八月十二日[卯剋]、於岡崎台合戦、忠節無比類、於後日可令褒美者也、仍如件、

八月十二日

(宗瑞花押)

(氏綱花押)

伊東とのへ

→小田原市史 資料編 小田原北条1「伊勢宗瑞・同氏綱連署感状」(東京大学史料編纂所所蔵伊東文書)

 岡崎台の合戦において、忠節は比類がなかった。後日褒美を与えるものである。

今度氏親御供申、参州罷越候処、種ゝ御懇切、上意共忝令存候、然而、氏親被得御本意候、至于我等式令満足候、此等之儀可申上候処、遮而御書、誠辱令存候、如斯趣、猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候、恐惶頓首謹言、

閏十一月七日

巨海越中守殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「伊勢宗瑞書状」(徳川義知氏所蔵文書)

1506(永正3)年に比定。

 この度今川氏親にお供して三河国にやって来たところ、色々とご親切にしていただき、上意とはいえかたじけないことです。ですから、氏親が本意を遂げられ、私も同様に満足しています。これらのことを申し上げようと思っていたところ、わざわざ書状をいただき、本当にお恥ずかしいことです。このような趣旨を、さらに巨海越中守へ披露するようにとの仰せで、(伝言を)お届けします。

戦国大名で自家宛の文書をきちんと残せている家は少ない。大きな大名では毛利と島津、上杉ぐらいではないだろうか。今川・武田は恐らく焼失したのだと思われる。その中で、後北条の文書の不在が気になって仕方がない。

小田原が開城した混乱に紛れて散逸したとも、氏直が焼却したとも伝わっているが、どちらも納得が行かない。

1590(天正18)年7月05日、後北条家の当主である氏直は弟の氏房を連れて小田原城を出た。この時点で後北条の分国は徳川氏に与えられることは確定していたので、家康は小田原の接収に動く。『小田原市史城郭編』によると、榊原家にはこの時の記念品である銅鑼が残されており、それには「氏直天守の2層目にあった」という伝承が伝わるという。

この段階で、徳川氏にとって後北条文書は稀有の価値を持っている。国衆・百姓とどのような経緯で付き合ってきたのか、紛争をどう解決したのかが丸ごと判るからだ。であれば、徳川氏が散逸させるはずはない。

では、焼却したとされる氏直はどうだろう。彼は伊豆・相模の本領は安堵されると信じ込んでいた節がある。ならば、文書を焼いて統治根拠を失うのは解せない。

丸ごと滅亡と判り父を失った状態だったにせよ、家康に渡してポイントを稼ぎ御家復興を図るのが基本的な考え方だろう。彼の妻は徳川家康の次女だから、話も早い。

万が一氏直が錯乱したとしても、分国を失った彼には文書群しか残されていないのだから、近臣が留めるだろう。紙切れの集合体とはいえ、100年近い蓄積だとすれば蔵の1つ2つは埋まる。焼却するにも時間がかかり、その間に誰かが止めると思われるのだ。

こうなると残されたキーパーソンは氏政しかいない。前回までの『遠過ぎる石垣山』で、氏政が八幡山古郭に氏直のスペースを空けたと推測した。となると重要な文書も、陥落し易い麓の曲輪(氏直天守=近世本丸)ではなく、八幡山古郭にしまわれていた可能性がないだろうか。氏政が城を出るのは氏直の5日後の7月10日で、かなり愚図愚図している。外交にぶれを見せる氏直の行末を案じ、厄介なものも含めて文書を全て消し去ったと。これで、名胡桃を始めとする事件の直接証拠は霧散する。

もし氏政が処分したとして、文書は燃やしたのか……。既に氏直が降伏した以上は、無駄な騒ぎは起こせない。燃やすとしても炊煙に紛れさせるしかないが、末端の兵に機密文書焼却を委ねるのは危険に過ぎる上に量も莫大だ。5日でできることといえば、埋没しかないように思う。巨大な穴蔵に人足ごと埋めたとすれば、忽然と消えたように見えるだろう。

将来、小田原高校や陸上競技場が撤去される日が来れば、驚くような発見があるのかも知れない。半ば以上は願望だが、そう信じたいものだ。

 

