去十六日於狐橋合戦、走廻之段神妙也、殊親類被官合鑓分捕高名、蒙疵抽粉骨云々、甚以感悦之至也、弥可勤軍功之状如件、

天文十四

八月廿二日

義元(花押)

天野安芸守殿

→静岡県史「今川義元感状写」

 去る16日、狐橋における合戦で奮戦したことは神妙である。ことに親類と被官が槍を合わせて白兵戦にて名を上げ、負傷しながら努力した。はなはだ感動的である。いよいよ軍功に勤めるように。

去十六日於今井狐橋合戦、最前馳向射好矢并同心被官合鑓分捕高名、蒙疵抽粉骨走廻云々、甚以神妙候、感悦之至也、弥可抽軍功之状如件、

天文十四

八月廿二日

義元(花押)

天野小四郎殿

→静岡県史「今川義元感状」

 去る16日の今井狐橋での合戦で、最前線に馳せ向かって有効な射撃を行ないました。また、同心と被官が白兵戦で名を上げ、負傷しながら奔走したと聞く。とても神妙なことで感動しました。ますます軍功に励んで下さい。

1560(永禄3)年5月19日に確認できる関係者所在を挙げてみた。

位置が完全に確認できる関係者

  • 岡部五郎兵衛尉  鳴海城
  • 鵜殿十郎三郎   大高口
  • 水野藤九郎    刈谷城

位置詳細不明だが合戦への関与が確実な関係者

  • 今川義元     尾張国内で鳴海・大高・沓掛城以外のどこか
  • 松井左衛門佐   今川義元に随行(刈谷城番任期中)
  • 水野十郎左衛門  尾張の砦と連携可能などこか
  • 天野安芸守    前線に近いどこかの拠点(武節?)
  • 朝比奈丹波守   今川義元本陣より離脱?
  • 平野輝以     今川義元に随行?
  • 井伊道鑑    今川義元に随行?(直盛か?)
  • 奥平久兵衛尉   簗瀬九郎左衛門尉を攻めた(反今川方)
  • 鱸九平次     簗瀬九郎左衛門尉を攻めた(反今川方)
  • 簗瀬九郎左衛門尉 2度の合戦で落城しなかった場所(大高城?)
  • 大村弥兵衛    沓掛城で証文紛失
  • 田嶋新左衛門   沓掛城で証文紛失

直接の関連は見られないが参戦した可能性が高い関係者

  • 原田三郎右衛門尉 簗瀬九郎左衛門尉と同じ場所?
  • 朝比奈筑前守   大高城番?
  • 匂坂長能     寺部城番?
  • 三浦左京亮    西尾城番?
  • 水上       大高口の合戦と関連する防御拠点?

