竹王丸というと、1533(天文2)年7月に山科言継が尾張国で出会った今川竹王丸が有名である。俗に『氏豊』とも呼ばれる人物は、その後姿を消す。

今川本家が嫡男に用いる幼名は竜王丸(たつおうまる)。「たけおうまる」はこの読みを少し変えている点が、親の命名らしい感じがする。今川一門の瀬名氏が用いたとされる虎王丸の方がかえって空々しいように思える。

過日、『後北条氏家臣団人名辞典』を捲っていて、もう1人の竹王丸に出会った。それが北条氏光の幼名(寛政重修諸家譜)である。この人物がまた変わっている。

黒田基樹氏説(北条早雲とその一族)によると、氏康の子息とされる氏忠・氏光は、実は甥だという。氏康の弟には為昌・氏尭がいたが、どちらも若くして亡くなっている。このうち氏尭は氏忠・氏光と混同されることが多く、20年ほど前には氏康の息子とされていた。印判や文書の解読が進んだことで、「氏尭」と分類されていた書状は、氏尭と氏忠・氏光に分けられることが判った。この流れから、幼くして父を失った氏忠兄弟を、氏康が養子として育てたと黒田氏は推測している。

ところが、処遇を見てみると氏忠と氏光ではかなり開きがあるように思う。氏忠は小田原北部を守る新城を任されたり、部隊を預けられて転戦したりとキャリアを順当に積んでいき、最終的には下野国佐野氏の養子となっている。ほぼ実子に近い扱いだ。官途名は氏尭と同じ左衛門佐。

一方の氏光は、ろくに戦績を積まないうちに足柄城に派遣されて深沢城後詰に駆り出され、その後戸倉城などの激戦地に派遣される。戸倉城の苛烈さは、氏光の後を受けた笠原政晴が武田方に寝返ったことでも判る。

その一方で、武田氏との係争、上杉氏との同盟模索という混乱した情勢の中、小机領主が目まぐるしく変わった。氏尭没後は宗哲の家系が継承していたが、宗哲次男氏信が蒲原で戦死。その嫡男が幼かったための中継ぎで三郎(景虎=氏康末子)が宗哲家に婿入りするが、上杉氏への人質として越後に送られることとなる。

そしてお呼びがかかったのが氏光で、三郎と離縁した宗哲の娘に婿入りということになったという。優先順位が相当低かったのだろう。

ちなみに、氏光の仮名が四郎のままであること(宗哲家は三郎)、氏隆(氏信嫡男)が順当に継承していることから、婿入りまではせず後見役のみだったと私個人は考えている。

その妻も異質で、今川家旧臣の富樫氏賢の娘だという。姉早河殿の侍女で、小田原に退避していた際に見初めたとのこと。姉の侍女と結婚というのは驚きだ。隆盛期の今川家にいた氏規の初婚は朝比奈備中守家の娘だったことを考えると、その差に愕然とする。舅の富樫氏賢は歌人として著名だったそうで、同じく歌に秀でた氏光が望んだのかも知れない。期待されず背負っているものも少ない者の特権とでもいえようか。

こういったことから、氏光の出自は氏忠とは異なるという見方もできる。母方の伯父遠山康光がたえずいてくれた景虎とも違うし、どちらかというと、武田勝頼に嫁した桂林院殿に近いような感じである。

氏尭の官途である『左衛門佐』を氏忠が名乗っていることと、一見対をなす『右衛門佐』を氏光が使っていることから、氏尭との関係性が語られているような気がする。氏尭の仮名が判らないので何とも言えないが、氏忠の『六郎』、氏光の『四郎』の何れかである可能性は何とも言えない。『六郎』は江戸太田氏、『四郎』は関東管領山内氏の当主が名乗るものだが、そんなに特別な名前ではない。

ちなみに、これは全くの偶然だが氏康の息子達の仮名は奇数ばかりだ。新九郎(天用院殿・氏政)、源三(氏照)、新太郎(氏邦)、助五郎(氏規)、三郎(景虎)。「7」以外は全ての奇数が揃っている。こうした兄弟に挟まれた六郎(氏忠)、四郎(氏光)の特異性が無意識に刷り込まれ、さらに官途が左衛門佐(氏忠)、右衛門佐(氏光)とペアになっていることから「氏康息とされる中でも特異な兄弟」のような認識が形成された……という考え方もできるのではないか。

それにしても、竹王丸の幼名を持ち、今川家歌人の娘と子をなしたことを考えると、実際駿府にいた氏規よりも今川家と縁があるように見える。特に深い事情はないだろうが、興味深い一致である。