所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、

三月廿八日

氏政(花押)

清水上野入道殿

→小田原市史 資料編小田原北条2「北条氏政書状」(東京都練馬区清水宏之所蔵)

所存は板部岡江雪のところへご連絡なさいました。このような件で意見することは素晴らしいことです。申し遣うに任せて願書しました。国主のことですから、氏直が氏直が事情を申すべきですが、『輿入れ』の1箇条が大切だったので、氏直では事情を書くのが難しく、よって愚老がこのように使わすものです。または撫物のことは、氏直本人のものを置くので、陣中へ早々に申し上げるように。

願書

右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、

天正十年三月廿八日

氏政(花押)

三嶋

 神主殿

→小田原市史 資料編小田原北条2「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

願書。右の趣旨は、信長公が以前に仰せになった通り、速やかに当方へお輿入れなさって、親密さを深く重ねるに至るならば、それが関八州が氏直の本意となることは明白なので、当社建立のことは、早速氏直に助言することでしょう。

1590(天正18)年の8月より後北条分国は徳川家が入封する。以降石垣山がどうなったかを少し考えてみたいと思う。

江戸を本城とした徳川家だったが、1603(慶長8)年に本格着工するまでは暫定的な本拠に過ぎず、分国内で最大の城郭は小田原城である現状は変わらない(見方によっては、天下普請が終わって外郭が完成する1660(万治3)年まで小田原城が主力であるとも言える)。

徳川家では小田原城を直轄の城としており、城の図面には近世を通じて総構が綿密に描き込まれている。仮想敵国である西国大名をここで食い止め、箱根・伊豆をまたいだ兵站線が破綻するのを待つ、という後北条最後の戦略は継承されていると見てよい。

その体制の中で、篠曲輪は早々に姿を消す。他ならぬ徳川家によって攻略された場所なので、これは妥当なところだろう。一方の石垣山に関しては1591(天正19)年銘の瓦が出土したことから、工事が小田原合戦後も継続されていたのは確実である。その持ち主が羽柴か徳川かで様々な意見があるが、私は徳川家が所有したと考えている。羽柴家が石垣山だけを保有するのは、ここまでで挙げた兵站線の問題から難しい。もし徳川が信用できないのであれば、小田原城を直轄地として接収してしまえばよい話である。それをしなかったからには、石垣山ごと相模を渡したと見たほうが自然である。

そのような状況で徳川家が編み出したのは、小田原合戦と同じ状況になっても陥落しない防衛構想だと思う。その中で、早川右岸の揚陸地点を直接攻撃できる拠点として、石垣山を当てたのではないか。

石垣山と早川口が相互作用することで、敵の物資搬送を許さない体制が築ける。小田原本城から石垣山への物資補給は、水之尾経由で行なえばよい。

だが、小田原城の絵図に石垣山が積極的に取り込まれることはなかった。総構の使い方が完全に陸戦主体となり、省みられなかったように思われる。水之尾に対して布陣した羽柴秀次・宇喜田秀家の陣所を中心に御留山・鷹場として重要視したり、海岸線の防備については幕末に台場を作るまで放置していたりという状況があるためだ。