言継卿記

永禄二年二月二日

一、自尾州織田上総介上洛云々、五百計云々、異形者多云々、

 2月2日、尾張国より織田上総介が上洛したという。500人ほどを連れ、異形の者が多いという話だ。

永禄二年二月七日

一、尾州之織田上総介晝立歸國云々、

 2月7日、尾張国の織田上総介は昼に出発して帰国したという。

醍醐寺理性院厳助僧正往年記

永禄二年三月

尾州織田弾正忠上洛、有雑説俄罷下云々、

 3月、尾張国織田弾正忠が上洛したが、不穏な動きが急にあって帰国したという。

→岐阜市史

定光寺年代記

(永禄)三年 五月十九日駿州義元尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人被打、

 5月19日に駿河国の今川義元は尾張国鳴海庄に出撃、駿河軍勢1万人は討たれた。

醍醐寺理性院厳助僧正往年記

(永禄三年)四月 駿河今川尾州へ入国、織田弾正忠廻武略打取之事有之、

 4月に駿河国今川氏が尾張国に入ったが、織田弾正忠は武略を廻らして討ち取ったことがあった。

→静岡県史

 ディケンズの長編としては、比較的短い作品ではあるが……かなり読み足りない感じがあった。キットが冤罪を晴らしてネルに会いに行くくだりはそれなりに追い込みが感じられて楽しかったのだが、オリバー・ツイストのほうが迫力はあった。この辺りにも、躍動感溢れる前期作品と重厚な後期作品の合いの子さが感じられる。
 天使のようなネルよりも、公爵夫人やバーバラのほうが余程神々しさを感じてしまう。クイルプの怪人ぶりよりも、ブラース兄妹のほうが悪意を感じてしまうようなものか。クイルプは陰謀の名手な筈が、後半はグロテスクさを強調し過ぎて興醒め。ホラー映画で魔物が姿を顕わすと間抜けになってしまうような感じかも知れない。
 もうちょっとタイトな結末が希望だが、これはこれで楽しめた。やはりディケンズは凄い。しかしネリーは魅力がないことを再確認。好みの問題もあるだろうけど、公爵夫人が一番タフで可愛らしい造形になっていた。エイミー・ドリットよりも女性の勇猛さや狡猾さが表われている。

 日付から潮汐・月齢を考えると、織田方と今川方の作戦にはどのような違いがあるだろうか。
 
笠寺城中に出した今川義元感状
によると、1558(永禄元)年の2月28日に織田弾正忠の夜襲があったことが判る。この日付はグレゴリオ暦で3月28日。月齢は24.7で、輝面22.7。非常に細い月である。最低潮位は22時35分の38センチ。
 検証a07の数値とを合わせて並列で並べてみる。

太陰太陽暦 永禄1年2月28日 永禄2年10月19日 永禄2年11月19日 永禄3年5月19日
グレゴリオ暦 3月28日 11月28日 12月27日 6月22日
月齢(輝面) 5.9(31.3) 15.5(99.8) 15.0(99.3) 14.9(98.7)
日の出 0551時 0636時 0659時 0436時
日没 1808時 1643時 1647時 1909時
最高潮位/時刻 1860mm/0851時
1610mm/2400時
2380mm/0658時 2300mm/0657時 2310mm/0544時
2410mm/1940時
最低潮位/時刻 1310mm/2811時 80mm/0010時
60mm/2447時
-60mm/0003時
-120mm/2444時
0100mm/1241時

○使用ソフト
from TIDE Version1.33/超スーパー暦 Version1.2

 織田方が夜襲をかけたのは干満の差がなく、月明かりもないタイミングだった。笠寺城自体は台地にあるとはいえ、周囲は干潟となっている。海上から攻めるなら潮位を気にする筈である。織田方は月齢・潮汐を気にせず、地上から攻撃したのだろう(新月でもなく、干満の差もそこそこある日付であるため)。城も日時も異なるので単純に今川方の動きと比較はできないが、織田方は月と潮を気にせず作戦を仕掛け、今川方は満月で干満の差が激しい時に作戦を仕掛けようとする傾向があるのではないか。

この笠寺城中宛感状の真偽には疑問が呈されている。静岡県史では検討の余地ありとしているので、慎重に比較したい。但し、葛山氏元朱印状で「笠寺陣」という表現が出てくるが故にこの書状もいくらかの史実を持つものと考えられる。

一向寺部可取出之旨領掌訖、然者寺部城領半分令扶助間、山林野河共半分内者可令支配之、縦敵味方内雖有買得之地、不可及其沙汰事

一来年末三月中迄彼城無落居相支、其上以惣人数雖攻落之、既以自面兵粮其外過分失墜成取出之条、寺部分限員数内参ヶ壱可令扶助之、但三月以後茂長能以計策彼城就令落居者、右ニ如相定半分儀不可有相違事

一広瀬領償之儀一円可申付、但年来伊保梅坪表江令扶助分者可除之、雖然今度寺部逆心之刻、改申付償之事者、一円長能可相計之事

一鱸日向守并親類被官不可及赦免、伯彼者以忠節知行就令還附者、今度取出為粉骨之条、其褒美之儀者一廉可申付、

一於野田郷令扶助弐百五十貫文之分、雖有参州惣次之引、今度成取出走廻之間、不準間(自?)余不可有其引事

右、吉田并田原以来前々走廻、殊今度之取出、以一身覚悟、矢楯兵粮以下迄自面之失墜令奉公之条、甚為忠節之間、相定条々不可有相違、本知新知共自然可有増分之旨有訴人就申出者、為先訴人相改可所務、然者寺部知行案堵之上、相止番手如年来之以自力可在城于岡崎之旨、神妙之至也、此旨永不可在相違之状如件、