葛西へ敵動ニ付而、新六郎敵陣へ移由候、家中儀一段無心元候、寄子・加世者事不及申、中間・小者迄相改、葛西へ不紛入様可申付候、若又其地江敵動候者、為始両人悉妻子を孫二郎ニ相渡、中城江入候て、可走廻候、先忠此時候、恐々謹言、

正月朔日

氏康(花押)

太田次郎左衛門尉殿

恒岡弾正忠殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏康書状写」(楓軒文書纂五十三)

1564(永禄7)年に比定。

 葛西へ敵が動いたことについて。新六郎が敵陣に移ったとのこと。家中のことが一段と不安に思います。寄子・加世者は言うまでもなく、中間・小者に至るまで調べて、葛西へ紛れ込まないように指示して下さい。もしそちらへ敵が動いたならば、お二人を始めとして妻子ことごとくを孫二郎に渡し、中城へ入って活躍して下さい。以前の忠義を果たすのはこの時です。

去廿四日、青戸之地乗取候砌、敵一人討捕候、神妙ニ候、向後弥可走廻者也、仍如件、

壬戌

卯月晦日

(氏政花押)

興津右近との

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政感状(切紙)」(吉田文書)

1562(永禄5)年に比定。

 去る24日、青戸の地を占領した際に、敵1名を討ち取りました。神妙なことです。今後もいよいよ活躍するように。

畏友マリコ・ポーロ氏のブログ『後北条見聞録』の10月11日の記事「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」にて、氏康生母と思われる養珠院殿が、小笠原氏に関係しているという説が提示されていた。とても興味深く拝読した。

その種徳寺殿を調べてみたところ、経歴に不自然な点があったので考察してみた。

『後北条氏家臣団人名辞典』種徳寺殿の夫である小笠原康広の項目で「室の種徳寺殿は寛永二年六月五日に死去」とある。小笠原康広の生没年は1531(享禄4)年~1597(慶長2)年。没年が28年もずれているということは、種徳寺殿は康広の1世代後の年齢ではないか。

氏康の子女で年齢が大体確認できる人間は1536~1564年に生まれている。

  • 天用院殿 1536(天文5)年?~? 夭逝
  • 氏政   1538(天文7)年~1590(天正18)年 自刃
  • 蔵春院殿  1540(天文9)年?~1613(慶長18)年 73歳?
  • 氏規   1545(天文14)年~1600(慶長5)年 55歳
  • 景虎   1553(天文22)年~1579(天正7)年 自刃
  • 桂林院殿 1564(永禄7)年~1582(天正10)年 自刃

補1:天用院殿(新九郎)の生年は、氏康正室の瑞渓院殿が1535(天文4)年に入輿しているのと、氏政と同腹と考えられるため、天文5年と考えた。

補2:蔵春院殿(早河殿)も瑞渓院殿の所生と思われるので、自身の入輿の1554(天文23)年に15歳となるよう仮定した。兄氏政と夫氏真が同年なのでその2歳下となる。

補3:氏政から氏規の間に氏照・氏邦が入り、景虎の同年代に氏忠・氏光が入ると考えられる(活動開始時期が、氏照・氏邦は永禄、氏忠・氏光は天正からとなるため)。但し、氏忠・氏光は氏康の甥だという黒田基樹氏の説がある。

 種徳寺殿が氏康の娘だったとして、もし1625(寛永2)年に亡くなったとすると、上限(天用院殿)では89歳、下限(桂林院殿)では61歳。上限の89歳は、物理的に不可能ではないものの少し不自然な気がする。

一方、種徳寺殿の息子(長房)は1655(明暦元)年に死没。長房の史料初出は1574(天正2)年の家督継承前。童名(孫増)だったことからこの年に7歳だとして、1567(永禄10)年生まれとなる(この時康広は36歳)。上記年齢範囲を使うと、31歳~3歳。上限・下限ともに不自然で、この時14歳となる景虎生年に近かったものと考えられる。

ここで仮に、氏規と景虎の中間の生年だとしてみる。1549(天文18)年なので、長房出産時は18歳、享年は77歳。これなら妥当性がある。

ところが今度は夫康広との年齢差が懸案になってくる。その差18歳。13歳で嫁したとしても康広は31歳。それまで未婚だったとは考えにくいので、種徳寺殿は後室と考えた方がよいだろう。そうなると、一門に近いとはいえ、主君の実娘を中年の家臣の後室に据えられるかという疑問が出てくる。

