態令啓候、抑一両年者、以佞人之所行、進退被御覧捨候之間、無了簡、小田原へ申合候間、絶音問候、然者駿甲不慮ニ不和、既従甲駿へ乱入候、駿甲累年如鼎之三足被相談候之処ニ、今川氏真越府へ内通之由有之、従甲不慮ニ被取懸候、駿府無備故、遠州懸川へ被移候、相府之事、不被曲誓約之筋目、氏真為引立可有御申置、豆州三嶋張陣、駿州之内蒲原・興国寺・長久保・吉原ヲ為始、以豆相之衆、堅固ニ被相抱候、其上年来之被抛是非、越府與有一味、信玄へ被散鬱憤度、以逼塞、旧冬自由倉内在城之方へ内義被申候処、従松石・河伯以使被御申立之由候、従両所依承筋目、重而従由以直札被申候、被聞召届、宜被御申調義、可為簡要候、時宜御入眼、向信甲年来之可被散御無念儀、此時候、恐々謹言、

正月十六日

 由信

  成繁

河豊

 御宿所

→神奈川県史「由良成繁書状案写」(歴代古案一)

 折り入ってご連絡します。そもそも一両年は捻くれた人間の所行によって進退をお見捨てになっておいでなので、了見もありません。小田原へ問い合わせましたが連絡が途絶えていました。ということで、駿河(今川方)と甲斐(武田方)が思いがけず不和となり、既に甲斐国より駿河国に乱入。駿河国と甲斐国(と相模国)は長年鼎の三つ足のように相談し合う仲でしたが、今川氏真が越後府中へ内通したとのことで、甲斐国からいきなり攻撃をしています。駿府は防備の準備もなく、遠江国掛川へ移動しました。相模府中(後北条氏)は誓約の筋目を曲げることなく、氏真を補佐するため伊豆国三島に着陣。駿河国内の蒲原・興国寺・長久保・吉原を初めとして、伊豆・相模の軍勢を使って堅固に拠点維持しています。その上年来の事情を投げ打って、越後府中(上杉氏)と一味。信玄への鬱憤を晴らすべく、秘かに、昨冬由良より倉内在城の人間へ内々で打診がありました。松石(松本石見守)・河伯(河田伯耆守)が使者より申し立てられ、両所より筋目を承り、重ねて由良から直接の手紙で事情を説明しましたので、お聞き届けられました。宜しくご調整いただくことが大切です。時宜に合わせてお目にかけて下さい。信濃・甲斐に向けて年来のご無念を晴らすのはこの時です。

1569(永禄12)年に比定。

態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、

四月十五日

 三浦次郎左衛門

      氏満

 朝比奈備中守

      泰朝

直江大和守殿

柿崎和泉守殿 御宿所

→神奈川県史「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

 こちらから申し入れるべきところ、こちらの使者にあなたの使者を添えていただき通信できました。甲斐国の若夫人が帰国した件。氏康父子が調停しようと申し出ましたが「氏真の誓詞がなく覚悟に及んでいない」と信玄が放言し、放置しておく訳にもいかずその意図に添うようになさいました。要明寺に指し越された時分、互いに抜け駆けはするまいと堅く申し合わせたことがあったことを申し上げます。このような事があったのに、信玄は裏表のある人物なのですぐに申し入れるべきでしょう。さらに詳細を遊雲斎が申し上げます。

本書状は(1564(永禄7)年)と比定されている。

御上洛以後不申上候、慮外之至候、仍従屋形以書状被申入候、将又、尾崎かたへ尊書、於当地拝見仕候、彼御縁之儀、於被仰調者、尤存候、依此御返事、家老之仁一両人以書状可被申入候、就中貴国與相甲和與之御扱之旨、風聞候、於事実者、当国を証人仁被成之様、御馳走候者、祝着可被申候、委細様躰永順ニ申含候間、令省略候、此等之趣、可預御披露候、恐惶謹言、

四月廿四日

   宗是(花押)

進上

 今林寺方丈

  衣鉢禅師

→神奈川県史「宗是書状」(上杉文書)