弘治四 戊午

二月廿六日

治部大輔 判

匂坂六右衛門尉殿

→静岡県史「今川義元判物写」

一、寺部城に対抗する砦を築造した件は了承した。寺部領の半分を賦与する。山林、野原、河川も半分を支配せよ。たとえ敵味方の所有権が混在しても、関知しなくてよい。

一、来年(未)3月中まであの城を落とすことなく支えて、その上(長能のほかも含めた)全部隊で城を落としたとしても、砦築造で既に兵糧そのほか支出がかさんでいるだろうから、寺部領の収益から1/3を与える。ただし3月以後であっても長能が作戦を使って落城させるならば、前項で定めた通り半分の領地を与えることは相違ない。

一、広瀬領の補填のことは、包括的に委託する。但し、伊保と梅坪で前から与えている分については除外する。とはいえ、この度寺部が反逆したことを受け、改めて包括的に長能が処理することを申し付ける。

一、鱸日向守と親類、家臣は許してはならない。ただし彼らが忠節を尽くすならば還付してもよい。この度は砦築造で奔走したようなので、褒美のことは特例として申し付ける。

一、野田郷において与えた250貫文については、三河国全体で決まっていることととはいえ、この度砦築造で奔走したしたので課税を控除する。

右のことは、吉田と田原以来前々より奔走し、殊にこの度の砦の件も鑑みて、一身の覚悟をもって、武器・兵糧も自前で奉公している。素晴らしい忠節なので、ここに定めた条文は相違ない。本領・新領地ともに増産があったと訴える者があれば、改めて裁許する。寺部領の知行は安堵した上で、番手を止めることとする。年来自前で勤めている岡崎城番のことは、神妙の至りである。この旨は永く相違ない。

就今度岡崎在城、長能・宗光両人江弐百五十貫文■令扶助之也、然者糟屋備前守同前諸事可走廻、同心参人之切符扶持、如相定毎年可請取之、其外当年令高名同心四人切符弐十五貫文、為新給領掌訖、年来無足奉公之由申之条所宛行之也、若於彼等同心相放者別人可入替、奥郡野田郷代官職・散田方共不可有相違、野田替米之事、毎年於当地可請取之、数年奉公神妙之至也、弥可抽忠功者也、仍如件、

天文廿三

十一月二日

治部大輔判

匂坂六右衛門尉殿

→静岡県史「今川義元判物写」

 この度の岡崎城番に当たって、長能と宗光の両人に250貫文を配賦するので、糟屋備前守と同じく活躍するように。同心3人の給与も付与するので、定められた通り毎年受領するように。そのほか今年功績のあった同心4人の給与25貫文を新給与として任せる。年来無給で奉公していると申請があったので給与する。もし同心を解任したら別に人を立てるように。奥郡野田郷の代官職と散田方とも相違なく、野田の替え米のことは毎年当地にても受け取るように。数年にわたる奉公は素晴らしいものだ。いよいよ忠功に励むように。

鳴海東宮大明神並八幡神田之事

右、拾貫参百文、下分壱貫四百文、あいはらのやふ下弐百五十文・禰宜屋敷壱間以上拾壱貫九百五十文云々、去年散田入落之残員数分弐貫八百文、依顕印判令難渋云々、只今惣高辻■之分共拾壱貫九百五十文之由申条、依為神慮、任前々之旨、永領掌了、然者神事祭礼等無怠慢可勤之、近年押領之禰宜雖令難渋、不可許容、在城衆存此旨堅可申付者也、仍如件

弘治参年

十二月三日

禰宜二郎左衛門尉

→豊明市史「今川義元朱印状」(成海神社文書)

 鳴海東宮大明神と八幡神社の神田について。所領が10貫300文、下分の地所1貫400文、相原の藪下の地所250文、神官の屋敷が1間。以上で11貫950文あるという。また、去年直轄領からの収入2貫800文が欠落、困窮していることは印判により明らかであるという。以上諸々で、現在の合計が11貫950文との申請があった。神慮に基づいて、以前からの通りにこれを認可する。神事と祭礼は怠ることなく勤めよ。近年領地を取った側の神官が困窮しても許容してはならない。在城している面々に堅く申し付ける。