行き詰ったところで『後北条見聞録』を読み返してみる。為昌の菩提寺である本光寺を種徳寺殿が引き取り、その後種徳寺と改名した理由として、為昌が種徳寺殿の嫁ぎ先小笠原家と近しかったのでは、と推論されている。

ネットで検索してみると、種徳寺の開基は大徳寺127世(早雲寺9世)の準叟宗範。1594(文禄3)年に小笠原康広室(種徳寺殿)の後援で、本光寺を江戸麹町に移転して名を改めたことが始まりという。その後各地の大名が江戸に墓所を求めるようになり、宗派をなくした単立寺院になっていったようだ。

[warning]なぜ小笠原康広の正室なのだろうか。康広本人ではなく?[/warning]

そもそも、為昌の系統は玉縄北条氏として綱成の系統に継がれた筈だ。同時代史料でも、為昌室に対して綱成たちが子供として供養を行なっている。玉縄北条氏が本光寺殿を蔑ろにしたとは考えにくい。であれば小田原開城で行き場を失った本光寺は、同氏の菩提寺、陽谷山龍寶寺が引き取るべきではないか。1594(文禄3)年なら氏勝は存命である……。

ここでようやく仮説が構成できる。種徳寺殿が氏勝の姉であったらどうだろう。氏繁は1536(天文5)年、氏勝は1559(永禄2)年の生まれで年齢的には符合する。兄弟には氏舜・繁広、姉妹には深谷上杉氏憲室がいるが、まだまだ解明されていない部分も多い。康成→氏繁と改名した父の名が混同され、「氏康の娘」と伝えられた可能性もあるかも知れない。

婚姻時の事情もがらりと変わる。何らかの事情で寡夫となった準一門格の小笠原康広に、同じく準一門格の氏繁娘を添わせた。これならすっきりする。

種徳寺殿は、どんな思いで本光寺を引き取ったのだろう。ひたすら徳川大名化していく弟を見切り、一族の開祖本光寺殿を祀る寺院を自ら建立させた姿を想起すると、なかなか感慨深いものがある。

ただ、これはあくまで仮説に過ぎないが。

余りに考証がひどい小説を読んだので、記録しておこうと思う。本来小説は文学として表現されているもので、厳密な史料批判を行なうべき対象ではない。それは承知しているものの、今回取り上げる『空白の桶狭間』(加藤廣著・新潮文庫)では、カバー裏紹介文に

歴史の空白から埋もれた真実を炙り出す。

とあるため、余り歴史に詳しくない読者が、そこに書かれたことがきちんと史料考証していると勘違いする危険がある。そこで、ささやかながら警鐘の意味で懸念点を書き出してみる。

70ページ 「御油から姫街道を……」

→『姫街道』という名称は近世末からでこの時代は称されていないのではないか。別箇所でも気軽に『東海道』と書いているが、近世東海道が永禄年間に同じ場所を通っていないケースもある。

74~75ページ 「義元にとって心強いのは、追放劇で信虎の側に立った家臣が晴信の復讐を恐れて駿河へどっと流れ込んできたことである」

→具体的に誰を指しているか不明。同時代史料は一通り見ているが、そのような人物は記憶にない。また、同書185ページでは「今川の保護を受けている者は武田信虎を除けば剛の者は一人もいなかった」としており矛盾している。

77ページ 「僧侶としての修行が長過ぎた結果、義元は極端な短足だった。俗世に戻ってからは、美食のためこんどは太り過ぎた」

→僧侶は長期間修行すると足が短くなるということか。俗説にしても聞いたことがない。今川義元の本陣に輿があったという『信長公記』の記述から敷衍した俗説『足が短くて太っていたため乗馬不能だった』から着想したように思うが、この奇説を開陳する意図が判らない。

114ページ (今川義元が乗馬不能と聞いた織田信長の台詞)「知らいでか。元康(松平)から昔聞いたことがある」

→松平元康が、駿府に来る前に尾張で人質だったという俗説を取り込んだのだと思うが、駿府に移った後も元康は信長と頻繁に交流していたということか。だとしても、主君の恥を元康が伝えるのかという疑問があるし、そういう軽薄な知己を信長が軽々に信じるのかという疑問もまたある。

184ページ (今川義元が、氏真を信長と比較して独白する)「それに引きかえ我が息子は、まだ部屋住み」

→氏真は1556(弘治2)年頃から家督を継承しており、永禄に入ると様々な書状・判物を発給し始めている。父を失い競合同族が多い信長と、父が健在で競合相手もいない氏真では圧倒的に氏真有利にしか思えない。そもそも『部屋住み』という言葉自体が近世のものではないか。