ご上洛以来ご連絡申し上げませんでした。思いもかけなかったことです。屋形(氏真)よりも書状をもってご連絡します。または尾崎方へお送りのお手紙を当地にて拝見しました。あの御縁のこと、仰せのことはもっともです。これによりお返事は家老『一両人』からご連絡することとします。特に貴国と相模(後北条氏)・甲斐(武田氏)の和平の準備についてですが、風聞がありました。事実は、当国を証人にしようとしたものです。ご馳走いただけたことは祝着だと申されるでしょう。委細は永順(遊雲斎)に申し含めているので省略しています。これらの事情、ご披露するでしょう。

本書状は(1568(永禄11)年)と比定されている。

度ゝ被仰候越甲相和與之事、対両国堅申遣之処、請状之旨宜候、然者、雖有存分、此節閣是非令同心、入洛之儀馳走之段、被頼思食候、併輝虎所為可在之候、仍太刀一腰助長・腹巻一領紫、肩紅、遣之候、猶義景可申候也、

三月六日

(足利義秋花押)

上杉弾正少弼とのへ

→神奈川県史「足利義秋御内書」(上杉文書)

 度々おっしゃっている越後(上杉氏)・甲斐(武田氏)・相模(後北条氏)の和平の事。両国に対して強く命令したところ、請状まで進みました。つきましては、色々思うところはあるでしょうが、このタイミングで是非はさしおいてご同意いただき、上洛のため奔走いただくようお考え下さい。併せて輝虎のお考えをお聞かせ下さい。助長作の太刀を1腰、紫・肩が紅の腹巻を1領進呈します。更に(朝倉)義景が申し上げるでしょう。

本書状は(1568(永禄11)年)と比定されている。

一越相甲無事之儀、先両国御請、於諸篇不可背上意之趣言上事、付、可有口上、

一輝虎雖有存分、先ゝ以言上之筋目、先閣是非、御入洛之儀御馳走、併御当家再興之事、

一就御入洛之儀、隣国諸侍各無異儀御請候、然者今程可然時節無之候条、此度輝虎御馳走別而被頼思食事、

一上杉殿受領事、

一輝虎依存分、急度重而可被差下御使節事、

以上

三月六日

信堅

藤孝

藤長

→神奈川県史「足利義秋老臣連署条書」(吉川金蔵氏所蔵文書)

一、越後・相模・甲斐の無事の事。まず両国の受諾、諸事情において背けない上意である事を報告、それに口頭連絡も付加する。

一、輝虎に言い分があるだろうが、まずは言上した筋目をもって、過去のことはさておき、御入洛について奔走、そして『御当家』を再興すること。

一、上洛の事。隣国の諸侍がそれぞれ異義を唱えず了解しています。ですから今ほど最適な時節はないでしょう。この度輝虎が奔走する事は、特別にお願いの思し召しです。

一、上杉殿の受領の事。

一、輝虎の考えに基づいて、取り急ぎ重ねて使節を差し下すだろう事。

藤孝は細川、信堅は飯河、藤長は一色、輝虎は上杉の各氏と比定。

度ゝ被仰出候、越相甲和融事、被対両国、被加御下知候処、御請之趣宜候、然者雖有御存分、此刻被閣是非被遂其節、御入洛之義御馳走被頼思食候、仍被成御内書、御太刀一腰助長、御腹巻一領紫肩紅三物、御拝領候、以義景雖被仰出候、猶得其意可申入旨候、委細智光院可被相達候、此等之通、宜得御意候、恐惶謹言、

三月六日

藤孝

信堅

藤長

弾正少弼殿 人々御中

→神奈川県史「足利義秋老臣連署書状」(伊佐早文書)

 度々おっしゃられていた、越後(上杉氏)・相模(後北条氏)・甲斐(武田氏)の和平の事。両国に対してご命令を下したところ、受諾する趣旨を返答してきました。つきましては、色々思うところはあるとは思いますが、このタイミングで是非をさしおいて和平を成し遂げて下さい。上洛の事はお願いしたいとの思し召しです。よってこの御内書を送ります。助長作の太刀を1腰と、紫で肩紅三の腹巻1領を御拝領となりました。このような意図は既に伝えましたが、(朝倉)義景が更に申し上げるでしょう。詳細は智光院(頼慶)に伝えてあります。これらの連絡も受け、宜しく御意を得て下さい。

藤孝は細川、信堅は飯河、藤長は一色、弾正少弼は上杉の各氏と比定。

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、

九月廿日

義元(花押)