上記を考えると、近世の小田原防衛構想は海路の兵站迎撃を欠く机上の空論だったのかも知れない。

正次
 平次郎 平左衛門 勝之助 実は重正が二男。母は某氏。重直が嗣となる。

永禄七年より東照宮につかへたてまつり、御小姓となり、上和田合戦のとき 魁して戦功あり。[時に十六歳]十二年正月掛川の城攻に味方の兵一人創をかうぶりしりぞく事あたはざるものあり。敵軍より頻に鉄炮を放つがゆへに、是を援むとするものなし。ときに正次すゝんで彼手負を助けて引退きしかば、水野惣兵衛忠基、本多平八郎忠勝等その働を見て言上す。三月七日ふたゝび掛川城を攻たまふのとき、西宿にをいて奮戦し、敵をうちとり、元亀元年六月二十八日姉川の戦ひに首級を得たり。のち三方原長篠の役に供奉し、天正三年八月遠江国小山城をせめらるゝのとき、酒井左衛門尉忠次が手に属して先登にすゝみ、四年高天神にをいて戦を励し、槍下の高名あり。七年諏訪原の役にも軍忠を尽す。八年七月井呂崎に御発向のとき正次等十余騎ふかくすゝみて嶋田の宿にいたる。敵藤枝に陣し、兵を出して合戦にをよばむとすれども、たがひにすゝまず。こゝにをいて味方井呂川をわたりて退むとせしかば、敵これを見て百騎ばかり川のほとりに競ひ来る、ときに正次、大久保治右衛門忠佐、中根源次郎某とおなじくかへし合せて其場をしりぞかず。渡辺弥之助光、池水之助某、戸田喜太郎某等も又馳せくはゝる。このときにあたりて犬塚又内某山陰にありしが、敵梁が指物をみて伏兵あるかと疑ひ、終に川を渉らずして引退く。十二年四月長久手合戦のとき魁して端黒に金紋の指物さしたる敵と組討して、その首を得たり。十八年六月小田原の役に井伊兵部少輔直政が手に属し歩卒七十人を預けらる。直政山角紀伊定勝が守れる篠曲輪を攻るのとき、城外より其要害を穿しむるのところ、二十二日の夜風烈しくして城壁たちまち倒る。直政その虚に乗じて城中に攻入、陣営に火を放つ。こゝに於て城兵等諸々の持口を棄て、拒ぎたゝかふ。味方力戦すといへども後援の兵なきをもつて城外にしりぞく。このとき正次等踏とゝ゛まりて奮戦し、敵兵小旗衆と鑓を合せ創をかうぶり、終に鑓を打おると雖もなを殿して、池水之助某が家臣隍に陥てありしをたすけて引退きしかば、直政が家臣松崎五八郎某、椋原次右衛門政直等その働をみて直政につぐ。直政大に感じて人鬼なりと称し、嶋田義助の薙刀を與ふ。しかれども正次御軍令をそむきし事ありて罪せらるべかりしを、累世の御家人たるをもつてこれを宥められて退居す。のち免さる。慶長十九年大坂御陣のときめされて台徳院殿につかへたてまつり、御鑓奉行となりて供奉し、元和元年の役にもしたがひたてまつる。これよりさき武蔵国入間多摩二郡のうちにをいて采地五百石をたまふ。そのゝちつとめを辞し、六年九月二十八日死す。年七十二。法名道光。麹町の福寿院に葬る。のち代々葬地とす。 妻は紀伊家の臣山田但馬某が女。

 

→「小林正次」(新訂寛政重修諸家譜 16 藤原氏支流)

小田原合戦の推移

戦争を指揮していた氏政は、小峯御鐘台を中心とした丘陵地を一族で固め、台風を待っていたのだと思う。井細田や渋取川のラインを突破されたとしても、山上に踏み留まればよいと。現在の暦で8月中旬以降は台風が来易い。そもそもが、盆明けからこの辺りは波が荒くなって事故が多発するのだ。荒天時に行動は、その土地をどれだけ知悉しているかで安全性と速度が変わる。ゲリラ攻撃が頻発し海上輸送が滞れば、21万余と号す軍勢はすぐに飢えるだろう。窮して現地徴発を行なえば、各地で一揆が起きる。氏政が待ち、秀吉が危惧したのはこの状況だと考える。

そもそも秀吉は、分隊が各城を順調に開城させていることを怒っていた。「小さい城ばかり狙うな」「籠城した者は民間人でも皆殺しにしろ」と何度も書き送っている。鉢形・沼田・岩槻・江戸・八王子・津久井と、規模の大きな城を確実に占領し、一揆が起きないよう在地の指揮系統を壊滅させなければならない……と焦っていたのだろう。「口減らしにもならぬ」という歯噛みが聞こえるようだ。