189ページ 「索敵部隊は氏真に報告した」

→義元の尾張出陣に同行して氏真も出馬したとしている。通例だと氏真は駿府にいたという前提だが、このような観方も可能なのかと気づいた。少し興味深いので、この件は別エントリとして後日検討したい。

195ページ 「次いで鷲津砦は織田秀敏以下三百五十。これも今川勢の朝比奈泰能の手によって、軽くひねられた」

→1560(永禄3)年当時、既に泰能は亡くなっていた。もし活躍したとするなら息子の泰朝である。これは近世軍記の類が誤記したものを未だに引きずっているもの。『鳴海原合戦(桶狭間合戦)』を取り上げた諸書で何度も取り上げているのだが、本書のような漏れがあるとまた『朝比奈泰能の亡霊』が延命してしまう(今川氏を調べるとよく判るが、泰能が高齢を押して出陣したのか、家督を継いで間もない泰朝が張り切って出張ったのかで、ここの解釈はかなり異なる。信長の側からばかり『桶狭間』を語るから、いつまで経ってもこの勘違いが抜けないように思う)。

221ページ (岡崎城の説明の後)「桶狭間山の異変を聞くと、城代ら今川駐留軍は、あたふたと帰国してしまったのである」

→朝比奈親徳書状によると、彼は8月まで三河に残って転戦している。また、松平元康が翌年逆心した際、人質ごと岡崎を奪われたと氏真が記していることから、今川方が岡崎を放棄した訳ではない。また、合戦当日の5月19日に元康が岡崎城主に戻ったと書いているのも気になる。近世軍記類ですら「一旦大樹寺に入って様子を見た」と記しているのに対して、本書は余りに杜撰だ。

245ページ 「「相伴衆」とは、室町幕府が譜代諸家のために設けた資格で、将軍の外出の時に相手として伴をする役である。足利将軍義輝が、父義元の恩義に報いるために贈った憐憫の肩書きであろう。実体も実権もない。現実の今川氏真は、すっかり部下に見放された。今川領だった駿河、遠江は、東の北条、北の武田、西の松平(徳川)に、いいように食い物にされ、早々に実体を失っていった。さらに異説もある。若い頃は、京の四条河原で乞食をしていたとの話である」

→相伴衆は将軍の外出・宴席に随伴できる資格のようなものであって、本来は主要大名だけが任じられるものだった。この辺の説明は大略合っている。ただ、戦国末期になっても機能はしていた。後北条氏の場合、同じ兄弟でも他家を継いだ氏照・氏邦は推挙されず、次男扱いだった氏規だけが任じられている。憐憫から将軍が勝手に任じるような代物ではない。氏真が家中で見放されたかは定かではないが、1568(永禄11)年末に武田晴信が奇襲をかけるまで、氏真が東遠江と駿河を領有していたのは事実である。歴史に詳しくない読者が「早々に」を8年後と理解するだろうか。挙句に、若い頃に乞食とは……1583(天正11)年8月までの氏真足跡は比較的しっかりしているが、この段階で既に45歳になっている。20歳代の今川当主時代に勝手に放浪して京都で物乞いをしていたというのだろうか。このような妄説を書き立てる必要があったのか疑問に思った。

247ページ 「事実、桶狭間の戦いに関しては、今川方の記録らしい記録は、今日まで一切ない。後に駿河を領有した家康の手で、すべての真実が、闇から闇へと葬られた疑惑が濃厚である」

→むしろ、今川方にしか明確な史料が残されていない。織田方の文書が間接的な1点(佐久間信盛書状)しかないからこそ、怪しげな『信長公記・首巻』が公式記録のように扱われている現状だ。また、徳川家康を慮った近世御用学者による真実隠蔽はあっただろうが、家康本人は気にしていなかったように思う。1562(永禄5)年に岡崎で逆心したと書かれた書状は放置され現代に伝わっているからだ。同時代史料の状況は、少し調べれば判ることだ。それを調べずに当て推量で「今川方の記録らしい記録は、今日まで一切ない」と書く著者の意図が判らない。

272ページ (武田晴信が巷間の合戦経緯を信じず)「駿河に置き去りにされた元康の妻築山殿の線から、今川方に信長毒殺の謀略があったとの傍証を得た」

→なぜかは不明だが、本書では、清池院殿(築山殿)は駿府に残し、信康だけを岡崎に引き取ったことになっていた。また、『改正三河後風土記』の影響と思われるが、清池院殿が武田氏と近しいという設定になっている。どちらもそのような同時代史料はない。

