『謎とき 東北の関ヶ原』(光文社新書・2014年刊)にて、著者の渡邊大門氏が以下のように書いている。

大名の書状中においては、使者などを略称で表記するのは自然なことである。しかし、兼続が相手方の人物に対して、略称を用いるのは極めて不自然であろう。(同書120ページ)

 これは、『直江状』の中で直江兼続が「増右・大刑少出頭之由」と記した点を不自然だと指摘している流れで述べられている。渡邊氏が何を典拠としてこの判断を下したのかは明らかにされていないが、実はこういう表現は普通に使われている。

「北条氏規書状写」

 北条家の一門である北条氏規は、同盟している徳川家の家臣である朝比奈泰勝を指して「朝弥」と表記している。この宛先は同じく徳川家家臣の酒井忠次である。氏規の場合は、自身の最初の正室が泰勝の大叔父泰以の娘だという伝承もあって、微妙に身内表現なのかも知れない。ただ、もう1例がある。

「大石芳綱書状」

 差出人の大石芳綱は山内上杉氏の家臣。宛先の山吉豊守は越後長尾氏家臣で、書状が書かれた当時は上杉輝虎が両家を統合していたため、両者は同一大名の家臣といえる。この中では、遠山康光を「遠左」と3回呼んでいる。ちなみに、関係者が以下のように表記されている点も興味深い。

北条氏康 御本城様
北条氏政 氏政
北条綱成 左衛門尉大夫
北条氏邦 新太郎殿
北条三郎 三郎殿
松田憲秀 松田

山吉豊守 山孫
上杉輝虎 輝虎

武田晴信 信玄

 文書に直接当たった訳ではないが、宛名先であっても自家でも大名を実名で呼び捨てにする例は複数あり、殊更卑下している様子はない。この感覚は現代人と大きく異なるため、敬意を持っている相手でも略称を用いることに違和感を持たず、真摯に史料に向き合っていくべきではないかと思う。

氏真御二方懸川御籠城ニ付而、彼行末為可見届申、当地へ来而申断、捨身命、凌数百里之海路馳参儀、志忠功之至、不准自余候、仍太刀一腰[末行]、遣之状如件、

永禄十二年 七月廿七日

 氏康(花押影)

清水新七郎殿

→戦国遺文 今川氏編2413「北条氏康判物写」(国立公文書館所蔵古証文五)

 氏真とお二方の掛川ご籠城について、その行く末を見届けるため、当地へ来て申し出て、身命を捨てて数百里の海路を越えて馳せ参じたこと、志し・忠功の至りで他に準じるものがありません。よって太刀1腰(末行)を遣わします。

去廿九日、武田信玄冨士城江被取詰之処、於南口最前鑓合、無比類走廻之段、太以神妙之至也、守此旨、弥可抽戦忠状、仍如件、

永禄十二年 七月五日

 氏真(花押)

井出伊賀守殿

→戦国遺文 今川氏編2411「今川氏真感状」(東京都杉並区・観泉寺所蔵浅川井出文書)

 去る29日、武田晴信が冨士城へ攻め寄せたところ、南口において前線で槍を合わせ、比類なく活躍したことは、とても神妙の至りである。この旨を守り、ますます戦忠にぬきんでるように。

今度、山口左馬助別可馳走之由祝着候、雖然織備懇望子細候之間、苅屋令赦免候、此上味方筋之無事無異儀山左申調候様、両人可令異見候、謹言、

十二月五日

義元(花押)

明眼寺

阿部与五左衛門殿

→戦国遺文 今川氏編1051「今川義元書状」(岡崎市大和町・妙源寺文書)

1551(天文20)年に比定(愛知県史による)。

山口左馬助が、今度際立って活躍したのはとても祝着です。とはいえ、織田備後守が色々と陳情してきた事情もありますので、刈谷は赦免させました。この上は、味方筋の無事・無異議を山口左馬助が申し整えるよう、ご両人からご意見なさいますように。

※[2008/1/5 22:17:54]
「別可馳走之由祝着候」の「可」は「而」の誤読として解釈している。「別して」という場合は常に「而」がつくため。原文執筆時に「而」を逸脱した可能性もあるので、この点留保して考える必要がある。

2.4:93:252:0:0:草書体での比較実験:left:1:1:「而」と「可」での違いを草書体フォントで実験。:

使用フォント:青柳衡山フォント草書2

[warning]2007年の解釈を改定。[/warning]

従三嶋直ニ向大宮出張、諸虎口取破詰陣候之処、対于穴山左衛門大夫、城主冨士兵部少輔悃望之間、令赦免、城請取、当表悉達本意候、此上城内法置等成下知、三日之内ニ可納馬候、可被存心易候、恐々謹言、

七月三日

 信玄[朱印「晴信」カ]

大井左馬允入道殿

→戦国遺文 今川氏編2409「武田晴信書状写」(大井文書)

永禄12年に比定。

 三島より真っ直ぐに大宮に向かって出張し、様々な虎口を突破して陣を詰めましたところ、穴山左衛門大夫に対して、城主の冨士兵部少輔が懇願しましたので、赦免させました。城を受け取り、この方面の目的は全て達しました。この上は城内に法や置き文などの下知を行なって、3日のうちに馬を納めるでしょう。ご安心下さいますように。

今度駿・遠錯乱之刻、無二仁妻子等迄召連、懸河仁令籠城、番普請以下無油断走廻段、甚以神妙之至也、以惣次重而可加相当之扶助者也、仍如件、

永禄十二[己巳] 閏五月二日

氏真(花押影)