天野安芸守殿

→静岡県史資料編7 「今川義元感状」(天野文書)

1547(天文16)年に比定。

 去る5日に三河国田原の本宿へ突入し、松井八郎と相談して門際でタイミングを計り、同姓・親類・同心・被官たちとすぐに槍を入れた。おのおの粉骨したことは比類がなく、誠にもって神妙の至りである。殊に被官の木下藤三、溝口主計助、気多清左衛門が槍を突き奔走したと聞く。いよいよ軍忠にぬきんでるように。

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、

九月十日

雪斎

崇孚(花押)

尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、

天野安芸守殿

  御報

→静岡県史資料編7 「太原崇孚書状」(天野文書)

1547(天文16)年に比定。

 去る5日辰刻(08時)の合戦の様子について、詳細にご注進して披露しました。負傷された方々のリストに承認印をいただきました。追って感状が下されるでしょう。取り急ぎご連絡します。
 更に更に、松井殿とあなたが攻撃で粉骨されたと、諸隊から報告がありました。いつものこととはいえ、ご高名の至りです。

両度以書状申候、参着候哉、仍御人数之儀、飯豊・井次其外境目之衆悉被仰付、西郷谷へ可有着陣候、其地御用次第可被招置候、兵粮之儀肝要候、今橋へ弾橘入城候者、於彼地商買之儀、可為不弁之条、此方より尾奈・比々沢迄可届申候、其間之儀、御調法候てめしよセられへく候、兵粮方之儀者、涯分つゝけ申へく候、御本意之上、可有御返弁候、此由西郡へも申度候、委細先書申候間、不能詳候、恐々謹言、
八月廿九日
雪斎 崇字判
牧野田三郎殿御宿所

→静岡県史資料編7 「太原崇孚書状写」(奥平松平家古文書写)

1547(天文16)年に比定。

 2度にわたって書状を出しました。到着しましたか。軍勢のこと、飯豊(飯尾豊前守)と井次(井伊次郎?)その他境目の衆全員に申し付け、西郷谷へ陣を張るようにしています。そちらで御用があり次第呼び寄せて下さい。兵糧は肝心です。今橋へ『弾橘』が入城したので、あの地で購入することは不便ですから、こちらより尾奈・比々沢まで申し届けておきました。その間のことは、調整して集めて下さい。兵糧のこと、可能な限り続けて下さい。本意を遂げた上でご返済があるでしょう。このことは西郡にも伝えて下さい。詳細は先の書状で申し上げたので詳しくは申しません。

広瀬源兵衛口上之儀、何も承届候、委細御返事申入候、世谷口重御普請太儀察存候、御取手之御太儀候共、其口ニ御人数百宛被置、長沢ニ五十計、両所百五十之分四番ニ被定候て、可為六百之御人数候、是も田原一途間、可被仰付候、近日可被出馬候、如何様当年中可有一行候、可御心■候、委細重可申入候、恐々謹言、
 尚ゝ其辺之儀、疑心之事にて長辺へ人を越候ニてハなく候、方々のうたかいむつかしく候て、彼両人覚計の儀ニ越申候、屋形之儀、愚僧・朝三なと此分候、神も照覧あれ、無別儀候、可御心■候、
八月廿六日
雪斎 崇字判
牧野田三郎殿 参御報

→静岡県史 資料編7「太原崇孚書状写」(松平奥平家古文書写)

1547(天文16)年に比定。

 広瀬源兵衛が口頭で連絡したこと、何れも受諾しました。詳細なお返事を依頼しています。世谷方面に重ねて普請を行なってご苦労されていることと思います。砦のご苦労もありますが、この方面に軍勢100、長沢に50ばかりを配置して、2箇所150の分を4番に編成して、600人として下さい。これも田原攻略を最優先として指示しています。近日ご出馬され、どうあっても今年中に手立てを講じます。ご安心下さい。詳しくは重ねて申し入れます。
 更に更にそちらのこと、疑心にかられて長(沢の近)辺に部隊を派遣している訳ではありません。ほうぼうの疑いが解けずに、あの二人の考えだけで派遣されたのです。屋形(義元)のことは、私と朝三(朝比奈三河守?)なども同じですが、神かけて、事を違えることはありません。ご安心下さい。