その他も細かい疑問・懸念が多数あるが、とりあえず一般的な読者層に悪影響がありそうな部分を挙げた(氏真の治部大輔任官を父の死後としているが、実際は生前の日付だし、氏真は上総介しか名乗っていない、など他にも色々と問題は多い)。

史料で追い切れない領域を、作家が独自の感性で再構築して見せるのが歴史小説の本道だと思う。ただそのためには、可能な限りのデータを集めるべきだ。それができないのなら、その旨明記すべきだろう。

本書のような誠意のない『自称歴史小説』が、荒唐無稽な巷説の寿命を延ばし、更には杜撰な憶測に基づく奇説を生み出すこととなる。

十日之註進状、今日十一[酉刻]到来、仍当口之様躰度ゝ申届候、不参着候哉、唐貝山責落、則当地高坂へ寄陣就而、秩父郡日尾之城南図書乗取、属味方候、依之、人数を分、荒○を打越成働処、天神山自落、彼谷之事、一返属本意候、其外討儀数多候、密事ニ候間、不及申候、一 先刻モ以幸便申候、河越へ可被移候、其地をは、遠山へ能ゝ可被申合候、一 下総口之事、味方中無相違候哉、肝要候、恐々謹言、

九月十一日

氏政花押

太田新六郎殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政書状写」(士林証文二)

1561(永禄4)年に比定。

 10日の報告書が、今日11日の酉刻に到着。この方面の状況は度々お届けしたと思いますが、届かなかったでしょうか。唐貝山は攻め落とし、ついでこの高坂へ陣を寄せるに当たり、秩父郡日尾城を南図書が乗っ取りこちらの味方になりました。これによって部隊を分け、荒川を渡河して展開したところ、天神山が開城、あの谷のことは一変して本意に属しました。そのほか打ち合わせたいことは多数ありますが、機密事項なので申しません。
 一、先刻も幸便で申しましたが、川越に移動していただき、その地では遠山と詳しくご相談下さい。一、下総方面のこと、味方の陣営に相違はないでしょうか。大事なことです。

条目

一、振舞朝召ニ可被定事、大酒之儀、曲有間敷候、三篇ニ可被定事、

一、下知之外虎口江出者、則時ニ可被致改易、若又可請公儀至于儀者、則可申越事、

一、家中者他之陣へ罷越、大酒呑儀、況及喧〓(口+花)口論儀、堅可被申付事、

 右三ヶ条、至妄自脇至于入耳者、永可儀絶候、仍如件、

 八月十日

 (氏康花押)

三郎殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏康条目」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

1556(弘治2)年に比定。

 条目。一、振舞は朝とるように決めなさい。大酒で間違いがあってはならない。3篇までと定めよ。一、命令以外で虎口の外へ出た者は直ちに改易とするように。もし公の用件で出るならば、連絡させるように。一、家中の者が他の陣へ行って、大酒を呑むこと、さらには喧嘩や口論に及ばないよう、厳重に指示しておくこと。
 右の3箇条を疎かにして、他者から耳に入ったなら、末永く義絶するだろう。

去五日[未刻]、於常州大嶋台遂一戦、得勝利、敵千余人討捕候、不思議之仕合、満足大慶、可為御同意候与令推察候、不慮之合戦故、惣手者不合候、遠山・太田美濃守・結城衆以三手切勝候、恐々謹言、

卯月八日

正木弥五郎殿

同 源七郎殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏康書状写」(静嘉堂本集古文書リ)

1556(弘治2)年に比定。

 去る5日未刻、常陸国大嶋台において一戦を遂げ、勝利を得、敵1,000余名を討ち取りました。奇妙な巡り合わせで、満足し大喜びしています。ご同意なさるだろうと推察していました。不意の合戦だったので、総兵力は投入できず、遠山・太田美濃守・結城衆で3方面を切り勝ちました。

御返事ニ候へ共、此御つかいかへりまいらせ候ほとに、一ふて申まいらせ候、まりやつしん地ニきんこくさい人しゆをこし候事も、しかゝゝとしりまいらせ候ハす候、まりやつなんきのよし申こし候時ハ、人しゆこし候とハ申候へ共、たれ人ゆき候共、そんし候ハす候、これへまいり候てよくきゝまいらせ候ほとに、とても■ほうおんの事にて候間、おなしくハこれをも御たすけ候て、以後御やうにも御たて候へかなと申、御わひ事にて候、まへに申候ハす候御事ニて候へハ、もちろんふかくハ申まいらせ候ハす候、此よしたれニても御ひろう候て可給候、あなかしく、