三浦小次郎殿

→戦国遺文 今川氏編2380「今川氏真感状写」(滋賀県彦根市・彦根城博物館所蔵彦根藩文書)

今度駿河国・遠江国が錯乱した際に、無二に妻子らを召し連れ、掛川に籠城させました。警備・普請以下を油断なく活躍したのは、とても神妙の至りである。これら全てによって相応しい扶助を加えるだろう。

従四位下行治部大輔源朝臣義元敬白、

志摩国人等依無道、奪取商旅之財宝、号関路横悩参宮之道者、寔以暴悪之至也、近有仮義元力欲追伐彼悪徒之輩、即差遣人数事、併国土安穏万民和楽之起本也、然者長官神人等、蒙神慮合其力、令治罰賊党、於遂本意者、為義元存知之地、偈仰神威停止諸関、就中所々御神領之事、於皆済之地者不及是非、近年且神納且未済之地者、以其一倍可奉納之、一向無沙汰之地者、以其年貢十分一可奉納之、其外之土貢者、警固之武士可為在国之下行、是折衷上古下世覇者之権道也、弥奉仰冥感加被之願文、仍如件、

十一月廿六日 従四位下行治部大輔源朝臣義元 判(花押影)敬白

伊勢太神宮御宝前

→戦国遺文 今川氏編1527「今川義元願文写」(三重県・神宮文庫所蔵文書)

 志摩国人たちは無道で、商人たちの財宝を奪い取っています。関所と称して伊勢神宮に参拝する人を悩ましたり、本当に凶暴の至りです。義元は近日中に軍勢を派遣して、これら悪逆の連中を実力で排除しようと思います。国家が平和で国民が和やかに楽しむことが物事の基本ですから、諸々の関所は神威を使って廃止してほしい。特に神宮の領地ですが、きちんと納税している地所は有無を言わさず、最近は納税を滞らせている地所は元本を額面通りにして、完全に連絡が途絶えた地所は十分の一を、神宮に納税させましょう。納税者は警備隊をつけて派遣します。これは昔から現代に至るまでの覇者の道理です。ますます仰ぎ奉り、本当に感じ入りつつ願文を奉納いたします。

[warning]2007(平成19)年の解釈を改定。[/warning]

追而定而阿善九申候、半左衛門殿へ別而可申候へ共、急候間御報不申候、非如在候へく候、御心得頼入申候、

御札之趣得其旨候、仍今十七日尾・濃之堺羽黒与申地ニ森庄蔵楯籠候を、御馬被出彼地以先勢乗破、敵千余被為討捕候、庄蔵敗北之有様中々見苦敷事共候、然者其表所々境目行之所及御稼候て、此時候間御奉公肝要候、不可有御由断候、恐々謹言、

三月十八日

 西小左衛門尉 吉次(花押)

 阿善九郎 正勝(花押)

遠佐渡守殿 御報

→愛知県史資料編14 補449「西尾吉次・阿部正勝連署状」(思文閣古書資料目録)

天正12年に比定。

お手紙の内容でその旨を得ました。さてこの17日に、尾張国・美濃国の境にある羽黒という地に森長可が立てこもっていますのを、あの地へご出馬なさり先鋒を乗り破り、敵を1000以上討ち取りました。長可が敗北する様子はなかなかに見苦しいものでした。そういう訳でその方面は諸所の境目で作戦を行なったところ戦果が挙がりました。こういう時ですからご奉公が大切です。ご油断があってはなりません。

追って、きっと阿部善九郎が申します。半左衛門殿へ別に申すべきですが、急いでいるのでお知らせしません。いつものようではありませんので、ご承知いただくことをお願いします。

「義元」袖判 「氏真」袖判

朝比奈帯刀売渡金原屋敷之内、南角拾壱間ニ中壱尺、東堅弐拾四間ニ中、北横拾弐間、西堅弐拾弐間ニ中、合弐百参拾坪余之事、右、自先規地子無之、任沽券之旨永可相拘之、不可有相違者也、仍如件、

弘治参年 正月廿三日

井上但馬守殿

→戦国遺文 今川氏編「今川義元判物写」(駿河志料巻七十八友野文書)

朝比奈帯刀が売り渡した金原屋敷のうち、南の角11間に中1尺、東の縦24間に中、北の横12間、西の縦22間に中、合計で230坪余りのこと。右は、先規により地子はない。売却証書に応じて末永く保持するように。相違があってはならない。

其以後無音非本意存候、仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候、懸意令申候、此砌松次三被仰談、御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者申談、近年識弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候、尚期来信候、恐々謹言

九月廿三日

斎藤左近大夫

 利政

安心軒

尾礫軒

 玉床下

→戦国遺文 今川氏編2巻参考25「斎藤利政書状写」(国立公文書館所蔵古証文六)

 不本意ながらご無沙汰しております。一昨日合戦に及び、切り崩し討ち取った首の一覧を『水十』へお送りします。お伝え下さい。そちらのご様子、無案内ながらも気にかけております。今回のことを『松次三』に報告し、家中の意思を統一することはもっともなことです。ぜひともあなたたちの活躍が必要です。近年の『織弾』が思うに任せていることを、あなたの意向を他より申し顕わすべきです。岡崎のことは、不和になってはいけません。なおご連絡をお待ちしております。

[note]2007(平成19)年の記事を改定[/note]