伊勢宗瑞・氏綱、相模国岡崎台合戦における伊東氏の忠節を賞し、後日の褒美を約す
八月十二日[卯剋]、於岡崎台合戦、忠節無比類、於後日可令褒美者也、仍如件、 八月十二日 (宗瑞花押) (氏綱花押) 伊東とのへ →小田原市史 資料編 小田原北条1「伊勢宗瑞・同氏綱連署感状」(東京大学史料編纂所所蔵伊東文 …
八月十二日[卯剋]、於岡崎台合戦、忠節無比類、於後日可令褒美者也、仍如件、 八月十二日 (宗瑞花押) (氏綱花押) 伊東とのへ →小田原市史 資料編 小田原北条1「伊勢宗瑞・同氏綱連署感状」(東京大学史料編纂所所蔵伊東文 …
今度氏親御供申、参州罷越候処、種ゝ御懇切、上意共忝令存候、然而、氏親被得御本意候、至于我等式令満足候、此等之儀可申上候処、遮而御書、誠辱令存候、如斯趣、猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候、恐惶頓首謹言、 閏十一月 …
戦国大名で自家宛の文書をきちんと残せている家は少ない。大きな大名では毛利と島津、上杉ぐらいではないだろうか。今川・武田は恐らく焼失したのだと思われる。その中で、後北条の文書の不在が気になって仕方がない。 小田原が開城した …
所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、 …
願書 右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、 天正十年三月廿八日 氏政(花押) 三嶋 神主殿 →小田原市史 資料編小 …
1590(天正18)年の8月より後北条分国は徳川家が入封する。以降石垣山がどうなったかを少し考えてみたいと思う。 江戸を本城とした徳川家だったが、1603(慶長8)年に本格着工するまでは暫定的な本拠に過ぎず、分国内で最大 …
正次 平次郎 平左衛門 勝之助 実は重正が二男。母は某氏。重直が嗣となる。 永禄七年より東照宮につかへたてまつり、御小姓となり、上和田合戦のとき 魁して戦功あり。[時に十六歳]十二年正月掛川の城攻に味方の兵一人創をかう …
小田原合戦の推移 戦争を指揮していた氏政は、小峯御鐘台を中心とした丘陵地を一族で固め、台風を待っていたのだと思う。井細田や渋取川のラインを突破されたとしても、山上に踏み留まればよいと。現在の暦で8月中旬以降は台風が来易い …
後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。 今度 …
今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、一跡押而可請取之催、甚以不孝之至也、殊一城預置之上者、何時毛不得下知、一跡可請取事、自由之儀也、此上雖為父子納得、彦九郎進退不見届以前之儀者、一跡不可相 …