門外へ出ず、大手・法経寺口だけから草木を取りに出て下さい。付則。その草木取りは毎朝確認書をお出しになって、その確認書帰路にも改めることが大事です。この番衆は重要拠点にいますから、分別のある者を置かれるように。依田衆を追加すべきでしょう。

一、法経寺口で木と草を取る境目は山までが取得可能とすること。一歩でも山を降り下がり田畑を踏んではなりません。山はこちらの山、田畑は他領と認識すること。万一田畑に降りた者は速やかに処刑するように。ましてや河を越え対岸に行った者は、事情など聞かず処刑すること。

一、万一草木取りなどで、御厨郷の者と仮初にも出会わぬように指示するべきこと。大切なことです。

一、右記しましたが、さらに小足柄・猪鼻両口の山留め。とても大切な場所なのを切り払い、挙句に小足柄から関所内の方へ道をつけたのを、以前確認しています。吉原の陣庭に目付を配置なさって、万一届けのない者がいれば捕縛するように指示なさいますように。

一、猪鼻と足柄の間、地蔵堂の上の丸山、この間に草木を取っているように見えましたため、前回我々が帰る際に、玉縄の関を直接呼び出し、切り塞がせました。さらにここの場所は堅く下知なさって、地蔵堂から足柄の方へは一切、仮にも人を入れないように専念して下さい。これは猪鼻の城に配置した者に厳しく下知なさいますように。

一、諸曲輪の端板にすべき分を申し付けます。今度の番普請は、大体あの木を運ぶことと、また端板にあるのでしょうか。大工作業を協議して一方面を申し付けますから、5日以内にこちらから取り急ぎ(確認?)申すでしょう。

一、安藤曲輪は、あの地を見舞った際の陣所と定めて、陣所全てを壊して更地にして置きました。2箇所の矢倉に番衆を配置なさって、後は陣屋作りに駆り出すように。但し夜中の番衆は、いくら入れて置いてもよいでしょう。

一、陣屋の門・矢倉以下の破損は、前回詳細を確認しています。当番の不足はありません。分別をもって受け渡しなさいますように。

一、人馬の糞尿は手際を払い、在城衆・番衆ともに問題なく取り運んで下さい。この1箇条は厳しく執行なさいますように。たとえ1~2日番が延びてでも、始末せずに受け渡しなさいませんように。

一、今回は600名の着到をもってお移りになりますように。付則。仕掛かった普請がありますので、馬廻衆をまず派遣しておき、普請を付けられますように。相番のことですから、いつなりとも送られますように。