このような東軍の作戦は、いわば受身の兵糧攻めのようなもので、ゲリラ戦に近い。これを最も体現したのが氏照の八王子城ではないか。交通監視や規模の点で滝山は比類のない完成度を持っていたが、氏照は敢えて八王子の山中に移った。これは、上杉輝虎・武田晴信の侵攻を経験したことで、逃走が容易で山岳ゲリラとなれる拠点の方が有利だと悟ったのだと思われる。事実、小田原合戦でも、横地氏は桧原城に退いて抗戦を試みたという伝承がある。八王子は落ちることで価値が出る城だったと考えている(この話は思いつきに過ぎないので、何れ稿を改めて考えてみたい)。

秀吉は「小田原は七月中に落ちる予定」と書いている一方で、自らの側室を呼んだり茶会を開いたりのはったりを仕掛けている。旧暦7月の後半はもう台風シーズンだ。兵站が滞れば秀吉が真っ先に逃げ出すのではないか、という憶測を消さねばならなかったのだと思われる。

小田原開城の理由

小田原合戦を兵站線を巡る陣地争奪戦として考えた場合、キーワードは海上補給の陸上拠点。ところが小田原近辺には港がない。

現在小田原港と呼ばれる早川は、大正時代に一時汽船が寄港したこともあるが、波が強いため2年足らずで取り止めになったという(相模湾における汽船交通史「小田原市郷土文化館研究報告46号」)。国府津にも汽船は来たが、客は艀で移動しなければならなかった。ちなみに酒匂川の河口も潮流が複雑で強く、港には適さない。私がいた頃は「酒匂川の『かわっちり』(川尻)で泳ぐな」というのは散々言われたものだった(夏になると観光客が毎年溺死したりもしていた)。

ここで1つ疑問が出てくる。相模湾の波が荒いとはいえ、後北条治世90年の間で、小田原に全く港湾がなかったのは不可解なのだ。鎌倉にも港湾がなかったが、外港としての六浦があったし、人工埠頭の和賀江島も築造されている。

そこで注目したのが篠曲輪である。山王川と渋取川の河口部にあり、総構とは木橋でつながれていたという。一般には、『出城のような施設があったものの総構に取り込めずに残ってしまい捨て曲輪とした』とされている。しかし、占拠されれば敵の橋頭堡になるものを、捨て曲輪としてでも残すだろうか。何らかの理由があって、総構から独立し、木橋でつながれた曲輪にした方が自然である。

となれば、笹曲輪と総構の間が船着き場になっていたという仮説も成り立つ。河口部を浚渫していれば充分使えるだろう。西軍の艦隊が入港しようとしても、篠曲輪と総構の両方から攻撃できる。そしてこの港が活きている限り、浦賀辺りに隠しておいた軍船をいつでも迎え入れられる。この曲輪は井伊直政によって6月22日に無力化されている。『新訂寛政重修諸家譜』によると、守備は山角定勝だったあるので、その上に立つのは松田憲秀だと思われる(憲秀の指南を取り次いでいたのが定勝)。更にいうと、東方面は氏直の管轄だったようだ。これは氏直が投降時徳川氏に赴いたことで判る。

氏直は6月12日に降伏に向けて話し合いが進んでいることを家臣に告げている。同じ日に、氏直の祖母と継母が死去していることから、かなりの軋轢が生じたものと思われる。その4日後に氏直は松田憲秀・政晴の謀叛を取り上げて断罪しているが、これは蜥蜴の尻尾切りにしか見えない。実際には、一門の誰にも言わず憲秀に交渉を命じていたのだろう。

そして、更にその4日後。折からの激しい風雨で篠曲輪の塀が破損した。それを逃さず徳川方が乗り込んでくる。かなりの激戦になったようだが、現場の山角定勝を支援する筈の松田憲秀は軟禁状態で機能せず。小田原城唯一の港は破壊されてしまう。

ここで氏直の孤立が始まり、氏房を巻き込んだ7月1日の極秘投降につながっていくと考えてみた。元来氏直は徳川家康・伊達政宗といった友好勢力に頼る傾向があった。それが、徳川・伊達ともに敵方となった状況での迷走につながったのだろう。小幡信定に対して氏直は「本国は安堵確定だ」と喜んでいるが、外交上のリップサービスを純粋に信じてしまう性向は30歳になっても変わらなかったようだ。

