竹王丸というと、1533(天文2)年7月に山科言継が尾張国で出会った今川竹王丸が有名である。俗に『氏豊』とも呼ばれる人物は、その後姿を消す。
今川本家が嫡男に用いる幼名は竜王丸(たつおうまる)。「たけおうまる」はこの読みを少し変えている点が、親の命名らしい感じがする。今川一門の瀬名氏が用いたとされる虎王丸の方がかえって空々しいように思える。
過日、『後北条氏家臣団人名辞典』を捲っていて、もう1人の竹王丸に出会った。それが北条氏光の幼名(寛政重修諸家譜)である。この人物がまた変わっている。
黒田基樹氏説(北条早雲とその一族)によると、氏康の子息とされる氏忠・氏光は、実は甥だという。氏康の弟には為昌・氏尭がいたが、どちらも若くして亡くなっている。このうち氏尭は氏忠・氏光と混同されることが多く、20年ほど前には氏康の息子とされていた。印判や文書の解読が進んだことで、「氏尭」と分類されていた書状は、氏尭と氏忠・氏光に分けられることが判った。この流れから、幼くして父を失った氏忠兄弟を、氏康が養子として育てたと黒田氏は推測している。
ところが、処遇を見てみると氏忠と氏光ではかなり開きがあるように思う。氏忠は小田原北部を守る新城を任されたり、部隊を預けられて転戦したりとキャリアを順当に積んでいき、最終的には下野国佐野氏の養子となっている。ほぼ実子に近い扱いだ。官途名は氏尭と同じ左衛門佐。
一方の氏光は、ろくに戦績を積まないうちに足柄城に派遣されて深沢城後詰に駆り出され、その後戸倉城などの激戦地に派遣される。戸倉城の苛烈さは、氏光の後を受けた笠原政晴が武田方に寝返ったことでも判る。
その一方で、武田氏との係争、上杉氏との同盟模索という混乱した情勢の中、小机領主が目まぐるしく変わった。氏尭没後は宗哲の家系が継承していたが、宗哲次男氏信が蒲原で戦死。その嫡男が幼かったための中継ぎで三郎(景虎=氏康末子)が宗哲家に婿入りするが、上杉氏への人質として越後に送られることとなる。
そしてお呼びがかかったのが氏光で、三郎と離縁した宗哲の娘に婿入りということになったという。優先順位が相当低かったのだろう。
ちなみに、氏光の仮名が四郎のままであること(宗哲家は三郎)、氏隆(氏信嫡男)が順当に継承していることから、婿入りまではせず後見役のみだったと私個人は考えている。
その妻も異質で、今川家旧臣の富樫氏賢の娘だという。姉早河殿の侍女で、小田原に退避していた際に見初めたとのこと。姉の侍女と結婚というのは驚きだ。隆盛期の今川家にいた氏規の初婚は朝比奈備中守家の娘だったことを考えると、その差に愕然とする。舅の富樫氏賢は歌人として著名だったそうで、同じく歌に秀でた氏光が望んだのかも知れない。期待されず背負っているものも少ない者の特権とでもいえようか。
こういったことから、氏光の出自は氏忠とは異なるという見方もできる。母方の伯父遠山康光がたえずいてくれた景虎とも違うし、どちらかというと、武田勝頼に嫁した桂林院殿に近いような感じである。
氏尭の官途である『左衛門佐』を氏忠が名乗っていることと、一見対をなす『右衛門佐』を氏光が使っていることから、氏尭との関係性が語られているような気がする。氏尭の仮名が判らないので何とも言えないが、氏忠の『六郎』、氏光の『四郎』の何れかである可能性は何とも言えない。『六郎』は江戸太田氏、『四郎』は関東管領山内氏の当主が名乗るものだが、そんなに特別な名前ではない。
ちなみに、これは全くの偶然だが氏康の息子達の仮名は奇数ばかりだ。新九郎(天用院殿・氏政)、源三(氏照)、新太郎(氏邦)、助五郎(氏規)、三郎(景虎)。「7」以外は全ての奇数が揃っている。こうした兄弟に挟まれた六郎(氏忠)、四郎(氏光)の特異性が無意識に刷り込まれ、さらに官途が左衛門佐(氏忠)、右衛門佐(氏光)とペアになっていることから「氏康息とされる中でも特異な兄弟」のような認識が形成された……という考え方もできるのではないか。
それにしても、竹王丸の幼名を持ち、今川家歌人の娘と子をなしたことを考えると、実際駿府にいた氏規よりも今川家と縁があるように見える。特に深い事情はないだろうが、興味深い一致である。