五月廿四日

ほうてう

 うち綱(花押)

東慶寺

 いふ侍者

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏綱書状」(東慶寺所蔵)

1537(天文6)年に比定。

 お返事しようと思いましたが、このお使いの者が帰るというので、一筆差し上げます。真里谷新地に(大藤)金谷斎の部隊を派遣したことも、詳しくはお知らせしていませんでした。真里谷で難儀しているようだと申した時は、部隊を送ったとは言いましたが、誰が行ったかは知りませんでした。こちらに来てよくよくお聞かせいたしますので、御報恩のことでありますから、同じようにこちらもお助けいただき、以後は御用にもお立ていただければとのお願いです。前に申していなかったことなので、当然強くは申せません。これは誰にご披露なさっても構いません。

日頃目にしない鎌倉~南北朝の資料を見た際に「着到状」が後北条のそれと激しく乖離していたため、少し考え込んでしまった。

判り易く説明すると以下のような流れになる。

■鎌倉~南北朝

部将「ただいま部隊が加わった。これが着到状なので宜しく」

担当者「ご苦労さまです。拝見します。息子さんと弟さんがご一緒で……えーと、どなたでしょう?」

部将「こっちが弟、でこっちが息子。早く署名して返してくれよ」

担当者「もう少ししたら着到の読み上げがありますから。終わったら確認印をつけて返却しますね」

ポイントとしては、部将の手元に着到状(参陣証明書)が残ること・着到内容に員数や装備は含まれないことが挙げられる。

その部将が確かに参陣したことが証明されるので、子孫へ伝える武功としても機能する。

その一方、戦闘能力のない子供・老人の部隊でも構わないし、着到状をもらったら離脱しても判らなかった。

■戦国時代

部将「ただいま到着した。閲兵を頼む」

担当者「ご苦労さま。○○殿ですね。台帳を出すのでお待ちを……えーと、あ、あったあった。では閲兵時に」

部将「実は4人足りないし、10歳の奴が1人いるんだ。でも弓を取ったら鬼をも拉ぐ怪力でかの鎮西八郎為朝も真っ青という」

担当者「……あの子供が? とにかく却下です。すぐに帰して下さいね。合計5名不足でつけておきます」

部将「4人不足で何とかならないかなあ」

担当者「算定間違いをしたら私の首が飛びますから。どうも怪しいな。装備も武器も全部合ってます?」

部将「いやー、なにぶん資金難で。貸し出しとかない?」

こちらの場合、大名から着到状(参陣指示書)が部将に出されており、その通りに参陣するのが前提となっている。

また、部将の手元に着到証明は来ないため、奮闘して武功を挙げて感状を得なければならなかった。

さらに後北条氏だと、人数不足を物凄く細かくカウントしたり逃げた8人の足軽を徹底的に追跡したりという高密度管理をしている。

有名な岡本八郎左衛門尉宛着到状では、兵種の指定だけでなく、徴発する個人名まで指示書に盛り込まれる徹底振り。

似たような状況なのが『軍忠状』で、鎌倉~南北朝時代では「合戦後にこういう活躍をして戦死者・負傷者はこんな感じという報告」だった。

着到状と同じく大名が確認印をつけて返却しており、部将の手元には残された。

これが戦国期に入ると、活躍内容を大名が顕彰する『感状』と、獲得した首級リストである『頸注文』、負傷者リスト『手負人数注文』に分かれる。

一般的に考えて、古文書は自分にとって有利なものほど残りやすい。感状・禁制が比較的多いのはその影響だろう。

ところが、確実な戦績である『頸注文』はその存在は確認できるものの、実物は見かけたことがない。

大名家に蓄積されていたのだと思うが、今川・武田は恐らく焼失し、後北条のものは謎の消滅をしているので何ともいえない。

部将に返される手負注文は、天野氏に対して今川氏がコメントつきで返却したのが唯一という状態。

後北条は精緻な徴兵システムを仕上げていた割に、勤務評定は謎が多い。

部将からすると、負担を強いられる部分はすごく細かくチェックされるのだけど、

合戦が終わると感状が一斉に配付されて終わり、みたいな感じだったと思う。そのくせ人数不足は責められるという。

それでバランスがとれているから後北条方になっていたのだろうが、個人的には腑に落ちないでいる。