敢えて結果論から言うならば、氏政は小田原の東側・低地部を捨てる覚悟をした際に、篠曲輪・渋取口には氏規を据えるべきだった。一見反抗的な弟を韮山に遠ざけた結果、面従腹背の嫡男にしてやられた感がある。

  • 3月29日 山中陥落(グレゴリオ暦5月3日)
  • 4月06日 秀吉が早雲寺に着陣
  • 4月20日 松井田開城
  • 4月23日 下田開城
  • 5月23日 氏直病気のため氏政が執務代行
  • 5月24日 岩槻開城
  • 6月01日 氏直執務再開
  • 6月05日 伊達政宗が秀吉に出仕
  • 6月12日 氏直が降伏交渉を小幡信定に告げる・瑞渓院殿と鳳翔院殿が死去
  • 6月14日 鉢形開城
  • 6月16日 松田憲秀・笠原政晴の謀叛発覚
  • 6月22日 篠曲輪合戦(グレゴリオ暦7月23日)
  • 6月23日 八王子陥落
  • 6月24日 津久井開城
  • 6月26日 秀吉が石垣山に着陣
  • 7月01日 氏直が自身の降伏了承を小幡信定に告げる
  • 7月04日 韮山開城
  • 7月05日 氏直・氏房が出城
  • 7月10日 氏政が出城(グレゴリオ暦8月09日)

次回、小田原合戦を受けて徳川氏が構想した兵站線を考えてみる。

後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。

今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、

「今度」は「この度」と表記している。これは、現代語の「今度」とは微妙にニュアンスが違う感触がするためだ。彦九郎という人物が上洛と称して途中まで行った、としている。その事前にか途中でかは不明だが、親類・被官に起請文を書かせたようだ。

対清房相企逆心、一跡押而可請取之催、甚以不孝之至也、

起請文の内容が書かれる。彦九郎が書かせた起請文は清房という人物への逆心=謀叛を企てる内容だったとしている。「一跡」は相続を指し、それを「押して」=強引に譲り受けようと「催」=活動した、という。「甚以」は現代語と同じ「はなはだもって」、不孝の至りとしているから、清房は彦九郎の尊属に当たると判る。

殊一城預置之上者、何時毛不得下知、一跡可請取事、自由之儀也、

「殊」は「ことに」と読み、最近では余り使われなくなったので「特に」と解釈では記述している。城を1つ預けているのだから、と書いている。これは清房に城を預けているということだろう。「毛」は音読みして「も」、「なんどきもげぢをえず」と読み下す。今川当主の了解と指示を得ずにという意図だろう。「自由」は当時悪い意味で使われており、今川家の管理を経ない相続は「勝手・無責任」だとしていることになる。

此上雖為父子納得、彦九郎進退不見届以前之儀者、一跡不可相渡、

「この上」という言葉は実は「一跡あい渡すべからず」にかかる。その中間には、前提確認(清房・彦九郎が同意していても)条件提示(彦九郎の「進退」を確認していないから)が入る。「進退」は様々な意味があるが、ここでは「振る舞い=言動と性格」を指すと考える。

清房納得之上、表向雖申付、知行等之事者、彦九郎覚悟不見届間者、可為清房計、

ここはしつこい。前文と極めてかぶる内容だ。清房が納得の上で「表向き」に申し付けたのだとしても……つまり、清房が個人的にも合意して正式に家督継承を指図したのだとしても、ということを書き立てる。言外に「自分が納得していないのだから」という氏真の非難が篭められており、それは続きの「知行などのことも彦九郎の覚悟が確認できていないのだから、清房しか認められない」という文で炸裂する。

致今度之企本人有之由申之条、遂糾明、其段歴然之上、可加成敗、

「致~条」は難解なのでおいておく。その後ろを見ると、糾明を遂げ、その段を歴然とした上で、成敗を加えるだろう、となっている。ということは、一旦読み飛ばした前段は、「条」は前段を順接する語なので、氏真が断罪する前提が書かれているのだろう。

「致」の目的語がどこまでかがポイントだが、「今度之企」を致す「本人」が「これにある」という「由」を申している「条=ので」と把握すると自然だと思われる。誰が告げたかは特定していないが、氏真が把握している情報では、本人である彦九郎が主体だと断定できる、としている。

