もう1人の竹王丸
竹王丸というと、1533(天文2)年7月に山科言継が尾張国で出会った今川竹王丸が有名である。俗に『氏豊』とも呼ばれる人物は、その後姿を消す。 今川本家が嫡男に用いる幼名は竜王丸(たつおうまる)。「たけおうまる」はこの読み …
竹王丸というと、1533(天文2)年7月に山科言継が尾張国で出会った今川竹王丸が有名である。俗に『氏豊』とも呼ばれる人物は、その後姿を消す。 今川本家が嫡男に用いる幼名は竜王丸(たつおうまる)。「たけおうまる」はこの読み …
葛西へ敵動ニ付而、新六郎敵陣へ移由候、家中儀一段無心元候、寄子・加世者事不及申、中間・小者迄相改、葛西へ不紛入様可申付候、若又其地江敵動候者、為始両人悉妻子を孫二郎ニ相渡、中城江入候て、可走廻候、先忠此時候、恐々謹言、 …
去廿四日、青戸之地乗取候砌、敵一人討捕候、神妙ニ候、向後弥可走廻者也、仍如件、 壬戌 卯月晦日 (氏政花押) 興津右近との →小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏政感状(切紙)」(吉田文書) 1562(永禄5)年に比 …
畏友マリコ・ポーロ氏のブログ『後北条見聞録』の10月11日の記事「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」にて、氏康生母と思われる養珠院殿が、小笠原氏に関係しているという説が提示されていた。とても興味 …
余りに考証がひどい小説を読んだので、記録しておこうと思う。本来小説は文学として表現されているもので、厳密な史料批判を行なうべき対象ではない。それは承知しているものの、今回取り上げる『空白の桶狭間』(加藤廣著・新潮文庫)で …
十日之註進状、今日十一[酉刻]到来、仍当口之様躰度ゝ申届候、不参着候哉、唐貝山責落、則当地高坂へ寄陣就而、秩父郡日尾之城南図書乗取、属味方候、依之、人数を分、荒○を打越成働処、天神山自落、彼谷之事、一返属本意候、其外討儀 …
条目 一、振舞朝召ニ可被定事、大酒之儀、曲有間敷候、三篇ニ可被定事、 一、下知之外虎口江出者、則時ニ可被致改易、若又可請公儀至于儀者、則可申越事、 一、家中者他之陣へ罷越、大酒呑儀、況及喧〓(口+花)口論儀、堅可被申付事 …
去五日[未刻]、於常州大嶋台遂一戦、得勝利、敵千余人討捕候、不思議之仕合、満足大慶、可為御同意候与令推察候、不慮之合戦故、惣手者不合候、遠山・太田美濃守・結城衆以三手切勝候、恐々謹言、 卯月八日 正木弥五郎殿 同 源七郎 …
御返事ニ候へ共、此御つかいかへりまいらせ候ほとに、一ふて申まいらせ候、まりやつしん地ニきんこくさい人しゆをこし候事も、しかゝゝとしりまいらせ候ハす候、まりやつなんきのよし申こし候時ハ、人しゆこし候とハ申候へ共、たれ人ゆき …
日頃目にしない鎌倉~南北朝の資料を見た際に「着到状」が後北条のそれと激しく乖離していたため、少し考え込んでしまった。 判り易く説明すると以下のような流れになる。 ■鎌倉~南北朝 部将「ただいま部隊が加わった。これが着到状 …