縦山林不入之地仁雖令居住、父子之間如此取持事、依為奸謀、如清房存分加下知、

彦九郎が山林・不入の地(=アジール)に住んだとしても、父子の間を取り持つことは今川家に対する策略と見なす。だから清房の存分の如く(思い通りに)下知を加えよ。「加」の前に「可」が付くはずが欠字している。

ここで疑問が湧く。清房は息子と仲違いしているのか……。父子の間を取り持つ者が出てくる想定がある、ということは現段階で父子に意思疎通がないと見てよい。そうなると、前文で「本人が主体で謀叛を企てた」と告げた人物が清房だと断定できる。文書の宛名も興津左衛門尉=清房だから、訴えは実の父親から出され、氏真の判物を得たのだ。

ここからは推測だが、清房は興津家で孤立していたのだろう。息子や親戚に言いくるめられて家督を手放したが、何かの理由があって取り返したくなった。そこで、『城を預かる家は家督継承を今川当主に承認してもらわねばならない』という点をついて訴え出たと。

今度之子細取持輩之知行分於有之者、任先判形之旨、清房可為支配、

氏真の怒りは続く。この度の子細=事情を仲介する者の知行は、先の印判状に則って清房の知行としてよいとしている。仲介する者というのは興津家親戚や家中だろうから、改易して清房に与えるのは理に適ってはいる。適用根拠として「既に出された印判状の通りに」という一文を入れているが、これは根が深い。本当にそんな印判状を出していたのだろうか。実物が出てきたらアップロードしようと思う。

重父子之間取持公事 申出、如何様之道理雖有之、最前之首尾条々為曲事上者、一切不可許容者也、仍如件、

なおも氏真は牽制する。父子の間の訴訟を申し出ても、ここまで書いたことが首尾=徹頭徹尾、条々=細かいところまで「くせごと=けしからんこと」なので、一切受け付けない。と言い切っている。

この書状の面白い点は、家督継承に際して彦九郎が上洛しようとしたことにある。京の将軍に仕える直属軍=奉公衆であればその行動も判る気がするが、興津氏もそうだったのか。興味は尽きない。

今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、一跡押而可請取之催、甚以不孝之至也、殊一城預置之上者、何時毛不得下知、一跡可請取事、自由之儀也、此上雖為父子納得、彦九郎進退不見届以前之儀者、一跡不可相渡、清房納得之上、表向雖申付、知行等之事者、彦九郎覚悟不見届間者、可為清房計、致今度之企本人有之由申之条、遂糾明、其段歴然之上、可加成敗、縦山林不入之地仁雖令居住、父子之間如此取持事、依為奸謀、如清房存分加下知、今度之子細取持輩之知行分於有之者、任先判形之旨、清房可為支配、重父子之間取持公事 申出、如何様之道理雖有之、最前之首尾条々為曲事上者、一切不可許容者也、仍如件、

永禄弐[己未]年

五月廿三日 氏真(花押影)

興津左衛門尉殿

→戦国遺文今川氏編「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

この度、彦九郎が上洛と称して途中まで行き、親類・被官に起請文を書かせ、清房に対して逆心を企て、強引に当主になろうとした。大変な不孝者である。特に一城を預けておいたのだから、どのような時も指示を得ずに跡を継ぐことは勝手過ぎることである。父子で納得したといっても、彦九郎の進退を見届けていない状況では、相続を認められないだろう。清房が表向き納得したとはいえ、知行などのことは、彦九郎の覚悟を見届けていないのだから、清房だけの所有とせよ。この度の企ては本人がしたと言われているので、調査してそれが事実ならば成敗を加えるように。たとえ山林・不入の地に逼塞したとしても、この件で父子の間を取り持つことは陰謀と見なす。清房の思うとおりに動くように。この度の経緯を取り持つ者の知行は、先の判形の通り清房の支配とするように。さらに、いかなる理由があるにせよ、父子間の訴訟を申し出ても、この件は徹底的に誤りであるから、一切許しはしない。